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10月27日 聖日礼拝

ペテロの手紙第一 3章 13~22節
「イエス・キリストの受難」
            柳橋宏祐神学生

この世界にはいろんな苦しみがあります。
良いことをする人に対して悪いことをする人はいないはずです。
しかし、良いことをする人をののしったり、中傷したりしてくる人がいます。
職場、家族、親戚の間でそのような苦しみを経験した人もいることでしょう。
そのような苦しみに合ったとき、どのような対応をしていますか。
義のゆえに苦しみを受けるとき、「自分は幸せだ」と言えますか。
今日の聖書には「幸い」と書いてあります。

「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」
3:13,14

これは山上の説教を思い起こさせます。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」マタイ5:10

幸いと言えるためにはふたつの大切な条件があります。

①苦しみを受けても天に入りたいという強い思い
②天の御国に入れるという確信を持っていること

それほど期待していなかったり、入れるのかどうかが不安だったりすれば、苦しみを受けると「幸いだ」と言えないでしょう。
みなさんが、天の御国への大きな希望と確信を聖霊によって与えられること。
そして苦しむときに「幸いです」と言えるように変えて頂くことを願っています。
正しいことをしたが故に苦しめられたという経験が思い当たらないかも知れません。
それは、イエス・キリストにあって、召しにふさわしく正しくよい生き方をしようとしていないからかもしれません。
あるいは、何がよいことで、何が割ることかを見分けられていないのかも知れません。
その力は聖霊によって神に与えられるものです。
それを神に求めていなかったのかも知れません。
でも失望しないで下さい。
希望と確信は正しい行いをしようという思いを奮い立たせてくれます。
全てはイエス・キリストによって与えられるものです。

「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」3:15

「善に熱心な人に害を与える人はいない」というのは「一般原則」です。
「たとえ義のために苦しむことがあるにしても」と、義のために苦しむこともあり得ると書かれています。
その時におびえないで、キリストを主としなさいと勧めています。
どういうことでしょうか。

「イエスを主とする」ということは、心の中で密かにイエスを主としながら生きていくということではありません。
全存在、全人格をかけてイエスを主とし、聖なる方として生きていくこと。
キリストを神として、全てにまさって偉大な方とすること。
命と裁きの権威を持った方として敬い、恐れ、従うことです。
キリストは神ご自身であり、全てに勝って偉大な方です。

「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。」
イザヤ8:12,13

ペテロは主=キリストとして語っています。
「主の祈り」の最初の言葉「御名があがめられますように」は「御名が聖なるものとされますように」という意味です。
ですから、「キリストを主としてあがめなさい」とは、キリストを聖なるものとしなさいということになります。
父と子は等しく聖なる方です。
イエスは神ご自身であり、聖なる方であることがわかります。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」
ヨハネ5:19~23

イエスは、命と裁きの権威を持っておられます。
父が全ての裁きを子にゆだねられました。
全ての人が子を敬うためです。
子を敬わない者は、父も敬いません。
イエスを神として敬わない人は、父成る神も敬いません。

「また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
ヨハネ5:27~29

死んだ者もみな、よみがえって裁きを受けます。
キリストが、裁く権威を持っています。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」テモテⅡ 4:1

・キリストは神である
・キリストは全てに勝って偉大である
・キリストは全ての人を裁かれる

心の中でこの方を主として、聖なる方としましょう。
この方を恐れ、この方に従って生きていきましょう。
これはすべての人々にとって、人生において最も大切なことです。
命か裁きか、決める権威はイエスが持っています。
この方が私を救う方であると言うことを知っているので、恐れたりおびえたりする必要はありません。
キリストは全ての人を裁く方であるということを信じて生きる時、人生でかかわる人を見る目が変えられます。
裁くことも救うこともできる方、イエスに対してその人がどう生きているかを気に留めます。
その人もイエスと共に生きていくようになることを願います。
正しい生き方を見て、おびえずに良い行いをしていきたいと思います。
説明を求めてくる人に、誰にでもいつでも弁明できる用意をしておかなければなりません。
教会にいるときだけでなく、いつでもキリストにある希望を説明できるようにしておく必要があります。
では、希望とはなんでしょうか。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」
Ⅰペテロ 1:3~5

生ける望み=永遠に続く望みであり、尽きることのない望みです。
朽ち果てることなく天に蓄えられています。
私たちは何も誇ることはできません。
健全な良心を持って、神と人の前に恥じることにない思いを持って弁明するのです。

「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」3:16

「そうすれば、ののしった人たちも恥じ入る」これは一般原則です。
究極的にはイエスが来られるときに、背いた人全ては裁きの日に恥を負うことになるのです。

「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」3:17

悪を行う人が苦しむのは当然の報いです。
善を行っているのに苦しむのは、天を相続するしるしです。
だから、善を行って苦しむ方がよいのです。

クリスチャンとして、善良な生き方をするのは、私たちが始めたことではありません。
イエスが始めて下さった御業です。
それに値しない私たちを、正しい人生へと招き入れられました。

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」3:18

悪い人々とは、私たちのことです。
正しい方はイエスだけです。
正しくないので、よい行いをしても神に受け入れられるのには値しません。
どんなによいことも、神の前には正しくないからです。
自分の生き方で正しいと認められようとしても成功しません。
裁きに服することになります。
ここに福音があるのです。
正しい方イエスが、正しくない私たちの身代わりになられました。
全ての罪を背負って神に裁かれて下さいました。
キリストは神であられるのに、完全に肉を持たれ、人となって、身代わりに苦しんで死んで下さいました。
その師の理由は、私たちを神に導くためでした。
イエスが私を神に導いてくださいます。
自ら神に近づくことはできません。

「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」黙示録 7:17

苦しみ、悲しみ、試み全てを見てこられた主が、涙をぬぐってくださいます。
自分の力で神の前に立とうとしてはいけません。
不安になって、自分の力でなんとかしようとしても無駄です。
私たちにはできないことです。
イエスが導いてくださいます。
一度身代わりになり、死んでよみがえり、今も生きておられるからです。
ただイエスを信じ続けましょう。

「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
3:19~22

ノアの時代に従わなかった人たちは裁かれました。
8人だけが救われました。
水はバプテスマの型です。
バプテスマで汚れがなくなるわけではありません。
健全な良心が行う誓約、本心から神に対して行う誓約が大切です。
人に出はなく、命を握っておられる方、主権を持って支配し、裁かれる方に対して「従う」と誓約するのです。
悪の背後にある力も、イエスに服従しています。
イエスは勝利し、神の右の座につかれ、王となられました。
何も怖れるものはありません。
平安を持って、勇敢に生きていくことができます。
圧倒的な力を持った救い主、イエスを心の中で畏れ、聖なる方として敬い、従っていかなければなりません。
私たちは、召しによってイエスに従う者とされました。
キリストが神へと導いてくださいます。
それを信じて見上げて従っていきたいと思います。

10月21日 聖日礼拝

詩篇 33篇 1~22節
「神が主である国は幸いです」
フィリピン福音自由教会 プリスコ師

「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」33:12

ここでいう「主」は「エホバ」あるいは「ヤハウェ」という固有名詞です。
キリストして人となった神。
唯一の神です。
生きてある主を神とする国は祝福されます。
私たちはこの地上で、人や国が治める国に住んでいます。
それぞれの国は、国連などの組織の下で生きています。
神はどこにおられるのでしょうか。
ほとんどの人にとって、
「神は存在するが関係ない」
もしくは
「神は存在しない」
と考えています。

ここに2つの課題があります。
①本当に神はいるのか
②いるのなら、神は何をすることができるのか


「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。
主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。」
33:12~14

天の神は、地上の人生の祝福の源であるということを示しています。
てんは、地上で起きていることを支配しています。
神は人間の存在と世界の状況の重要な要素です。

詩篇33篇には5つの真理が書かれています。

「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。
主は海の水をせきのように集め、深い水を倉に収められる。」
33:6,7

①主は自然界を適切な方法で作られました。
美しく、すばらしい天空の存在を示しています。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩篇19:1

神が世界を創造した2つの意味があります。
・物理的な世界は神の知恵と力を明らかにします。
  この世界は、大統領などによって支配されているわけではありません。
  神によって支配されています。
  神の力は「何を」ではなく「どのように」創造したかによって示されます。
  神は、何もないところから世界を創造しました。
  言葉によって。
  巨大な建物を建てるエンジニアはいます。
  彼らは鉄や砂や砂利を使って建てます。
  重機を使って。
  人は、材料や機会を使わずにものを作ることはできません。
  神はみことばだけを用いて作られました。
・世界は、神のご計画と目的を明らかにします。
  私たちの存在には意味と目的があります。
  世界の意味、神の意図した目的に向かっています。
  この世界は、円ではなく線です。
  始まりがあり、終わりがあります。
  人生の意味を得るには、神の木天気を理解しなければなりません。

「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。
御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。
主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」
13:13~15

②主は地上で起こる全てを見ておられます。
ただ創っただけではありません。

ここに3つのリアリティがあります。
 ・神は全ての人をごらんになる。
 ・神は全ての人の心を知っている。悩みも心配も喜びも欲望も。
 ・神は全てのなされたことを知っておられます。

だれも神の目から逃れられません。
  何も神の知識から隠されることはありません。
  だれも神の裁きから逃れられません。
  権力者から逃げられても、神からは逃れられません。
  全ての人が裁きを受けます。

そこには2つの意味があります。
 ・神への恐れと敬意を持って生きる。
 ・神に信頼を持って生きる。

私は1952年にミンダナオ島で生まれました。
当時は電気も店も交通もありませんでした。
店は1km先まで行かなければなりません。
そこまで家もなく人にも会いませんでした。
その店まで一人で歩いて行かなければなりません。
母は「ここから見ているから、行ってきなさい」と言いました。
道は曲がっていたので、途中で見えなくなりました。
母は「走りなさい!」と言いました。
私は「母が見ているから」安心していくことができました。
天の神も私たちを見ていて、地上で起きていることを見ておられます。
何が起きても。

「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。
主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」
33:10,11

③主の計画は永遠に堅く立って人によって妨害されることはありません。
この世は「素晴らしい神の計画」と「国々の邪悪な計画」の戦いです。

「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
『さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。』
天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。
ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
『しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。』」
詩篇2:1~6

この世で最大の緊張関係は、米中や米ロ間のものではありません。
南北関係でもありません。
キリストに反する悪い国々の企みで問題が起きているのです。
しかし、神は人の意図をくつがえします。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」
Ⅰテモテ2:1,2

神はリーダーの考えを変えることができます。
だから、祈らなければなりません。
不完全な状況でも、完璧に物事が起きます。
パロも、ネブカデネザルも、ローマ帝国も、シーザーやヘロデ、ピラトも神の支配下にありました。
神の永遠のご計画が成されることを祈りましょう。

「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。」
33:16,17

「私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。」33:20,21

④この世の権力は、人に快適さと満足を与えることはできません。
満足を与えるのは、地位でもなく力でもなく武器でもありません。
真の満たしと喜びは主にある喜びと信頼です。
信頼は神の名への、神の人格への信頼です。
不信者は絶望的です。
不安と不信に陥ります。

神を信じる人は異なる次元で生きています。
真の喜びは主から来ます。

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。」
33:18,19

⑤神を畏れるものを、主は特に気に留めてくださいます。
 神を畏れる人は
 ・神の注目の中心にいます。
 ・聖なる守りの中心になります。
 ・聖なる守りの対象になります。
 ・真の満足を得ます。
 主は自信と喜びを与えて下さいます。
 その喜びは、「問題がなくなる」とか「豊かになる」ということではありません。
 真の喜びは「神がいること」「どんなときにも」です。

結論に入ります。

・あなたは神が神であることに確信を持っていますか?
・聖なる御名をほめたたえ、信頼していますか?

 クリスチャンは地上で最も幸せで満たされている人々です。
・主に大きな信頼を持って生きていますか?
 信頼するものを、主は特別に心に留めて下さいます。

10月14日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章 1~13節
「主の祈りを生きる」
         東海聖書神学塾 後藤喜良師

この教会でご奉仕するのもあと6回です。
今日から、主イエスが祈りなさいと教えられた「主の祈り」を学んでいきたいと思います。
今まで何回奉仕してきたか分かりませんが、どこの教会でも、私は自分自身が確信していること、実行しようとしているみことば意外は語りません。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
ローマ8:28~30

主イエスのような,神と人を愛する人に、私たちを完成させて下さいます。
クリスチャンになるということは、「救われる・義とされる・神の子とされる・人生を恵まれる」だけではありません。
私たちが「イエスのようにしていただける」ことです。
昔のままの、自己中心的な人間なら幸せではありません。
敵を赦すイエスと同じようにされるほど大きな喜びはありません。
日ごとにその喜びを味わいながら生きていくことは幸いです。
「全てを働かせて益としてくださる」ということは、経験する全て、出会う人全てが、私たちがキリストに似たものとされるためのものだということです。
私は、全てのこと、全ての人は、キリストに似たものとされるためだと分かった時から、それを喜びながら歩んでいます。
福音とは「喜びの知らせ」です。
愛の人にさせて下さる喜びを味わいながら生きていくのです。
教会もキリストに似たものにされるべきです。
いつも私が願っていたのは、主が願っていることをするように、主に似たようになるように、ということです
ローマ8章にあるように、うめきながら、希望を持って生きています。
それが健全な神の子の姿です。
聖書にある命令は、原語では「~し続けなさい」という命令です。
未来形の約束です。
「今すぐにしなさい」なら、絶望するしかありません。
継続して、少しずつ変えられていくという、継続的命令です。
「できるようになる」という約束です。
なぜ50年間続けてこられたのでしょうか。
たったひとつ。
主イエスが「祈りなさい」と与えて下さった主の祈りを祈り続け、実行することを続けてきたからです。

「主の祈り」は、イエスが詩篇を学び、自ら考えて祈らなければならないと考えて編まれた祈りです。
若いときから祈り、実行しておられました。
マタイ6章で教えられました。
イエスご自身が祈り、実行されたものです。
イエスは生涯主の栄光を現すために生きておられました。
神の国を建て上げるために。
私たちを用いて今も生きて働いておられます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
エペソ1:22,23

イエスは教会をお与えになりました。
今ここにおられ、聖霊によって建て上げようとしておられます。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
ピリピ2:6~8

しゅは、喜んで、進んで、十字架を負って下さいました。
「試み」とは試練と誘惑です。
イエスは全ての試みにあわれ、それを克服されました。
毎日祈ってきて、「今日も神のために生きなければならない」と、生きています。
毎日「今日も犯した罪を赦して下さい」と祈っています。

誘惑はあります。
私は高ぶりやすいです。
いつも入ってきます。
解放されたのは、リューマチになったときです。

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
コリントⅡ12;7~9

ベッドから起き上がれないほど大変でした。
それからは祈ってからしか奉仕できません。
それから20年になります。

主の祈りを学びたいと思います。
主イエスご自身が祈り、実行された祈りです。
これを祈っていけば、主に似たものとされます。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』
そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。』」
11:1~2

もうすぐエルサレムに入り、十字架に掛かられる頃です。
弟子と会って2年半ほど。
「ある所で」とは「どこでも」ということです。
イエスはどこでも祈っておられました。
神の御子なのに。
何でもできる、何でも知っておられるのに。
なぜ祈るのだろう?
知っていることもわずかな私たちとは違うのに、祈る必要があるのでしょうか?
私は4つの福音書全てを調べました。
イエスはいつでも祈っておられました。
私は本当に祈っていませんでした。
牧師になって、「自分は本当に祈っていたのか?」と思いました。
イエスでさえ祈らねばならないなら、なおさら私は祈らなければならないと思いました。

「イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。『どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。』
すると、イエスは言われた。『この種のものは、祈り{と断食}によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。』」
マルコ9:28~29

弟子たちは祈りを教えて下さいと願いました。
すると、イエスは山上の説教の祈りをもう一度教えられました。
なぜ3年半前に教えたのと同じ祈りを教えられたのでしょうか。
山上の説教のあと、「弟子たちは祈っていた」とは一度も書いてありません。
マタイの6章から2年半の間、弟子たちは祈っていなかったようです。
ゲッセマネでも。
なぜでしょうか。
理解できなかったのでしょうか。
従えなかったのでしょうか。
祈って実行しなかったからです。
唯一イエスが教えられた祈りです。
祈りは、祈る人の願いを表しています。
祈りは、あなたが求めているものです。
祈りは実現します。

主の祈りの前半は神を愛する祈り、後半は友を愛する祈りです。

「また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」
11:5~8

たとえの中の人は、友のために熱心に願っています。
自分の家族のためと同様に、兄弟姉妹、友人隣人のために祈る祈りです。
私たちは何のために伝道するのでしょうか。
私と同じように、隣人も生きるようになって欲しいと願うからです。
マタイの7章では、隣人のために「求め、探し、叩く」ことを教えています。
自分を愛するのと同じように、隣人を愛するために。
では何を求めたらよいのでしょうか。

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」11:13

必要な物はひとつだけ。
聖霊です。
聖霊を与えられれば、愛を行えるようになれます。
この祈りをできるように求め続けなければならないのは、聖霊です。
聖霊があれば、喜んで実行できるようになります。
弟子たちはペンテコステで聖霊を受け、ローマ帝国に広がっていきました。

聖霊に満たして下さい。
主の祈りを実行できるようにして下さい。
教会の一人一人、互いのために祈りましょう。
新しい人々のために祈りましょう。
聖霊の働きなしには何も起こりません。
必ず父は、聖霊を与えて下さいます。

10月7日 聖日礼拝

ペテロの手紙第2 3章 14~18節
「成長しなさい!」
         大治福音自由教会 服部真光師

この手紙はペテロが晩年に書き記したものです。
ペテロは13の手紙を書きました。
ここでは最も大切な勧めを示しています。
人は、生まれ時には世話をしてもらわなければ生きていけません。
その後ハイハイをして、立って、独り立ちします。
クリスチャンも恵みによって成長していきます。
自らの足で立ち、神と人に仕えることができるようになります。
しかし、40歳をすぎると目が見えなくなってきました。
私のメガネは、下のほうに老眼鏡が入っています。
「若いときのようではないなあ」と感じます。
成長と共に身につけたスキルが失われていくのを感じます。
名古屋教会の平井先生を見ると、「若いってスゴイな」と思います。
昔のように切れ味がありません。
パソコンが立ち上がるまでぐるぐると回る表示が出るように、すぱっと決断できません。
人間は18歳から20歳をピークに横ばいか下降していきます。

ピークを過ぎると様々なものを手放さなければなりません。
それとともに精神が成長するのを感じます。
若者は「死」をあまり考えません。
今私は自分の限界を考えます。
先が見えてくるのです。
これまでの人生と、残された人生。
残された方が明らかに短いからです。
それをどう生きようか、何をしようか、と考えます。
だから、内面が成長していきます。
自分には限界がある、終わりが来る、この世を去った後に残せるもの、残すべきものを次世代に伝えようと考えます。
立派な建物も代が変われば古びて壊されて新しいものに作り替えられていきます。
それを知るとき、内面が豊かに成長します。

なぜペテロは手紙を書いたのでしょうか?

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」ペテロⅡ3:1

かつて若い頃にイエスと出会い、取り扱われて感謝師、感動詞、人生を主にあって生きようと思った純粋な思いをもう一度奮い立たせる必要がありました。
若いときに持った感動と感謝を忘れないことが大切です。

2020年、オリンピックが開催されます。
オリンピックを目指す選手に共通するものがあります。
それは、若い頃に感動して「あんな風になりたい」と思い、10代で明確なビジョンを持っているという点です。
小学生の頃からオリンピックでメダルを取るという、明確な心の動機があります。
パッションをずっと持ち続けています。
先日テレビで入江選手が言っていました。
「もう賞味期限ではないか、と思っていたが、東京に決まったことからもう一度やろうという火が燃え上がった」
そして、アメリカで武者修行に出かけました。
一流の人でも、つまずき、挫折し、倒れます。
追い込まれます。
でも、彼らを支えているのは初めの時のパッションです。

ペテロが伝えたいのは、人生が変えられたときに与えられた純真な思いを呼び覚まそう!ということでした。
困難な中でも成長を続けることができるのです。
スポーツ選手がインタビューで話す内容は「若いときに支えてくれた監督、コーチ、家族」への感謝です。
孤独な戦いの中で支えてくれた人々への感謝です。
成長とは、そういう経験を重ねていくことです。
順風満帆、右肩上がりで成長することはありません。
困難、失望から第二の成長が始まるのです。

故堀越先生の言葉を今も覚えています。
「人生で行き詰まったら、75歳以上の人に相談しなさい」と。
若い人に相談すると、同じように行き詰まった経験したことがありません。
75歳の人は、様々な人生経験をしています。
出会い、別れを経験しながら信仰に立っています。
全ての時に神が自分を支えてきたことを経験しています。
その人の言葉を聞くのは大切です。
苦しみ、悩み、誘惑に篩われても信仰を保ち続けたから、豊かな信仰を持っているのです。
多くに人は、苦しみ悩み悲しみなんてないほうがいと考えます。
が、成長はその先にあります。
壁を越えて行けるのです。

「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」3:18

「主であり、救い主であるイエス・キリスト」とふたつの姿が書かれています。

イエスは主です。
人生のあるじ。
リーダー。
イエスのリーダーシップに従っていく。
家族がまとまるには、大黒柱が支える必要があります。
教会の頭はキリストです。
キリストに従っていくという重いが共有されなければなりません。
クリスチャンの間でも、往々にして、自分の主張が第一になります。
イエスを第一にしていないと混乱します。

「人生は出会いで決まる」とよく言われます。
その関係をずっと大切にしなければなりません。
イエスが救いと喜びを与えて下さった事への感謝をもっていれば、人生での成功でも、失敗でも、左右されません。
私たちはいろんな経験をします。
それにたいして反応が起こります。
いやなことがあるとこう思います。
「なぜ私ばかりこんなことが」
「なぜ神はこんな試練を与えられるのか」
それではただの人です。
ヤコブは

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」ヤコブ1:2

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
ヘブル12:7,8

成長は、天に凱旋するまで続きます。

ゲッセマネでの主の祈りを思い出して下さい。
「できることなら十字架を取りのけて欲しい」
という祈りから、
「御心ならば、そのようになるように」
と変わっていきました。
イエスは易々と十字架に掛かると言われたのではありません。
父と切り離される絶望感を感じておられました。
「なぜ?」と思ったときに、そのことを思い起こしましょう。
偶然に、苦しめるために、困難があるわけではありません。
成長させ、祝福しようとしておられるのです。
「強めて下さい」と祈りましょう。

ガリラヤ湖で嵐に遭ったとき、弟子たちは恐れて
「私たちが死にそうでも何とも思われないのですか」と詰め寄りました。
しかし、そこからより深い理解へと進むことができました。
私たちがすべきことは、「逃げること」ではありません。
しっかりと主に目を向けて、課題を乗り越えていくことです。
それが、目指すべき成長なのです。

9月30日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 11章 1~45節
「あなたは信じますか?」
               村井義信伝道師

私は、信じたくても信じることができませんでした。
クリスチャンになって36年後の今も、ここにいるのは奇跡でしかありません。
主の憐れみだと、霊派の旅に感謝師かありません。
みなさんは、共に礼拝を捧げる仲間であり、戦友です。
聖書のことが分からなくても、「イエス様を信じます」と言うことができて、共に礼拝できるだけでも幸いです。

ヨハネの福音書には7つの奇跡が書かれています。
そのひとつめは「カナの婚礼」の奇跡で、最後が「ラザロの死と復活です。
「しるし」の目的は何でしょうか?

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネ 20:31

それは、「信じるため」です。
聖書全体のまとめでもあります。
今日は最後のしるしを通して学びたいと思います。

ここに出てくるのはベタニヤに住んでいた姉弟です。
ラザロが急病になり、姉たちはイエスに多雨家を求めましたが、イエスが到着したのは死後4日目でした。
イエスは「信じる者は死んでも生きる。」と言われ、墓にいるラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と呼びかけると、ラザロが出てきました。
これを見たユダヤ人は信じましたが、一部の人はそうではありませんでした。
そして、これが「イエスを殺そう」というきっかけになったのです。
イエスはこの3姉弟を愛しておられました。
ルカの福音書によると、マルタは活動的、マリヤは物静かな印象を受けます。
でも、マルタもよくイエスの話を聞いており、聖書をよく知っていました。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』
彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」
ヨハネ11:25~27

マルタはもう信仰を持っていました。
ラザロはここで初登場です。
イエスに助けを求めたのは正しい判断でしょう。
彼女たちは期待していました。
「イエスは私たちを愛してくださっているから、すぐに飛んできてくれるはずだ」と。
イエスは多くの人の病を治していたのですから。
しかし、姉の思うとおりにはなりませんでした。

「マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」ヨハネ11:22

「マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」11:32

「なぜもっと早く…」と、不満と不信感を感じました。
マリヤも同様です。
愛してくれているはず。
すぐ来てくれるはず。
しかし、一方で神のご計画があります。
神と一対一の関係を築くことは必要です。
同時に、「自分は多くの神の民のひとりにすぎない」という謙遜さも必要です。
「自分は神の民だから、自分の思い通りになる」という考え方は違います。
わきまえがないと不満や不信が起こります。
このようなことは、牧師に対しても起こりえます。

マリヤとマルタは「イエスなら病気は治せるが、死んだらダメだ」と思っていました。
弟子たちも大差ありませんでした。

「そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』
しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。
わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』」
ヨハネ11:12~15

そこが信仰の限界であり、彼らの実力でした。
信仰がまだまだ薄いのです。
残念ながら、それが現状でした。
自分に信じられることだけを信じている。
見なければ信じられない。
それでも、「薄い」ということは「ない」ということとは違います。
少ないながらも「ある」のです。
信仰がなければ救いようがありませんが、「小さい」のであれば、育てればよいのです。
伸びしろがある。
そのことに気付いておらず、現状に満足しているなら残念なことです。

死と向き合うこと。
36年前に私が信じたとき、

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。」ヨハネ10:28

という御言葉を聞き、それならもらおうと思いました。
毎日の生活の中に、神の奇跡があります。
私たちは神の支配の中にいることを知ります。
弟子たちは見聞きしていても気付いていませんでいした。

イエスキリストこそ、生死全てを支配している神です。
そのことに対する信仰を目覚めさせるための奇跡でした。
私たちは神によって作られ、神によって守られています。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2

何一つ忘れるな。
これは、ダビデの「恵みによって生かされていることを忘れないように」という決心です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』
彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」
11:25~27

いつでも信仰の告白をし、決断することが大切です。

ヨハネの中の6つめの奇跡は、盲人の目が開かれた奇跡でした。
その時イエスは、かつての盲人に「あなたは人の子を信じますか」と問われ、彼は「主よ、信じます」と答えました。
マタイの9章では、二人の盲人に「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われ、彼らは「そうです。主よ」と答えました。
イエスは決断を迫ります。
決断したら、素直に告白するのです。
それがコミュニケーションであり、祈りです。
私たちは「○○してください」と祈ります。
主は「信じるか?」と問われます。
ところが「信じられない症候群」の人がいます。
祈りが途中で終わっているからです。
「信じられますように」と祈るのは信仰ではありません。
「信じます!」と祈るとき、その通りになります。
それは、「思い通りになる」という意味ではありません。
「神の思う通りになる」と信じられるようになります。
「信じられますように」というのは、「信じたくない」という心の現れです。
「愛します」「赦します」「信じます」と決断し、告白することを、主は喜ばれます。
信じると告白したとおりになります。

「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」
11:41,42


これは手本の祈りです。
祈りが聞かれる前に、感謝しています。
このまねをすればよいのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」ヨハネ13:15
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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