FC2ブログ

8月5日 聖日礼拝

マタイの福音書 8章 5~13節
「あなたの信じたとおりになるように」
         大治福音自由教会 服部真光師

まず近況をご報告します。
NPOの働きですが、稲沢市役所の方が訪れ、市役所で恵泉会の野菜を販売してパンフレットを配布してくださることになりました。
金曜日にプリスコ師が来日されました。
2年の予定で、大治教会の2階に住みながらフィリピン教会のために働かれます。
フィリピン教会の方たちは「本当にこんな日が来るなんて!」と感動しています。
金曜日から日曜日にかけて石巻を訪問しました。
35名の高齢者が集まってメッセージをしました。
10月にはパート2を行う予定です。

「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」8:13

さて、今日の聖句は何を教えているのでしょうか。
私たちはここから、何を受け取ることが必要でしょうか。

日本語には「信心」という言葉があります。
もうひとつ「信仰」という言葉もあります。
多くの日本人が持っている宗教観は「信心」です。
ヒイラギの葉を結びつけて、そこにイワシの頭を刺して門に置いておくと、悪霊から守ってくれると言われています。
そこから「イワシの頭も信心から」ということわざが生まれたのですが、あまり価値のない「イワシの頭」でも、一心に信じる心があれば価値のあるものになると考えるのです。
どんなものでも信じる心がすばらしい。
それが日本人の宗教観です。
自然の中に神が宿るとも考えられています。

一方、聖書が語るのは「信仰」です。
信じて仰ぐ。
何を信じるか、何を仰ぐのか。
「何を」が大事です。
天地を造り、命を与え、必要な物全てを備えて下さった方を仰ぎ、そのゆるがない愛を信じるのが「信仰」です。
行いに寄らず信仰による。
それは、神のみわざを受け取り、まっすぐに信じることです。

「イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
言った。『主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。』」
8:5,6

イエスは町々、村々を巡り歩き、多くの人の患いを治しておられました。
その働きはうわさになっていました。
当時イスラエルにはローマの兵士が駐屯していました。
彼らはローマの警察的な役割をしていました。
その百人の兵の長が「百人隊長」です。
彼らも、大衆に影響を及ぼしているイエスの行動に興味を持っていました。
自分の仕事の中で調査し、イエスのことを知っていたと思われます。
百人隊長は、部下の病気をなんとかしたいと思いました。
共に命を賭けている部下です。
きっと医者を捜したことでしょう。
隊長は「イエスにお願いしたら治るに違いない」と思いました。
そういう思いを明確に持っていました。
彼は、自ら進んでイエスの元に行き、助けてくれるように懇願しました。
隊長は、ユダヤ人から見ると異邦人です。
ユダヤ人が、自分たちにある種の敵意を抱いていることを彼は知っていました。
ユダヤ人が、異邦人と共に食事をしないことも知っていました。
直接話すのも失礼に当たることも知っていたと思われます。

「イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』」8:7

ところが、意外な返答が来ました。
異邦人の女が、自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと求めた時、イエスは最初断りました。
「ご自分が遣わされたのは、まずイスラエル人のためだから」と言われたのです。(マルコ7章)
それなのに、ここでは「行って直してあげよう」と言うのです。
人によって態度が違うのでしょうか?
百人隊長だからなのでしょうか。

イエスは、彼の中に「信仰」を見ました。
その信仰に応答されたのです。
では、百人隊長の信仰とはどのようなものだったのでしょうか。
彼が語らなければ私たちには分からなかったことでしょう。
イエスは、彼からその言葉を引き出しました。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:8,9

「資格はありません」
この言葉によって、彼が「福音のメッセージからすると、自分には罪がある」ということを自覚していたことが分かります。
また、自分はユダヤ人ではない異邦人であり、異邦人である自分がイエスを家に招くと、イエスの評判に傷がつくとも考えていました。
「私は罪人です。来て頂くほど良いものを私は持っていません。
 ただお言葉を下さい。そうすれば治ります。」
と言っているのです。

私はナアマン将軍を思い出します。
彼は皮膚病を治してもらおうとエリシャを訪ねたとき、エリシャ自身が出てきて、自分の患部の上で手を動かして治してくれると期待していました。
ところが、使いの者が出てきてヨルダン川で体を洗うようにとだけ伝えられ、腹を立てたのでした。
これが普通の感覚かもしれません。
しかし、百人隊長は違いました。
「言葉さえあれば治る」と信じていました。

これは現代の私たちへの大きなチャレンジです。
イエスは目に見えません。
物理的に来てはくれません。
私たちの信仰を養うために、このエピソードは書かれています。
「言葉」は「約束」です。
言葉さえあれば、約束さえあれば、必ず実現すると信じるなら、たとえこの場にイエスがいなくても、それは実現する。
そう信じるのが私たちの信仰です。

イエスを身ごもったマリヤが伯母のエリサベツを訪ねたとき、エリサベツは

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

と言いました。
「熱心さ」が大事なのではありません。
神が求める信仰を、彼は持っていました。
「ことばをください。そうすれば直ります」
みことばこそが究極の権威であり、必ず実を結び、実現するという信仰。
イエスはこれを聞いて驚かれました。

「直ったら信じる」のは信仰ではありません。
「見たら信じる」のも信仰ではありません。
「願いが叶ったら信じてもよい」も違います。

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」ヨハネ20:29

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
ヘブル11:1,2

まだ目の前に何も起こっていない、不可能と思っていることも可能に鳴っていきます。
神の御業の進展に心を留めていきましょう。
「ラッキー!」ではなく、祈っていた人々にとっては、神は御業をなさるという信仰が芽生え、成長していきます。

「信じたとおりになるように」
隊長が「信じたとおり」の内容は「お言葉をいただけば直ります」です。
私たちの中に、そのような信仰が芽生えて養われているでしょうか。
日々の生活の中に、困難や課題があります。
熱心さが足りないのではありません。
主が私たちに求めているのは、主の言葉への信頼なのです。

7月27日 聖日礼拝

ルカの福音書 5章 1~11節
「弟子への召命」
          尾張旭福音自由教会 野口恭一郎師

イエスの生涯の働きはふたつあります。
ひとつは福音を宣べ伝えること。
もうひとつは弟子を育て、訓練することです。

「イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』」5:10

クリスチャンはどのように人間をとる漁師になっていくのでしょうか。
このできごとについて、マタイとマルコの福音書には詳しく書かれていません。
ルカの福音書では、深い意味を教えています。

「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」
5:1~3

岸辺には船が2そうありましたが、イエスはペテロの方の船に入っていきました。
そして、まず「少し」こぎ出すように言われました。

「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた。」5:4

そして、説教が終わると「深みに」こぎ出して魚を捕りなさいと命じられました。
それは、ペテロがすぐに「はい」と聞けるような言葉ではありませんでした。
魚を捕るプロであるペテロでさえ一晩かけても1匹も捕れなかったのです。
いわば夜勤明けです。
疲れていました。
しかし、ペテロは弟子になる準備ができていました。
弟子となる可能性がありました。
ペテロには葛藤がありましたが、「イエスが言われるのなら」やってみようと考えました。

「するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」
5:5~7

イエスの導きに従うと、こんなことが起こるのです。
ペテロは神が起こした奇跡を目の当たりにして、「イエスは神だ」と悟り、畏敬の念を抱きました。
ペテロは、罪ある人間は神の前に立つことはできないと思いました。

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。」5:8

「自分はふさわしくない。不完全だ。罪深い。」
そう思っている人の方が、主の働きにはふさわしいのです。
ペテロの謙遜な姿勢はたいせつなことでした。

イエスは私たちに「あなたもキリストの弟子になりなさい」と言われています。
ペテロは弟子の、教会の、代表です。
ペテロに言われたことは、クリスチャン全員に言われていると考えていいでしょう。
今までの知識や経験の限界を超えて、イエスに従う…それは弟子の性質の本質です。
信仰を持って従うのです。
全てにおいて、優先順位があります。
その第一が「弟子になること」です。
みなさんは従う準備ができていますか。
弟子になることはマストなのです。

「自分は弟子にふさわしい」と思っている人は、ふさわしくありません。
神の働きは、自分の力ではできない働きです。
信仰、愛、忍耐、憐れみ、聖さ、知恵において、成長していなければなりません。
どんな奉仕でも、「自分ができるからやっている」のではなく、「イエスがしなさいと言っているから」する。
「やりたいからする」のではなく、できないかもしれないけど、「イエスが導いてくださるなら深みにこぎだそう」と、信仰を持ってやってみる。
それが弟子の本質です。
その典型が「牧師」です。
できないと思っている人こそ、ふさわしい仕事です。

まだ行ったことのない所に行く。
主の召しなら、弟子は山をのぼります。
ゴールを目指します。
一心に。
「1回従う」というものではなく、日々、主が示すところに従っていくのです。
小さな1歩でよいのです。
それが献身です。
弟子として歩むのを避けているなら、あながを、主が招いておられます。

7月16日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 2勝13~17節
「人が立てた制度に従う」
             柳橋宏祐神学生

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」


この手紙が書かれた時代、王がいて、ローマの総督がいました。
日本には王はいませんし、植民地でもありませんが、政府があり、法律で制度が定められています。
ここには5つの命令が書かれています。

①制度に従いなさい
②全ての人を敬いなさい
③兄弟を愛しなさい
④神を畏れなさい
⑤王を尊びなさい

まず、「全ての人を」敬うことについて考えたいと思います。
自分を振り返ると、できていないと思います。
人を敬うのが難しいと感じます。
子どもは反抗期になると良心を敬えなくなります。
これは、神の民に対して言われている命令です。
これは福音に基づいています。

このすぐ前の12節では

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」2:12

と書かれています。
それは、神の民とされているからです。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の民でした。
主はモーセに言われました。

「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。』」
出エジプト 34:5~7

イスラエルは何度も主にそむきましたが、そんな民にも主は憐れみを示されました。
それでも反抗を続け、ついにバビロン捕囚が起こります。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
イザヤ53:3,4

イエスは、不利な証言をされ、私たちの罪を負ってくださいました。
ですから、私たちは聖なる神にこのままでも大胆に近づくことができるのです。
私たちは、聖なる者に変えられるように召されています。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
ヤコブ4:1~4

私の心にわき上がる怒りの原因は「求めているものを得られない」ことでした。
求めていたものは、人からの栄誉、好意でした。
何度も、その欲望から怒りを感じてきました。
だれもでも同じような経験をしているのではないでしょうか。
本来よいものを求めていても、戦いや争いを産み出してしまいます。

「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」ローマ1:25

その人が礼拝した物が、その人を支配します。
もし神を礼拝していたら、他の物に支配されることなく、怒りに囚われなかったことでしょう。
心の中心の問題は、何を礼拝し、何を求めているかです。
欲望によって感情が産み出されます。
肉の欲を避けて生きるために、いつも神を礼拝することが必要です。
イエスの血は、罪人を救う唯一の道です。
イエスを思うとき、神の栄光に満たされることができます。
神の僕となるところに、本当の自由があります。
私たちはイエスの名を負って世に遣わされています。
主は、私たちを赦し、変わらず愛し続け、変え続けてくださいます。

「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
黙示録4:10,11

7月8日 聖日礼拝

コリント人への第1の手紙 13章 1節~14章 1節
「多くの実を結んで神の栄光を現しましょう!」
         東海聖書神学塾 後藤喜良師

私は神学塾の校長なので、「今日も絶好調!」と言うところですが、私の仕事は「塾生を熟成させるまで」育てることです。
何において熟成したらよいのでしょうか?
知識でしょうか?
私が一番大切に祈り語っていることは、「愛における熟成」です。
「愛」は祈れば与えられるというものではありません。
いろんな人を愛していく中で、少しずつ身につけていくものです。
ぶどうの枝である私たちに実が実ります。
「愛」はいつまでも追い求めていくものです。
「もう身についた!」という日は来ないので、生涯求めていくべきものです。

コリント人への手紙が書かれたとき、コリント教会の状態はどうしようもないものでした。
4つ以上のグループに分裂して、「私パウロにつく」「私はペテロに」「私はイエスに」などといって争っていました。
貧しい人には食べ物がなく、いがみ合っていました。
才能を誇っていました。
「自分の方が優れている」と、いがみあい、妬み合っていました。
何人かは売春婦のもとにいていました。
それでも「悪いことをしていない」と言っていました。
聖書の中にこんなにひどい教会はないというほどの教会でした。

神学校で学ぶのは「理想」であって、神学校の生徒の中には自分の通っている教会のことをこんな風に言います。
「聖書の教会と違って、いろんな問題があって、行くのが辛い」と。
私は「神学生病」と呼んでいますが。
「説教を素直に聞けない」と言う人もいます。

聖書の中の教会は、どの教会にもいろんな問題がありました。
実際の教会には問題があります。
ピリピの教会は「もう完全になった」と誇っている人がいました。
ユウオデアとスントケはいつも争っていました。
問題のない教会はありません。
未完成であり、戦いがあります。
みことばに従っていこうとすれば、必ず問題が起きます。
迫害やサタンとの戦いがあります。
では、問題がある教会はダメなのでしょうか。

「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」
Ⅰコリント1:1,2

パウロはこのように書き出しています。
この教会も「神の教会」なのです。
当時コリントの教会はできて10年ほどでした。
港町で、「コリント人のよう」という言葉は「不品行な人」という意味を表していました。

午後には役員会の学びがありますが、「どういう問題があっか」「聖書はどうするように教えているか」を学んで欲しいと思います。
なぜこうなったのか。
どうしたらいいのか。
牧会学の基本です。
今の教会も、新約時代の教会以上でも以下でもありません。
21世紀の教会でも同じです。
なぜパウロは手紙を書いたのか。
それは、問題があったからです。
だから、パウロは「今どうしたらよいか」を教えています。
一番大切なことを。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」Ⅰコリント12:31

「さらにまさる道」とは、「愛すること」です。
教会で、家庭で、互いに愛し合うことです。
どんな問題も「愛すること」を教えてくれます。
愛されていると思っていないので、喜びがないのです。

「子どもの時、親から愛されていなかった」
「寂しい辛い経験をした」
そのような人には「注意する」のではなく、話を聞くことです。
2,3年かけて、神から愛される喜びを伝えます。
赦せないのは自分が幸せでないからです。
愛することで解決します。
「愛なんてない」という人もいます。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
13:5~7

ここには愛について15の項目が書かれています。
そのうち12は赦す愛。
残りの3つは積極的な行いです。
よく「妻を愛せない」「夫を愛せない」という方がいますが、いや、愛してますよと思います。

聖書の翻訳について、私には納得できない部分があります。
たとえば、イスカリオテユダに対するイエスの言葉です。

「『確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた。」
マタイ26:24,25

「いや、そうだ」という言葉に違和感を覚えます。
この言葉は「おまえがそうれを言うのか?」とも訳せます。
また、「わざわいです」という言葉は「ああ、かわいそうだ」とも訳せる言葉です。
イエスは愛をもっている方であり、「わざわいだ」とか呪ったりしない方です。
イエスの心は、私たちの良心よりも広いのです。
イエスはもったいないほど親切な方です。
イエスは私たちを人と比べたりしません。
イエスはサマリヤの女に対しても「女の方」と呼びかけられました。
人を軽蔑しない方です。
どんな人でも、「価値ある者」として喜び、誇ってくださいます。
「喜ぶ」ということは「誇る」ということです。

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ローマ14:4

ローマ14章では、互いを主の弟子だと思って尊敬するように教えています。
イエスは、叱りますが、怒る事はされません。
イエスは、今到達しているところを喜んで下さいます。
今の私たちを喜んでおられます。
ゆっくり、着実に育てて下さいます。

イエスは人の下悪を数えません。
「またやったのか」とは言われません。
昔のことを全て忘れて下さいます。
不正を悲しまれ、真理を共に喜んでくださいます。
「耐える」とは、イエスが私たちを理解し、罪を赦してくださり、諦めないということです。
イエスは待ってくださいます。
失敗しても信頼し続けてくださいます。
だから、3回否んだペテロも受け入れてくださいました。
イエスは期待し続けてくださいます。
だから、愛されているから、少しずつ学んで、身につけて、実を結べるようになるのです。

受け止め、忍耐して、喜んでくださる圧倒的な愛で、愛されていることを知って欲しいと思います。
何度も呼んで思い出して欲しいのです。
大きな広い愛を受けていることを。

7月1日 聖日礼拝

テサロニケ人への手紙第Ⅰ 5章 16~18節
「神の私たちに対する望み」
          大治福音自由教会 服部真光牧師

グローバルアウトリーチでは、東京都心で新しい宣教の働きをしようとしています。
福音自由教会は、関東では埼玉に教会が多くなっています。
東京の近郊に住み、そこから都心に通う人々が多かったからです。
しかし、今、人の動きが変わってきました。
ベイエリアに多くの人が住んでいるのです。
タワーマンションが建っていて、ひとつの建物に2万人が住んでいるといいます。
2万人というと、旧七宝町の人口は2万2千人でしたから、ひとつの町が1軒の建物にあることになります。
マンションの1階には幼稚園もあります。
ところが、福音自由教会はその近辺にほとんどないのです。
そこに新しく教会を建てようとしています。

名古屋にあるフィリピン福音自由教会は、2011年人は50人ほど集まっていましたが、2018年100人に増えてきました。
そこで、フィリピンのプリスコ先生夫妻に来て頂きたいと要請し、来て下さることになりました。2年の予定です。
この地域だけでなく、日本全国、また世界で行われている主の御業に敏感になって欲しいと思います。

「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
5:16~18

今日の御言葉は、多くの兄弟姉妹が心に留め、よく知っているのではないかとおもいます。
「知っている」ということと、「そのように生きる」というのは別のことです。
大切なのは、知っていることではありません。
牧師の息子として生まれたので、私は聖書の話はよく知っていました。
教会学校の教師よりも信仰歴は長いのですから。
「前に聞きました!」
「知ってます!」
と言う、やりにくい子どもだったと思います。
確かに、信仰は「知る」ことから始まります。
それが、生きて働いているかどうかが大切です。
知的理解だけでなく、本当の意味で受け止めて行くことです。

「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」コロサイ1:6

本当の理解とは、具体的に生きていると言うことです。
この世に神がおられることはおおかたの人は知っています。
知って生活がどう変わっているか、が大切です。

「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」5:18

こういう生き方ができるように、その姿を主は願っていらっしゃいます。
「感謝はしているけど、いつもと言われると…」
「感謝と同じぐらい不平もある」
そう言いたい方も多いでしょう。
神は分かっていらっしゃいます。
その心を受け止めて、どうすれば願いが実現するのかを考えることが大事です。

祈るときに考えて欲しいのです。
この祈りを聞いている神はどう思われるかを。
私たちは願いを持つように、神も願いを持っておられます。
ところが一方的に願う人が多いのです。

子どもの祈りは「あれがほしい」「~して!」という要求、願望です。
かまってほしいという願い。
受けるだけでいいのでしょうか?
成長するために欠かせないのは、「愛を受けること」ではありません。

今は出生率が低くなり、親はわが子を以前にも増して大事に思うようになりました。
でも、大事にしすぎることはよくありません。
三重県で学級崩壊が起きているという話を聞きました。
12人のクラスのために、先生が一人、アシスタントが4人いるそうです。
授業が始まっても席に着かない。
話を聞かない。
我慢しない。
人の為に労苦することを教えていないからです。
愛されるだけでは愛を学ぶことはできません。
「くれ!」という信仰では成長できません。
「もっとくれ!」となるだけです。
求めに応じてよいものを与えればよい子になるか、というと、そうではありません。
自らが愛したときにだけ、愛を学ぶことができます。
「あなたも行ってそうしなさい」と言うべきです。
人を愛することに取り組んで初めて愛を学ぶようになります。
イエスが与えた新しい戒めは

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ヨハネ15:12

です。
どうしたらいいのかを真剣に考えたら、イエスの愛を学ぶことになります。

「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。」Ⅰテサロニケ3:9

パウロのしたことは、「御前にあって祈る」ことでした。
神は今も生きて働いて下さっています。
喜びと感謝は、祈り求める生き方の中で見いだしていくものです。
この時代、家庭、職場の中で生きていく中で。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 真田丸 何者 懸賞 あさが来た 知多 超ネプの法則 Q10 ピンポン 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ