4月29日 聖日礼拝

イザヤ書 51章 1~11節
「楽しみと喜びはついてくる」
           名古屋福音自由教会 平井聖歩師

最近購入した本があります。
「縮み志向の日本人」という李御寧(リ・オリョン)が書いた日本文化論です。
「菊と刀」と並ぶと言われています。
その中に書かれていたことですが、世界中に「扇」や「団扇」はあるが「扇子」はないということです。
折りたたみ傘を発明したのも日本人。
折り詰め弁当も。
何でも小さくしていく。
小さい中に美しさを見いだす文化が日本文化だと言うのです。
ものをコンパクトにする傾向があると。
「日本の心も縮む傾向があるのでは?」と続きます。
セルフイメージ、自己評価も小さい。
「神」を思い浮かべるときも地位差kしてしまう。
悔しいけれど、当てはまると思いました。
私たちは解放されなければなりません。
天地創造の神は、今も生きてすべ治めておられます。
これまでの歴史も、これからも治めておられます。
この方から「壮大さ」をいただくことができれば、心が開かれ、少しでもその大きさに近づけるのではないでしょうか。

私たちは天国人です。
神の民です。
そうなれる特権をすでに与えられています。
イザヤの時代の南ユダ王国には、大国アッシリアがすぐそこまで迫っていました。
経済的にも、精神的にも追い込まれていました。
神を信じる者すら「信じても仕方ないのではないか。今までも信じてきたけど、状況は変わらない。もういい」という気分になっていました。
主がイザヤを通して語られた将来は、楽しみと喜びがついてくるものでした
そこを目指すのにどうあるべきでしょうか。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」
51:1~3

西教会のみなさんに伝えたいことがあります。
第1は、「神が成された御業を覚える」ことです。
昨年私たち夫婦がはまっていたドラマは「陸王」でした。
足袋屋が舞台です。
ドラマの序盤で、主人公は融資を願うために計画書を持って銀行に行くのですが、拒まれます。
なぜでしょうか。
「こはぜ屋さんには実績がない」からです。
「実績がない」それはつまり「信頼できない」ということです。
大学のパンフレットには、卒業生の就職先が載っています。
病院を選ぶときには評判を聞いて決めます。
「これまで」を見て、人や企業判断し、信頼を置けるかどうかを決めるのです。

主は「わたしに聞け」と言われます。
目を向ける場所はここです。
「これまでにわたしがしてきたことを見よ」と。
何でもない岩から切り出された石で、建物ができます。
一方的に選んで。
イスラエルは選ばれて国になりました。
イスラエルの存在そのものが、神の御業の証でした。
神に求める者に約束されているものは、楽しみと喜びの回復です。
つまり、神からの希望をいただく出発点は過去にあります。
これまで私たちのために、神が何をしてくださったか。
そこに神の御業があります。
豊かに生きるために、神が私のためにして下さったことを数えましょう。
ただし、神は「私」だけでなく「教会」の主でもあります。
教会の歴史を知って欲しいと思います。
この教会にこれまで主が何をしてきて下さったか。
どれだけ教会を愛して下さったか。
それは「義務」ではなく、皆さんを支えます。
これまでに歴史の中でして下さった御業を覚えてほしいと思います。
そのためには、聖書に親しむことが大切です。
聖書には神が成したこと、約束の成就に満ちているからです。

「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。
目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。」
51:4~8

第2は「待ち望むこと」です。
心を売るガス子と、心を惑わす声があります。
だから、「私に聞け」と主は言われます。
「教え」は「律法」です。
律法を完成されたのは、約束のメシヤであるキリストです。
世界の全てが崩れ去る日が来ます。
が、崩れないものがあります。
それが「神の救い」です。
救いはすでに成就し、完成に向かっています。
イエスは律法を全うし、十字架に掛かられました。
再び来られるとき、究極的な救いとして、「神の日」がやってきます。
信仰者のあり方は「待ち望み、寄り頼む」ことです。
ある方が、「待ち望むというのは積極的なものなのですね。」と言っておられたのが印象に残っています。
希望に向かって邁進する信仰者の姿がそこにあります。
私にとって「待ち望むこと」は「ラーメン屋の列に並ぶこと」です。
「IKEAの駐車場に入るのに1時間並んだ」という人もいるでしょう。
今は待つのが苦手な時代です。
3分でできるご飯。
指先を動かせばすぐに答えが分かります。
待てるときもあります。
希望があるときです。
私はラーメンのために2時間半並んだことがあります。
待つ時間は私にとっては楽しみです。
メニューを見たりして時を過ごします。
まだ到達していなくても、そこで得られるものを見て待つことができるし、それを楽しむことができます。
忍耐もありますが、希望があるから楽しめるのです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」コリントⅠ 10:13

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

待ち望む者でありたいと思います。

西教会は無牧の2年目に入りました。
待ち望むことのチャレンジです。
これまで名古屋教会は3度、無牧の時を過ごしています。
当時のことを教会の方に尋ねると、
「1年目は自由になった気がして嬉しかったです。
 2年目は息切れがして疲れてきました。
 それで、毎回礼拝の後に隣の人と祈り会ってきました。
 そうして教会の祈りと重いがひとつになりました。」
役員だけでなく、教会の皆が自分自身のこととしてとらえ、祈ることができたのが恵みだったと言います。
主が備えられていることを信じ、主の祝福を味わう者になるのです。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」
51:9~11

先取りして喜ぶ姿がここに描かれています。
神の働きに期待して。
「ラハブ」とはここではエジプトを刺しています。
「竜」はサタンです。
祈りは賛美に変わります。
バビロンからの帰還。
それがすでに叶えられている、と賛美します。
楽しみと喜びは信じて祈った先にありました。
彼らは何もしなかったのではありません。
信じ、期待して祈ったからです。
待ち望む信仰は、神の計画の一部とされました。
聖書の多くは「あなたがた」と複数形呼びかけています。
共同体に向かって。
民の一人として、私たちは導かれています。
教会を与えられている恵みと約束を待ち望み、楽しんでいただきたいと思います。

スペインのサグラダ・ファミリア教会は未完成の内に設計者ガウディは亡くなっています。
建て始めたとき彼は
「神はお急ぎではない。
 時を定めて成して下さる方である」
と言いました。

神からの約束があるのは確かなことです。
神の広さ、高さ、深さを知ることは大切です。
それが私たちの心を解放します。
「私」も「教会」も主の計画の中にあるのです。

4月22日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 1章1~13節
「神を信じて終わりの時を生きる」
          柳橋宏祐神学生

今日は神の民として生きることを学びたいと思います。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」1:13

「ですから」というのは、「福音が告げ知らされて、イエスの復活を知り、神の民とされたのですから」ということです。
私たちも、あるとき福音を知り、信じました。
その時に神の民とされました。
この世にあっては寄留者。
一時的に滞在している外国人です。
父成る神の憐れみによって、与えられた恵み「神の民とされていること」をまず覚えましょう。

ここに4つの命令が書かれています。

①待ち望みなさい
②聖なる者となりなさい
③神を畏れて過ごしなさい
④広い心で熱く互いに愛し合いなさい


私たちは、4つ目の命令のみに強調を置いてしまうことがあります。
先の3つを軽んじて忘れていないでしょうか。
「愛」はそもそも神のご性質です。
イエスが愛して下さったから、互いに愛し合うようにと言う命令を受けているのです。
愛し合うことは宣教の中心にもあります。
神が私たちを愛し、祝福して下さることを世が知ることが宣教だからです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
ヨハネⅠ4:7~12

愛は土台、目標、動機付けであり、とても重要です。
福音が真実であることを証する根拠でもあります。
けれど、同じように前の3つの命令も重要で宇s。
この3つに従うことなしに、主の召しに生きることはできません。
主の召しは、私たちをひとつの方向、神の方向に向かわせます。

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」ペテロⅠ1:22

ここには、真理に従うことによって愛し合うことができると書かれています。

「不正を喜ばずに真理を喜びます。」コリントⅠ13:6

愛とは、不法と真理を識別する力です。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」コロサイ1:9

この祈りは、クリスチャンたちのためにパウロが捧げた祈りです。
互いに愛し合うために、御心について理解を深める必要があります。
今の私たちにも、この祈りが必要です。
「神学」より「愛し合うこと」のほうが大切なのではないかと思いがちですが、聖書に向き合って行かなければなりません。
労力が必要であり、識別力を付ける必要があります。

「エキュメニカル運動」というものがあります。
宗教の壁を越えてひとつになろうという考え方です。
それは本当に聖書に基づいているのか。
正しいのか。
真理を求めて理解する必要があります。
倫理的にも、神の前に正しいのか。
考える必要があります。
もし、それが罪なら、その人の幸せを願って愛するなら、何が本当に正しいかを知って愛していく必要があるのではないでしょうか。



では1つめの命令「待ち望みなさい」について考えましょう。
私たちはひたすら待ち望んでいるでしょうか。
イエスが来られるのはまだまだ遠いと思っているなら、ぼんやりすごしているかもしれません。
待ち望んでいるなら違ってくるのではないでしょうか。
中学の時、「夢」を書くときに、他の人が立派な夢を書くのを見て「いいなと思う」という子がいました。
私も夢がある人はかっこよくていいなと思います。
でも、夢が実現して、「すごい」と言われたとしても、イエスが来られたときに与えられる栄誉はそれを越えるものです。
世界よりも価値がある恵みです。
人生の先にある「恵み」を私たちは待ち望んでいます。
その恵みは「タダ」です。
タダで受け取るのです。
つまり、私たちの功績ではなく、神の憐れみによるものです。
イエスが死んで下さったからです。
毎朝起きたら、この恵みを思い起こすことをお勧めしたいと思います。
「身を慎む」とは「酔っぱらっていない」という意味です。
この世のいろいろな者によって、待ち望むべき恵を忘れないようにしましょう。
キリストを待ち望みましょう。
「心を引き締め」とは「心の腰の帯を締める」という意味です。
じっとしているのではなく、いつも働きながら待ち望みましょう。
イエスのための大きな夢を持って欲しいと思います。
御言葉から確信を持って。
実現させて下さると信じて。



「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」
1:14~16

聖なる者になりなさい。
生活の全てにおいて。
聖なる神に召されたのですから。
無知だったときの欲望に背を向けて行きましょう。
神の民とされているのですから。
命令であると同時に、これは特権です。
「聖なる」とは「他の者と区別された」という意味です。
この世の生き方と、全て区別された生き方を身につけるようにと命じられています。
何が聖なることか。
神はどういう聖なる方かを知らなければなりません。
そのためには、聖書から教えられる必要があります。
自分自身葛藤を感じます。
自分が誠実に向き合ってこなかったと思わされます。
御心が分からないと不安になり、欲望が襲ってきます。
仮面をかぶって聖なる者であるかのように見せてしまうことがあります。
しかし、御心が何であるかを知るなら、悔い改め、従うことができます。
欲望と対峙し続けなければならないのです。

学生の頃いかに欲望に支配されているか気付かされました。
「世間体よりも欲望に従う方が幸せかも知れない」と開き直ったこともあります。
その中で、欲望によってもたらされる腐敗から立ち返るように、主は十字架を示して下さいました。
腹が立ったときには叩く。
欲しいから奪う。
そんないろんな欲望を経験します。
妥協して生きると、神の聖さを世に示すことができません。
私たちは、日々戦うようにと召されているのです。



「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
1:17~19

神を畏れつつ過ごす。
神は公平に裁かれます。
私たちはその方を父と呼んでいます。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」ローマ2:16

人目に隠れていても、神には見られています。
いずれ、裁かれます。
昔奴隷を買い取るには金銀が必要でした。
主は、イエスの血をもって、私たちを買い取って下さいました。

「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
1:20,21

今、終わりの時に私たちは生かされています。



「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」1:22

召しに従って生きていく兄弟として、互いに愛し合って生きていきましょう。

4月15日 聖日礼拝

使徒の働き 3章 11~16節
「かけよってきた人たちへ」
              hi-b.a. 丸山告スタッフ

4月4日から9日まで北陸に出張してきました。
金沢、富山、新潟、高岡。
東海中部地区と呼ばれる地域ですが、日本海側は名古屋とは違う魅力があります。
教会の雰囲気も違います。
昨日は沼津で初のhi-b.a.を開催しました。
静岡、豊橋に続く新しい集会です。

さて、目先の問題解決ではない、抜本的な解決が与えられた男の話を学んでいます。
彼は足の病から回復し、歩いて神殿、すなわち礼拝の場へ向かって行きました。
身体的な改善と共に、霊的な回復を得たからです。
キリストの名を知ることが、問題の解決の土台にありました。
その姿を見た人々は「驚きあきれ」ました。
新しい訳では「者も言えないほど驚いた」となっています。
このほうが適切でしょう。
驚きを隠せない人々が、一斉に駆け寄ってきました。
このあとに続く箇所は3つに分けることができます。

①12~16節「奇跡の原因、真因」
②17~21節「悔い改めの説明」
③22~26節「選民の持つ特権と責任」


今日は①「奇跡の原因、真因」を学びます。
使徒の2章では、ペンテコステのメッセージが語られました。
みわざを完全には理解できない人々へのメッセージでした。
不思議な業を経験するだけでは、正しく十字架にたどりつくことはできません。
自己流の解釈をしないように、聖書の御言葉と結びつけて初めて、奇跡は意味を持ちます。
世界中に「説明できない」ことはたくさんあります。
それが本当に神から来る者かどうかが問題です。

高校生の頃、倫理の授業がありました。
先生はいろんなテーマで質問を投げかけました。
「神はいるかいないか、考えなさい。
 いると思う人は、なぜですか?
 いないと思う人は、なぜですか?」
不思議なことに、ほとんどのクラスメートは「いる」と答えました。
不思議な体験をしたり、そういう話を聞いたりしたことがあるという理由でした。
今、自分がいることを説明できないけれど、何か大きな存在を感じているという人もいました。
自然の大きさから何かを感じるとも。
けれど、それが「自分と救い主」の信仰に結びつくわけではありません。
仲介者キリストについては、御言葉からしか知ることはできないのです。

「変わってしまった人」に興味を持った人々。
ソロモンの回廊に、自分の足では来れないはずの人が来ていました。
しかも、飛び跳ねて賛美をしている姿を見て、驚き、一斉に駆け寄りました。
この人たちに、ペテロは説教しています。
以前は足が動かず、信仰もなかった男性。
周りからの目は、「この人の人生は行き詰まっている」と見えたことでしょう。
それが、大きな変化をしました。
次第に、ではなく、突然に。
短期間に変えられた人が存在する。
それに驚いた人々に、ペテロは語りました。

路上生活者が、ある日、こぎれいな格好で礼拝にきていたらどうでしょうか。
みなさんはどういう反応をするでしょうか。
本人よりも、周りに事情を聞く方が早いかも知れません。
今まではその男性に近づかなかった人々も、彼に駆け寄ってきています。
それは、「喜びを共有したいから」ではなさそうです。
「よかったね」
「ハレルヤ!」
とは書かれていません。
これに続く4章で、ペテロとヨハネは捕らえられてしまいます。
イエスは処刑したのに、その残党が活動しているのを恐れたからです。
それも、歩けるようになった人のことを喜んでいないことの現れです。

「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。』」3:12

ペテロは「信じられない」人に驚いています。
高校生が、キャンプで目に見える形で変わったことに驚きを隠せないクリスチャンホームの母親のように。
驚きのポイントはふたつあります。

①アブラハム、イサク、ヤコブの子孫でしょう?
②渡井sたちが自分の力で歩かせたと思っているのですか?


異邦人ならともかく、旧約を知っているでしょう?
暗誦しているでしょう?
神が人を歩かせることができるのは当然のことではないか?
ペテロは、彼らをしっかりと御言葉に戻そうとしています。
自分の栄光にしてしまうのではなく。
救い主、イエスにつながっていることを説明しました。
それも、旧約からの流れの中で。

「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」3:16

私たちはどう受け止めるべきでしょうか。
現代でも同じ事を望むのは正しいのかどうか分かりません。
聖書以前には、奇跡というしるしが必要でした。
しかし、今は聖書が与えられています。

私たちは本当の意味で、生きているでしょうか?歩いているでしょうか?
罪人は的外れ、霊的に足が不自由で、癒されるためにはイエスによるしかありません。
この方に出会うしかないのです。
霊的に立ち止まらせるものがあります。
この方に触れる必要があります。
ペテロは、半信半疑で駆け寄った人々にこう語ったのです。

4月8日 聖日礼拝

マタイの福音書 22章34~40節、28章16~20節
「主イエスのように神と人を愛するものとして成長しましょう」
             東海聖書神学塾 後藤喜良師

先週の金曜日に入塾式がありました。
7人の方が入塾されました。
ここで学んだ方の感想は無味乾燥ではありません。
「今まで教会生活をして、いろんな話を聞いてきましたが、学んでやっと全部がつながりました」
「すっきりしました」
と言われます。
聖書が何を教えているか、どう生きるべきかが分かったと言われると嬉しく思います。
「そうだったんだ」
「こう生きていけばよいのか」
とすっきりクリアになると。

私たちは何のために生きているのか。
毎日、家庭、仕事、いろんなことがあります。
「一番大切なのは何か」を忘れて、なんとなく生きてしまいます。
結論を言ってしまうと
「私たちは、愛に満ちあふれていらっしゃる神の栄光を表すために、神と人を愛して生きる!」
このことだけ覚えていけばよいのです。

個人としては、
「飲むにも食べるにも神の栄光を表すためにする」
仕事、家庭、教会、全ての場で。
ラテン語で言えばSoli Deo Gloria「ただ神の栄光のために」。

では、どうすれば栄光を現せるのでしょうか。
私たちが神と人を愛することによってです。
主は、「できなかった」私たちを「できる者」にしてくださいます。

「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
コリントⅠ15:9,10

「神は全能」と言います。
私たちと同じ人であられたイエスの内に、聖霊が働いて、完全な愛を実現されました。
それが「全能の力」であり、それは愛の力です。
神は、全世界を完成させることができる力を持っておられます。
神は、この私を作り替えて、聖霊に満たして、隣人を愛せるようにもしてくださいます。
神を褒め称え、栄光を表すために。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
ローマ5:6~8

イエスは、私たちのために全てを捨てて下さいました。
これほどの愛は他にはありません。
私のような罪深い者を作り替えて、自分を犠牲にする生き方ができるようにしてくださいました。

「愛するにはどうしたらいいでしょうか」と主に聞いて、それを行っているだけです。
私は神の愛を知りました。
味わいました。
そのように愛そうとしますが、なかなかうまくいきません。
それでも、神はそうしてくださると信じて、少しずつそういう歩みをしていくのです。
神が聖霊によって、私たちをイエスのように変えてくださっています。
一緒に神を褒め称えましょう。

神と人を愛するためにして欲しいのです。
自己中心をくいあらためて。
少しずつ、良い実を結ぶことで神の栄光を表すことができます。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:5

どれだけ実を結べるか。
その実によって父が栄光をお受けになります。
個人と家庭、仕事、全てにおいて神の愛を表すために。
政治もそうです。
隣人を愛するために、政治は行われるべきだと思います。
恵みを公平に分かち合うことができるようにするのが政治です。
今の不公平な分配は間違っていると思います。
私たちは税金を納めます。
それが隣人を愛するために用いられているでしょうか?
ぜひクリスチャンの中から政治を志す人が出て欲しいです。

さて、なぜここでマタイ28章16~28節なのでしょうか?
教会の働きは大きく4つあると言います。
礼拝、伝道、教育、交わりです。
神の栄光を表すために行われていることです。
教会の働きは神と人を愛するために行うものです。
そのことが忘れられていないでしょうか。

①伝道

「大宣教命令」と「愛の戒め」には何の関係があるのでしょうか。
私が40代の頃は別のことだと思っていました。
その頃シンガポールで集まりがあり、スコット先生に会うために参加しました。
私は先生にこのことを質問しました。
「全ての戒めは愛の戒めに含まれなければならない」
と、先生は答えました。
「教会成長を目的とするのは間違っている」とも言われました。
当時教会では「弟子訓練」云々が盛んでしたが、先生は否定的でした。
私はすっきりしました。

それ以来、私は聖書の始めに

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」コリントⅠ15:1

からの御言葉を書いています。

②礼拝

礼拝は神との交わりです。
何のために毎週集まって、二千年前に書かれた本を読んでいるのでしょう。
神は愛の言葉を話してくださいます。
愛されていることを礼拝で確認するのです。
そして、聖餐式。
初代教会は毎週聖餐式をしていました。
礼拝こそが愛の確認です。
私たちは神の愛で愛し合おうという思いを与えられて、帰っていくのです。
礼拝は交わりの時です。
自分は神に愛されている幸せな者だと知って欲しいと思います。
聖霊が与えられているから、成長できると確信して、神と人を愛して生きていきましょう。
教会は、信者を増やすために伝道するのではありません。
皆に永遠に幸せになってもらいたいという思いで愛を表して欲しいのです。

③教育

クリスチャンは、信者でない人よりも他人を裁きやすい面があります。
イエスは山上の説教で「裁きあってはいけない」と言われました。(マタイ7:1)
子どもにも愛をもって、忍耐強くしなければなりません。
「正しいことをする」信者ではなく「人を愛する人」になって欲しいと思います。

④交わり

交わりは分かち合うと言う意味です。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイ5:16

良い行いをすること。
福祉の働きも教会の大切な働きなのです。

4月1日 イースター礼拝

エペソ人への手紙 4章25~32節
「新しい人を身につけて」
            大治福音自由教会 服部真光師

クリスチャン生活にはふたつのステップがあります。

①信じてクリスチャンになる
②クリスチャンとして生きる


今日はエスカレーションサンデーでした。
この時期、多くの方が新しい場所に出かけていきます。
中身はすぐには変わりません。
立場が変わります。
身分が変わる、と言ってもいいでしょう。
クリスチャンになるのも同じです。
同じ「私」ですが、立場が「神の子」に変わります。
すると、生き方が変わります。

今日読んだ箇所は25節から32節ですが、その前後が大事です。
エペソ人への手紙は、パウロが、クリスチャンになった聖徒たちに向けて書いたものです。
エペソの教会は、パウロが立ち上げました。
不特定多数ではなく、救われたクリスチャンに語られているということは大事です。
なぜでしょうか?
立場を自覚することが大事だからです。

立場が変わると呼び名が変わります。
小学生が中学生に、中学生が高校生になると、それにふさわしい技術、知識、経験を身にることが求められます。
たとえまだ何も学んでいなくてもです。
新しい環境の中で、それにふさわしものを身につけて、ふさわしい人物になることが求められるのです。
主は、それまでのことは全て置いておいて、クリスチャンとしてふさわしい経験を身につけるようにと、一新してくださいました。

「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」4:24

古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る。
入学すると、学校にふさわしい制服を着ます。
意識が変わります。
信じて、クリスチャンになると、どういうことを身につけることが期待されるのでしょうか。

ここに5つの対比が書かれています。

①偽りを捨てて真実を語る

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」4:25

偽る、と言うことの中には、自分を偽ることも含まれています。
ありのままの自分を語りましょう。
謙遜を装うのも間違っています。
「嘘を言わない」のではなく、「真実を言う」のです。
裏表をなくしましょう。
真実を語らないと誤解されます。
一部分だけを伝えるのも「真実」とは言えません。

②怒りを野放しにしない

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。」
4:26、27

35歳の青年が相談してきました。
「どうしても許せない人がいる」というのです。
その相手は、中学生の頃にいじめてきた人でした。
その人に対していつも怒りを持って来たと言います。
20年もの間、その怒りに囚われてきたのです。
「怒る」ことを否定するつもりはありません。
でも、怒りを野放しにすると罪に陥る恐れがあります。

③盗んではいけない

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」4:28

「盗みなんてしていない」と言われるかも知れません。
人に労苦を背負わせて、自分が楽をすることがいけない、と書かれています。
自ら骨折って、人を助ける生き方をする必要があります。

④悪い言葉を使わない

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
4:29、30

私たちが毎日話している言葉を、すべて口述筆記されて文書化されたらどうでしょう?
不平、不満、つぶやきが多いのではないでしょうか。
無意識に人への批判をしているかもしれません。
よくないことにはよく目が留まるものです。
そして、それをぼやきます。
子どもの頃、兄に「いびきがうるさい」と言われ、カセットテープに録音までされて責められました。
実は兄もいびきをかいていたのですが。
自分のことはわからないのです。
どんな影響を人に与えているか、考えることが必要です。
そこが大人と子どもの違いでもあります。
子どもはやりたいことをやり、言いたいことを言います。
大人はすべきことをして、言うべきことを言います。
悪い言葉とは、「人の徳を養うのに役立たない」言葉です。
意識に新しい人を着るトレーニングが必要です。
語るべき言葉を選ばなくてはいけません。

⑤ゆるしあう

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
4:31,32

怒りや悪意ではなく、赦し合うことを求めましょう。
そのためには、違いを認めることです。
意識して、変革する必要があります。
一度には無理です。

そして、こう続きます。

「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」5:1

ですから、神に習うものになる、クリスチャンになるのです。
そのために、キリストはあがないの十字架により私たちを神の子にしてくださったのですから。
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ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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