2月24日 聖日礼拝
創世記 22章1〜8節
「試練−信仰がなくては!」
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」1節
試練は私たちを神から遠ざけるものではありません。
「神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。」1節
ここには神とアブラハムとの親しい関係が描かれています。
神が試練に会わせるのは、「自分に非があるから罰として」そういう目に遭うわけではありません。
「罰」と受け止めさせようとするのがサタンの誘惑です。
その試練とは、「イサクを捧げよ。」という命令でした。
神からの約束として、ようやく手にしたイサクを捧げよというのです。
当然「なぜ?」と悩んだことでしょう。
アブラハムにとってイサクがどんな存在であるかは神が一番よくご存じだったはずです。
イシュマエルを追放してしまった今、唯一残されたかけがえのない我が子でした。
アブラハムは、まず旅立ちました。
納得いかなくても従うのは、神への信頼があるからです。
まさに目の中に入れても痛くないほど愛している子。
それは容易に偶像になりうる存在でした。
アブラハムはその子を一度「手放す」ことを求められたのです。
握りしめている手を、離すように。
自分の所有物のようにコントロールしようとしてしまわないように、所有権を神に返すように。
「あなたにとってのイサクは何ですか?」
旅を始めて3日目に、はるかかなたに目的地である山が見えてきました。
3日間、息子と語り合い、息子との関係をじっくり考えることができたことでしょう。
アブラハムはここでしもべと別れてイサクと二人だけで旅を続けることにします。
その言葉にはアブラハムの信仰が表れています。
「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」5節
「ふたりで」行って、戻ってくると…神が必ずイサクを返してくださるという信仰です。
それはまた、イサクへの言葉にも繰り返されています。
イサクは尋ねた。
「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
固執して、握りしめるのではなく、手をゆるめることを学びましょう。
神はもっとすばらしいものにして戻してくださいます。
また、全てをわかってから従うのではなく、信仰と信頼によって歩んでいきましょう。
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