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8月25日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 2章18節~3章7節
「キリストに習って義のために生きる」
             柳橋宏祐神学生

背きと罪に死んでいた私たちが、今日もイエスの十字架の死によって神の前に出られることを感謝します。
私たちの内には、神の前に立つにふさわしいものは何一つありません。
イエスが代わりに死んで下さったことによって、御前に出ることが許されています。
汚れている私たちは私たちが、聖い神の前に出られる。
今、ここに神がおられ、私たちは御前に立っています。
これは、一方的なあわれみによるものです。

さて、今日の箇所は、しもべ・妻・夫への勧めが書かれています。
共通しているのは、「神の御前に生きなさい」ということです。

「しもべ」は、現代では職場の上司を持つ会社員、学校の先生に対する生徒の立場でしょう。

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」2:19

「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」3:4

人の前に生きるのではなく、神の前に生きるように勧められています。
ペテロはその完全な模範として、キリストを示しています。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」2:21

この手紙を受け取ったクリスチャンたちは、自分の感情やこの世の価値観に流されて罪を犯していました。
しかし、今はキリストの元に帰りました。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」2:25

私たちが召されたのは「実にそのため」とあります。
「キリストにならって、義のために生きるように」召されたのです。
これが、私たちは召された目的です。
奮闘し、葛藤し、打ちのめされている人も、召しが分からない方もいるかもしれません。
召しに答えて生きようとするとき、葛藤したり、打ちのめされたりするのは当然です。
私たちは旅人であり、寄留者なので、肉の欲と闘います。
それは、私たちの外にあるのではなく、心の内にあります。
いつも戦いを挑んできて、魂を殺そうとします。
私の願いは、全ての神の民がキリストにならって生きるという召しを受け取り、神に望みを置き、召しに答えて生きるようになることです。

「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」
2:18~20

手紙を受け取ったクリスチャンの中には「しもべ」という立場の人がいました。
主人の中には、優しい人もいれば、意地悪な人もいたことでしょう。
不当に苦しめられると、仕返しをして罪を犯すこともありました。
私たちにも、敬意を込めて従うべき相手があると思います。
職場の上司、画工の先生、など、上に立つ人に従うべき状況があります。
完全な模範であるイエスを見ましょう。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
2:22~24

イエスは、人の子になってこの世に下ってこられました。
それは、神の前に生きる完全な模範を示すためでした。
神こそが裁く方です。
私たちがその座についてはいけません。
裁きは神に任せて、罪を犯さずに生きるように召されたのです。
私たちにできるでしょうか。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
ローマ3:9~12

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」1テモテ 1:15

全ての人は罪の下にあります。
しかし、キリストはそんな世を救うために来られたのです。

キリストは私たちのために苦しみを受けて下さいました。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」イザヤ53:6

罪とは、自分勝手な道に歩んで行くことです。

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」
ローマ1:29~32

イエスは、このような罪の罰を、自ら素のみに負われ、身代わりになって神に見捨てられました。
そして、私たちは赦されました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
イエスの打ち傷によって赦され、癒されました。

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」2:25

私たちは羊のようにさまよっていたのに、見捨てずにいてくださいました。
私たちは、神がいないかのようにさまよい、どこに向かっているのかも知らず、満ち足りることもありませんでした。
人の心は神を必要としています。
飢え渇いているなら、神が必要です。
信じてこの方の元に帰りましょう。
イエスは命の道に導いてくださいます。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
詩篇23:1~3

ここには魂の喜びが歌われています。
主は私たちを義の道に導かれます。
主のしてくださったよいことを忘れずに、神の前を生きていきましょう。

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」詩篇16:11
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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