FC2ブログ

8月12日 聖日礼拝

マタイの福音書 11章 25~30節
「主イエスと共に喜んで重荷を負いましょう!」
          東海聖書神学塾 後藤喜良師

今日のみことばは、日本で一番多くの人が聞いて「教会に行こう」と思った言葉です。
このなかにもそういう方がいるのではないでしょうか。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
11:28~30

私にとってもとても大きな喜びを与えられ続けているみことばです。
私にとってのイエスの姿は、羊飼いも素晴らしいですが、一緒にいてくびきを負って下さる姿は一番です。
本当に喜びと平安が与えられる姿です。
みなさんは、どの姿が一番すばらしくて喜びと平安を与えられるでしょうか。
よく知られているみことばですが、もう一度喜びを手に入れて頂きたいと思います。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』」11:25

イエスは私たちを「幼子」とよんでくださいます。
この前の20,21節で、イエスは悔い改めなかった町を責められています。

「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。』」
11:21、21

子どものように素直でしたが、みことばをなかなか理解せず、行うこともできなかったからです。
イエスは、父なる神に助けられてみわざを行っておられました。
アダムとエバは神に創られた時、何も知りませんでした。
知識の実を食べた時、逆らうようになりました。
いつまでも幼子のようであってほしいと思います。
「知るべきこともまだ知っていない」というへりくだった心で。
弟子たちは自分たちで何でもできると考えていました。
「自分たちは知っている」と。
「自分は一人前ではない」と思っているなら、それはよいことです。
イエスの前ではそうだからです。
イエスはすべてを知っておられます。
何でもできる方なのに、へりくだっておられました。

イエスは招いています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」11:28

イエスはいろんな招きをされます。
あるところでは、

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」ヨハネ7:37

また「くびきを負いなさい」と言われます。
今は「くびき」はほとんど使われていません。
私が以前奉仕していた岐阜の教会には、くびきが飾ってありました。
農家の方が使っていたものをもってきてくださったのです。
経験のある牛と、経験の浅い牛をくびきでつないで畑を耕させるために使います。
そうのようにして、だんだん経験を積めるようにします。
イエスは私たちをくびきを一緒に負ってくださいます。
この招きを喜んでいますか?

イエスは「私についてきなさい」とも言われますが、これは後に従っていく関係です。
「くびきを負う」のは、繋がれて一心同体になり、離れない関係です。
いつもいてくださる。
絶対に離れることがない関係。
「イエスはぶどうの木で、私たちは枝」ともたとえられます。
これも離れない姿です。
「イエスは頭で、私たちは体」というたとえもあります。
これは、イエスと教会が一心同体であることを示します。
イエスは、あなたとつながっています。
歩けなくなっても、絶対に離れることはありません。
疲れている時は一緒に休んでくださいます。
マタイの福音書が「インマヌエル(神はともにおられる)」の福音書と言われる所以です。
共におられる神を描いているからです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

イエスは、くびきを負い、先に立ち、手をつなぎ、隣にいて歩んでくださいます。

「重荷」とはなんでしょう。
重荷には二つの種類があります。
ひとつは「罪の重荷」です。
私たちの邪魔をするものです。
取り去られていない重荷はありませんか?
「こんな私でも許されるのか?」と言われる方もいるかもしれません。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24

心が病んでいる人がたくさんいます。
喜んで生きるのを妨げるのが罪です。
十字架の許しを受け入れ、心からの「赦されました」という告白をしてほしいと思います。
罪の重荷は、全てイエスが取り除いてくださいます。
悩む必要はありません。
全く新しい生活を始めればよいのです。
罪によって人を苦しめたのであれば、謝罪した方がよいでしょう。

ふたつめの重荷は、船の荷物のようなものです。
船は適当な重さの荷を積んでいないと転覆することがあります。
石油タンカーは、水を入れていきます。
水を抜いて、原油を入れて帰ってきます。
これは、神から与えられた責任、課題、奉仕です。
それがないと、間違った生き方をしてしまいます。
働かない人はよくないことをします。
人生を無駄にします。
孔子も「小人閑居して不善をなす」と言っています。
子どもには家の中の仕事をさせるべきです。
一緒に役割を果たさないと、家庭は成り立って行きません。
ですから、私は「手伝い」といわずに「仕事」といいます。
勉強は大切なことで、神と人に仕えるために必要です。
人間関係も大切です。
教会でいろんな世代の人と共に活動することはよいことです。
それらはできて当たり前のこと。
本当は、それは重荷ではありません。
私たちを幸せにする課題であり、奉仕です。
でも、私たちは子どもなので、本当の愛が分からないし、実行もできないのです。
だから、疲れてしまっているのです。
全て、疲れ果てている人はイエスのところに行ってください。
結婚生活も、育児も、どうしていいのかわからない。
本当なら喜んで果たせる責任なのに、放り出してしまっていることはありませんか。
奉仕で疲れていませんか?
牧師だって疲れてしまうことがあります。
牧師の「燃え尽き」が話題になったことがあります。
本当に幸せになるために、成長するために、適当な課題が与えられているのに、疲れ果てている。
そういう人々は私のところに来なさい、とイエスは招いてくださっています。

イエスは言われます。

「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」11:28

魂の安らぎです。
十分な安息、平安です。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
詩篇23:1~3

義の道に導かれます。
緑の牧場で生き返らせてくださいます。
十分な安息と平安を受け取るべきです。
既に与えられている平安と希望を受け止めるべきです。
「私は神の子」という喜びから一日を始めましょう。
イエスの腕の中に、幼子のように抱かれて、休ませていただきましょう。
不安は希望に変わります。
まず、主の前に休みましょう。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」11:30

「荷を負わなくてよい」とは言われません。
私がしなければならない「荷」があります。
でもそれは、私にフィットしている、ふさわしい重荷です。
最もふさわしいくびきです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:6

私の荷は「聖書を学び、人に教えること」です。
それは軽いほうの荷です。
イエスが負っておられるのは「みことばが理解できるように聖霊を与えてくださる」ことです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 真田丸 何者 懸賞 あさが来た 知多 超ネプの法則 Q10 ピンポン 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ