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8月5日 聖日礼拝

マタイの福音書 8章 5~13節
「あなたの信じたとおりになるように」
         大治福音自由教会 服部真光師

まず近況をご報告します。
NPOの働きですが、稲沢市役所の方が訪れ、市役所で恵泉会の野菜を販売してパンフレットを配布してくださることになりました。
金曜日にプリスコ師が来日されました。
2年の予定で、大治教会の2階に住みながらフィリピン教会のために働かれます。
フィリピン教会の方たちは「本当にこんな日が来るなんて!」と感動しています。
金曜日から日曜日にかけて石巻を訪問しました。
35名の高齢者が集まってメッセージをしました。
10月にはパート2を行う予定です。

「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」8:13

さて、今日の聖句は何を教えているのでしょうか。
私たちはここから、何を受け取ることが必要でしょうか。

日本語には「信心」という言葉があります。
もうひとつ「信仰」という言葉もあります。
多くの日本人が持っている宗教観は「信心」です。
ヒイラギの葉を結びつけて、そこにイワシの頭を刺して門に置いておくと、悪霊から守ってくれると言われています。
そこから「イワシの頭も信心から」ということわざが生まれたのですが、あまり価値のない「イワシの頭」でも、一心に信じる心があれば価値のあるものになると考えるのです。
どんなものでも信じる心がすばらしい。
それが日本人の宗教観です。
自然の中に神が宿るとも考えられています。

一方、聖書が語るのは「信仰」です。
信じて仰ぐ。
何を信じるか、何を仰ぐのか。
「何を」が大事です。
天地を造り、命を与え、必要な物全てを備えて下さった方を仰ぎ、そのゆるがない愛を信じるのが「信仰」です。
行いに寄らず信仰による。
それは、神のみわざを受け取り、まっすぐに信じることです。

「イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
言った。『主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。』」
8:5,6

イエスは町々、村々を巡り歩き、多くの人の患いを治しておられました。
その働きはうわさになっていました。
当時イスラエルにはローマの兵士が駐屯していました。
彼らはローマの警察的な役割をしていました。
その百人の兵の長が「百人隊長」です。
彼らも、大衆に影響を及ぼしているイエスの行動に興味を持っていました。
自分の仕事の中で調査し、イエスのことを知っていたと思われます。
百人隊長は、部下の病気をなんとかしたいと思いました。
共に命を賭けている部下です。
きっと医者を捜したことでしょう。
隊長は「イエスにお願いしたら治るに違いない」と思いました。
そういう思いを明確に持っていました。
彼は、自ら進んでイエスの元に行き、助けてくれるように懇願しました。
隊長は、ユダヤ人から見ると異邦人です。
ユダヤ人が、自分たちにある種の敵意を抱いていることを彼は知っていました。
ユダヤ人が、異邦人と共に食事をしないことも知っていました。
直接話すのも失礼に当たることも知っていたと思われます。

「イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』」8:7

ところが、意外な返答が来ました。
異邦人の女が、自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと求めた時、イエスは最初断りました。
「ご自分が遣わされたのは、まずイスラエル人のためだから」と言われたのです。(マルコ7章)
それなのに、ここでは「行って直してあげよう」と言うのです。
人によって態度が違うのでしょうか?
百人隊長だからなのでしょうか。

イエスは、彼の中に「信仰」を見ました。
その信仰に応答されたのです。
では、百人隊長の信仰とはどのようなものだったのでしょうか。
彼が語らなければ私たちには分からなかったことでしょう。
イエスは、彼からその言葉を引き出しました。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:8,9

「資格はありません」
この言葉によって、彼が「福音のメッセージからすると、自分には罪がある」ということを自覚していたことが分かります。
また、自分はユダヤ人ではない異邦人であり、異邦人である自分がイエスを家に招くと、イエスの評判に傷がつくとも考えていました。
「私は罪人です。来て頂くほど良いものを私は持っていません。
 ただお言葉を下さい。そうすれば治ります。」
と言っているのです。

私はナアマン将軍を思い出します。
彼は皮膚病を治してもらおうとエリシャを訪ねたとき、エリシャ自身が出てきて、自分の患部の上で手を動かして治してくれると期待していました。
ところが、使いの者が出てきてヨルダン川で体を洗うようにとだけ伝えられ、腹を立てたのでした。
これが普通の感覚かもしれません。
しかし、百人隊長は違いました。
「言葉さえあれば治る」と信じていました。

これは現代の私たちへの大きなチャレンジです。
イエスは目に見えません。
物理的に来てはくれません。
私たちの信仰を養うために、このエピソードは書かれています。
「言葉」は「約束」です。
言葉さえあれば、約束さえあれば、必ず実現すると信じるなら、たとえこの場にイエスがいなくても、それは実現する。
そう信じるのが私たちの信仰です。

イエスを身ごもったマリヤが伯母のエリサベツを訪ねたとき、エリサベツは

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

と言いました。
「熱心さ」が大事なのではありません。
神が求める信仰を、彼は持っていました。
「ことばをください。そうすれば直ります」
みことばこそが究極の権威であり、必ず実を結び、実現するという信仰。
イエスはこれを聞いて驚かれました。

「直ったら信じる」のは信仰ではありません。
「見たら信じる」のも信仰ではありません。
「願いが叶ったら信じてもよい」も違います。

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」ヨハネ20:29

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
ヘブル11:1,2

まだ目の前に何も起こっていない、不可能と思っていることも可能に鳴っていきます。
神の御業の進展に心を留めていきましょう。
「ラッキー!」ではなく、祈っていた人々にとっては、神は御業をなさるという信仰が芽生え、成長していきます。

「信じたとおりになるように」
隊長が「信じたとおり」の内容は「お言葉をいただけば直ります」です。
私たちの中に、そのような信仰が芽生えて養われているでしょうか。
日々の生活の中に、困難や課題があります。
熱心さが足りないのではありません。
主が私たちに求めているのは、主の言葉への信頼なのです。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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