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3月18日 聖日礼拝

使徒の働き 3章1~10節
「目先の解決でないことを」
           hi-b.a.スタッフ 丸山告師

前に奉仕していた教会ではホームレス伝道をしていました。
場所は河川敷です。
荒川、利根川が有名です。
「金八先生」のオープニングで生徒が歩いていたところです。
小学5年生から高3まで私が育った地元です。
実際には朝あの川沿いを通学している人はいませんが。
ジョギングしている人はいます。
斜面でサラリーマンが物思いにふけっていることもあります。
橋の下はホームレスがたくさん住んでいます。
週に一度、炊き出しを行っていました。
平日なので、私が行ったのは1,2回ですが、何百人ものホームレスの人が集まりました。
聖書朗読と、牧師の短いメッセージの後で食べ物が配られます。
私は何人かと話をしました。
高校生の頃です。
テレビや新聞の話ではなく、実際に向かい合うといろいろなことに気付きます。
感じたのは、
「この人は普通の、自分と同じような生活をしていたのだ。
 どこかでくなってしまった。
 こうならざるを得ない事情があったのだ。」
ということです。
私たちは、表面上に見えることで判断しがちです。
背後にあるストーリーには目を向けないのです。
今日の聖書の箇所では、そのような人の問題が解決されたことが描かれています。
結論を一言で言うなら、
「イエス・キリストを知ることが根本解決である」
です。

ここまでの流れを振り返りましょう。
イエスの昇天後、弟子たちは祈り続けました。
イスカリオテユダの代わりに弟子が補充されるように示されました。
マッテヤが選ばれました。
ペンテコステで聖霊が下りました。
ペテロが初めての説教をしました。
3,000人の人々がバプテスマを受けました。
全ての人々から好意を持たれました。
急激なライフスタイルの変化を見て、「怪しい」と思われても仕方がないはずなのに。
彼らは、外に発信する交わりがあったからです。
新しい人を歓迎する文化が形成されていました。

ペテロとヨハネの働きは、イエスのように、個人にしっかり向き合っています。
ザアカイ、サマリヤの女の場合を思い出してください。
ユダヤ人は一日に3回特別な祈りの時間がありました。
午前6時(第1時)、9時(第3時)、正午(第6時)、午後3時(第9時)。
どこで祈っても良いのですが、神殿の庭で祈りを捧げることに価値を置いていました。
神殿に、生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。
出生児のケガか、何が原因かは不明です。
彼は「美しの門」にいました。

私は高校生の頃、疑問を持っていました。
「この人は足が動かなくて惨めな思いをすると分かっていて、なぜここにいたんだろうか」
と。
発想が逆でした。
足が動かないと言うことは、仕事ができないと言うことです。
つまり生活することが苦しいから、施してもらわないと生きていけないのです。
だから、人通りの多い所にいないと意味がありません。
ホームレスも人の多いところに集まります。
チャンスがあるからです。
人が多いところは、廃棄食物も多いのです。
信仰心を持った人はターゲットになり得ます。
この足の不自由な人は、家族か知人か友人にかつがれてきました。
定期的にでしょう。

「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。」3:3

この言葉は「しきりに施しを受けることを求めた」という意味です。
1度や2度ではありません。
生活がかかっているのですから。

「ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。」
3:4,5

「目を注いだ」という表現は、新約聖書の中ではまれにしか見られないものです。
「心を向ける。何かをつかもうとする」という強い期待を表しています。
通りすがりの人々は、チラッとみるだけのことが多いでしょう。
あまり関わらない方がいい…とやりすごすのが一般的ではないでしょうか。
ペテロとヨハネは、凝視するような視線を送っていたはずです。

神学生の頃、毎週千葉の柏で路傍伝道に出かけました。
多くの人が行き交うのですが、素通りしてきます。
見方によっては
「こんなことをして意味があるのか?
 あまり効果的ではないかも知れない」
とも感じられます。
それでも、立ち止まる方が何人かはいました。
少なくとも2,3人が足を止めてこちらを見ています。
勇気を持って話しかけます。
するとだいたい同じ返事が返ってきました。
「歌っている曲が讃美歌だとわかりました」
「以前教会に行っていました」
「わからなかったけど、楽しそうだったから」
「意味が分からない」
場合によってはその場でイエス様を受け入れることもありました。

この男性にしてみれば、自分は施しを求めていて、立ち止まった人がいて、その人が「見なさい」と言ってきた。
期待できるシチュエーションです。

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、」3:6

「金銀は私にはない」!
先日の水谷先生はご自分のスタイルを「吉本系」と言っていました。
初めてメッセージを聞きましたが、本当に吉本系と分かりました。
このシチュエーションそのものが吉本ではないでしょうか?
劇的なズッコケシーンです。
男性はちょっとガクッとなったのではないかと思います。
「見なさい」と言っておいて、「金銀はない」!
その後が大事です。

「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。」
3:7,8

男性はこの場で立ち上がりました。
身体的な回復と、霊的な回復が与えられたのです。
解決ポイントをあげていきましょう。

①イエスキリストの名

彼はイエスの名を聞いたときに癒されました。
この名の響きに。
呪文ではありません。
全ての人がこの名で救われるわけではありません。
だれでも学校で、イエスキリストについて習うでしょう。
音声として聞いただけで救われるのなら、だれもが中学生でクリスチャンになることでしょう。
この男性は、イエスを「名」ではなく「人格的に」知りました。
イエスが自分にとってどんな存在かがはっきり分かり、味わいました。

②根本的な解決を選んだ

別の視点から読んでみましょう。
「金銀はない」。
もし金銀を持っていたらどうなっていたのでしょうか。
この言葉はペテロが言っています。
ヨハネもその場にいましたが、何も言っていません。
ヨハネはペテロよりは裕福だったはずです。

マルコの1章によると、ヨハネは船を所有し、人を雇っていました。
ペテロが大祭司の庭に入れてのも、ヨハネのコネのおかげです。
それほどの家柄でした。ヨハネはお金があったかも知れません。
施すことはできたはずです。
クリスチャンとして、施しは間違った行為ではありません。
でも、彼はそれをしませんでした。
その場限りの問題解決は、究極的解決にはならないと知っていたからです。
お金を施せば喜ばれたかも知れません。
その日一日は過ごせたかも知れません。
本人が願っていたのはお金やものでした。
それよりも必要なことは自分で働き、生きていくことでした。
歩けるようになることのほうが優先順位が高かった。
本当の意味で生きていくには、イエスキリストの名が必要でした。
私たちは目先の問題に気を取られがちです。
今かかえている患いを解決したいと願います。
今日の必要が満たされたい。
人に対してもそう考えます。

自分が生きているのは十字架に夜のだと知ることが根本です。
生まれてこの方、この男性は歩いたことがありませんでした。
人の助けがないと移動もできません。
おそらく40歳ぐらいの男性は、求めない、諦めるしかない境地でした。
私たちが人を見るときにも、そのような視点が必要です。
ある高校生は「生きていてもしかたがない」「命を絶とうとしたことがある」と言っていましたが、そこに到るプロセスがあるはずです。
交友関係、家庭、などなど。
しかし、解決はひとつしかありません。
主イエスがどれだけ愛してくださっていて、十字架の犠牲が必要だと伝えるしかないのです。
「進化論の方が納得がいく」という高校生もいます。
「なぜそう思うの?それが解決したらどうなるの?」と問います。
自分も紙に取り扱って頂かなければなりません。
土台にある自分の根を探って頂くのです。
私にとってイエスの名とは?
そこに思いを巡らす必要があります。
今の私にとってイエスはどのような方なのか。

「人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の『美しの門』にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」
3:9,10

「目先の解決があったとしても、究極的解決にはなりません。
 それを与えるのはイエスの名だけです。」
という告白が必要かもしれません。
これは、ここで終わらないストーリーです。
4章まで進んでいきます。
この男性はサドカイ人に捕らえられます。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」4:12

ペテロとヨハネにはこの確信があったから言えたのです。

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。」
4:13,14

言葉で説明できない世界がそこにありました。
イエスに触れられて、変わることがそれです。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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