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2月18日 聖日礼拝

使徒の働き 2章43~47節
「好意を持たれる人たち」
           hi-b.a. 丸山告スタッフ

以前私がいた教会の韓国人宣教師が礼拝の冒頭でこう言いました。
「私たちの教会はどのような教会になったらいいでしょうか?」
その回答を、先生はこう言われました。
「モールような教会」
と。
ショッピングモールのような教会に、と。
先生は真意を説明しないまま、サラリと終わってしまったのですが、私は立ち止まり、深く考えました。
その一言が心から離れませんでした。
なので説教の内容を全く覚えていません。
そして、完結しました。

ショッピングモールは「何か買いたい」という思いで行くこともありますが、目的がなくても足を運ぶものです。
目的がひとつでなくても、行ける場所です。
意外な出会いや新しい発見があります。
フードコートで家族が交わり、イベントが行われたりします。
休日だからこそ人が集まります。
そんな教会だといいな、と考えさせられました。
人それぞれ、「どのような教会になったらいいか」というのはあると思います。
新しいショッピングモールができたとしたら、
「行ってみた?」と話題になるでしょう。
「あまり楽しくなかった」としたら、その人にとってそこがマッチしていなかったということでしょう。
「また行きたい」としたら、その人の必要を満たしていたということでしょう。
世代や趣味によっても好みは分かれるでしょう。
自分にとって、教会はどうなっていけばいいか、という基準は人によって違うと思います。
教会の建物、大きな教会、素敵な礼拝堂・・・

以前在籍していた教会で、新しく会堂を建てるというので、窓の一部をステンドグラスにしたいという人がいました。
すべての人がその意見に反対していました。
言い出したのは私の父で、牧師一人でした。
結局父の意見は採用されて、ステンドグラスが入りました。
たった2枚だけ。
入って観たら、「けっこういいわね」となりました。

「平均年齢が高いと不安になる」という人もいます。
社会全体が高齢化しているので仕方がないと思うのですが、若い人がいないことが悪いかのように感じられるのです。
KGKの主事をしておられた吉澤師が関東に戻られるということで持たれた、「若者と生きる教会」というセミナーに参加してきました。

「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
2:43~47

初代教会のキリスト者たちは好意を持たれていた共同体でした。
結論を言うと、「一人一人、好意を持たれるクリスチャンになる必要がある。」
「好意を持たれる教会になるべきである」ということです。
メンバーはなにをしていたのでしょうか。

①使徒の教えを堅く守っていた

イエスを直接知っていた人も、そうでない人もいました。
それでも、みなが、使徒たちの信仰を継承しようとしていました。

②交わりをしていた

「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」
2:44,45

これは「全財産を差し出すように」と言っているのでしょうか。
強制ではありません。
共産主義でもありません。
それぞれが資産を所有し、それを必要に応じて分け合い助けていました。
助けることの大切さと同時に、助けられることを受け入れることができる人であるべき子とを教えています。
心から感謝できる信仰と人間関係があります。
財産、賜物、時間を自分以外の人に分けていくこと。
自分のものを自分だけのために使うのではなく、人の為の分を取り分けておかなければなりません。
兄弟姉妹に、祈られ、助けられることを受け入れて感謝する余裕がなければなりません。

③パンを裂いていた

仲が良く、食事の交わりをしていた、だけでなく、聖餐式も表しています。
愛餐会と聖餐式が頻繁に行われていました。
それらを大事にしていました。
聖餐式を大事にするという感覚はみなさんにありますか?
高校生と話していて、信仰の浮き沈みを表す表現は、
・聖書を読んでいるかいないか
・お祈りできているかいないか
・伝道できているかいないか
・礼拝に出席できているかいないか
いろいろあります。
魂の渇きを、祈りや御言葉の足りなさから次図から感じています。
では、私たちの信仰生活の中で、聖餐式についてそんな位置づけがされているでしょうか?
「最近聖餐式に出られていないから、信仰が弱っている」というように。
聖餐式は、儀式的なものに留まらず、イエスの十字架を思い起こすものです。
初代教会はそれを大切にしていました。

この3つが、信じた3,000人以上の人々で行われていました。
爆発的に増えたメンバーで。
文字でしかわかりませんが、信じていなかった人が3,000人以上救われ、毎日集まっていました。
その変化を端から見た人々が、好意を持ったというのです。

ある人が信仰を持つと、周りから見ると大きな変化を感じます。
高校生は変化を顕著に見せてくれます。
渋谷で集会をしていたとき、一人の女の子が来ていました。
学習院に通っている子で、彼女は「ごきげんよう」と挨拶しました。
私は、学校によって上下はないと思っていますが、その子は違っていました。
姿勢が違います。
背筋が伸びていて、まっすぐ私の目を見てきました。
お嬢様はお嬢様を誘います。
誘われて、カトリック系の学校の子が来たことがあります。
キャンプで救われて、その子の人生が変わりました。
キャンプから戻ると、お母様から電話がありました。
クレームです。
大激論になりました。
「最近うちの子がそちらに通うようになって、全く別の人間になってしまいました。
 確かにキャンプに行くことは許可しました。
 それは私の責任です。
 でも、帰ってきたら全く変わってしまっていました。
今まで教会には、学校の宿題でしか行かなかったのに、毎週行くようになってしまいました。
家出は聖書ばかり読んでいます。
親の言うことを聞くようになりました。
気持ち悪いです。」
1,2時間丁寧にお答えして、わかっていただいたことがあります。
お母さんは怒っているけれど、嬉しいと思って電話をしていました。
周囲にとっては大きな変化があると、大丈夫かなと思うのも当然です。
3,000人以上が救われれば、3,000倍の集合体です。
「異常な集団」と映ってもおかしくないはずなのに、好意を持たれていました。

「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」2:47

ここは、新しい訳では「ひとつにしてくださった」となっています。
人々は、本来なら怪しく思われるような集団に好意を持ちました。
「自分も加わりたい」と思わせる何かがそこにありました。

「内輪受け」という言葉があります。
集団の中にいる人には楽しいけれど、外の人には分からないネタ。
教会の中は、言葉も文化も思い出も、教会外の人とは全く違います。
疎外感を感じさせます。
教会外の人は、キリスト教の情報があまりないので、疎外感を持っても不思議ではありません。
けれども、内実が分からなくても好意を持てる世界だと感じたということです。
外に発信する交わりだったからです。
今の私たちが持っていない概念がありました。
毎日人が加えられる喜びがありました。
そこが、私たちに欠けている信仰です。

中学生の頃、草加教会で毎週新しい人がやってきました。
私は「この人たちは何の興味があって来ているのだろうか」と思っていました。
私たちは、「毎日、毎週信じる人が加えられる」ということを当たり前のことのように求めているでしょうか。

学生の頃、毎週路傍伝道にでかけました。
千葉県の柏というところです。
大きな駅で、立ち止まって聞いてくれる人もいました。
喜びと緊張が、「当たり前の日常」になっていきました。
始める前に祈祷会がありましたが、それさえ日常になりました。
ひとりのメンバーが、車に乗るときにこう言いました。
「朝からずっと祈ってて、今日100人救われるようにと祈ったんだよね」
という言葉にみんなで笑いました。
毎週その先輩はそう祈っていたからです。
「そうはならない」と思って笑ったのです。
使徒たちとは正反対の信仰です。
「そんなこと起きるわけがない」とい信仰。

毎日新人多数。
ショッピングモールなら、「毎日人が来て欲しい」と考えて戦略を練ります。
まだ来ていない人にどうやって来てもらうかを考えています。
もし私たちが使徒たちに習うことができないと思うっているようなら、御言葉の基準を軽んじていることになります。
初代教会をなぞろうとしないなら、別の団体になってしまいます。

みなさんには、クリスチャンでない知人がどれだけいますか?
誘える人がどれだけいますか?
携帯のアドレス帳に何人いますか?
その何人ぐらいに好意を持たれていますか?
それが、あなたを通してのキリスト教の可能性になります。
私は若い世代に可能性を感じます。
年齢が上がると、知人は増えますが、連絡を取る人は少なくなります。
学校には、毎日ホットな人間関係があります。

「あそこはいいな」「あの人はいいな」と好意を持たれなければなりません。

「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。」
箴言3:1~4

「好意を得、聡明を得よ」
箴言は、父が娘に大事なことを伝えようとしている書物です。
人から気に入られることだけを目指すのではありません。
信仰がなくても、好意を持たれる人はいます。
「神と人に」が大事です。

ショッピングモールは、その名前を聞くだけで様子を連想します。
若者に聞けば「MOZO」と答えるでしょう。
家庭を持つ人なら「イオン」。
それぞれに特徴があります。
では、名古屋西福音自由教会と言えば?
「コンサートをしている教会」
「NPOがある教会」
「毎週カレーを食べるらしい」

人が来ることが目的ではありません。
他の教会と競合する必要はありません。
すべての民に好意を持たれた先輩が、ここに描かれています。
それは、地域に根ざした教会です。
実在した、実現可能な教会です。
私たちもそうなりたいと願います。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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