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2月11日 聖日礼拝

ルカの福音書 19章1~10節
「神様の愛、真実の愛」
           春日井聖書教会・協力牧師 水谷潔師

この教会にお邪魔するのは10年ぶりです。
尊敬する教会として、いろんな方に、ぜひこの教会を訪れるようにと勧めてきました。

さて、昨年平尾昌晃さんが亡くなられました。
平尾さんの代表曲は「瀬戸の花嫁」。
1972年オリコン2位の曲です。
歌っていたのは小柳ルミ子さん。
乙女心を歌った名曲です。
しかし、この曲の歌詞はどうかと思うんです。

“若いと 誰もが 心配するけれど
 愛があるから だいじょうぶなの”

何と無謀なことか。
「愛があるから大丈夫なの」。
歌ったご本人を見れば、大丈夫ではないことが明らかです。
そう考えると、男女の愛はもちろん、人間の愛は何と弱いものかと思います。
愛が強いと、憎しみに転ずることもあります。
人間の愛の不真実さを知って、人は大人になっていきます。
人にも自分にも「真実な愛はない」と知りながら大人になるのです。
では、「真実な愛なんてない」と達観すれば幸せでしょうか?
そうではないでしょう。
もし、真実な愛があるなら、真実な愛で愛されたいと思っているのが人間です。
裏切られない愛。
変わらない愛。
「これがあるから大丈夫なの」と言える愛。
それを求めています。

ザアカイの職業は取税人でした。
パレスチナで三大悪人と呼ばれたうちのひとつです。
三大悪人とは、人殺し、強盗、そして取税人です。
悪人界の銅メダル級です。
ローマの手先になって同胞から税を取り、余分に集めて横領する取税人。
外道です。
ザアカイはその取税人の頭だったのですから、そうとう財産はあったことでしょう。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」19:9

彼もユダヤ人でしたから、罪悪感はあったでしょう。
孤独だったでしょう。
イエスは罪人を受け入れ、一緒に食事をして下さるといううわさを聞いて、人目見たいと木に登ったのでしょう。
そんなザアカイに、イエスの方から語りかけられました。

神の愛の真実さを3つのポイントから見ていきましょう。

①価値創造的愛

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」
19:5,6

わざわざ名前を呼んで、イエスの側から語りかけられました。
一人の人格として、愛をもって。
一番愛するに値しない人を、ご指名で。
不正の頂点にいた人をです。
人の愛とは違います。
みなさんは嫌われ者のところに泊まりたいと思いますか?
神の愛は、相手の価値を根拠に基づいた愛ではないのです。
私たちの愛は「価値発見的な愛」です。
いい人だから。
可愛いから。
気があるから。
お金があるから。
だから愛する。
逆に言うと、価値がなくなると愛もなくなるかもしれません。
「いい人」が「どうでもいい人」になるかもしれない。
「素敵な人」が「不敵な人」になるかもしれない。
リストラにあったから。
心の病で離婚。
相手の価値がなくなると、愛もなくなるのです。
神の愛は、「そんなのかんけーねー」。
先に愛して、「愛されているから価値があるんだ」と気付かせて下さる。
私たちは、愛されるために創造されたのですから。
「愛される」ところに価値があるのです。
クリスチャンでも、それがわかってない人もいます。
「私のようなクリスチャンは神さまに愛されていないんじゃないか」と恐れている。
それは神の愛への侮辱です。
悔い改めましょう。
神の愛は人間の愛とは次元が違います。
命がけで、先に、愛して下さったのです。
私たちの心には、神が嫌うものがあります。
それでも、丸ごと愛して下さいます。

②進んで犠牲を払う愛

イエスは、愛のゆえに、自分から進んで犠牲を払っています。

「これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。」19:7

恵理子の人々はつぶやきました。
ザアカイと交わることによって、イエスは非難を受けています。
ここにこそ真実の愛があります。

「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」19:5

何と失礼な方でしょう。
初めて会った人なのに、勝手に決めるとは。
言い方があるだろうにと思います。
「泊まってもいいですか」と言うべきではないでしょうか。
もしそう聞いていたら、ザアカイは「どうかおやめ下さい」と言ったでしょう。
だから、先手を打って、損をして下さったのだ。
というのが、敬愛する後藤喜良師の解釈です。
なるほどと納得しました。
本来受けるべき非難を、イエスが受けて下さったのです。
英語ではどう言っているのか調べると、

“I must stay.”

となっていました。
「泊まらなければならない」と。
ローマ書5章8節を思い出します。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ8:10

わたしたちはご飯を食べるとき「いただきます」と言います。
それは、「あなたの命を私の命としていただきます」という御礼の言葉です。
命の犠牲の上に自分の命があることを、昔の人は知っていました。
今までにどれだけの牛、鶏、豚、魚を殺して生きてきたことでしょう。
2000年前に、神の子が犠牲となりました。
神の命を、私たちは頂いています。
イエスは、罰を身代わりに負って下さいました。
真実の愛は、進んで犠牲を払う愛です。

③人を作り替える愛

真実の愛は人を作り替えます。
内側から作り替える力を持っています。

「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」19:8

ザアカイは宣言しました。
「不正はやめなさい」と言われたのではありません。
自分から、新しい歩みをしたのです。
ザアカイは、お金が増えるにつれて孤独が増していたことでしょう。
でもやめられなかったザアカイ。
私たちも同じような矛盾を持っています。
自分では自分を変えられません。
変わりたかったのに変われなかったザアカイを、イエスの愛は変えました。

一人の人が私の所に涙を流しながらやってきて言いました。
以前、シンナーをしていたと。
まじめな兄が「やめろ」と言いました。
彼は「優等生のおまえなんかにわかるか!」と突き放しました。
すると兄は「じゃあ、僕も一緒にシンナーを吸おう」と言ったのです。
その時、兄が本気だと分かったから、自分はやめることができた。
と、その方は言いました。
自分をなげうった愛が彼を変えたのです。
時に、神の愛のような人の愛も、人を変えます。
はるかにまさる愛で、イエスはザアカイを愛されました。
イエスは、私たちも愛しておられます。
愛を受けたら、受けっぱなしではいられません。
その愛に応えていきたいという思いが生まれます。
ふさわしい者になって生きていきたいと。
もう一度、真実の愛を受け止め、応えていきましょう。

結論です。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」
19:9,10

特に10節。
失われた人、とはだれでしょうか。
「失われた」とは、「定位置からはずれている」という意味です。
定位置にもどすために、イエスはこの世に来られました。
イエスを木の上から眺めている人は、自分の定位置を忘れている人です。
私たちの定位置は木の下です。
愛を受け止める当事者となるのです。
イエスに呼びかけられて、木の下に降りて、イエスを迎え入れるのです。
その時に、新しい歩みをすることができます。
今も、イエスは語られています。
クリスチャンは、木の下に降りた者なのです。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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