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12月31日 年末感謝礼拝

ヨハネの福音書 4章 16~26節
「今時の礼拝」
               KGK副総主事 吉澤慎也師

私は中学生の頃から礼拝に主席し始めました。
よく寝ていました。
高校の頃、ノートを取るようにすれば眠くなくなると聞いて、なるほどと思い試してみました。
残念ながら私にはあまり効果がありませんでした。
ノートはいつも途中から意味不明な文と、大小様々な曲線で彩られていました。
何とか眠くならないようにするために、頭の中で他のことを考えるという技術を身につけました。
前を向き、聴いている風で、全く違うことを考えていました。
読んでいる漫画の続き、デートの妄想。
顔だけは真剣にうなずきながら、さも聴いているように。
こざかしいテクニックを身につけました。
真面目に「礼拝とは何か」を考えるようになったのは十代後半です。
自分は何のために礼拝に出ているのか。
礼拝のプログラムにはどんな意味があるのか。
今日は、2017年最後の主日礼拝です。
クリスチャンにとって最も大切と言われる礼拝について学びたいと思います。

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
ヨハネ4:4

当時イスラエルは3つの地方に分かれていました。
北から「ガリラヤ」「サマリヤ」「ユダヤ」です。
イエスはユダヤにいました。そこから北のガリラヤへ向かおうとしていたようです。
最短ルートはサマリヤを抜けるルートです。
そうすれが3日で歩いて行くことができました。
が、当時のユダヤ人は遠回りをしていました。
サマリヤを避けて、迂回していったのです。

「そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである――」4:9

ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかった。
だから避けていた。
では、なぜでしょうか。
宗教的、民族的な理由がありました。
サマリヤ人も元々はユダヤ民族でした。
しかし、長い歴史の中で他の民族の血が混じってしまいました。
いわば混血の民族です。
ユダヤ人は「サマリヤ人は純粋なユダヤ民族とは言えない」と考え、彼らを大変きらっていました。
そこに緊張関係が生じ、敵意ともなっていきました。
旅をするとき「サマリヤに足を踏み入れるぐらいなら遠回りした方がましだ」と思うほどに。

しかし、イエスはサマリヤを通って行かれました。
これは異例なことです。
急いでいたのでしょうか?

「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。」
4:6,7

イエスは水を飲もうとされました。
ここから15節までは「水」の話が続きます。

「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」
4:15,16

ところがイエスは、水のはなしとは打って変わっていきなり「夫婦」の話を振ってきました。
この女性の私生活、結婚生活について話を向けたのです。

「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』」
4:19,20

今度は、女性がいきなり礼拝の話をし始めます。
次々と話題が変わっていきます。
夫婦の問題は、女性にとって楽しい話題ではなかったに違いありません。
だから話題を変えようとしたのでしょう。
プライドやわがままを持ち込みやすい部分が「男女関係」です。
この女性にとっても、そこは急所でした。
しかも、イエスはえぐい突っ込みかたをしてきました。

「女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」
4:17,18

女性は罪を指摘されました。
5人の男性と結婚し、すべてうまくいかなかったこと。
当時は男性の側から離縁を申し渡すのが慣例でした。
今は正式に結婚はしておらず、同棲していました。
イエスは唐突に彼女の罪を指摘されたのです。
女性は心の中で慌てたかも知れません。
そこで急に礼拝の話を始めました。
それにしても、ただ話題を変えるだけなら「あなたはこれからどこに行くのですか」と問いかけてもよかったはずです。
なぜ礼拝の話なのか。
礼拝する場所も、ユダヤ人とサマリヤ人が敵対する原因のひとつでした。
サマリヤ人はゲリジム山で礼拝していました。
一方ユダヤ人はエルサレムで礼拝していました。
一見何の脈絡もないようですが、重要な意味があります。
礼拝者のあり方について、この女性の態度に隠されています。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」4:23

今こそ真の礼拝者が父を礼拝すべき時です。
男癖が悪く、不道徳な女性。
人目を避けて、人の来ない時間帯に水をくみに来る女性。
この女性にこそ真の礼拝者の姿があると、聖書は言っています。
罪を指摘されたときに、礼拝の話をした。
つまり、心が神に向き始めたということです。
罪を自覚させられて、神を求め始めたのです。
罪に気付き、自覚し、それゆえ心が神に向き、神を求めていく。
それが真の礼拝者です。
人に知られたくない自分の醜さに気付き、恥じらいを覚える時に、神を求めていく。
ここに礼拝者のあり方が示されているのではないでしょうか。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」4:24

ここに大切なメッセージがあります。
教会が捧げている礼拝のメッセージです。
「霊とまことによって」とはどういうことでしょうか。
これを、人間側の応答と考えることが多いかもしれません。
「がんばって、そうしなければならない」と。
「どうすれば真の礼拝者になれるのか?」と考え込むかも知れません。
その舞えん、まず覚えたいことは、神は私たちを招いて下さっているということです。
神は私たちを真の礼拝者として招いておられます。
あの女性は、聖く正しい人ではなく、罪深くて弱い人間でしたが、イエスは彼女を招かれました。

「喉が渇くと水を飲みたくなる」というのはすべての人の問題です。
人間の不完全さ、不安定さを表しています。
男女関係もすべての人に共通の問題でしょう。
人は、支配とあやつり、罪の中でもがいて生きています。
そんな中にいたサマリヤの女性に、イエスの方から近づいて行ったのです。
本来つきあわないサマリヤ人に。
まして、イエスは男性です。
イエスはラビのような存在でもありました。
常識では考えられないことでした。
それをくつがえして、イエスは声を掛けられました。
もしかしたら、この女性に会うために、イエスはサマリヤを通ったのかもしれません。
イエスはこの女性を礼拝に招いています。
同じような弱さを抱えている私たちにも、主は声を掛けて下さいます。
私の所にも来て下さいました。
私を招くために。
自らの罪に目を向けさせられるとき、同時に神にも心が向いていきます。
主に触れられたい、赦されたい、礼拝したいと。
今がその時です。

霊とまことは人間の一生懸命の努力によるものではなく、神が人間に与えてくださるものです。
神は聖霊を与えて下さいます。
与えられた霊と、まことによって礼拝するのです。
罪に気付き、告白し、礼拝したいという思いに導かれていきます。
何と大きな恵みでしょうか。
この一年を振り返ってみても、神を悲しませたことがたくさんあったことでしょう。
それでも、なお主は私たちをこの礼拝に招いておられます。
何と大きな恵みでしょうか。
場所や民族を超越していくのです。

「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」4:21

礼拝する場所は関係ありません。
「ここでなければ礼拝できない」というものではありません。
世界中のいたるところで神を礼拝するときが来ます。
いや、もう来ています。
新しい時代の礼拝。
今時の礼拝です。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』
イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
4:25,26

「わたしがそれです」「人は皆私を通して礼拝する」と、イエスは言われました。
イエスが父との仲立ちをして下さいます。
神殿そのものとなってくださるのです。

私たちのすべき応答は?
心からの礼拝をささげましょう。
かつてエルサレムでは動物を捧げたり香を焚いたりしました。
物質的な要素を通して心から礼拝をささげていました。
それは形式主義に陥ってしまいました。
今は、賛美や祈りなど非物質的要素がほとんどです。
しかし、参加するだけで霊とまことによる礼拝をささげているということになるのでしょうか。
今も形式主義に陥る危険は大いにあります。
心が伴っていないとしたら、いるだけで礼拝になるでしょうか?
経験的にそうではないと思わされます。
神の前に出ること、自分を偽らずに正直に見せること。
ありのままに神の前に進み出ていくこと。
そこには喜びがあります。
「喜び」はバロメーターのひとつです。
礼拝には喜びがあります。
時代がどう変わろうと、喜びを持って礼拝したいと思います。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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