12月17日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 26~38節
「御使いが教えてくれたこと」
          東海hi-b.a. 丸山告スタッフ

新版「新改訳聖書」を買いました。
これまでの第三版から全面的に改定されたのですが、人名もかなり変わっています。
今までの「マリヤ」は「マリア」になっています。
マリアという名前は旧約聖書の預言者ミリアムと同じです。
ミリアムはモーセの実姉でした。
クリスマスの降誕劇では、マリアは小学校5,6年生の女の子が演じる大切な役です。
小学生では幼すぎると思うかも知れませんが、当時の結婚適齢期は中学生ぐらいでしたので、それほど離れているわけでもないようです。
カトリック教会ではマリアへの思い入れが強いです。
私たちはイエスは神の子であり、罪がないと考えています。
カトリックでは、母マリアも罪がなかったと考えます。
教会にはマリア像もあります。
でもそれは礼拝の対象というわけではありません。
イエスが昇天された後、弟子たちとマリアがそのそばにいました。
マリアは、「今までイエスに願っていたことを私に言いなさい」と弟子たちに告げたという伝承があって、「マリアはイエスに取り次いでくれる人」と考えられているのです。

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。{あなたはどの女よりも祝福された方です。}」
126~28

御使いはどこから来たのでしょう。
御使いは「おめでとう、恵まれた方」と言いました。
クリスマスと言えばこのセリフだと思います。
他の言葉に置き換えられません。
でも、よく考えてみると違和感があります。
はたしてマリアの人生はおめでたい人生なのでしょうか?
マリアはナザレの小さな村の女の子です。
人口は150人から200人の村。
狭い共同体です。
住民登録先の馬小屋で出産。
お祝いに来たのは三人の占い師と、羊飼い。
宮参りにイエスを連れて行ったら3日間行方不明になる。
イエスが初めて奇跡を行ったときにはイエスから「女の方」と冷たい言葉で呼びかけられる。
エルサレム入城の後には十字架の死。
これは「おめでとう」ではないでしょう。
むしろ「残念!はずれです!」と言った方がこの後のストーリーに会うのではないかと思うほどです。
「おめでとう!」と書いてあるのはルカの福音書1章28節だけです。
原語では「ごあいさつ申し上げます」あるいは「こんにちは」という挨拶です。
他の訳では「恵まれた者、喜びなさい」(フランシスコ会訳)
「喜びあれ、恵まれた女(ひと)、主があなたと共に」(岩波訳)
「慶(めでた)し、恵まれた者よ、主は汝と共に〔おわす〕、汝は婦のうちにて祝せられたる者〔なり〕。」(永井訳)
などとなっており、「喜ぶ」の意味があることがわかります。
これは、ルカの福音書10章で、遣わされた弟子たちが戻ってきたときにイエスが弟子にかけた言葉の中にもある言葉です。

「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」
ルカ10:18~20

喜びの根拠はどこにあるのでしょうか。
それは、「神からの一方的な好意にあずかった」ということであり、個人的な「おめでとう」ではありません。
結婚前に妊娠するということで、マリアにとって不利なことが起こっています。
①ヨセフの評判が落ちる
②自分は罪深い女と呼ばれる
③石打の刑にされる可能性もある
これらのことは容易に予想できました。

「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」1:34

マリアは御使いの言葉を鵜呑みにはしていません。
しかし、マリアに掛けられた言葉はザカリヤの場合とは違いました。
年老いたザカリヤも御使いから子どもを授かるという知らせを聞いて、半信半疑でした。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』
御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』」
ルカ1:18~20

ザカリヤは口がきけなくなってしまいました。
語っている内容は同じですが、受け止め方は対照的だったからです。

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』」こうして御使いは彼女から去って行った。」1:38

「はしため」とは「奴隷」という意味で、あまり使うのに好ましい言葉ではないのですが、ここはマリア自身が自分を表現して言っている言葉です。
マリアの信仰告白と決断はイエスの祈りに通じるものがあります。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ルカ22:42

もしもマリアの言葉がうわべだけで言っていたのであれば、何らかのペナルティがあったはずです。
ザカリヤのように。
そのまま御使いが去っていったのは、マリアの思いが御心に叶っていたからです。

「 神にとって不可能なことは一つもありません。」1:37

マリアだけではありません。
私のためだけではありません。
すべての人の為に、イエスは人となり、私たちの人生に介入されたのです。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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