11月19日 聖日礼拝

使徒の働き 2章22~36節
「ペテロにとっての十字架」
        東海hi-b.a. 丸山告スタッフ

立ち直ったばかりのペテロが、「主の名を呼び求めるものは救われる」と語りました。
自分がある基準に到達しているから語れる、というのではありません。
信じたから救われたのです。
そして、私たちは「人は信じるのだ」ということを信じなければならない、ということを学んできました。

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」2:36

これが、ペテロが最も訴えたかった結論です。
人々は心を刺されて、3,000人が救われました。
「イエスを十字架につけたのはあなただ!」
これはシンプルなメッセージです。
もしペテロがこの説教に題名を付けたとしたら「犯人はあなたです」といったところでしょう。

ペテロはイエスの生涯、復活、昇天を語りました。

「神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。」2:22

「力あるわざ」の源はイエスです。
「不思議としるし」はイエスの奇跡の性質を現しています。
「あかし」は奇跡の意味の解き明かしです。
これらはだれもが知っている事実でした。
真新しいことはなにもありません。
使徒たちしか知らない裏話ではありません。
人々は「私も知っている」という思いで聞いていたでしょう。
大事なのは、なぜイエスがそうしたのか、という真意を語ることでした。
聞いている人々はこれらの一部を見た人、味わった人、聞いた人です。
もし体験していたとしても、表面の現象しか見ていません。

「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」2:32

ここでイエスの復活が語られます。

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』」
2:33~35

イエスの昇天です。

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」2:36

これが結論です。
ペテロの説教では復活が強調されています。
これはペテロの初のメッセージです。
彼は一般的な人でした。
もともと漁師で、どこにでもいるような人です。
理論的に説明できるタイプではありません。
むしろ感情的です。

「ペテロは力を込めて言い張った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』みなの者もそう言った。」マルコ14:31

「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』」マタイ19:27

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」マタイ16:22

これらのエピソードを読むとそれが分かります。
そのペテロが、しっかり順序立てて、旧約聖書を引用して説教しています。

「ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』」
2:25~28

これは詩篇からの引用です。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
詩篇16:8~11

ここでペテロは「主を置いた」という言葉を「主を見ていた」としています。
これは、神が共にいる事への積極的な求めを示しています。
「置く」けれども見ていない。
「置く」けれども無関心。
形式的習慣的な印象を持ちます。
ペテロはイエスと共に生活したとき、イエスを近くに「置いて」いました。
が、信仰によってイエスを求めていたでしょうか?
しかし、聖霊を受けた今、自分の内に生きたイエスを経験していました。
自分の告白もこの「引用」に混ざっていたのかも知れません。

hi-b.a.では「コアバリュー10」というものがあるのですが、その中のひとつに
「聖書を持ち歩くことを勧める」
という項目があります。
今の時代、スマホから簡単に聖書テキストにアクセスすることもできます。
それでもあえて、「本」である聖書を持ち歩くように勧めるのです。
「持ち歩く」ことがゴールなのではありません。
持ち歩くことで、聖書が私を導いていくという信頼を持つ、その基盤として持ち歩くのです。

「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』」
2:34~35

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」詩篇110:1

そして、ペテロにとっての十字架が語られます。

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」2:36

イエスを実際に十字架に付けたのは「イスラエルのすべての人々」でしょうか?
厳密にはそうではありません。
ユダヤ人の中の指導的立場にあった律法学者やパリサイ人、祭司長たちです。
イエスは彼らと「違う教え」をして、彼らは人気を取られました。
イエスを十字架に付けよと扇動したのはごく一部の人々です。
ペテロの説教を聞いていた多くの人は、地方から集まってきたユダヤ人でした。
それなのに、ペテロは「あなたがたが」十字架につけたと言ったのです。
「いや、自分ではない」と思った人もいるでしょう。
それは間違いではありません。
「自分が悪いのではない。
悪いのはあの人たちだ。」と。
自分に「罪がある」と言われて「はい」と言える人はそうそういません。

私は都立高校に通っていました。
歴史以外に倫理の授業もありました。
キリスト教について学習する時、先生は「原罪」と黒板に書きました。
そして、天地創造、アダムとエバの創造、彼らが犯した罪について、先生は語りました。
そこまで語ってから、先生はこう続けました。
「二人のせいで、すべての人類に罪があるのか??
私たちは木の実を食べていない。
納得できない。」
と。
私はがっかりしました。
でも、一番の罪はそこにあると思います。
イエスの十字架を目の前にしたとき、
「悪いのは私ではない。
あの人たちだ。」
としてしまうことこそが「原罪」です。
自分は悪くない、と言うことがまさに罪の性質です。
今思うと先生はまさに原罪を体現していたのです。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」2:37

これが人々の反応でした。
他人事ではなくなったのです。
自分の罪がイエスを十字架に付けたということが分かったからこその反応です。
なぜ人々はここまで心打たれたのでしょうか。
ペテロが力強く語ることができたのは、自分もその一人であったからです。
ペテロは、自分にとって、十字架のあがないは必要不可欠で、十字架がなければ救われないことをよく分かっていました。
「あなたがた」は他人事ではないのです。

「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
2:38,39

約束は、主がお召しになる人々に与えられています。
罪を認め、赦され、聖霊が与えられるという恵みは、だれにでも与えられます。
ペテロはそこに自分も含めたこととして語っています。
ペテロには、自分も十字架によって帰られたという確かな確信がありました。
変えられた人々を目の前にした人々は、その証を聞き、確信を見て、間違いないと思ったのです。

hi-b.a.の支援会理事会で聞いた話です。
ある高校生が、初めてイエス様と出会い、信じる決心をしました。
彼は昼休みにクラスメートを屋上に呼び出して、伝道したそうです。
毎日ひとりずつ。
全員に、自分がどれほどすばらしい体験をしたか語ったのです。
その中で半分が教会に行き、数人はクリスチャンになる決断をしたといいます。
その話を聞きながら、私は自分が屋上に呼び出されているように感じました。
本当に心を刺され、御霊に満たされた人は、伝えずにはいられないのだと思いました。
ペテロの説教は私たちにも語られています。
私にとっての十字架はどのようなものか。
十字架の話はもう古いストーリーなのか。
単なる習慣なのか。
今日の私にも影響のあるものなのか。
救いの約束は、主が召される人々に与えられています。
あなたは、今、ここで、どう応答しますか?
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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