10月29日 聖日礼拝

歴代誌第2 20章14~22節
「信じて賛美を」
        名古屋福音自由教会牧師 平井聖歩師

歴代誌が扱うテーマは「礼拝」です。
一貫して礼拝について、歴史を貫かれたテーマを語っています。
注目される人物はヨシャパテです。
分裂後の南ユダ王国4代目の王。
33歳。
今の私の年齢です。
まだ若造です。
信仰深い人物で、偶像を取り除いていきました。
彼には欠点もありました。
周囲の国との関係です。
18章を読むと、彼が国内では信仰によって篤い歩みをしていたけれども、周囲の国との関係は信仰に生きることができなかったことが分かります。
教会内では信仰を褒められるが、
一歩外へ出ると隠している人のようです。
主に従えば祝福がある事が分かっているけれど、他では妥協する。
「家だから」「学校だから」「職場だから」と。
信じることと生きることの間に矛盾を抱える人でした。

「ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。」20:15

「ときに」と始まっています。
どんな時でしょうか。

「この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。
そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。『海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。』
ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。」
20:1~3

ヨシャパテは自分の無力さを痛感しました。
アモンがヨルダン川を越えて攻め入ってきました。
彼は祈りました。

「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」20:12

「どうすればよいかわかりません」と、国王が国民の前で祈りました。
彼は国民への影響を知っていたはずです。
しかし彼は追い込まれていました。
自信は粉々に砕かれました。
「そんなとき」です。
祈っていたとき。
ただひたすら主に求めた時。
自信と経験と知恵がはがれたときに残ったのは神への求めでした。
嘆きながら。
主の前で嘆いてもいいのです。
神の前にどんなことでも祈っていいのです。
彼は内にある思いをぶちまけました。
神に期待していたからです。
ヨシャパテは信仰に生きるのを躊躇していた領域で、そこも神の領域だということを認めました。
ヨシャパテは神を認めました。
神はご自分の子を訓練されます。
彼は全てを支配しておられることを分かっていたはずです。
彼は悔い改めて神に目を注ぎました。
無力さを知るのは何ら悪いことではありません。
絶望は神への希望を養うときです。
神は、全領域の神です。
「このままではまずい」と思う時こそ、きちんと嘆き、祈り、神を認めましょう。
信仰を働かせていきたい時です。
彼らは力づけられていきました。
なぜでしょうか。

「それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、
ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。」
20:18,19

礼拝の光景が描かれています。
彼らを力づけたのは、神のことばです。
ヤハジエルは神の御言葉を語りました。
「これは神の戦いだ」と。
「しっかり立って動かずにいるように。
主の扱いを見よ。」と。
「大軍ではなく主の救いを求めよ」と。
「不安にさせるものではなく主を見上げ、立っているように」と。
目新しいことではありません。
主はモーセにも語り、紅海を分けられました。
状況に目を向けるから心配になるのです。
「心配」という言葉は「心を分ける」という意味があります。
主の救いを見るのです。
信仰の目をもって、そこに焦点を当てましょう。
私たちが信じている神は、死んだ神ではありません。
今も生きている私たちの父です。
世界の歴史は救いの歴史です。

「礼拝」は、公同の教会ですべきことです。
使徒20章を読むと、ユテコの話が書かれています。
ユテコは、パウロの話があまりにも長いので、ついうとうとして窓から落ちて死んでしまいます。
主は彼をよみがえらせるのですが、この話は何を教えているのでしょうか。
「皆と一緒に礼拝するのを主は喜ばれるということです。
「礼拝の時は窓辺に座るな」でもないし、「寝るなら家で寝なさい」でもありません。
どんな状況であれ、体を引きずってでも礼拝に来る、その姿勢を、主は喜んでおられるのです。
礼拝者であることが大事です。
以前、私が説教をしているときに寝ている方がいると内心腹立たしく思ったこともあります。
でも、今は違います。
それほど疲れていても、教会に来て礼拝しているのだ、と思います。
もし寝るなら、家ではなく教会で寝ましょう。
弱っているときほど、困難なときほど、礼拝することを選んでください。

人々は礼拝によって励まされました。
私たちは人の顔色一つで心が動かされます。
目を注ぐべきは、人ではなく主の救いです。
私たちの戦いは、しっかり動かずに立つ戦いです。
礼拝者でありつづける戦いです。
礼拝によって、神が戦って下さることを知ることができるからです。
礼拝が私たちを守ってくれます。
御言葉を聞いて彼らがしたことは賛美でした。

「こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。『ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。』
それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』
彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」
20:20~22

状況は変わっていないのに、彼らは賛美したのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」へブル11:1

信仰がそれを可能にしました。
彼らは見えないものを確信しました。
賛美をしたときに勝利がありました。
信仰は聞くことから始まります。
が、聞くことだけでは力になりません。
信頼することによって力を得ることができます。
信仰は状況を変えるわけではありません。
変えるのは神です。
神とその約束を信じるのが信仰です。
信仰は持っているのもではなく、働かせるものです。
どうしようもない状況でも喜ぶことが、人を救います。

ペンシルベニア州で19世紀から20世紀にかけて生きていたエリザ・ヒューイットという人がいます。
彼女は「歌いつつ歩まん」という讃美歌を作った人です。
エリザは教師でした。
障害のある生徒を担当する人が求められ、彼女が担当することになりました。
所がある時、その生徒が暴れてイスを投げつけてきました。
彼女は脊椎を損傷してマヒしてしまいました。
彼女は自分の状況を嘆きました。
毎日病室に掃除に来る黒人の女性はいつも讃美歌を口ずさんでいました。
その女性は
「恐れや嘆きを賛美に変える力を、いつもイエス様が与えてくださる」と語りました。
その時から彼女の生活は変わりました。
そして、この歌が生まれました。

無力感は人を気落ちさせます。
人を小さくし、生きる意欲をなくさせます。
「嘆きは変わりて祈りを生む」
力ある方がともに共にいてくださいます。
この世界は神のせかいです。
私たちは弱いですが、神は強い方です。
神を信じましょう。
神を賛美することがあなたを守ります。
賛美しつつ、主の旅路を歩みましょう。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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