9月10日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 3章 14~21節
「神の愛で互いに愛し合いましょう」
            東海聖書神学塾塾長 後藤喜良師

みなさんは自己紹介をどのようにされますか?
中には「私はクリスチャンです」という人もいるでしょう。
私は昔はそう言えませんでした。
はじめの頃私は律法主義的なクリスチャンでした。
「クリスチャンは○○であるべきだ」と言う考えを持っていました。
自分はそれができていないから、言えなかったのです。
しばらくしてから、「自分が神の子とされている」こと、「イエスに似たものに変えられている」ことを知ってから変わりました。
私は「神の子どもです」と自己紹介すると良いと思います。
日本の場合そういうと「どの神ですか」ということになるので、証の機会にもなるでしょう。
「クリスチャンです」と言う方は、それぞれに「クリスチャンはこういう人だ」というイメージがあって、そう言おうとするのではないでしょうか。
そうすると、「私は十分クリスチャンになっていない」という気持ちになってしまいます。
そんな気持ちでいると、神の子であるという喜びを失ってしまいます。
いっそ「私はクリスチャンです」という言い方をやめてみてはどうでしょうか。
「クリスチャン」という呼び名はそもそも「自称」ではありません。
非クリスチャンが、いつも「キリスト、キリスト」と言っている人たちにつけたニックネームであって、自分から言った言葉ではないのです。
クリスチャン自身は自分たちのことをどう言っていたかというと、「神の子」「羊」「キリストの花嫁」と言っています。

クリスチャンを見ていると、引け目を感じながら生きていないか心配になります。
私たちは少しずつ神の子らしく成長しています。
神の子であると言うことは、「私はもう成長するしかない人間だ」という意味です。
子どもは成長します。
必ず毎日成長します。
私はよく「問題とかないんですか?いつも楽しそうだけど」と言われます。
きのう70歳になりました。
50年前に神の子にしていただいてから、どれほど愛されているか、毎日、毎週、毎月、少しずつ知り、人を愛することを実行できるようにして頂いています。
感謝しかありません。
堅い、きつい、暗い、3Kクリスチャンだった時を除くと、50年毎日毎日人を愛することを学び、成長させて頂いています。
神の子としては53歳です。
いっぺんでなるとは言いません。
少しずつ、毎週毎月毎年知っていくのです。
経験した度合いに応じて、人を愛せるように変えられていきます。
今日のタイトルを見て恐れを抱いた方もいるかもしれませんが、心配しないで下さい。
「神に習って成長していく歩みをしましょう」ということです。
神の愛を知っているか、経験しているか、身についているかを考えるのは大事ですが、「まだできない。難しい」と思っても、必ずイエスのようにして頂けるという希望があります。
希望に支えられながら、うめきながら生きています。

まず、神の愛をしることです。
経験で知るのです。
頭ではなくて。

「こういうわけで、私はひざをかがめて、
天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。」
3:14,15

パウロは膝をかがめて語っていました。
それまで立っていたが、立っていられなくなってひざまずきました。
なぜでしょうか。
これからのことhw、教えただけでは分かるわけがないことだからです。
教えただけでは実現しないから、祈るしかないのです。
パウロはなにを祈ったのでしょうか。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」3:16

エペソ人への手紙の3章では、教会が神の愛のモデルにならなければならないと述べています。
それは、悪魔や悪霊を笑い飛ばすことができる教会になるためです。
神の国に住むのは、神の愛を知って、互いを愛し合う住民です。
サタンは妨げようとしますが、主は神の国の完成のために働いておられます。
神は、自分中心の人を作り変えて、愛に満ちた世界を造ろうとされています。
私たちは神の愛で、愛し合っていかなければなりません。
作り変えられなくては罪に負けてしまいます。

神学校にいた頃、気の合わない人がいました。
顔も会わせたくないぐらいでした。
私は外に出てむしろを敷いて祈り、笑っておはようと言おうと決心します。
が、いざ出くわすと自動的に反対側を向いて離れた席に座ってしまいました。
体は自己中心な性質に動かされてきたので、コントロールされているのです。
神の子として、「新しい人」の道具として、体を用いなければなりません。
自己風疹名性質にコントロールされないように。
罪に死んで、全ては神のみこころを行うための道具として用い、身につけていかなければなりません。
自分の体を使って、行いによって、神と人を愛するためには、内なる人が強められなくてはなりません。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、」
3:17.18

陣地を越えたキリストの愛を,経験で味わい、知ることができるようにと、パウロはひざまずいて祈っています。
聖霊によらなければ神の愛は分かりません。
聖霊によると「これは神の愛だった」とわかるようになります。

神の愛とはどういう愛かを語っている聖書の7つの箇所を読みましょう。

①マタイ5:45 全ての人への公平な愛

「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

全ての人が、そこそこ幸せになれるように与えられている一般の恵みです。
神が全ての人を愛しておられるように、私たちも隣り人を愛するのです。
全ての人を愛する神の愛を、実践することが大事です。
教会は地域の人を愛する働きを大切にすべきです。
福祉の働き、地域の働き、仕事をすること、隣人愛、政治の働き。
それを利用して教会員を増やそうなどと言う下心を持たないで。

②ヨハネ3:16 神に逆らう人を愛する愛
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

主は、「世」すなわち、神に逆らう人間を愛するために、御子を与えられました。
私たちも喜んで犠牲を払うのです。

③ローマ5:6~11 みこころを行えない人への愛
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」


私たちがまだ弱かったとき、つまりみこころを行えなかったときでも神は愛しておられました。
生まれつきの人はみこころを行えません。
「神は、みこころを行えない人は愛してくれない」なんていうことはありません。
「神なんかいない!」
「この世界は不公平だ!」
という譜敬虔な者、罪気と、的外れな人、敵対している人、そんな人を神は愛しています。
罪を犯しても愛して下さる、その愛で、私たちも人を愛するのです。

④ローマ12:9 純粋な愛

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

神の愛には「愛でないもの」はひとかけらも含まれていません。
完全にピュアな愛です。
一方的に、なにがあっても変わらず注ぎ続けて下さいます。
私たちの愛は不純で計算があります。
ここの原語は「分詞命令形」という形で、正確には「~し続けなさい」という意味です。
段々と不純なものを取り除かれていきます。
失望しないで、キリストに見習い続けていきましょう。

⑤Ⅰコリント13:4~8 赦して我慢する愛
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。」


有名な愛の賛歌です。
ここに書かれていることの8割はゆるして我慢する愛です。
神の愛は、ゆるして我慢する愛です。
ここの「愛」という言葉を自分の名前に置き換えてみましょう。
途中で言えなくなります。
寛容とは、「思わない。数えない」ということです。
主は、赦して、受け入れて、忍耐して、我慢して下さいます。
この愛は、知らないうちに身についているはずです。
親の愛に一番近い愛です。
これがないと、与えて育てていく愛が実行できません。

⑥エペソ1:3~6 御子イエスと同じ姿にして下さる愛
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

主は、持っているものを全部与えて下さっています。
今や祝福の蔵は空っぽです。

ここまでが全ての人に与えられる愛です。
そして、今日の箇所です。

⑦エペソ3:18,19
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」


自分の受けた愛を分かち合うこと。
それを携えて集まり、分かち合うことで神の愛を知る。
主が、自分に恵みを与えて下さったことを分かち合いましょう。
どんな罪人をも愛して下さることを。
マルチンルターは、自分の罪の深さと赦しの愛を告白しました。
問題を分かち合うのも良いですが、恵みや愛を分かち合いましょう。
問題からなにを学んだか、どんな恵みを味わったかを。
「人知を越えた愛」というからには、人間には分かるわけがないでしょうか。
ここで言っているのは、「世の人には分からないキリストの愛」です。
神を喜ぶことは、キリストを誇ることです。
それを経験でき、見習うことができるのです。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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