7月2日 聖日礼拝

ルカの福音書 15章 11~32節
「わたしと一緒に喜んで下さい」
           大治福音自由教会牧師 服部真光

キリストは教会の頭であり、私たちの主です。
御子を地上につかわしたのには理由があります。
それが教会の果たすべき使命でもあります。
その自覚を忘れてはいけません。
どこに向かうのかを見失ったら迷走してしまいます。
確かなめあてがあってこそ、前進することができます。

主イエスが地上に来られた使命とはなんでしょうか。
ルカの福音書19章にはザアカイの話が載っています。
そこでザアカイについて語られたイエスの言葉はこうです。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」
19:9~10

失われた者、アブラハムの子を、もう一度神のことする為にイエスは来られました。
教会が教会であるために、名古屋西福音自由教会という船が舵を切ることが大事です。
失われた人を捜して救うために、賜物を生かしていくことが。

今日の箇所は、イエスによるたとえ話三部作の3つめです。
ひとつ目は100匹の羊の話。
99匹を残して失われた1匹を捜す羊飼いの話です。
ふたつ目は10枚の銀貨の話。
失われた1枚の銀貨を探し回り、見つかったら近所の人を招いて祝ったという話です。
この10枚の銀貨は、セットになっていたと言われています。
たとえば、ジグソーパズルでひとつでもピースが欠けたら全体の価値がなくなるように、失われた1枚の銀貨はかけがえのないものだったのです。
そして、今日の箇所、「放蕩息子」の話です。
これら3つのたとえ話をイエスがされた理由は、「人の子は失われたものを捜して救うために来た」ということを教えるためです。
そして、イエスのされている救いの御業を、あなたも共に喜んでほしい、携わって欲しいと願っておられるのです。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。」ルカ15:1

取税人、罪人たちがイエスのもとに近寄ってきていました。
なぜ近寄れたのでしょうか。
イエスは彼らの心に向かって心の扉を開けておられたからです。
パリサイ人はそうではありませんでした。
世の中の人々が教会をどう思っていると思われますか?
多くの人は「私のような者が行くところではない」と思っているのです。
私たちの心は、開かれているでしょうか?
つまずき、倒れている人が教会に来ることを拒んでいないでしょうか?
世に出て行っているでしょうか?

パリサイ人のイエスに対する批判はこうです。

「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」15:2

「本当は私たちと一緒に食事をすべきではないのか?」と責めているのです。

日本の教会に起きているひとつの問題は、「牧師を教会に縛り付けてしまう」というものです。
教会員は「牧師には教会の信徒の面倒を見て欲しい。」と願うので、牧師は地域社会に関わることなく無関心になってしまう。
教会の本来の使命は、働きを共有し、喜びとすることです。
なくしていた一枚の銀貨を見つけた女性は、近所の人たちを招いて喜びました。
そんなことをしたらお金がかかるのに。
大損ではないのか?と思います。
しかし、教会が教会であるということは、人が救われることを共に喜ぶことです。

聖書は注意深く読むと、気付くことがたくさんあります。

「弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。」15:12

弟が財産を要求したとき、父は「ふたりに」分けてやったのです。
弟だけではありません。
財産をもらった弟は、息子のしるしの指輪さえ売ってしまっていました。
ところが帰宅すると、父は弟に指輪をはめさせ、息子としての身分を回復してやりました。

「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』」
15:29,30

ここを読むと、兄が弟の消息を知っていたことがわかります。
もちろん父も知っていたでしょう。
だからこそ兄は腹立たしかったのです。

「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
15:31,32

しかし、全ての物は兄の物でした。
父からすでに分けてもらっていたのですから。
弟は財産も、身分も全てを失いましたが、それらを全て失ったとしても失われないものがありました。
それは永遠の命をあらわしています。
私たちは、永遠の命、聖霊の証印をいただいているのに、「子ヤギ一匹もらっていない」などと言ってはいないでしょうか。
圧倒的な恵みを忘れて。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といいますが、恵みが当たり前になり人を見下す思いが芽生えてくる…それが兄の姿です。
このたとえ話の中心は、弟ではなく兄の姿です。
神の御業が行われ、失われた人が見いだされているのに、すねている兄。
これは、先に救われている私たちへの投げかけです。
私たちは使命を自覚しなければなりません。
3つのたとえ話に共通して出てくる「一緒に喜んで下さい」という主の心を私の心として使命を果たしていきましょう。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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