3月26日 合同礼拝

ヨハネの福音書 13章 34~35節
「愛し合う家族としての教会」

2016年度最後の礼拝です。
この3週間、私たちの教会がいただいている3つの目標を学んできました。

ひとつめは、千代の祝福の基となる教会。
祝福を受け取るための手順を学びました。
それは主を愛し、その戒めに従うことでした。(出エジプト20:6)
主と私たちの関係は、夫婦の関係に例えられます。
夫婦は二人三脚とも言われます。
各々が自分のペースで走ったらうまく走れません。
私はスポーツをしていましたから、もし本気で走ったら妻は引きずられてしまうでしょう。
でも、妻のペースでは「勝つ」ことはできません。
私は少しペースをゆるめ、妻は少しがんばって、ペースを合わせなければいけません。
歩調を合わせるということが、「愛し合う」ということです。
自分勝手ではだめなのです。
私たちは一方的に神に引きずられているのではありません。
神が私たちを愛し、祝福して下さることをよく分かって、私たちも喜んで従うとき、祝福されます。
それは、ヨハネ15:16で言われている、ぶどうの木と枝のような関係です。

ふたつめは、救霊への思いを持つ教会です。
私たちが今ここにいるのは、まだ見たことのない多くの兄弟姉妹が祈り、ささげてくださったからです。
なぜそんなことをしてくれたのでしょうか。
イエスが「全世界に出て行き~」と、使命を残されたからです。
私たちはその使命を託されて生きています。
目当てを失ってはいけません。
牧師やリーダーは船長のようなものです。
船が動くためには、どこに向かうかが明確でなければなりません。
その中で、おのおのが与えられた役割を果たすのです。
まだ福音が伝えられていない人の為に、全世界へ向かって。

では、全世界とはどこでしょうか?
今、私たちの教会はフィリピンの3つの地域に焦点を当てています。
また、東日本大震災の中で、石巻の渡波地区にhそうてんを絞ってきました。

そして、3つめは、愛し合う神の家族です。
神と私たちは夫婦の関係に似ていると言いました。
「夫婦と言っても所詮は他人」というのは間違いです。
結婚を通して、私たちはひとつの家族になります。

「養子、養女」という関係が、聖書に出てきます。
私たちは、イエスを信じる信仰によって、神の子にされます。
つまり、神の養子に迎えられたということです。
私たちたちは同じ神を父としている、つまり、兄弟であり姉妹であり、神の家族なのです。
それぞれ背景は違いますが、イエスキリストによって神の子とされ、神の家族になりました。
御子イエスの十字架と復活を、罪からのあがないとして信じることによって。
この意識が大切です。
私たちは神の家族です。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
13:34,35

新しい戒め、というとき、「新しい」という言葉にはふたつの意味合いがあります。
ガラケーしかなかった時代にiPhoneが登場した時、「それまでにない全く新しいもの」ができたことに驚きました。
そして、今、「新型のiPhone7が発売される」という時には、「改良された新製品」ができたという意味です。
「新しい戒め」は後者にあたります。
戒めは旧約聖書にもたくさん出てきます。
それをイエスは新しくしました。
旧約の教えを「バージョンアップ」して、新しい角度から教えているということです。
これまでも聞いていたことを、明確に分かりやすくした戒めです。
イエスは、全ての律法は「隣人を愛せ」と要約できると言われました。
戒めの中心を、イエスは「互いの愛し合う」ことだと教えました。

現在「愛」と言っている言葉を始めて日本語に訳した人は「大切にする」と訳したそうです。
「愛する」ということは「好きになる」とイコールではありません。
「存在が大切である」ということです。
互いを大切な存在として認めて、丁重に扱うようにと教えておられるのです。

では、愛するにはどのようにしたらいいのでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように」です。

私の父は書道の師範でした。
私はその父に習っていました。
毎月課題の文字があって、父がお手本を書いてくれました。
お手本は朱色の墨で書かれています。
なぜかわかりますか?
先生のお手本をそのまま提出するといけないからです。
そんなことをしたら賞を取ってしまうでしょう。
私はそのお手本を見ながら練習します。
お手本がないと我流になってしまいます。
書道の目標は、先生が書いてくれた手本と同じ文字を書くことです。
重ねて透かしてみれば、ぴったり合うように。

そのように、イエスは私たちに愛し方を教えてくれました。
自己流の「愛」ではない愛です。
相手の求めや願いを知らなければ自分本位の「愛」になってしまいます。
本当の愛には想像力が要ります。
相手についての調査研究が必要です。

「わたしがあなたがたを愛したように」
というからには、「私はイエス様から愛されている」という自覚がない人はこの戒めを守ることができません。
受けた愛を実践するためには、正確に受け止めなければなりません。
私たちは、新たに意識して学んだこと意外は、自分がされたようにするものです。
子育てでよく起こることです。
私たちの中にすり込まれたように生きてしまうと、悲劇が起こります。
親が失敗したことで、子も失敗するということが生じます。
でも私たちは、どんな境遇にあったとしても、改めてキリストから学ぶことができます。
学んで受け取ることで、変わることができます。
親からもらったものが、本当によいものかどうかを確認して、握り治すことができるのです。

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」13:35

私の生き方の中にイエスの生き方が表現されているから、他の人にも分かるのです。
時々、自分は父の子だなと自覚することがあります。
父と同じ事をやっているな、と。
ちょっとした仕草や癖、習慣が同じなのです。
ずっと見ているから、自然にその行動を取ってしまいます。
芸事はそれを利用して伝えられます。
昔、腹話術をしている方から「才能がある」と言われたことがあります。
ちょうどその教会の3階に、以前牧師が使っていた人形が眠っているということが判明し、私は無料で門下生になりました。
門下生は師匠のすることを何度もします。
型があって、「春風」一門は芸が似ています。

クリスチャンとして生きたとき、キリストが愛してくれたように生きていくことで、「あの人たちはイエスキリストに似ている」と言われるようになりました。
それが「クリスチャン」という呼び名であり、キリストの弟子であることを表していました。
「キリストに似ていた」からです。
それはクリスチャンの誉れです。

落語家が、古典を大事にしながらも新しい要素を加えるように、私たちもキリストの愛を受け、現代の時代を生きています。
最大の課題は、
「自分は愛されていないのではないか?
 主の役に立てていないのではないか?」
と、自尊心が低いことです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

と、主は言われます。
最も大切なひとり子を差し出すほどに、目に入れても痛くないほどに、主はあなたを愛しておられます。
私が全力でやってもたいしたことはできないかもしれません。
それでも、私は愛して下さっている方のために全力で生きていきたいと思います。
神がして下さったからです。
愛は、はじめからあるものではなく、作っていくものです。
私たちははじめから家族だったのではありません。
主によって家族になったのです。
互いを大切にする自覚を持ちましょう。
「所詮他人」と思っていると家族にはなれません。
イエスが愛して下さったように、互いに愛し合うことを目指しましょう。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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