2月19日 聖日礼拝

ルカの福音書 13章 22~30節
「救われる者は少ないのですか」

「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」13:22

イエスはエルサレムへの旅を続けられました。
イエスのうわさを聞き、「一目会おう」「病気の友人を連れて行ったらよくなるのではないか?」と、人々は我先にとイエスの元に行きました。
多くの人は、問題が解決し癒されました。
それは信仰の故、神の恵みによってです。

ではそれらの人々のどこに信仰があるのでしょうか。
「イエスの元に行けば解決するに違いない」と思ってイエスの元に行くこと。
中風の人を床ごと運んで連れて行った友人たち。
イエスはそこに、「求める」信仰を見られたのです。
イエスの元に来ることに信仰の表れがあります。
「イエス様、信じます!」というシーンはここに出てきません。

そんな中で、旅の途中で、ある人が質問しました。

「すると、『主よ。救われる者は少ないのですか』と言う人があった。」13:23

多くの人の心の中にある問いでしょう。
先程の宣教報告で、年間で日本国内でクリスチャンになる人の数と、海外で救われる日本人の数はほぼ同じだと言われていました。
日本でクリスチャンだという人は極々わずかだと言えます。
「なぜ?」という思いもあるかもしれません。

この問いを発したのは弟子ではありません。
「少ない」と答えられたら、「厳しい」と思うかも知れません。
中には、「神が愛なら、信じる者だけでなく、全部まとめて救ってあげたらいいのではないか?」という人もいます。
「救いの条件が厳しすぎるのではないか?」と。

北海道に黒いスイカがあります。
出荷する前にひとつひとつレントゲンを撮り、中に空洞があったり糖度が低かったりしたものはそのブランド名が付けられないそうです。
ブランド名が付けば1個1万円以上するスイカです。
条件が厳しいから高価になります。

救いの条件はそんなに厳しくしなくていいのではないか、という思いがその質問の背後にあるのかも知れません。
イエスはその人だけでなく、周りにいる人々に向かって語りました。

「イエスは、人々に言われた。
『努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。』」
13:23,24

イエスの言った言葉を理解するために、イメージを持って欲しいと思います。
子どものおもちゃですが、サイコロ型の箱で、6つの面に違う形の穴が空いています。
そして、いろんな形をした部品があります。
どうしたら、その部品を箱の中に入れられるでしょうか。
四角い穴には四角を、星形には星形を。
同じ形のものと合わせれば入ります。
違うものを入れようとしても入りません。
狭い門から入るとは、そのようなものです。
その人のために用意された入り口があります。
多くの人は、「このままで入りたい。どんな形でも入れる大きな円があればどれでも入れるじゃないか。」と考えます。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
マタイ7:13,14

マタイの福音書にはこのように書かれています。
「道は広い方がいい」と思うのは、その方が楽だからです。
しかし、救いの門は主が用意されたものです。

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」ヨハネ14:6

人は、イエスを通してでなければ父なる神の元に行くことはできません。
救いの門は神にしか作れないからです。
物理的に狭いのではありません。

子どもの頃に聞いた話です。
さきほどの箱で、星形の入り口からは、星形にぴったりでないと入ることはできません。
「救い」には、私がぴったり入れる穴があるのです。
「入れない」と思ったら、大きな荷物を持っていたからでした。
入るためには、持っているものを手放さなければなりません。
それが悔い改めです。
この世の実績は神の前では役に立ちません。
ありのままの、本来の姿でなければ入ることができないのです。

春日部教会の髙橋敏夫先生は茶道の先生です。
先生によれば、茶の湯にはイエス様の教えが根付いているそうです。
茶室には「にじり口」があります。
とても狭い入り口で、頭を下げてくぐらなければなりません。
武士も腰の物を全て置いて、丸腰で、首を垂れて謙遜にならなければ入れないのです。
それは「狭い門」を具現化したものです。
自分を、権威を、全て置いて、主人と対面する。
ルールを守らなければ茶室には入れません。
同様に、神が用意した救いの道と手順は、狭き門なのです。

なぜ入ろうとしても入れないのでしょうか。
「神が用意されたもの」意外で入ろうとするからです。
「神が用意されたもの」とは、ひとり子イエスが代価として十字架に掛かって下さったこと、そのキリストが救い主だと信じて受け入れることです。
そして、生涯キリストを主として従っていく者になることです。
大勢の人がイエスと出会い、病が治り、問題が解決しました。
しかし、イエスに感謝するために戻ってくる人は少なかったと書かれています。
多くの人は、イエスを利用します。
そして、解決したら忘れてしまいます。
イエスは12弟子を選ばれました。
そのときに言われた言葉は「私について来なさい」でした。
それに対して弟子たちは「仕事があります。船も網もあります。」と言わずについて行きました。

「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』
・・・
イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』」
マタイ19:16、21~24

この青年は永遠の命を求めたのに、得られませんでした。
この世の持ち物は救いの役には立ちません。
手放して入らなければなりません。
それを知った青年は感心で去っていきました。
なぜでしょうか。
多くの財産を持っていたからです。
これまでの実績、プライド、頼りにするもの、など別の方法で天の国に入りたいと思っていました。
信じて受け入れた、その先に二つの道があります。
「救われたからもういい」と「神との交わりの中で新しい歩みを生きていく」です。
イエスは救い主であると同時に、人生の主です。
ブドウの木とその枝のように、イエスとのつながりの中で私たちは生きていきます。
「将来天国に入れる」だけでなく、地上にいるときから天国で生きるように生きることができるのです。

イエスがこの世に来られたことのメッセージは「インマヌエル=神が共にいてくださる」ということです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

イエスが共にいて下さっても、心が通じていないことはないでしょうか。
イエスを救い主と信じることは、信仰の土台です。
「私も世の終わりまであなたと一緒に行きます」という応答が必要です。
それは、夫と妻の関係になぞらえられます。
「私も一緒にいきたいのです」という応答こそが狭い門です。
人は「自由でいたい」「縛られたくない」と思うからです。
本当の意味で生かされ、主の役に立つためには、主と共に歩まなければなりません。
そこにある恵みと喜びが分からず、多くの人は「それでは不自由になる」と思ってその道を選びません。
成熟していくためにたいせつなことは、人生の新湯婦場面でイエスと共に行動していくことです。

夫婦になると、今まで別々に経験していたことを共に経験します。
一緒に決断して行動します。
決して言いなりになるのではありません。
イエスは私のことを「自分のこと」として考えて下さいます。
それに対する応答は、「イエスのことを自分のこととして考えていく」ことです。

なぜその道は狭いのでしょうか。
自分を主張するからです。
イエスは、神のあり方を捨てて、仕えるものになって下さいました。
人生の喜び、悲しみ全てが共有される恵み。
そこに目が開かれるとき、それは狭い門ではなくなります。
どんな状況でも、主が共にいて下さいます。
生涯その生き方を貫くとき、イエスの言葉は本当だと実感できます。
実感できるのは従った人だけです。
私たちはそこに招かれているのです。
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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