1月8日 聖日礼拝

使徒の働き 1章 1~8節
「私の期待と神の定め」
               丸山告スタッフ

Hi-b-aの冬のキャンプが年末年始に行われました。
年末のキャンプには岐阜から高校生が1名参加。
年始は3名の高校生が愛知、三重、静岡から1名ずつ参加しました。
中部地方で活動を始めてまだ2年目ですが、幸いなことだと思います。

さて、今日学ぶ使徒の働きは、ルカの福音書の続編です。

「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、
お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」
1:1,2

ここで「前の書」と書かれているのがルカの福音書です。
つまり、使徒の働きは「ルカの福音書 ―エピソード2―」です。
エピソード1ではイエスの物語が記されています。
興味深いことに、この福音書は神殿で始まり神殿で終わっています。

「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」1:3

イエスの復活は、使徒たちの思い込みや、願望ではありません。
それが事実であるということを、イエスは確かな証拠で示されました。
そして、天に昇る直前にこう語られました。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:4,5

父の約束、それは聖霊のバプテスマであり、それを待ち望むようにとイエスは言われました。
聖霊は、私たちを救いに導き、個人的なクリスチャン生活にかかわってくださいます。
それは、受動的な働きです。
聖霊は私たちを復活の証人になるようにと駆り立ててくださいます。
これは能動的な働きです。
私たちは、世界宣教への動力として、聖霊を受け取る必要があります。

イエスは約束を「待つ」ようにと言われました。
それに対して弟子たちの言葉はこうです。

「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」1:6

どのような語調で言われたのかは分かりません。
どちらにしろ、イエスの真意をつかんでいないことは確かです。
彼らの思いはみこころからずれていました。

福音書によると、弟子たちは3年ぐらいイエスと生活を共にしていきました。
ずっとクリスチャンキャンプをしてきたようなものです。
徹底的に教えられてきたのに、まだ勘違いしているのです。
イエスが十字架の予告をされたとき、ペテロはイエスを脇へ連れて行ってイエスをいさめ始めたという記事があります。(マタイ16:22)
そのときイエスはペテロを叱りました。
それも人前でです。

イスカリオテのユダが裏切って、口づけをもって「これがイエスだ」と示したとき、ペテロは剣を持っていて、言葉より先に行動を取りました。
彼は兵士の耳を切り落としたのです。
するとイエスは「やめなさい」と言い、兵士をいやされました。

ヤコブ、ヨハネ、ペテロはイエスの最も近くにいた弟子たちです。
ヤコブとヨハネの母親は、イエスの元に来てこういいました。

「イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」マタイ20:21

本人たちだけでなく、親も勘違いしていました。
さらに、

「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
マタイ20:24

周りの弟子たちも、「抜け駆けしやがって」と、先を越されたと感じていました。
みなイエスへの信頼がずれていました。
各々の期待がありました。
しかし、イエスの使命である「あがないによる救い」には誰も目が向いていませんでした。
一緒に歩んでいたのに、分かっていませんでした。

イエスが十字架にかかられたとき、ほぼ全員が逃げ出しました。
各々が様々な形で声を掛けられていたのに。
最終試験に落第したようなものです。

イエスは復活されて後、40日間地上で生活し、天に戻られました。
もう一度チャンスが与えられました。
ところが、天に戻られるときに弟子たちが言った言葉がこうです。

「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」1:6

まだ彼らは分かっていませんでした。
十字架の後なのに、です。
全人類にとってのイエスについての理解がなかったのです。
もし私がイエスの立場にあったとしたら、きっと心底がっかりすると思います。
「今までの日々はなんだったのか。」
「さんざん教えてきたのに。」
一生懸命に教え、伝えてきたのに、中心が分かっていなかったら、教えてきた側は落ち込みます。

イエスはそうではありませんでした。

「イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」
1:7,8

弟子の過ちを指摘せず、神の主権を強調されました。
失敗は織り込み済みでした。
私たちはずれています。
それでも、イエスはそれを受け止めて、聖霊を与えて下さり、私たちは証人となっていくのです。

「宣教するように」と言うと、「無理です。」「もう少し学んでから。」「もっと信仰が深まってから。」と言う人がいます。
どんな証でも、その背後には聖霊の働きがあります。
使徒の働きの前半はペテロ、後半はパウロの宣教が書かれています。
しかしそこには、使徒の働きの背後にあった聖霊の働きが書かれています。

再起したペテロは初代教会のリーダーになりました。
パウロは回心し、福音を宣べ伝えました。
それは聖霊の働きによる福音の前進です。
それが、使徒の働きの冒頭で宣言されています。

「ユダヤ、エルサレムとサマリヤの全土、および地の果てにまで」という言葉の中には、どのように福音が拡大していくかが書かれています。
これは地理的な順序でもありますが、それだけではありません。
サマリヤの全土、とはどういうことでしょうか。
ユダヤ人にとって、サマリヤ人はかかわりたくない存在でした。
混血であり、異教徒でした。
サマリヤ人に対するイエスの言動は一貫しています。
イエスは、あえてサマリヤを通られました。(ルカ9章)
イエスは、あえて「よきサマリヤ人」のたとえ話をされました。(ルカ10章)
イエスは、あえてサマリヤの女に会いに行かれました。(ヨハネ4章)
そして、イエスの最期の言葉の中にもこうして出てきています。
ユダヤ人がきらっているサマリヤ人にも福音は広がると、イエスはあえて言われました。

その聖霊が今も私たちに注がれています。
私たちは自分で決めつけています。
何度語られても分かりません。
信仰を後付にしています。
弟子たちの姿は今の私たちの姿です。
それを覆うようにして、イエスは「聖霊の助けが必要だ」と、聖霊を与えて下さるのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に望まれるとき」と。
決して救われないと思っている人も救われると。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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