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12月18日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章13~14節
「神の栄光をほめたたえるために(4)」

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
1:13,14

クリスマスを待ち望む待降節です。
しかし、今の私たちはもう救い主を待つ必要はありません。
では私たちにとってこの時はどのような意味があるのでしょうか。
イエスは復活の後、天に昇られたとき、再び地上に来ると約束されました。
それを「再臨」と呼んでいます。
私たちは、再臨を待ち望むことを救い主を待ち望んだ人々に重ねながら、救いが完成することを待ち望むのです。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」マタイ 24:14

私たちは、宣教的な教会であることが求められています。

さて、13節の「この方」とはだれのことでしょうか。
救いの計画に従って、地上に遣わされたイエス・キリストです。
私たちの前に、キリストにあって救われた人々がたくさんいます。
しかし、多くの人々はこの「救い主」と「私との関わり」を知らずにいます。

クリスマスは何の日だと思われているでしょうか。
「サンタさんの誕生日」
「靴下にプレゼントを入れてもらう日」
そうしたイベントは、もっと大切な真理を目に見えるように行事化したものです。
Merry Christmasは人間中心の見方であって、神の目線から見たらどうでしょうか。
「私が救いにあずかれたから」めでたいことかもしれません。
が、そのために払われた犠牲が目に入っていません。
イエスの使命の中心は、人の悩みと罪を負って死ぬことでした。
「有り難い」とは本来、「実際に起こることは難しい」という意味です。
それをイエスはして下さった。
だから、「ありがとう」と言うべきでしょう。
神が払って下さった犠牲と愛を知ることが、私たちに求められています。
信仰とは、救いのみわざを素直に受け止めて、「ありがとう」の心で受け取ることです。
御子が2千年前に命を捨てて下さった。
それは「私のため」であるということを受け止めて信頼するときに、生涯が変えられます。
人生が変わり、新しい命を持ちます。
「だれかのため」ではなく、「私のため」であることを忘れないでください。
多くの人は、楽しむことやパーティーに心が向いています。
しかし、クリスマスの主役は神ご自身であり、遣わされた御子なのです。
御子がして下さった愛のわざをしっかり受け止めましょう。
そのためにイエスはこの世界に来て下さったのですから。

クリスマスに演じられる「降誕劇」に出てくるのは東方の博士と羊飼いです。
「東方の博士」はユダヤ人ではない外国人です。
「羊飼い」は、ローマ帝国が行った住民登録から漏れた非定住民です。
救い主の誕生を喜び、その場に行き、礼拝したのは外国人と、社会からはじき出された者たちでした。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
ヨハネ1:9~11

「罪」とは、神を神として崇めず感謝もしないことです。
それは、神を知らないからです。
知らないことは罪深いことです。
主が地上に来られたのに、人々はその事実を知りませんでした。
イエスが命を捨てるほど愛しているのに、そのことを知らず、感謝もしない。
私のために御子が遣わされ、ゆるぎない愛が示されているのに。

人が変われない理由は、愛が分からないからです。
愛するということばを言い換えれば「大切にする」ということです。
あなたは大切にされていますか?
あなたの人生は大切にされていますか?
人格を尊重し、大切にしてくれる人がいないと、自分が大切な存在だと言うことを忘れてしまいます。
そして、目の前のことに支配されてしまいます。
「そのときに楽しければいい」と。

人から物を借りたとき、たとえば車を借りて、もしも電柱にぶつけてへこませてしまったら、「走れるから大丈夫」とは言わないでしょう。
貸した人は「元通りにしてほしい」と言うでしょう。
借りた人は弁証することになるはずです。

大切な物をなくされたり、壊されたりしたら、元通りにして欲しいと思うのは当然です。
創造主は私たちに命の息を与えて下さいました。
つまり、命を預けて下さいました。
あずかった命を大切にしないで乱暴に扱うとしたら、預けた方をないがしろにしたことになります。

大好きな人からもらったプレゼントは大切にするでしょう。
物が大切なのではなく、贈ってくれた人が大切だからです。
自分を大切にできないということは罪深い行為です。
私たちがかけがえのない存在だからこそ、主は御子という代価を払って下さったのです。

代金は、手に入れる物と見合うものでなければなりません。
払う代金によって、その人にとっての価値が決まります。
神が私のために払って下さった代価はどれほど大きなものだったことでしょう。
ひとり子を遣わし、その命をささげるほどなのです。
神の愛を理解したら、「私には価値がない」なんて言うことはできません。
それは神への侮辱です。
私たちはその愛を聞きました。

13節の「真理のことば」とは聖書の言葉です。
聖書の言葉、福音の言葉を聞き、それを信じました。
「御子の誕生と十字架が私のためである」ことを認めました。

私がイエスを個人的に救い主と明確に信じたのは中学3年と時です。
私は牧師の家庭に生まれましたから、小さい頃から当たり前のように神を信じ、従い、手伝いをしてきました。
でも、中3までの信仰は「イエスは世界の救い主」だと信じる信仰でした。
それが中3の時に、「私の救い主」として信じるようになったのです。
その年のキャンプで、宇崎先生はヨハネの福音書3章16節を読み、
「この箇所の『この世』というところにあなたの名前を入れてごらんなさい」と言われました。
それまで私は当たり前のように創造主の存在を客観的に信じてきました。
イエスは「私たちの罪」のために死んで下さったと。
私には「私の罪」が分かりませんでいた。
「神を信じないことが罪である」と言われても、私は罪が分かりませんでした。
私は毎週礼拝のためにガリ版を切り、一枚一枚印刷して、玄関を掃除し、椅子を並べていました。
それも喜んでしていました。
神を最優先にしていました。
強いられてではなく、自ら奉仕をしていました。
そんな私には罪は分かりませんでした。

中学で私は陸上部に入りました。
部活よりも礼拝を優先しました。
すると、自分より記録が悪い人が章を取ってくるのです。
大会は大抵日曜日でした。
どんなに練習しても、私の努力は賞に結びつきませんでした。
「あの賞は本当は自分の物だったはずだ」という妬みが心に起きてきました。

クラスでいじめがありました。
一人の女の子を仲間はずれにしていました。
私は「やめろよ。かわいそうだろう。」と言いました。
それが正しいことだと思ったからです。
すると、図工の教科書に落書きされました。
その子が好きだからかばうのだと。
私は間違ったことをしたのではありません。
正義感からしたのです。
でも、「とばっちりを食うのはいやだな」と心の中で思いました。

この二つのことをとおして、私の心に別の自分の願望があることに気付きました。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
ローマ7:18~21

罪の自覚。
願っているけれどもやめられない自分。
正しいことはわかっているのにそれをはばむ思いが私の心の中にあると気付かされました。
そのときに、改めてイエスを私の人生の救い主として信じました。
救いは客観的な事実ではありますが、自分の人生の中に受け入れるとき初めて、人は変えられて力を得ることができます。
それ以外に自分を変える方法はありません。

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」イザヤ1:18

この御言葉も、罪の自覚があってこそ意味があります。
罪責間がなければ救いようがありません。
心に責められるところがあるとしたら、それは神に愛されている証拠です。
人生で大切なのは、金や富や名声ではありません。
自分は大切な存在であると心から思うこと。
大切にしたい存在が身近にいることを知ること。
それが幸せになる条件です。
だから、イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
真剣に受け止めたら、救いを約束されています。
そして、証印としての聖霊が与えられます。
聖霊は永遠の命への保証です。

この新しい会堂を建てるときに、私と責任役員は「連帯保証人」になりました。
連帯保証人は、もし借り入れた人が借金を返せない場合、代わりに返済しなければなりません。
イエスは、もし私たちが債務を負ったら、あがないをして下さいます。
ただし、イエスを信じて受け入れた人に限ります。
イエスを、私のこととして信じること。
その救いのスタートがクリスマスなのです。
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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