11月13日 成長感謝礼拝

マルコの福音書 10章 13~16節
「子どもたちは神の賜物」

「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

イエスと弟子たちのやりとりには独特な視点があります。
多くの場合、弟子の質問や行動に対応するイエスの話です。
日常生活で生じる様々なことをきっかけとして、イエスは語られます。
そのきっかけに気を取られすぎてはいけません。

大勢の人々がイエスのそばに集まっています。
イエスが弟子たちに教えている最中に、人々が子どもを抱えてイエスに近づこうとしています。
「イエスに触れてもらいたい。祝福して欲しい。」
と親たちは願っていました。
多少迷信的な思いを持ってイエスにあやかろうと連れてきたのでしょう。
弟子たちは彼らを叱りました。

なぜ叱ったのでしょうか?
これは悪いことなのでしょうか?
われ先にと群がり、人を押しのけてでも我が子のことしか考えていない、という面もあったでしょう。

時代背景もあります。
現代日本人の子どもに対する感覚と、当時のイスラエル人の見方は違います。
日本人は子どもを見るとき、「純粋」「無垢」というイメージを抱きます。
イスラエルでは、子どもとは、これから律法を教え、訓練すべき対象でした。
放って置いたら神から離れてしまう。
未熟で、役に立たない存在。
「子どもの出る幕じゃない。
 イエスは大人に向かって話をしているのだ。
 イエスは忙しいのに。」
という思いが、弟子たちにはあったのでしょう。
彼らはイエスをガードしました。

私たちは13番目の弟子としてどうするでしょうか?
教会の中で、「あなたは教会にふさわしくない。」という態度を取ってはいないでしょうか。
自分ならどう対応するかを考えることは大切です。

イエスは憤りました。
イエスらしくないと思われるでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカは福音書によって3つの角度からイエスを描いています。
そして、マタイとマルコはイエスが憤ったことを書き残していません。
弟子たちの権威を守るために省いたのではないかとも言われています。
めったに出てこない、イエスの感情があらわになる場面です。
なぜ厳しく言われたのでしょうか。
それは、福音のメッセージに反していたからです。
イエスはそれを放置できませんでした。

「神の国はこのような者たちのものです。」10:14

弟子たちは神の招きを否定したことになります。
招かれた者を近づくのを邪魔しているのですから。

一方、弟子が叱ったのは、子どもではなく子どもを連れて来た親たちです。
イエスは親のことは触れていません。
子どもたちに目を留めておられます。
子どもは親に連れてこられました。
自分の意志ではなく。

子どもには社会的な地位はありません。
奉仕をして役に立つこともありません。
「このような者たち」とは、「純粋無垢な信仰を持っているもの」という意味ではなく、「何も持っていない。地位も名誉もなく、働くこともできない者」という意味です。
子どもはだれかに支えてもらわなければ自分だけでは生きていけません。
まだ成長の途上で役に立たない存在です。
神の国はこのような者たちのもの。
これは大事なポイントです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」
申命記7:6,7

神の選びは、お金や地位や体力があるからなされるわけではありません。
12弟子も正規の教育を受けていない、無学の者たちでした。
社会の中でも注目されていない人を、イエスは12人選びました。
これが福音のメッセージの神髄です。
何かを持っているから、役に立つから救われたのではありません。
選ばれたのは、神の国がどのような者かを示すためです。
それは、ただ主の恵みによるということです。

弟子たちは誤解していました。
弟子たちに共通していたのは、全てを捨ててイエスに従ったということです。
だから、自分たちは群衆とは違うという意識があったことでしょう。
主は、私たちのそのような価値観に憤られます。
熱心に仕えるのはよいことです。
でも、それによって救われるのではありません。
私たちは、恵みの応答として奉仕します。
見返りとしてするのではありません。
弟子たちは、「何もかも捨てて従いました」と言いました。
が、イエスが選んで下さった恵みを忘れています。

人は歳を取ると子どもに返っていくとも言います。
それは神からのメッセージです。
元気で、社会貢献し、奉仕ができるうちはそれによって自尊心を持ち、それで神の喜ばれていると考えてしまいます。
主は、私たちに付随するものは見ておられません。
私たち自身を見ておられます。
それを正しく理解するとき、持っていたものから解放されます。
神は私たちを等しく愛して下さいます。
子どもたちも、そのように生きていけるようにはぐくみましょう。
子や孫の頭に手を置いて、祝福を祈りましょう。
触れて、祈られた経験は、心に深く刻まれます。
私も祖父母の家に行くと必ず、ひとりひとり名を挙げて祈ってくれました。
いつも祈られているのだと感じるとき、
「愛されている。祈られているから大丈夫。」
と、生きていくことができるのです。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 真田丸 何者 懸賞 あさが来た 知多 超ネプの法則 Q10 ピンポン 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ