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2月18日 聖日礼拝

使徒の働き 2章43~47節
「好意を持たれる人たち」
           hi-b.a. 丸山告スタッフ

以前私がいた教会の韓国人宣教師が礼拝の冒頭でこう言いました。
「私たちの教会はどのような教会になったらいいでしょうか?」
その回答を、先生はこう言われました。
「モールような教会」
と。
ショッピングモールのような教会に、と。
先生は真意を説明しないまま、サラリと終わってしまったのですが、私は立ち止まり、深く考えました。
その一言が心から離れませんでした。
なので説教の内容を全く覚えていません。
そして、完結しました。

ショッピングモールは「何か買いたい」という思いで行くこともありますが、目的がなくても足を運ぶものです。
目的がひとつでなくても、行ける場所です。
意外な出会いや新しい発見があります。
フードコートで家族が交わり、イベントが行われたりします。
休日だからこそ人が集まります。
そんな教会だといいな、と考えさせられました。
人それぞれ、「どのような教会になったらいいか」というのはあると思います。
新しいショッピングモールができたとしたら、
「行ってみた?」と話題になるでしょう。
「あまり楽しくなかった」としたら、その人にとってそこがマッチしていなかったということでしょう。
「また行きたい」としたら、その人の必要を満たしていたということでしょう。
世代や趣味によっても好みは分かれるでしょう。
自分にとって、教会はどうなっていけばいいか、という基準は人によって違うと思います。
教会の建物、大きな教会、素敵な礼拝堂・・・

以前在籍していた教会で、新しく会堂を建てるというので、窓の一部をステンドグラスにしたいという人がいました。
すべての人がその意見に反対していました。
言い出したのは私の父で、牧師一人でした。
結局父の意見は採用されて、ステンドグラスが入りました。
たった2枚だけ。
入って観たら、「けっこういいわね」となりました。

「平均年齢が高いと不安になる」という人もいます。
社会全体が高齢化しているので仕方がないと思うのですが、若い人がいないことが悪いかのように感じられるのです。
KGKの主事をしておられた吉澤師が関東に戻られるということで持たれた、「若者と生きる教会」というセミナーに参加してきました。

「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
2:43~47

初代教会のキリスト者たちは好意を持たれていた共同体でした。
結論を言うと、「一人一人、好意を持たれるクリスチャンになる必要がある。」
「好意を持たれる教会になるべきである」ということです。
メンバーはなにをしていたのでしょうか。

①使徒の教えを堅く守っていた

イエスを直接知っていた人も、そうでない人もいました。
それでも、みなが、使徒たちの信仰を継承しようとしていました。

②交わりをしていた

「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。」
2:44,45

これは「全財産を差し出すように」と言っているのでしょうか。
強制ではありません。
共産主義でもありません。
それぞれが資産を所有し、それを必要に応じて分け合い助けていました。
助けることの大切さと同時に、助けられることを受け入れることができる人であるべき子とを教えています。
心から感謝できる信仰と人間関係があります。
財産、賜物、時間を自分以外の人に分けていくこと。
自分のものを自分だけのために使うのではなく、人の為の分を取り分けておかなければなりません。
兄弟姉妹に、祈られ、助けられることを受け入れて感謝する余裕がなければなりません。

③パンを裂いていた

仲が良く、食事の交わりをしていた、だけでなく、聖餐式も表しています。
愛餐会と聖餐式が頻繁に行われていました。
それらを大事にしていました。
聖餐式を大事にするという感覚はみなさんにありますか?
高校生と話していて、信仰の浮き沈みを表す表現は、
・聖書を読んでいるかいないか
・お祈りできているかいないか
・伝道できているかいないか
・礼拝に出席できているかいないか
いろいろあります。
魂の渇きを、祈りや御言葉の足りなさから次図から感じています。
では、私たちの信仰生活の中で、聖餐式についてそんな位置づけがされているでしょうか?
「最近聖餐式に出られていないから、信仰が弱っている」というように。
聖餐式は、儀式的なものに留まらず、イエスの十字架を思い起こすものです。
初代教会はそれを大切にしていました。

この3つが、信じた3,000人以上の人々で行われていました。
爆発的に増えたメンバーで。
文字でしかわかりませんが、信じていなかった人が3,000人以上救われ、毎日集まっていました。
その変化を端から見た人々が、好意を持ったというのです。

ある人が信仰を持つと、周りから見ると大きな変化を感じます。
高校生は変化を顕著に見せてくれます。
渋谷で集会をしていたとき、一人の女の子が来ていました。
学習院に通っている子で、彼女は「ごきげんよう」と挨拶しました。
私は、学校によって上下はないと思っていますが、その子は違っていました。
姿勢が違います。
背筋が伸びていて、まっすぐ私の目を見てきました。
お嬢様はお嬢様を誘います。
誘われて、カトリック系の学校の子が来たことがあります。
キャンプで救われて、その子の人生が変わりました。
キャンプから戻ると、お母様から電話がありました。
クレームです。
大激論になりました。
「最近うちの子がそちらに通うようになって、全く別の人間になってしまいました。
 確かにキャンプに行くことは許可しました。
 それは私の責任です。
 でも、帰ってきたら全く変わってしまっていました。
今まで教会には、学校の宿題でしか行かなかったのに、毎週行くようになってしまいました。
家出は聖書ばかり読んでいます。
親の言うことを聞くようになりました。
気持ち悪いです。」
1,2時間丁寧にお答えして、わかっていただいたことがあります。
お母さんは怒っているけれど、嬉しいと思って電話をしていました。
周囲にとっては大きな変化があると、大丈夫かなと思うのも当然です。
3,000人以上が救われれば、3,000倍の集合体です。
「異常な集団」と映ってもおかしくないはずなのに、好意を持たれていました。

「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」2:47

ここは、新しい訳では「ひとつにしてくださった」となっています。
人々は、本来なら怪しく思われるような集団に好意を持ちました。
「自分も加わりたい」と思わせる何かがそこにありました。

「内輪受け」という言葉があります。
集団の中にいる人には楽しいけれど、外の人には分からないネタ。
教会の中は、言葉も文化も思い出も、教会外の人とは全く違います。
疎外感を感じさせます。
教会外の人は、キリスト教の情報があまりないので、疎外感を持っても不思議ではありません。
けれども、内実が分からなくても好意を持てる世界だと感じたということです。
外に発信する交わりだったからです。
今の私たちが持っていない概念がありました。
毎日人が加えられる喜びがありました。
そこが、私たちに欠けている信仰です。

中学生の頃、草加教会で毎週新しい人がやってきました。
私は「この人たちは何の興味があって来ているのだろうか」と思っていました。
私たちは、「毎日、毎週信じる人が加えられる」ということを当たり前のことのように求めているでしょうか。

学生の頃、毎週路傍伝道にでかけました。
千葉県の柏というところです。
大きな駅で、立ち止まって聞いてくれる人もいました。
喜びと緊張が、「当たり前の日常」になっていきました。
始める前に祈祷会がありましたが、それさえ日常になりました。
ひとりのメンバーが、車に乗るときにこう言いました。
「朝からずっと祈ってて、今日100人救われるようにと祈ったんだよね」
という言葉にみんなで笑いました。
毎週その先輩はそう祈っていたからです。
「そうはならない」と思って笑ったのです。
使徒たちとは正反対の信仰です。
「そんなこと起きるわけがない」とい信仰。

毎日新人多数。
ショッピングモールなら、「毎日人が来て欲しい」と考えて戦略を練ります。
まだ来ていない人にどうやって来てもらうかを考えています。
もし私たちが使徒たちに習うことができないと思うっているようなら、御言葉の基準を軽んじていることになります。
初代教会をなぞろうとしないなら、別の団体になってしまいます。

みなさんには、クリスチャンでない知人がどれだけいますか?
誘える人がどれだけいますか?
携帯のアドレス帳に何人いますか?
その何人ぐらいに好意を持たれていますか?
それが、あなたを通してのキリスト教の可能性になります。
私は若い世代に可能性を感じます。
年齢が上がると、知人は増えますが、連絡を取る人は少なくなります。
学校には、毎日ホットな人間関係があります。

「あそこはいいな」「あの人はいいな」と好意を持たれなければなりません。

「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に好意と聡明を得よ。」
箴言3:1~4

「好意を得、聡明を得よ」
箴言は、父が娘に大事なことを伝えようとしている書物です。
人から気に入られることだけを目指すのではありません。
信仰がなくても、好意を持たれる人はいます。
「神と人に」が大事です。

ショッピングモールは、その名前を聞くだけで様子を連想します。
若者に聞けば「MOZO」と答えるでしょう。
家庭を持つ人なら「イオン」。
それぞれに特徴があります。
では、名古屋西福音自由教会と言えば?
「コンサートをしている教会」
「NPOがある教会」
「毎週カレーを食べるらしい」

人が来ることが目的ではありません。
他の教会と競合する必要はありません。
すべての民に好意を持たれた先輩が、ここに描かれています。
それは、地域に根ざした教会です。
実在した、実現可能な教会です。
私たちもそうなりたいと願います。
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2月11日 聖日礼拝

ルカの福音書 19章1~10節
「神様の愛、真実の愛」
           春日井聖書教会・協力牧師 水谷潔師

この教会にお邪魔するのは10年ぶりです。
尊敬する教会として、いろんな方に、ぜひこの教会を訪れるようにと勧めてきました。

さて、昨年平尾昌晃さんが亡くなられました。
平尾さんの代表曲は「瀬戸の花嫁」。
1972年オリコン2位の曲です。
歌っていたのは小柳ルミ子さん。
乙女心を歌った名曲です。
しかし、この曲の歌詞はどうかと思うんです。

“若いと 誰もが 心配するけれど
 愛があるから だいじょうぶなの”

何と無謀なことか。
「愛があるから大丈夫なの」。
歌ったご本人を見れば、大丈夫ではないことが明らかです。
そう考えると、男女の愛はもちろん、人間の愛は何と弱いものかと思います。
愛が強いと、憎しみに転ずることもあります。
人間の愛の不真実さを知って、人は大人になっていきます。
人にも自分にも「真実な愛はない」と知りながら大人になるのです。
では、「真実な愛なんてない」と達観すれば幸せでしょうか?
そうではないでしょう。
もし、真実な愛があるなら、真実な愛で愛されたいと思っているのが人間です。
裏切られない愛。
変わらない愛。
「これがあるから大丈夫なの」と言える愛。
それを求めています。

ザアカイの職業は取税人でした。
パレスチナで三大悪人と呼ばれたうちのひとつです。
三大悪人とは、人殺し、強盗、そして取税人です。
悪人界の銅メダル級です。
ローマの手先になって同胞から税を取り、余分に集めて横領する取税人。
外道です。
ザアカイはその取税人の頭だったのですから、そうとう財産はあったことでしょう。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」19:9

彼もユダヤ人でしたから、罪悪感はあったでしょう。
孤独だったでしょう。
イエスは罪人を受け入れ、一緒に食事をして下さるといううわさを聞いて、人目見たいと木に登ったのでしょう。
そんなザアカイに、イエスの方から語りかけられました。

神の愛の真実さを3つのポイントから見ていきましょう。

①価値創造的愛

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」
19:5,6

わざわざ名前を呼んで、イエスの側から語りかけられました。
一人の人格として、愛をもって。
一番愛するに値しない人を、ご指名で。
不正の頂点にいた人をです。
人の愛とは違います。
みなさんは嫌われ者のところに泊まりたいと思いますか?
神の愛は、相手の価値を根拠に基づいた愛ではないのです。
私たちの愛は「価値発見的な愛」です。
いい人だから。
可愛いから。
気があるから。
お金があるから。
だから愛する。
逆に言うと、価値がなくなると愛もなくなるかもしれません。
「いい人」が「どうでもいい人」になるかもしれない。
「素敵な人」が「不敵な人」になるかもしれない。
リストラにあったから。
心の病で離婚。
相手の価値がなくなると、愛もなくなるのです。
神の愛は、「そんなのかんけーねー」。
先に愛して、「愛されているから価値があるんだ」と気付かせて下さる。
私たちは、愛されるために創造されたのですから。
「愛される」ところに価値があるのです。
クリスチャンでも、それがわかってない人もいます。
「私のようなクリスチャンは神さまに愛されていないんじゃないか」と恐れている。
それは神の愛への侮辱です。
悔い改めましょう。
神の愛は人間の愛とは次元が違います。
命がけで、先に、愛して下さったのです。
私たちの心には、神が嫌うものがあります。
それでも、丸ごと愛して下さいます。

②進んで犠牲を払う愛

イエスは、愛のゆえに、自分から進んで犠牲を払っています。

「これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた。」19:7

恵理子の人々はつぶやきました。
ザアカイと交わることによって、イエスは非難を受けています。
ここにこそ真実の愛があります。

「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」19:5

何と失礼な方でしょう。
初めて会った人なのに、勝手に決めるとは。
言い方があるだろうにと思います。
「泊まってもいいですか」と言うべきではないでしょうか。
もしそう聞いていたら、ザアカイは「どうかおやめ下さい」と言ったでしょう。
だから、先手を打って、損をして下さったのだ。
というのが、敬愛する後藤喜良師の解釈です。
なるほどと納得しました。
本来受けるべき非難を、イエスが受けて下さったのです。
英語ではどう言っているのか調べると、

“I must stay.”

となっていました。
「泊まらなければならない」と。
ローマ書5章8節を思い出します。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ8:10

わたしたちはご飯を食べるとき「いただきます」と言います。
それは、「あなたの命を私の命としていただきます」という御礼の言葉です。
命の犠牲の上に自分の命があることを、昔の人は知っていました。
今までにどれだけの牛、鶏、豚、魚を殺して生きてきたことでしょう。
2000年前に、神の子が犠牲となりました。
神の命を、私たちは頂いています。
イエスは、罰を身代わりに負って下さいました。
真実の愛は、進んで犠牲を払う愛です。

③人を作り替える愛

真実の愛は人を作り替えます。
内側から作り替える力を持っています。

「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』」19:8

ザアカイは宣言しました。
「不正はやめなさい」と言われたのではありません。
自分から、新しい歩みをしたのです。
ザアカイは、お金が増えるにつれて孤独が増していたことでしょう。
でもやめられなかったザアカイ。
私たちも同じような矛盾を持っています。
自分では自分を変えられません。
変わりたかったのに変われなかったザアカイを、イエスの愛は変えました。

一人の人が私の所に涙を流しながらやってきて言いました。
以前、シンナーをしていたと。
まじめな兄が「やめろ」と言いました。
彼は「優等生のおまえなんかにわかるか!」と突き放しました。
すると兄は「じゃあ、僕も一緒にシンナーを吸おう」と言ったのです。
その時、兄が本気だと分かったから、自分はやめることができた。
と、その方は言いました。
自分をなげうった愛が彼を変えたのです。
時に、神の愛のような人の愛も、人を変えます。
はるかにまさる愛で、イエスはザアカイを愛されました。
イエスは、私たちも愛しておられます。
愛を受けたら、受けっぱなしではいられません。
その愛に応えていきたいという思いが生まれます。
ふさわしい者になって生きていきたいと。
もう一度、真実の愛を受け止め、応えていきましょう。

結論です。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」
19:9,10

特に10節。
失われた人、とはだれでしょうか。
「失われた」とは、「定位置からはずれている」という意味です。
定位置にもどすために、イエスはこの世に来られました。
イエスを木の上から眺めている人は、自分の定位置を忘れている人です。
私たちの定位置は木の下です。
愛を受け止める当事者となるのです。
イエスに呼びかけられて、木の下に降りて、イエスを迎え入れるのです。
その時に、新しい歩みをすることができます。
今も、イエスは語られています。
クリスチャンは、木の下に降りた者なのです。

2月4日 聖日礼拝

エゼキエル書 33章 10~20節
「それぞれの態度に従って」
         大治福音自由教会 服部真光牧師

天地を創造された神は、私たちをどう見ておられるでしょうか。
どう評価しているのでしょうか。
自己評価はどうでしょうか。
今日はこのようなことについて考えたいと思います。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう』と。
彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」
33:10、11

ここでエゼキエルは「イスラエルの家」に語ろうとしています。
つまり、クリスチャンに対して言っていると考えていいでしょう。
そして主は、「態度によって評価する」と言っているのです。
人間は、神が私をどう見るか、よりも自分や他の人がどういう評価をするかが気になります。
それは引き算の評価です。
「よいこと、正しいことをどれくらいしたか」という点数から、「失敗したこと、悪い行い」を差し引いていくのです。
よいことばかり100%とか、マイナス点は0と言う人はひとりもいないでしょう。
無意識のうちに、私たちは良いことから悪いことを引いています。
「よいこと」が多ければ「いい人」であり、「自分は大丈夫」と思えます。
マイナスになると、「ダメだ」「駄目な人だ」となります。
自分が人生でどういうことをしたかの差し引きで評価が決まるのです。
自分にとってプラスになる人はいい人。
マイナスな人は悪い人、という考え方もあります。

10節で、イスラエルの民は、「背きの罪のために生きられない」という自己評価を下しています。
罪の自覚がありました。
「自分はダメだ」「罪が大きく目の前にあるからダメだ」と。
しかし、「決して悪者の死を喜ばない」というのが神の心なのです。
正しい人でも、背きの罪を犯したら、正しさは覚えられず、罪の中で死ぬと。
悔い改めて神の前に出て、行いを改めるなら、赦して生きるものにすると。
引き算の逆転です。
どんなに罪が重くても、悔い改めて神の前に出るなら赦される、それが福音です。

「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行ない、
その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。
彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行なった彼は必ず生きる。
あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。」
33:14~17

「あなたは必ず死ぬ」という言葉は、主がアダムに言われた言葉を思い出します。
主の赦しは、私たちの計算ではおかしいことです。
善がたくさんで、少しの罪でも死ぬのか?
大きな罪があっても、悔い改めるだけで生きるのか?
それは不公平だ、と人は言います。

ルカの福音書18章9節からのたとえ話にはパリサイ人と取税人の祈りが出てきます。

「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ルカ18:11~14

これは重要なたとえです。
このたとえ話の後、19章でイエスはザアカイと出会うからです。
ザアカイはイエスを自分の家に迎えました。
今日、これからイエスが来る。
とりつくろうことはできません。
ありのままの場にイエスを迎えました。

行いは良いときも悪いときもあります。
ひとつでも罪があったらNGです。
真っ白な服にひとつでも染みが付いたら、それは台無しです。
人生に染みが付いてもたいしたことはない、でしょうか?
神は「聖い命を汚した」と言われます。
主は具体的な行為だけでなく、「自分をどう見るか」を見られます。

では「態度」とは?
時が良くても悪くても、神の御前にどう立つかです。
「聖くなったら教会に来ます」という人がいます。
しかし、たとえ話に出てくる取税人は

「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」
18:13

と祈りました。
主は態度を見られます。
人生は足し算で決まります。
福音を人生に加えて、日々生きることによって。
主の態度は公正でないでしょうか?
罪が赦されるなんて。
主はひとり子を遣わされ、私たちを神の子にして下さったのです。

1月28日 聖日礼拝

詩篇 12篇1~8節
「暴力と嘆きの蔓延する世界」
           柳橋宏祐神学生

私の親しい人の話です。
30代後半の男性です。
就活の時に氷河期で、ブラック企業に入社。
働き続けるのが困難になり、辞めてバイトをし始めました。
やがて自宅に引きこもりがちになり、大阪で一人暮らしをしていたときに詐欺に遭いました。
訪問販売に騙されて、残っていたお金も取られてしまいました。
統合失調症を患い実家に戻ると、お母さんは変わってしまった、生気のなくなった息子に出会います。
幻聴や幻覚に悩まされ、薬を飲みながら自宅で暮らしています。
再就職して社会復帰してもうまくいかない。
家族も悩んでいます。
どうすればいいのか。
どうすれば社会の中で救われてい行くのかが分からないのです。
皆さんの周囲にも、騙され、傷ついて、どうしようもなくて嘆いている人がいるかも知れません。
どうすればよいか分からず、無力感を感じているかも知れません。
自分自身が騙されたり脅されたり、傷つけ枯れている人もいるかもしれません。
日本社会全体を見るとき、大きな悪によって苦しむ人の現実を見て、どう人生を歩んで行けばよいのかわからなくなります。
心配し、不安を抱える人もいるかもしれません。
ダビデ王はまさにそのような中にいました。

「主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。
主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。
彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」
12:1~4

主の宮に逃げ込んで、嘆いています。
現状を、敵対する者の声を聞いて、「主よ、お救い下さい」と祈っています。

ダビデはイスラエルの民の中にいました。
神が選び、あがない、約束の地へ連れて行かれた民でした。
神の愛されていました。
が、聖徒は後を絶ったとダビデは嘆きます。
神の民がこんなにも堕落してしまった。
嘘を言い合い、へつらい、二心で話す。
神に向かった「だれが支配者なのか」と反抗するようになっている。
それがダビデの嘆きです。

教会の中にあっても、私たちは罪人であり、このような問題はいつでも起こりえます。
救われてはいるけれども、周りに苦しみはあります。
ダビデは訴えました。
主は答えて下さいました。

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」12:5

主が立ち上がる、と。
主はみことばを与えられました。
主は知らなかったのではありません。
すべてをごらんになっておられました。
貧しい人、悩む人の為に立ち上がって、救うと約束してくださいました。
この「救い」は良いことをしたから、十分な救いに値する人になったから、救うのではありません。
熱心に祈ったから救ってくれるのではありません。
主語自身が、暴力や苦しみを見聞きして、ご自身の意志で立ち上がり,悩む人を救って下さるのです。
ダビデは主に対して

「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」12:6

と御言葉を称えます。
ダビデは、不純な言葉であふれる世の中で、主の御言葉を聞きました。
完全に、純粋な銀のような御言葉を。
私たちも主の御言葉の価値を、どれほど純粋で、救いと力と信仰で満たす言葉であるか、ということを知っているでしょうか。

神のことばを読むことがつまらなく感じたり、おっくうに感じたり、向き合うのが難しく感じることがあります。
御言葉を読むことで葛藤を持ってしまう方もあるかもしれません。

ダビデが主に嘆き、祈ったとき、必要な言葉を与えて下さいました。
そこに賛美が生まれました。
私たち一人一人に、嘆きの中で答え、御言葉を聖霊によって与え、思い起こさせて、満たして下さいます。
主の言葉と、主ご自身がどれほど素晴らしい方か、自分では知ることはできません。
主はいつもそれを教えてくださいます。
主の言葉を慕い求める者を、主は迎えて下さいます。

「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」12:7

ダビデは目の前の状況に無力さを感じていました。
王なのに。
主の言葉を受けて、心は変えられ、主に向かって行きました。
主ご自身が救って下さることを知ることができました。
「永遠に保たれる」と、主が一人一人をとこしえまで保って下さると、主は言われます。
私たちが人を救うことはできません。
私たちには、人を救う力、永遠に保つ力はありません。
主は、遙かに大きな力と憐れみをもって、ひとりひとりを救い、保ってくださる唯一のお方です。

ダビデは告白しながら、平安を得ていたことでしょう。
嘆きから平安へ。
詩には感情の起伏と流れあがあり、私たちに訴えかけてきます。
嘆きから賛美へ。
詩篇にはたくさんの嘆きが書かれています。
それを神は聞いて憐れみ、救って下さることを教えられます。

「人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪者が、至る所で横行します。」12:8

卑しいこと、朽ちるもの、価値のないもの、無意味なものが、神のように崇められているとき、悪者が横行します。
堕落した民たちの心の内には傲慢な言葉があります。

「彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」2:4

支配者は王であるダビデであり、ダビデを立てた主です。
それを認めず、自分が神になろうとして、なれると思っている。
自分自身を崇めていたのではないでしょうか。
根本的な原因は、神ではなく卑しいことが崇められていることです。
世界に、日本に、「神々」が存在します。
目に見える宗教のみならず、富や名誉が崇められています。
それがなくならないと、悪者が横行します。
が、神はその中でも、私たちを守って下さいます。
この時代からとこしえまで、保って下さいます。
だから、嘆き、「救って下さい」と助けを求めることができるのです。
人生には嘆きと苦しみがあります。
その繰り返しです。
主は、嘆きを見、声にならない祈りを知っておられ、御言葉と救いの希望を与え、永遠に保ち続けて下さいます。
力強い、恵み深いお方です。

傷つける側であった人もいるかもしれません。
一人一人が悩んでいるものであり、罪人であり、人を傷つける両方の面を併せ持っています。
そのように考えていくと、「自業自得だ」「弱肉強食だ」「自己責任だ」と言われたり、思ったりしてしまうかもしれません。
が、主は「今立ち上がる。救いに入れよう」と言ってくださいます。
悩む人も、罪を持って苦しみ傷つけあう一人の人間だったでしょう。
そんなことに関係なく、主は悩むものを救うために立ち上がる方です。
もし主が「自業自得」と言われたら誰一人救われないでしょう。
主は、私たちを愛し、憐れみ、ご自身の意志で救ってくださいました。

しかし、罪をなにもなしに忘れてくださったわけではありません。
神に正しい裁きを祈ったのは正しいことです。
主は悪を必ず罰する方だからです。
では、私たちはなぜ裁きではなく、救いにあずかれるのでしょうか。
ひとり子イエスが人として生まれ、私たちが断ち切られるべきだったのに、イエスが断ち切られ、裁きを受けて下さったからです。
イエスは、ののしるもの前にして「父よ彼らをお許し下さい」と言われました。
「自業自得」とは言わず、「彼らはなにをしていいかわからないのです」と言われました。
十字架につけた者たちをも憐れみ、赦しを祈られました。
ご自身をささげてくださいました。
私たちが罪赦され、救われ、約束のように主が崇められ、正義と平和が満ちる世界を与える為に、十字架にかかられました。
蘇り、天に帰り、今も愛して下さいます。
イエスはまことの王であり、悪から、罪から、守ってくださいます。
主はイエスを救い主、王として与えて下さいました。
聖霊を与え、約束を思い出すようにさせて下さいます。
ギリギリの時に主を見上げるように。
私たちは完全に守られています。

また別の方の話です。
30代の男性で、クリスチャンです。
イベントで顔を合わせるのですが、話したことはありませんでした。
正直、あまり話したくありませんでした。
なにを考えているか分からなかったから、警戒していました。
近寄らない方がいいかもと思っていました。
このメッセージを準備しているときに、主は会話する機会を与えて下さいました。
レストランには行って話を聞く中で、家族の中で起きたいろんな問題や、教会でもうまくコミュニケーションができないことを聞きました。
牧師も転任されるとのことでした。
牧師はたった一人の理解者だと思っていました。
牧師がいなくなったら、何処に行けばいいのか、と悩んでいました。
神の民の一人が苦しんでいる。
救いを必要としているということを、私は知りませんでした。
聞いていると、「御言葉が与えられた」と言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6

と。
そして神を崇めることができました。
神ご自身が救い、守って下さることがわかりました。
嘆くことをためらわず、主に向かっていきたいと思いました。

1月21日 聖日礼拝

使徒の働き 2章 37~42節
「心を刺された人たち」
       hi-b.a.スタッフ 丸山告師

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」テモテⅡ3:16

この御言葉は私が中1の時草加福音自由教会のJYLCキャmぷで与えられた者です。
講師の先生はインドネシアの西カリマンタンに遣わされていた安海宣教師でした。
そこで、インドネシアでの不思議な体験を聞きました。
日本ほど教育が行き届いていない地域も多く、識字率が低いと話されました。
聖書を我達しても、読めないのです。
特に年輩の方は。
あるご老人は、字は読めないけれど、礼拝の時に聖書の文字だけは読めたそうです。
普通の時間には読めないのに。
聖霊の働きです。
中1の時にの時に初めてこの手の話を聞いたので、心臓が高鳴ったのをはっきりと覚えています。
人を変える聖霊の力はすごいものです。
自分の理解や経験に治まらないすごいことが起こります。
先生はそれを体験しているのだ、と感動しました。
神は目に見えないけれど、神のして下さることははっきり見えることがたくさんあるのだと思いました。
その秋に洗礼を受けました。

みなさんは、みことばによって心揺さぶられた経験がありますか?
私は第2テモテの3章16節です。
みなさんはどうでしょうか?
初めて心揺さぶられたのはいつですか?
最近ではどうでしょうか?

ずっと順々に使徒の働きを学んできました。
先月はクリスマスでしたので、その前の11月に学んだのは、5旬節の日ペテロが初めて説教をしたところでした。
50日前までは、十字架を前にして逃げ出した説教者ペテロ。
表向きはユダと変わらない裏切った者です。
棄教寸前だったペテロ。
そのペテロが説教しています。
少なくとも3,000人が心を刺されました。
「説教を聞いた人」が3,000人なのではありません。
聞いて、心を刺され、バプテスマに到った人が3,000人です。
どれぐらい語ったのかは分かりませんが、1時間か2時間。
限られた時間の中で、3,000人の心を動かすことができるとしたら「営業トーク」としては完全でしょう。
ペテロは周りから見ても、仏のガリラヤ出身の漁師です。
一般人です。
神学をしっかり学んだ人ではありません。
論理性はありましたが、人をひきつけるオーラや巧みな話術に感動したわけではないでしょう。
なにに心を動かされたのか。
彼の内側から出る信仰の言葉によって心を刺されたのです。
感動させるだけなら、みことばでなくてもできます。
音楽、絵画など芸術の世界にもよくあることです。
動画を見ただけでも、たっt5分ほどでも感動します。

1年半前、1冊の本に出会いました。
その本によると、朝食は食べなくていいそうです。
一日一食でいいというのです。
そして、朝食をスムージーに変えました。
体型が変わりました。
本全体の中の1,2ページにしかかいてないのですが、改めて今読むと疑わしいなと思いました。

「一人の人と出会って人生が変わった」ということはあります。
でもそれは人生の終着点までのことです。
期間限定のうるおいにすぎません。
それを「はかない」と思った人は伝道者の書を読んで下さい。

心さされた人が、真の悔い改めまで導かれたことが大切です。

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」2:41

「感動したけど、悔い改めというのはちょっと…」
「信じるのはちょっと…」
というのではありませんでした。
悔い改めとは何でしょうか。
信仰者として意識して悔い改めていますか?
私はクリスチャンなので、毎日祈ることが習慣になっています。
「趣味は悔い改めです」と言われたら違和感を感じるでしょう。
でも、悔い改めはとても大事です。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイ3:2

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」マタイ4:17

イエスの第一声がこれです。
でも、教会に初めて来た人に語りかける最初の言葉として、
「ようこそ。
 悔い改めが必要ですよ。」
とはならないでしょう。
それなりの関係性が必要です。
もし悔い改めのない信仰生活になっているのなら、見直さなければなりません。
「悔い改め」という言葉は「二度目に考えること」という意味があります。
「最初の思考が正しくなかった」という意味でもあります。
全ての罪と咎は、イエスによって赦されています。
私のために死んだ方がいます。
悔い改めから出発するということは今のままではいけないのだと気付くところから出発するという意味です。

高校生伝道をしていると、はかなさも感じます。
つねに3学年しかいないのです。
メンバーは成長したと思ったら卒業していきます。
中には成長した人もいると同時に、卒業してしばらくすると教会からも信仰からも離れてしまう人もいるというのも事実です。
そのような卒業生と話すこともあります。
それも私の仕事の一部です。
話していると、内容は共通しています。
・「高校生の時には信仰はあった」という過去の話になっている。
・「あの頃はイエス様ブームだった」みたいな。
・「飢え渇きを埋めてくれた」
・「自分が否定されない場所があの時必要だった」
土台はあくまでも自分。
中心は変えたくない自分の心。
心刺されるみことばの経験もしていたはずなのに。
本当の意味で悔い改めをスタートとする信仰ではなかったのかもしれません。

「新しくされた心」がこの教会のテーマソングです。
全能の力で新しく変わる。
「今の心にプラスして変わる」のではなく。
自分のために地上で一人の命が犠牲になっているのです。
私のために、一人死人が出ているのです。
その血潮が信仰へと導いていくのです。
信仰が長くなると、メリットを強調したくなるものです。
苦しいキリスト教ではなく、楽しいキリスト教を。

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」2:41

イメージしましょう。
12弟子を中心とした120人が集まって祈っていました。
そこに3,000人が加えられました。
26倍です。
わかりやすくするために、最初にいた人数を100人とすると、2,600人のクリスチャンが生まれたということになります。
あま市の人口が88,000人です。
2,600人は33分の1です。
電車に乗っていたら、同じ車両にクリスチャンがいます。
ナフコにも。
七宝中学校は全校生徒520人です。
15人はクリスチャンがいる計算です。
1学年に5人。
あま市会議員は24名。
一人はクリスチャンがいることになります。
ひとりのクリスチャンが本当に信仰を持って歩むなら、半径500mまで影響が及ぶと言われます。
あま市の面積は27,5平方キロメートル。
1平方キロメートルに100人のクリスチャンがいることになります。
そんなことが実現していくのです。
同じ聖書の言葉を、私たちは今日も受けています。
もちろんいきなりこんなビッグウェーブがくるわけではありませんが、
「私はどうしたらいいのでしょうか?」
と聞くとき、心が変えられ、行動が変わり、習慣が、性質が変わっていきます。
それが同心円状に広がっていきます。
初代教会ではこうして新しくされた心が広がっていきました。
私たちも心新たにしていきたいと思います。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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