1月14日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 21章 1~23節
「失敗者を神の栄光を現す者にされる主イエスの愛」
           東海聖書神学塾 後藤喜良師

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」
21:1,2

ここには7人の弟子がいました。
彼らは3年近くもイエスと過ごしていました。
イエスの起こした奇跡をどれほど見てきたことでしょうか。
何度もイエスに命を助けられてきました。
イエスが愛してくださることを知っていました。
しかし、主がとらえられると、みな主を見捨てて逃げ出しました。
ペテロは「わたしだけは決して裏切らない」と言っていました。
しかしその数時間後にイエスのことを「知らない」と言いました。
3度目には「神に誓って」とまで言い切りました。
ルカはこう書いています。

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。」
ルカ22:61,62

イエスは、彼らを出会った場所へ導かれました。
もう一度、再出発するために。

「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」21:6

大漁の奇跡は彼らが出会ったときに起きたできごとです。

「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた。

そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』」
ルカ5:3,4,6、9,10

今回、最初にイエスは「子どもたちよ」と呼びかけられました。

「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。」21:9

そして、ご自身で彼らのために朝食を準備されていました。
パンと魚です。
その炭火の前で、イエスはペテロに「わたしを愛するか」と言われました。

みなさんは、昨年一年を振り返って、
「主の御言葉に従いました」
と言えますか?
「主に従えなかった」
「主をあかし出来なかった」
「十分ではなかった」
と言いますか?
ぜひ祈ってほしいのです。
昨年がどうであっても、新しい年が、主の弟子として成長する年となるように。
イエスを信頼し、従う年となるように。
昨日よりも今日。
昨年よりも今年。
もっと主を愛する自分になりたいという祈りを捧げていただきたいのです。

6人の弟子たちはペテロとイエスのやりとりを聞いていました。
彼らも問われていました。
「本当に主を愛しているだろうか?」と。

ペテロの裏切りについて、福音記者によってとらえ方が違います。
ルカは「ペテロの信仰が足らないから主を裏切った」と教えています。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

主が祈られたのは、ペテロの主への「信仰」が欠けているからです。

一方ヨハネは、ペテロが裏切った一番大きな問題は、「愛が足らなかったから」だと教えています。
主の願うとおりにできないのは信仰が小さいから、愛が弱いから、イエスへの期待が小さいからです。
私の主への信頼は確かでしょうか。
愛は十分でしょうか。
「主はかならずしてくださる」という希望を持っているでしょうか。

イエスは言われます。
「わたしはあなたに愛して欲しい」
「あなたの愛をもとめている」
「あなたは私を見捨てた。裏切った。そかし私はあなたに愛して欲しい」
「いつまでも互いに愛し合う者でありたい」
と語られたのではないでしょうか。
私に、そう語られたと思いました。
「私の愛は取るに足りない愛。こんな愛が必要なんですか?」
と問い直しながら歩んできました。
でも、私は確信しています。
12人の弟子を愛された主は、私をも愛して下さる。
私の愛を求めて下さる。
愛せるように聖霊を満たして下さると。

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』」21:15

この人たち以上に。
これは、ペテロの過去の愛に対する問いかけです。

「すると、ペテロがイエスに答えて言った。『たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。』
イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。』
ペテロは言った。『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。』」
マタイ26:33~35

ペテロはかつて、他の弟子が全員つまずいても、自分だけはつまずかないと言い切りました。
「他の弟子よりも、自分はイエスを愛している」という考え方で生きてきたのです。
ところが、他の弟子は、十字架を前にして逃げただけですが、ペテロは他の弟子以上に裏切りました。
3度も「知らない」と否定した、より重い罪です。
そんなペテロにイエスは
「今でも他の弟子以上に私を愛するといえるのか?」
と問われたのです。
みなさん、他の人と比べないで星と思います。
「私はあの人よりも信仰深い」などと言うべきではありません。
本当に高ぶっている態度です。
私たちは、主の愛の豊かさ、深さ、力強さを経験できます。
罪深い、自己中心の心を貫いて愛して下さる主の愛を知ることができます。

1度目、2度目のこの問いを、イエスは「アガペー」で聞いています。
ペテロは「フィリア」で答えています。
とんでもないことが起こるとき、「主は私を愛されているのだろうか」と思う時、「愛されているから愛する」というフィリアn愛では愛せません。
「愛されていないのではないか」と思う時でも、「愛します!」というのがアガペー。
ヨブのように、ダニエルの3人の友人のように。

イエスはそれに答えて「私の小羊を飼いなさい」と言われました。
すなわち、「新しい信者を養うように」ということです。
日本では、洗礼を受けた人の内、教会生活を続けるのは平均して3年半だという統計があります。
小羊、子どもは本当に悩んでいます。
主に従うことが難しく感じています。
ペテロのように「もう従えない」となってしまいます。
ペテロは、自分も「裏切った者」として慰めの言葉h、赦し、励ましを与えることができる。
洗礼を受けた幼い信者ひとりひとりのケアをして欲しいと思います。
エルサレムを離れて行こうとするエマオへの旅人に、主は数時間を費やしました。
教会から離れないように、私たちも出て行かなければなりません。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

みなさんは告白の祈りをしていますか。
賛美、感謝、願いはしているでしょう。
愛と信仰の告白をしていますか?
詩篇ではたくさんの人が告白をしています。
主に答えていますか?
主の愛が感じられないなら、そう言いましょう。

ペテロが二度目に「今からは裏切らない」と答えた後、イエスは「羊を牧しなさい」と言われました。
群れの全体を守っていくようにと。
牧師になるようにと。
教会の指導者、使徒として任命されたのです。
ペテロは「牧す」ことに生涯を掛けました。
彼が書いた手紙の中で、この使命を託しています。

3度目にイエスは「フィリア」の愛で問われました。
未来に向けての主の問いです。
主は「フィリアではダメだ」とは言われません。
「私も愛するから、あなたも愛してくれるか?」と言われます。
ペテロは心を痛めました。
どのように痛めたのか。
アガペーで聞かれなかったので、自分の愛の薄さを見抜かれれたのかと思ったのでしょうか。
自分自身が「アガペーで愛します」と言い切れないふがいなさに心を痛めたのではないでしょうか。
ペテロは

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」21:17

と答えます。
ここには大きな期待があります。
今はもとめられる愛では愛せない。
でも、主は私についてすべてを知っていらっしゃる。
弱さも、不信仰も、将来も。
イエスはヨハネの子シモンをペテロ(岩)と呼び、堅く立つようにしてくださいました。
岩になる。
不動の者になる。
主は私の将来の姿を知っておられます。
完成された姿を。
神のことばを表すために、ペテロは弟子になりました。
失敗し、心を砕かれていますが、将来は全身全霊で主を愛するようになり、主のようになる。
主は、最後に「私の羊を飼いなさい」と言われました。
大人になった信者も訓練するようにと言われたのです。
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1月7日 聖日礼拝

テトスへの手紙 3章 14節
「良いわざに熱心に励みなさい」
             大治福音自由教会 服部真光牧師

主の年2018年、あけましておめでとうございます。
年号は「王の治世」を表します。
平成30年は、現天皇在位30年目ということを表します。
まもなく皇太子に譲位すると、新しい年号に変わります。
主の年2018年。
イエスは「悔い改めなさい」と宣教を開始し、神の国の福音を宣べ伝え、あがないの代価としてご自身の身を捧げ、罪の赦しを与えて下さいました。
信じる者に永遠の命を与え、神の民として下さいました。
イエスはダビデの地位を継ぎ、神の国の王座についておられます。
それから2018年目を迎えるということをしっかり見据えるべきです。
神の王座はとこしえまで変わらず、イエスが即いておられます。
大局を見ることが必要です。

人は年の変わり目に、これからの一年をどうすべきかを思い描きます。
目先の事が目を引きますが、それを越えた将来像を見据えて今を生きることが大切です。

「私たち一同も、なくてならないもののために、正しい仕事に励むように教えられなければなりません。それは、実を結ばない者にならないためです。」テトス3:14

神の民である私たちは「なくてはならないもののために心を向けることが必要です。
日本はとても豊かな国です。
大掃除をするとたくさん不要な者が出てきます。
かつては必要だったけれど、それを手放します。
今必要な物とそうでないものを見極めます。
そうしないと古いものに占拠されて、なにが大事かわからなくなるからです。

「なくてはならないもの」というと、マリヤとマルタの話を思い出します。
イエスをもてなすために忙しく働いていたマルタ。
一方でイエスのそばに座って話をしているマリヤ。
マルタはマリヤのことでイエスに不満を言います。
するとイエスは

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ10:41,42

と言われました。
人生において、教会において、なくてはならないものは何か、ということに心を向けることが必要です。
成すべき事に取り組むなら、主は必ず実を結ばせて下さいます。
実を結ぶ働きにこころを向けていくことが必要です。
「永遠の命が与えられてよかった」で留まっていてはいけません。

正しい仕事、良いわざとは何でしょうか。
罪からあがない出された目的は何でしょうか。

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」テトス2:14

「~ためでした」という部分を失ってはなりません。
救いの目的を見失ってはなりません。
この世から取り分け、熱心な民とするために、キリストはご自身をささげてくださったのです。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:10

よいわざに取り組むようになるために、よいわざがあらかじめ定められています。
神が準備して下さっています。

「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
ピリピ1:5,6

良い働きとは、福音を広めることです。
多くの人は「自分が幸せならいい」に留まってしまいます。

私は牧師の家庭に育ちましたから、たくさんの宣教師、牧師に出会いました。
そして、ひとつの疑問を持ちました。
「何でこの先生はわざわざ日本を離れて未開の地へ出て行くのか?」
「せっかく教会を建てたのに、なぜ次々と新しい拠点に移っていくのか」
「なぜまた一から出発するのか」
「なぜ安定した生活から、だれも知らないところへ出て行くのか」
なぜなのか。

キリスト・イエスが私たちを宣教のために召して下さったからです。
召された人々の熱い情熱を聞かされる度に、「主は生きておられる」を感じました。
目に見えないけれど、世界を治めておられる神がおられなければそんな選択をするはずがありません。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」マルコ16:15

これは教会に与えられた使命です。
すべての働きがそこに向かっていきます。
ガーナへ海外青年協力隊として行った友がいます。
様々な方法で福音を広めることにあずかっていくのです。

最初の弟子は12人でした。
ペンテコステの前に祈るために集まっていたクリスチャンは120人。
2018年の時代を経て、今世界の人口の3分の1はクリスチャンです。
福音はあらゆる国を超えて伝えられてきました。
私たちは各々の文化の中で生きていますが、それを越えて、神の国に仕えるものとされています。
皆が牧師や宣教師になる必要はありません。
どんな職でも、そこで関わる人々に福音を証していけばよいのです。

まず、毎週生活の場から教会に来ることが第一歩です。
礼拝を通して証ができます。

第2に、どんな場所でも、生きているところでクリスチャンとして生きることです。
誠実に生きること。
ある先生の言葉です。
「ひとりのクリスチャンが、その場でクリスチャンとして生きれば、半径500mに影響が及ぶ。」

第3に、教会に宣教師や牧師、アーティストが来て、報告を聞きます。
そのために祈りを捧げます。
そうすることによって、良きわざを広げることにあずかることができます。
スポーツ選手でもそうですが、応援してくれる人がいるからプレーができるのです。
自分ができることで貢献していきましょう。

12月31日 年末感謝礼拝

ヨハネの福音書 4章 16~26節
「今時の礼拝」
               KGK副総主事 吉澤慎也師

私は中学生の頃から礼拝に主席し始めました。
よく寝ていました。
高校の頃、ノートを取るようにすれば眠くなくなると聞いて、なるほどと思い試してみました。
残念ながら私にはあまり効果がありませんでした。
ノートはいつも途中から意味不明な文と、大小様々な曲線で彩られていました。
何とか眠くならないようにするために、頭の中で他のことを考えるという技術を身につけました。
前を向き、聴いている風で、全く違うことを考えていました。
読んでいる漫画の続き、デートの妄想。
顔だけは真剣にうなずきながら、さも聴いているように。
こざかしいテクニックを身につけました。
真面目に「礼拝とは何か」を考えるようになったのは十代後半です。
自分は何のために礼拝に出ているのか。
礼拝のプログラムにはどんな意味があるのか。
今日は、2017年最後の主日礼拝です。
クリスチャンにとって最も大切と言われる礼拝について学びたいと思います。

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
ヨハネ4:4

当時イスラエルは3つの地方に分かれていました。
北から「ガリラヤ」「サマリヤ」「ユダヤ」です。
イエスはユダヤにいました。そこから北のガリラヤへ向かおうとしていたようです。
最短ルートはサマリヤを抜けるルートです。
そうすれが3日で歩いて行くことができました。
が、当時のユダヤ人は遠回りをしていました。
サマリヤを避けて、迂回していったのです。

「そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである――」4:9

ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかった。
だから避けていた。
では、なぜでしょうか。
宗教的、民族的な理由がありました。
サマリヤ人も元々はユダヤ民族でした。
しかし、長い歴史の中で他の民族の血が混じってしまいました。
いわば混血の民族です。
ユダヤ人は「サマリヤ人は純粋なユダヤ民族とは言えない」と考え、彼らを大変きらっていました。
そこに緊張関係が生じ、敵意ともなっていきました。
旅をするとき「サマリヤに足を踏み入れるぐらいなら遠回りした方がましだ」と思うほどに。

しかし、イエスはサマリヤを通って行かれました。
これは異例なことです。
急いでいたのでしょうか?

「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。」
4:6,7

イエスは水を飲もうとされました。
ここから15節までは「水」の話が続きます。

「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」
4:15,16

ところがイエスは、水のはなしとは打って変わっていきなり「夫婦」の話を振ってきました。
この女性の私生活、結婚生活について話を向けたのです。

「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』」
4:19,20

今度は、女性がいきなり礼拝の話をし始めます。
次々と話題が変わっていきます。
夫婦の問題は、女性にとって楽しい話題ではなかったに違いありません。
だから話題を変えようとしたのでしょう。
プライドやわがままを持ち込みやすい部分が「男女関係」です。
この女性にとっても、そこは急所でした。
しかも、イエスはえぐい突っ込みかたをしてきました。

「女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」
4:17,18

女性は罪を指摘されました。
5人の男性と結婚し、すべてうまくいかなかったこと。
当時は男性の側から離縁を申し渡すのが慣例でした。
今は正式に結婚はしておらず、同棲していました。
イエスは唐突に彼女の罪を指摘されたのです。
女性は心の中で慌てたかも知れません。
そこで急に礼拝の話を始めました。
それにしても、ただ話題を変えるだけなら「あなたはこれからどこに行くのですか」と問いかけてもよかったはずです。
なぜ礼拝の話なのか。
礼拝する場所も、ユダヤ人とサマリヤ人が敵対する原因のひとつでした。
サマリヤ人はゲリジム山で礼拝していました。
一方ユダヤ人はエルサレムで礼拝していました。
一見何の脈絡もないようですが、重要な意味があります。
礼拝者のあり方について、この女性の態度に隠されています。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」4:23

今こそ真の礼拝者が父を礼拝すべき時です。
男癖が悪く、不道徳な女性。
人目を避けて、人の来ない時間帯に水をくみに来る女性。
この女性にこそ真の礼拝者の姿があると、聖書は言っています。
罪を指摘されたときに、礼拝の話をした。
つまり、心が神に向き始めたということです。
罪を自覚させられて、神を求め始めたのです。
罪に気付き、自覚し、それゆえ心が神に向き、神を求めていく。
それが真の礼拝者です。
人に知られたくない自分の醜さに気付き、恥じらいを覚える時に、神を求めていく。
ここに礼拝者のあり方が示されているのではないでしょうか。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」4:24

ここに大切なメッセージがあります。
教会が捧げている礼拝のメッセージです。
「霊とまことによって」とはどういうことでしょうか。
これを、人間側の応答と考えることが多いかもしれません。
「がんばって、そうしなければならない」と。
「どうすれば真の礼拝者になれるのか?」と考え込むかも知れません。
その舞えん、まず覚えたいことは、神は私たちを招いて下さっているということです。
神は私たちを真の礼拝者として招いておられます。
あの女性は、聖く正しい人ではなく、罪深くて弱い人間でしたが、イエスは彼女を招かれました。

「喉が渇くと水を飲みたくなる」というのはすべての人の問題です。
人間の不完全さ、不安定さを表しています。
男女関係もすべての人に共通の問題でしょう。
人は、支配とあやつり、罪の中でもがいて生きています。
そんな中にいたサマリヤの女性に、イエスの方から近づいて行ったのです。
本来つきあわないサマリヤ人に。
まして、イエスは男性です。
イエスはラビのような存在でもありました。
常識では考えられないことでした。
それをくつがえして、イエスは声を掛けられました。
もしかしたら、この女性に会うために、イエスはサマリヤを通ったのかもしれません。
イエスはこの女性を礼拝に招いています。
同じような弱さを抱えている私たちにも、主は声を掛けて下さいます。
私の所にも来て下さいました。
私を招くために。
自らの罪に目を向けさせられるとき、同時に神にも心が向いていきます。
主に触れられたい、赦されたい、礼拝したいと。
今がその時です。

霊とまことは人間の一生懸命の努力によるものではなく、神が人間に与えてくださるものです。
神は聖霊を与えて下さいます。
与えられた霊と、まことによって礼拝するのです。
罪に気付き、告白し、礼拝したいという思いに導かれていきます。
何と大きな恵みでしょうか。
この一年を振り返ってみても、神を悲しませたことがたくさんあったことでしょう。
それでも、なお主は私たちをこの礼拝に招いておられます。
何と大きな恵みでしょうか。
場所や民族を超越していくのです。

「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」4:21

礼拝する場所は関係ありません。
「ここでなければ礼拝できない」というものではありません。
世界中のいたるところで神を礼拝するときが来ます。
いや、もう来ています。
新しい時代の礼拝。
今時の礼拝です。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』
イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
4:25,26

「わたしがそれです」「人は皆私を通して礼拝する」と、イエスは言われました。
イエスが父との仲立ちをして下さいます。
神殿そのものとなってくださるのです。

私たちのすべき応答は?
心からの礼拝をささげましょう。
かつてエルサレムでは動物を捧げたり香を焚いたりしました。
物質的な要素を通して心から礼拝をささげていました。
それは形式主義に陥ってしまいました。
今は、賛美や祈りなど非物質的要素がほとんどです。
しかし、参加するだけで霊とまことによる礼拝をささげているということになるのでしょうか。
今も形式主義に陥る危険は大いにあります。
心が伴っていないとしたら、いるだけで礼拝になるでしょうか?
経験的にそうではないと思わされます。
神の前に出ること、自分を偽らずに正直に見せること。
ありのままに神の前に進み出ていくこと。
そこには喜びがあります。
「喜び」はバロメーターのひとつです。
礼拝には喜びがあります。
時代がどう変わろうと、喜びを持って礼拝したいと思います。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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