7月16日 聖日礼拝

使徒の働き 2章 1~13節
「聖霊の力」
             hi-b.a. 丸山告スタッフ

1週間、hi-b.a.のキャンプ場でワークキャンプをしてきました。
スタッフは最初から作業をしていますが、学生は入れ替わり立ち替わりキャンプ場に来ます。
キャンプ場には、私たちが「ガリラヤ湖」と呼んでいる池があるのですが、そこには水草が広がっています。
それを取り除きます。
蓮の花が満開でした。
窓をきれいにしたり、刈り払い機で草を刈ったり、やることはたくさんあります。
でも、途中から参加した人は、
「案外きれいだね」
といわれたりして、ちょっとムッとします。(笑)
今回一番大変だったのは、屋根に登っての作業でした。
利用する高校生は気付かないだろうと思います。
でも、意味がある作業です。
労力を凍死することに意味があります。

「聖霊の力」は、聖霊ご自身は強調しない力です。
「神さま」「イエス様」「聖霊さま」と言うとき、どの呼び名が一番しっくりきますか?
「神さま」は一番多く遣われるのではないでしょうか。
人格として、「イエス様」とも呼びかけるでしょう。
「聖霊さま」とはあまり言わないでしょう。
「聖霊さま」と呼びかけるのには何か違和感があります。
あまり人格的に関われる感じがしないからです。
三位一体の一人のお方であると言うよりも、目に見えない大きな力のようなものだと考えているのではないでしょうか?

「彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、『バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい』と言われた。」13:2

ここには、「聖霊が~言われた」と書かれています。
聖霊は人格的なお方であることが分かります。
今日の箇所は、「ペンテコステ」聖霊降臨のシーンです。
「風のような目に見えない力」ではなく、「炎のような分かれた舌」が現れたと書かれています。
これはなかなかイメージしにくく、理解しにくいです。
イエスが天に上げられてから50日。
120名の祈りの結果として、教会の誕生へ導かれました。
使徒たちは全ての民に語る用意ができたことを表すできごとです。

①使徒2章では、バベルの塔の逆のことが起きている。
②福音というすばらしい共通語が,聖霊によって拡大していく。
③聖霊を受けることは、神の愛を受け、満たされることである。



「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
2:2~4

創世記11章にバベルの塔の記事があります。
その目的は、バベルの町を大きくして、神の所へ行くことでした。
神を追い出して、自分たちが支配するためです。
神に、自分たちの力で届こうとしたため、神は彼らの言葉を混乱させました。
そして人々は散らされていきました。

使徒の働きでは、弟子たちが様々な国の言葉で語りました。
国の違う人々がコミュニケーションできるようになりました。
協力して福音を伝えていくように。
ここで対比されているのは、「神が望まない人間の一致」と「神が望む形での人間の一致」です。

未知の人とつながろうとするときの方法として、一番簡単なのは「悪口」です。
高1の時、初めてクラスに入ったときのことです。
教室の中には話す気配がありませんでした。
みんな様子見をしている感じでした。
自己紹介の時間があって、金髪にロングヘアの子が、「サーフィンが趣味です」と言いました。
(実はサーフィンはやったことがなかったらしいですが)
その次の休み時間に、
「あいつなんかムカつく」
「そうだよね」
と、人が集まってきて話が盛り上がり、仲良しになりました。
人間は、よいことをするためにも結束できますが、悪い思いで結託することも簡単にできるのだと思いました。
小さなバベルの塔がたくさなるのです。
主はそれを望んではおられません。
ペンテコステでのできごとは、皆がひとつの言葉で話すようになるのではなく、様々な言葉で語るようになる、という方法で協力し合うこと。
文化や言葉の違いを、聖霊が超えていくのです。


「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
2:9~11

色んな人たちがそこにはいました。
東方の人、メソポタミア、西アジア。
ほとんどがアジア系の人々でした。
120人の弟子たちはガリラヤ出身の人々のはずなのに、様々な言葉で話しました。
「異言を語る」という不思議なことが起きたのもイレギュラーなことですが、ここのポイントは「神の御業が語られた」ということです。
キリストの十字架と復活は、自分のためであるという証です。
120人が同時に証をしたと考えれば共感できるのではないでしょうか。

9月中旬に開かれる東海宣教会議のプレユース大会が先日行われました。
この会議は、hi-b.a.とKGK、CCCという3つの団体が協力して実現したと言うことが素晴らしいのです。
それぞれの団体は、異なる特徴を持っています。
hi-b.a.は平日に定期的に弟子訓練を目的として活動しています。
KGKは学生主体の聖書研究会。
CCCは未信者へのアプローチを目指してキャンパスに出て行って活動します。
同じ信仰を持っているから、初めて会った人とも協力できるのです。


聖霊に満たされるとは、神の愛に満たされることです。
ペンテコステのできごとは、1回限りの特別なことかも知れません。
でも、聖霊の働きやその結果を怪しまずに受け入れましょう。
三位一体の本質は「愛のある方」です。
「神に愛されている」と感じるなら、それは「聖霊を受けている」と同義語です。

私の聖霊体験を話しましょう。
中学1年の時です。
私は小学校6年生から草加福音自由教会に通っていました。
その時、JYLCのキャンプに参加しました。
期待はしていませんでした。
ただいつもキャンプに参加するから、今年も行く、という感じでした。
講師は安海先生でした。
初日の、最初のメッセージで、開口一番こういわれました。
「この中で、すでに信じているのに洗礼は後でいいと思っている人はいませんか?
 洗礼を受けるのは、中学生でも早くないです。」
突然です。
「自分のことだ」と思いました。
先生は私の方だけを見ている気がしました。
心臓が高鳴ったのを覚えています。
神さまが直接語っている、と感じました。
「不思議なことが起きた」とか「病気が治った」とかではなく、「私を愛しているから、この日を造って下さったのだ」と感じたのです。
「自分も愛されている」と感じうるのは、立派な聖霊体験です。
人それぞれの形で。
私の場合は地味でしたが、実感がありました。

言葉では説明できない、というのが聖霊を受けた人を見ている人々の反応でした。

「人々はみな、驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか』と言った。」2:12

「しかし、ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ』と言ってあざける者たちもいた。」2:13

二種類の反応がありました。
第一は、理解を超えた現実を探ろうとする人。
第二は、自分の考えられる経験の中で完結しようとする人。
キャンプ中に見違えるように変わっていく学生がいます。
ビックリするのは送り出した家族です。
教会の、割安なキャンプに参加させたら、クリスチャンになって帰ってきたのですから。
家族の反応も分かれます。
「早まるな。そんなものを信じてはいけない」と反対する。
「いったいどうしたことだろう」と疑問を持って教会に行く。

私たちも聖霊の力は感じるし、実際に聖霊を受けています。
聖霊の働きに目を注ぎ、耳を傾けましょう。
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7月9日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 15~23節
「神はキリストを与えられたほどに私たちを愛しておられます」
          東海聖書神学塾塾長 後藤喜良師

福音とはどういう意味でしょうか。
この教会の名前にも含まれています。
福音とは「喜びの知らせ」という意味です。
それを受け入れるとき、大きな喜びを持って生きることができます。
みなさんは、今日、福音の喜びを持っていますか?
「神に愛されている神の子である」という喜び。
お金や健康やそういったものによる喜びではなく、わたしたちにとっては、創造主が私たちを愛して下さり、子にして下さったということ。
そして、成長させて下さるということが一番の喜びの源です。
私はそれを喜び、感謝して歩んで行きたいと願っています。
そうしてくださるのは聖霊の働きです。
父は救いの計画をお立てになり、御子キリストが救いを完成して下さり、聖霊が一人一人の内に働いて下さいます。

それが、エペソ書の1章14節までで学んできたことです。
私たちにとって救いは単に「罪の赦し」「良いと認められたこと」だけでなく、生まれ変わり、神の子とされており、キリストの姿にまで完成されるということです。
それは「愛の人」としての完成です。
信仰生活は、毎日少しずつ、イエスの姿に変えられていくことです。
その喜びを味わいながら私たちは生きています。
私たちは、イエスと同じような経験をしながら変えられていきます。
「こういうとき、イエスはどうしただろう?」と、イエスに見習って生きていきます。
人と接し、愛していきます。
人生の中で経験することは、イエスがすでに経験されたことです。
イエスが出会ったのと同じような人と、私たちは出会います。
神の国に最初に行ったのはイエスです。
イエスのようでなければ神の国には入れません。
神は、「愛している」という証拠として御子を、キリストを、与えて下さいました。

今日の説教題を見て、聖書の言葉が思い浮かんだ方も多いでしょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

もし全世界の聖書が焼かれてしまってなくなっても、この1節があれば人は救われる、とさえ言われている、「聖書の中の聖書」と言われている御言葉です。
ここで言われているのは、神が「世」を、すなわち「全ての人々」のために与えられたということです。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」1:22

今日の箇所では、キリストを「教会に」お与えになったと書かれています。
教会、すなわちクリスチャンに、クリスチャンの集まりに、キリストをお与えになったというのです。

「ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」』」
ヘブル10:5~7

御子が世に来て下さったのがクリスマスです。
イエスは罪を犯さず、みこころを行い、その義が私たちに与えられて、私たちの罪の全てを負って下さいました。
私たちの代わりに罰されて下さいました。
そして、3日後によみがえられました。
こうしてイエスの正しさが、私たちのものとされたのです。
イエスは天に帰り、聖霊をお与え下さいました。

時空を超えて、聖霊は私たちに救いを与えて下さいます。
聖霊が救いを持って来てくださいました。
「イエスの死は私の罪のためだ」と信じることができるのは聖霊の働きです。
私たちが神の子とされ、「父なる神」と呼べるのも聖霊の働きです。
2千年も前のイエスの十字架が「私の罪のためだ」と分かるのは、聖霊の働きによらなければできないことです。
聖霊によらなければ「イエスは主です」と言うことはできません。
「イエスは私の主です」と告白した人だけがバプテスマを受けます。
まだ「私の主」と分からない方、言えない方がおられるなら、祈って欲しいと思います。
理解できるように。
確信できるようにと。

信仰を持って告白できる人の心には喜びがあります。
聖霊の愛が注がれているからです。
その人には、神の子として歩む喜びがあるはずです。

イエスが「私に与えられた」ということはわかっても、エペソで言われていることが分かっていない人がいます。
教会の中には「10年後にはなくなっているかもしれない」と危惧している教会もあるのです。
以前ある教会に行きました。
私は他所の教会に行くときは「牧師」であることを明かさずに行きます。
そこは7,8名の高齢者が中心の教会で、女性の牧師でした。
平均年齢が73歳。
礼拝後、私は「牧師先生ですよね?」と話しかけられました。
「え?なぜ分かったんですか?」と尋ねると、
「あんなに大きな声で賛美をされる方は牧師に違いない」と言われました。
そして、「10年経たないうちにもう一度来て下さい」と言われました。
「10年後には私は生きているかどうか分からないから」と。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」1:22

これは第2の福音。
教会への福音です。
イエスは復活し、昇天し、天の御国で着座されました。
そのとき、きっとこんな会話があったのではないかと想像します。
「イエスよ、人の罪を赦すための働きをよくしてくれた。
今、教会を完成させるためにもう一度おまえを教会に与えたいのだが、行ってくれるか?」
と。

「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」マタイ26:29

イエスは最後の晩餐で、こう言われました。
これは、「必ず天であなたがたと再び共に食事をする」という約束です。
全世界を治める王の王であるキリストを、主は教会にお与えになりました。
それは、「聖霊をお与えになった」ということです。
全ての信者に。
全ての教会にです。
聖霊はキリストご自身の霊です。

「自分は成長できるか?」と心配する必要はありません。
世界で最初のクリスチャンは誰だと思いますか?
それは、人としてのキリストです。
イエスは、試みや迫害の中でも、神の子として、神に従って生き抜かれました。
その方の霊が、私たちに与えられているのです。
神の愛に満たされて歩むなら、イエスのように生きることができます。
人間的な知恵や愛によってではなく、聖霊によって、イエスのように行きたいと願います。

主は、この名古屋西福音自由教会を愛し、この教会のために聖霊をお与えになりました。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」1:23

聖霊は、教会が必要としているもの、一切を満たして与えて下さいます。
それを確信して欲しいと思います。
お金も含めて全てです。
しかし、物やお金だけではありません。
喜び、平安、知恵、力、全てを与えて満たして下さいます。
イエスと弟子に起きたことは、必ずここにも起こっています。
それでも、教会を建て上げたイエスが共におられます。
キリストが全てを満たして下さいます。

「――この『上られた』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。
この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです――」
エペソ4:9,10

7月2日 聖日礼拝

ルカの福音書 15章 11~32節
「わたしと一緒に喜んで下さい」
           大治福音自由教会牧師 服部真光

キリストは教会の頭であり、私たちの主です。
御子を地上につかわしたのには理由があります。
それが教会の果たすべき使命でもあります。
その自覚を忘れてはいけません。
どこに向かうのかを見失ったら迷走してしまいます。
確かなめあてがあってこそ、前進することができます。

主イエスが地上に来られた使命とはなんでしょうか。
ルカの福音書19章にはザアカイの話が載っています。
そこでザアカイについて語られたイエスの言葉はこうです。

「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」
19:9~10

失われた者、アブラハムの子を、もう一度神のことする為にイエスは来られました。
教会が教会であるために、名古屋西福音自由教会という船が舵を切ることが大事です。
失われた人を捜して救うために、賜物を生かしていくことが。

今日の箇所は、イエスによるたとえ話三部作の3つめです。
ひとつ目は100匹の羊の話。
99匹を残して失われた1匹を捜す羊飼いの話です。
ふたつ目は10枚の銀貨の話。
失われた1枚の銀貨を探し回り、見つかったら近所の人を招いて祝ったという話です。
この10枚の銀貨は、セットになっていたと言われています。
たとえば、ジグソーパズルでひとつでもピースが欠けたら全体の価値がなくなるように、失われた1枚の銀貨はかけがえのないものだったのです。
そして、今日の箇所、「放蕩息子」の話です。
これら3つのたとえ話をイエスがされた理由は、「人の子は失われたものを捜して救うために来た」ということを教えるためです。
そして、イエスのされている救いの御業を、あなたも共に喜んでほしい、携わって欲しいと願っておられるのです。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。」ルカ15:1

取税人、罪人たちがイエスのもとに近寄ってきていました。
なぜ近寄れたのでしょうか。
イエスは彼らの心に向かって心の扉を開けておられたからです。
パリサイ人はそうではありませんでした。
世の中の人々が教会をどう思っていると思われますか?
多くの人は「私のような者が行くところではない」と思っているのです。
私たちの心は、開かれているでしょうか?
つまずき、倒れている人が教会に来ることを拒んでいないでしょうか?
世に出て行っているでしょうか?

パリサイ人のイエスに対する批判はこうです。

「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」15:2

「本当は私たちと一緒に食事をすべきではないのか?」と責めているのです。

日本の教会に起きているひとつの問題は、「牧師を教会に縛り付けてしまう」というものです。
教会員は「牧師には教会の信徒の面倒を見て欲しい。」と願うので、牧師は地域社会に関わることなく無関心になってしまう。
教会の本来の使命は、働きを共有し、喜びとすることです。
なくしていた一枚の銀貨を見つけた女性は、近所の人たちを招いて喜びました。
そんなことをしたらお金がかかるのに。
大損ではないのか?と思います。
しかし、教会が教会であるということは、人が救われることを共に喜ぶことです。

聖書は注意深く読むと、気付くことがたくさんあります。

「弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。」15:12

弟が財産を要求したとき、父は「ふたりに」分けてやったのです。
弟だけではありません。
財産をもらった弟は、息子のしるしの指輪さえ売ってしまっていました。
ところが帰宅すると、父は弟に指輪をはめさせ、息子としての身分を回復してやりました。

「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』」
15:29,30

ここを読むと、兄が弟の消息を知っていたことがわかります。
もちろん父も知っていたでしょう。
だからこそ兄は腹立たしかったのです。

「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
15:31,32

しかし、全ての物は兄の物でした。
父からすでに分けてもらっていたのですから。
弟は財産も、身分も全てを失いましたが、それらを全て失ったとしても失われないものがありました。
それは永遠の命をあらわしています。
私たちは、永遠の命、聖霊の証印をいただいているのに、「子ヤギ一匹もらっていない」などと言ってはいないでしょうか。
圧倒的な恵みを忘れて。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といいますが、恵みが当たり前になり人を見下す思いが芽生えてくる…それが兄の姿です。
このたとえ話の中心は、弟ではなく兄の姿です。
神の御業が行われ、失われた人が見いだされているのに、すねている兄。
これは、先に救われている私たちへの投げかけです。
私たちは使命を自覚しなければなりません。
3つのたとえ話に共通して出てくる「一緒に喜んで下さい」という主の心を私の心として使命を果たしていきましょう。

6月25日 聖日礼拝

コリント人への手紙第2 5章 11~21節
「神の和解を全世界へ」
             柳橋神学生

私たちは全能であり創造主である主の愛を知ることができました。
主は一人一人に神ご自身を求めるよう訴えかけておられることを学びました。
神の「私を求めよ」という切なる思い。
一人として滅びることを望まず、信じて神を喜ぶ者になるようにと2000年前にイエスを遣わされました。
そして、教会を通して福音を世界の隅々にまで述べ伝えるようにとゆだねられました。

「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。」5:11

パウロが言う「主を恐れる」とはどういうことでしょうか。
「こういうわけで」の前の1節を見てみましょう。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」5:10

ここには、裁きの日が来るということが書かれています。
私たちはその行いに応じて報いを受けると。
パウロはローマ人への手紙でこうも言っています。

「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」
ローマ2:6~8

神に従わず、他の物で自分の人生を支配しようとする者。
悪を行えば必ず報いがあることを知っているのに拒み、心で否定する。
それが罪です。
主は人の行為に応じて裁かれます。
裁きは、キリストの復活によって確証を与えられました。
よみがえられ、今は父の右の座に着いておられる御子は、万物について権威を持っておられます。
裁きの権威もです。
パウロは、主を恐れることを知っているから説得しようとするのです。

福音とはなんでしょうか。
パウロが最も大切なこととして伝えたことです。
イエスが十字架に死に、3日後によみがえられたこと。
神の約束がイエスによって成就したという歴史的な出来事です。
それを信じる信仰によって、主は私たちを義と認めて下さいます。
「義」とは、神の正しさです。

「私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』」
ローマ3:9~12

全ての人は罪の下にあります。
だからこそ、福音は全ての造られた者にとってよい知らせなのです。
ただ信仰によって義と認めて下さるとは、一方的な恵みです。
それを受け止め、信じるだけで、主は私たちを受け止めて子として下さり、全ての者を受け継がせて下さいます。
キリストによって。
だから、パウロは福音に堅くたち続けるようにと勧めるのです。

しかし、パウロを避難する人が現れました。

「私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。」5:12

パウロとはどんな人でしょうか。
ユダヤ人。
それも、厳格なユダヤ教徒でした。
イエスの一派を異端と考え、クリスチャンたちを牢に入れ刑に処すほどでした。
ところが、ダマスコへ向かう途中で、イエスご自身がパウロ(サウロ)に語りかけられました。

「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。
彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』」
使徒9:3~6

こうしてパウロは回心し、異邦人伝道に絵師出されました。
そして、アジア、ヨーロッパへ福音を伝えました。
ユダヤ人からも、非ユダヤ人からも非難され、最後には殺されました。
パウロは、アジア、マケドニア、コリントへと伝道し、コリントには1年半滞在しました。
彼らを励ますために訪問もしました。
その後に第2の手紙を書いたと言われています。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」
5:13~18

十字架の死によって示された、陣地を越えた愛が私たちを取り囲んでいます。
自分のためにだけ生きる人生は実を結ばない、空しい人生です。
キリストの支配の内にいることによって、私たちの中には新しい創造が始まっています。
聖霊によって、新しく生まれ変わっているからです。
これらは100%神から出ている、神の憐れみです。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」
5:19~20

主は、私たちに和解の言葉をゆだねてくださいました。
私たちを、ご自身の目的のために用いて下さるのです。
こうして私たちは、サタンにではなく、キリストに仕えるものとなりました。
パウロは言います。
神の和解を受け入れなさい。
恵みを無駄にしないように。
信仰によって留まり続けるように。
これは神から出ている願いであり、イエスは天で私たちを取りなし、主に懇願しておられるのです。
キリストの愛に限界はありません。
だあら私たちは伝えざるを得ません。
キリストの愛が取り囲んでいるからです。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」5:21

イエスは全ての罪を負って死んで下さいました。
「父よ、彼らをお許しください」と言って。
わたしたちは信じて受け入れるだけです。
その時に神との平和を持つのです。

創造主なる神は、反抗する人をも愛し、ひとり子を和解のために与えて下さいました。
そして、和解のこと場を私たちにゆだねて下さいました。
キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。
イエスの為に生きるように、私たちは作り替えられました。
福音を知らずに生きている人がまだたくさんいます。
宣教のわざは、まだ終わっていません。
勇気を持って、人生の中で使命を全うしましょう。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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