6月11日 聖日礼拝

コリント人への手紙 第2 4章 7~16節
「内なる人は日々新た」
          緑バプテスト教会 河野勇師

クリスチャンはなにを目指して生きているのでしょうか。
クリスチャンでなくても立派な人はたくさんいます。
クリスチャンか否かで、目指すものが違います。

ゴールデンウィーク中に長野県の小布施に行ってきました。
そこには葛飾北斎美術館があります。
富岳三十六景や赤富士がとても有名です。
その作品はヨーロッパまで持って行かれ、多くの芸術家や音楽家にインパクトを与えました。
ドビュッシーの「海」は、富岳三十六景の波の絵から影響を受けていると言われています。
では、なぜ小布施に美術館があるのでしょうか。
北斎は86歳から4年間そこにいたからです。
当時はすでに人気は落ち目でした。
広重のほうが有名でした。
北斎はもう版画は造らず肉筆で絵を残しています。
町の祭り屋台の天井画として龍と波の絵を描きました。
彼は89歳になって江戸に行き、90歳で亡くなりました。
93歳の頃の彼の言葉がミュージアムに残されていました。

「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」

という内容です。
北斎は奇人とも言われましたが、彼の人生を考えてみると、だれにもまねできない見事な絵を描き、金も残り、名も永遠に残ることでしょう。
しかし、どんなに作品が素晴らしく、名を残しても、90まで生きてそれで滅ぶとしたら、空しいのではないでしょうか。
私はなにも作れないし、名も残さないでしょう。
100年経ったら、私の名を覚えている人はいないでしょう。
では、人はなにを目指して生きているのでしょうか。
人生には何の意味もないのでしょうか。

地上の人生は、人生の終わりで無になるのではありません。
イエスの復活にあずかり、天国に入れられるという約束があります。
地上の人生で終わりではありません。
では、なにを目指すのですか?

先週はペンテコステでした。
過ぎ越の祭りにイエスは十字架に掛かり、三日目によみがえり天に帰られ、ペンテコステに聖霊が下りました。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」4:7

「土の器」とパウロは言います。
その中に宝を入れていると。
私たちには「復活の命」があります。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2:20

キリストが私のうちに生きている、ということは、私の内に聖霊がおられるということです。
今までの、「土の器」としての命ではありません。
また、聖書のある箇所では私たちの体は神殿であるとも書かれています。
つまり、聖霊が住まわれる神殿です。
人間は、元々そのように造られていたのに、土の器になってしまいました。
そして、キリストによって再び神殿になったということです。
パウロは死ぬような目にあったり、迫害されたこともありました。
また、病にあっても打ち倒されることはありませんでした。
それは神が中におられるからです。

「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」4:14

人生はいつかは終わりますが、復活します。
そのときどうなるのでしょうか。
「御前に立たせて」くださいます。
ある人はその時を怖がります。
神が裁判官で、私たちの失敗を言われるというイメージです。
しかし、ここには「御前に立たせて」くださると書いてあります。
「引っ張り出される」とは書いてありません。
生きているときにしたひとつひとつの良いこと、奉仕、祈り、全てを、イエスが明らかにして褒めて下さるのです。
表彰式と行ってもいいでしょう。
怖がる必要はありません。
イエスは私たちを御前に立たせ、全てを見せて下さり、よくやったと褒めて下さいます。
だから、クリスチャンは神に仕える働きをし始めます。
人生をイエスの為に遣いたいと思って奉仕します。
たとえ結果が出なくても。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」4:16

パウロはそれを知っているから勇気を失いません。
内なる人は日々新たなのです。
主は、クリスチャンになって、どういう人間になったかをごらんになります。
外と内。
「外」とは、クリスチャンになる前の自分です。
「内」とは。イエスを信じて与えられた新しい自分。
新しい命です。
地上の人生は「助走」です。
復活殻が本当の人生です。
地上の人生は本番につながっています。

「新しい」という意味の言葉がギリシャ語にはふたつあります。
ネオスνέοσは、新しいけれどもすぐに古くなり始めること。
カイノスκαινóσは異質の物を表します。

私たちは栄光から栄光へと変えられていきます。
御霊が地上の人生のうちから、そうして下さいます。
天国に行くということは、キリストに似たものになっていくという意味です。
天国に入るのにふさわしい人にとっては、天国は幸せな場所です。
そうでない人にとっては幸せではなく地獄でしょう。
イエスの救いは、人間性を作り替えて天国にふさわしい人間にして下さるというアフターケアまでして下さいます。
聖霊はすでに始めて下さっています。
地上で完璧にはなれませんが、天に迎えられたときには完璧にされます。
やがて新しい世界の一部になるものを、もう作りかけておられます。
もう今から始まっています。
私たちは天国にすでに参加しています。
地上の評価も悪いことではありません。
が、神の国の一部として完成に参加することになると言うことを忘れずに生きましょう。
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6月4日 聖日礼拝

列王記第1 3章 3~15節
「主のみ心にかなう願い」
         大治グレースチャペル 服部真光師

主のみこころにかなう願いとはどのようなものでしょうか?
ソロモン王が夢の中でしたやりとりを通して学びたいと思います。
夢の中の事は深層心理にあることを描いていると言ってもよいでしょう。
私は幼い頃、体調が悪いと、よく追いかけられる夢を見ました。
ソロモンはどのような状況にあったのでしょうか。

「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」3:7

ソロモンは、偉大な父ダビデ王を受け継ぐ王として立てられました。
これは、素晴らしいことであると同時に、緊張を伴うことでもありました。
責任を問われる立場です。
そんな彼に主は
「なにを与えようか?願え」と言われました。

もし、今夜主があなたの前に現れて問われたら、なんと答えるでしょうか。
ソロモンは主に答えました。
そして、

「この願い事は主の御心にかなった。」3:10

ここが大事です。
なぜ御心にかなったのでしょうか?

「ソロモンがこのことを願ったからである。」3:10

主が与えたいと思っていたことを願ったからです。

ソロモンが願わなかったものがふたつあります。

「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、」3:11

①長寿 ②敵の命

王にはたくさんの子がいます。
その中で誰が次の王になるか、いわゆる覇権争いがあります。
その中でソロモンが選ばれたのです。
でも、ソロモンは自分の敵の命を求めませんでした。
「あの人がいなくなればいいのに」
「反対勢力がなければ・・・」
と思うのが常です。
国外からの圧迫もあったはずです。

では、彼の願ったことは何だったでしょうか。

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」3:9

「神の知恵を与えて下さい」
「神の持っている善悪の判断基準を教えて下さい。」
と願ったのです。
なぜこれが御心にかなったのでしょうか?
なぜソロモンはこれを求めたのでしょうか?

ソロモンの心の内にあったことはこうです。

①自分の使命を自覚していた
人生がふらふらしている人は、生きている目的が分かりません。
だから自分の使命が分かりません。
ソロモンの使命は任された民を裁くことでした。

②使命を果たすために自分に欠けているもの、必要なものを知っていた
この時点で、ソロモンには王としての経験はゼロでした。
父ダビデを見てはいたでしょう。
しかし、自分が王としてどう治めたらよいのか分かりませんでした。
私が若い頃学習塾でバイトをしていた時のことを思い出します。
自分も勉強ができないという経験をしていたので、どうアドバイスしたらいいかがわかりました。
毎日5時間勉強しても成績が上がらない。
そんなときに友人が教えてくれたのは、
「問題集は1冊でいい。
 解ける問題はもうやらなくていい。
 できないなら苦手な分野を発見することが第一だ。
 解けなかった問題をチェックして、それを解けるようになるまでやりなおせ。」
ということでした。
同じ事を塾の生徒にアドバイスして、成果が上がりました。

③「できない」と思ったときに「ダメだ」と思うのではなく「それが欲しい。与えて下さい」と祈る
主が求めているのはそのような心です。
下手な鉄砲も数打ちゃ当たる方式の祈りではいけません。
成熟した祈り。
神が与えようと準備しておられるものを求めましょう。

祈りが答えられていると実感できないのは、「下手な鉄砲」を撃つからです。
神はあなたにどんな使命を与えて下さっていますか?
会社、家庭、社会での役割を果たすために必要なものは何でしょうか。
大切なのは使命を自覚することです。
些細なことの中で、忠実である人を、主は用いて下さいます。

使徒の働き 14章 25~26節
「神の選びとは」
           Hi-b.a. 丸山告スタッフ

3つ質問をします。

① あなたが面接官だとして、新人社員を採用しようとしています。
  志願者の1人は名古屋大学卒。もうひとりは無名の大学卒だとします。
  どちらを採用しますか?
② スーパーでりんごを買おうとしています。
  ひとつはつやのいい美味しそうなりんごで、ひとつは虫食いです。
  ひとつ選ぶとしたらどちらにしますか?
③ 二人の人がお金を貸して欲しいと言っています。
  一人は評判の良い人で、もう一人は最近引っ越してきたばかりでよく知らない人です。


常識的に考えて、どの場合も前者を選ぶのではないでしょうか。
私たちが選ぶ基準は、比較して良い方をとる、というものです。
それは経験から来ているもので、自分の利益や将来的な利益、有益さを見ています。
では、神の選びの基準はなんでしょうか?

前回キリストの復活後、使徒たちがどうやって聖霊を待っていたかを学びました。
弟子たち、婦人たち、イエスの兄弟たちがひとつに集まっていました。
そして、今回の箇所では、欠けた12使徒の補充について書かれています。

イエスにはたくさんの弟子がいました。
その中から特別に選び出された12人が「使徒」です。
最後に選ばれたのが、イエスを裏切ったイスカリオテのユダでした。
どの福音書でもそうなっています。
ユダはイエスを裏切っただけではありません。
他の弟子たちがガリラヤ出身だったのに対して、ユダはカリオテという都会の出身です。
会計を任されるほどの能力もありました。
イエスが彼を選んだとき、徹夜で祈って選びました。
彼以外にもたくさんの弟子がいました。
マッテヤもバルサバも。
それでもイエスはユダを選びました。
しかし、ユダの死によって使徒は11人になってしまいました。
使徒を補充する必要があるのでしょうか?
11人でいいのではないでしょうか?
あえて他に選ぶ必要があるのかどうか…。
彼らは聖書を読みながらみこころを尋ねました。
そして、新しい人物を選ぶべきだと知りました。

「実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』
ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
1:20~22

そもそもなぜ12使徒だったのか、というと「イスラエルの12部族ひとつひとつに遣わす」という意味合いがあったのです。
初代教会が新たな使徒を選んだのは、ペテロ個人の意見ではなく、信仰によって聖書を開いたからです。
ここは、

「彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。」詩篇69:25

「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、」詩篇109:8

から来ています。
こうして新しい使徒が選ばれることになりました。
速いペースで決まったように見えますが、26節を読むとくじを引いて決めたことが分かります。

「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」1:26

まだ聖霊が下っていない大切な時期にくじとは??
別の方法はなかったのでしょうか?
立候補を募って、やる気のある人、志のある人を選ぶのはどうでしょう。
残っている11人がよしとする人を推薦してはどうでしょうか。
同労者や既存のメンバーがOKする人を選ぶのです。
くじ引きが記述されているのはここだけです。
初代教会で最初に配給の問題が起きたとき、使徒たちが御言葉と祈りに専念するために7人を選び、事務的な仕事に当たらせたということが起きました。
そのときには、「評判の良い人」を、教会のメンバーが決めています。
これは現代の感覚に近いものだと思います。
しかし、使徒の補充については、祈った結果がくじでした。
二人の候補者がいます。
使徒としての資格を満たす人です。
・ヨハネのバプテスマから、十字架、復活、昇天まで行動を共にした人
イエスの地上での活動を証言できる人、復活したイエスを知っている人です。
まだ新約聖書は書かれていない頃です。
大切なのは「証言者」でした。
直接イエスを見て、イエスの教えを聞いた人。
死と復活を証言できる人。
その資格のある人が二人に絞られました。

ヨセフ:バルサバまたはユストと呼ばれていました。
 バルサバとは「安息日の子」「誓いの子」という意味です。
 彼は真面目に礼拝し戒めを守っていました。
 ユストとは正直者という意味です。
マッテヤ:神の賜物という意味です。

弟子の中で選挙をすれば結果は明白だったかも知れません。
ニックネームの多さは、多くの信頼を集めている証拠とも考えられるからです。
しかし、弟子たちは、自分で判断しようとはしませんでした。
最後の最後で神にゆだねる意味でくじ引きをしました。
なぜマッテヤに当たったのか。
その後の活躍が使徒の働きに記されていれば納得できたかもしれません。
選ばれて後、大活躍したのなら。
が、使徒の働きにはこれ以降、一切マッテヤは登場しません。
ここにしか名前は出てこないのです。
どんな弟子になっていったのか、全く分かりません。
想像すると、マッテヤはマタイと混同したのではないか?
マッテヤの業績は書くほどのことではなかったのか?
目立つことはしなかったのか?
私たちには一切知らされていません。
神に選ばれた人が、なにをするか、していたかは重要ではないのです。
「神が選んだ」と言うこと自体が重要だからです。

みなさんは、「なぜ自分なんだろう?」「もっとふさわしい人がいるのではないか?」と思ったことはありますか?
私は以前ある教会に召されて、ヤングパスターを任されたことがあります。
その牧師は私の名前と年齢しかしらないのに、任されたのです。
なぜ自分が選ばれたのか、先生に聞いたことがあります。
沈黙の後、さらに長い沈黙の後、
「だれでもいいんだよ。主がお入り用なんだから」
と言われました。
本人を目の前にして!
私は、ちょっとしたショックと、「あ、そういうものなんだ」と気付きました。
神さまが必要とするなら、神さまが責任を持って用いてくださるはずです。
子ロバでさえ、用いられました。
主がよしとするなら、石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができるのですから。
神の栄光が表されることが重要です。

4年間働いて、私はその職を辞めることになりました。
私は「名ばかりでなにもできなかった」という思いでした。
その後、Hi-b.a.の働きをするようになって、当時小学生だった子たちが高校生になってやってきました。
この子が教会の記念誌を持って来てくれました。
そこには確かに私がユースパスターをしていたことが記録されていました。

「そして、こう祈った。『すべての人の心を知っておられる主よ。
この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。』」
1:25

この祈りは重要です。
「ユダは…脱落して行きましたから」
たとえば、新しい牧師を決める際にこのような祈りをするでしょうか?
不祥事をあえて持ち出して。
イエスを裏切ったという点では、ペテロもユダも同じでした。
ペテロは泣いて悔い改め、イエスに解決を求めました。
ユダは自分の方法で解決しようとしました。
そこに違いがあります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
エペソ2:8,9

「神が選ぶ」というところに一番重要な意味があるのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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