5月21日 聖日礼拝

ルカの福音書 15章 1~7節
「」
                        柳橋宏祐神学生

先日ひとりになりたくて、外に出て、寝袋で寝ました。
でも、寒かったんですね。
それで、漫喫へ行きました。
教会に来るときに、就活生を見かけました。
それぞれ将来に悩んでいるんだろう、と思いました。
中高生も「早く夢を見つけなきゃいけない」と思ってる人もいるかも知れません。
大人になって、「自分が昔どんな大人になりたかったか」を振り返って今を思い巡らす人もいるかも知れません。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』」
15:1

イエスの周りにいる人々は、「取税人、罪人たち←→パリサイ人、律法学者」と、いつの間にか分かれてしまいました。
みもとに近寄ってきたのに、ユダヤ人の指導者たちはイエスに対してつぶやきました。
見下していました。
そんな彼らに、イエスはたとえを話されました。

「そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
『あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言うでしょう。』」
15:4~6

いなくなった一匹を見つけるまで探し歩く・・・ここに羊飼いの必死さが表れています。
「99匹いるからいい」のではなく、いない1匹が見つかるまで探したのです。
一匹を尊く見て、愛していることがわかります。

なぜ羊には羊飼いが必要なのでしょうか。
羊は自力で草のあるところにたどりつけません。
狼などの天敵に対して身を守れません。
崖から落ちる危険もあります。
だから、羊飼いは助けたいと思ったのです。

見つけた羊飼いは、喜びを分かち合いました。
どれぐらいの喜びでしょうか。
私は小さいとき犬を飼っていました。
名前はポチです。
チェーンを外すとどこかに行ってしまうことを知っていたのに、あるとき山の中でチェーンを外して、いなくなってしまいました。
父が帰ってきて、「ポチがいない」と、山に探しに行きました。
が、帰ってきませんでした。

2ヶ月後の朝、ポチがいた、と近所の人が電話してきました。
「山からすごい勢いで走っていたよ」と。
私たちは大喜びでした。
羊飼いの喜びもそうだったのではないかと思います。
「この喜びを分かち合いたい」と。

この後に結論が続きます。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」15:7

イエスはだれなのか、何のために来られたのかを知らない人たちに向かって語られました。
3つのことを。

①イエスは神のもとから迷い出た罪人を捜すために来た神の子である

イエスは、皆、どんな人も、受け入れて食事を共にして下さいます。

②罪人を見つけたとき、大喜びで神のもとに連れ戻してくださる

「悔い改める」のは羊の力ではありません。
羊飼いが見つけて、かついだのです。
羊は、ただかつがれただけです。
本来の場所へと帰っていった、それが悔い改めです。
それはイエスにだけできるわざです。
イエスの愛があってこそできることです。
羊はそれを受け入れて、運ばれていきます。
愛の御手の中で、信頼して受け入れるだけです。

③天に喜びがわき起こる

天ではポチ以上の喜びが起こります。
パリサイ人たちのように、イエスの愛を拒んでいませんか?
「自分は罪人ではない。正しい人間だ」という高慢な思いが、彼らにはありました。
私の中にもそのような部分があります。
「自分が正しい」と思って受け入れない思いです。
神から離れて、他の者を探し続ける心です。
帰るところは神の所。
私たちの本来の家は、地ではなく天です。
本当の慰めはそこにしかありません。

イエスは十字架で師に、3日後に現れ、天に戻られました。
今も生きておられて、神の御子であられます。
目に見えなくても、聖書を通して罪人を捜して救うために働いておられます。

ギリシヤのアテネに行きました。
そこにはシリヤなどからの難民が大勢いました。
その人を助けるお手伝いをしました。
アフガニスタンの難民で、キリスト教に改宗した人がいました。
ギリシヤで聖書に出会い、イエスは自分の救い主だと、信じれば天に行けると知って、信じました。
そのとき、その方は「イエスが私を捜して見つけてくれた」と言っていました。
イエスはいつも捜しておられます。
神さまは、いつも帰ってくるのを待っておられます。
天を待ち望みながら、地を過ごしていきたいと思います。
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5月13日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 39~48節
「命がけの母マリヤ」
                 東海聖書神学塾 後藤喜良師

世界一有名なお母さんといえばマリヤでしょう。

「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」
1:48

とマリヤは言っていますが、マリヤは2000年以上の間「幸せ者」と言われています。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」1:45

これはマリヤの伯母、エリサベツの言葉です。
マリヤは信じ切っていました。
そして、その通りになりました。
子どもを生むのも育てるのも命がけです。
しかし、マリヤほど命がけだった人はいないのではないでしょうか。

3月25日が受胎告知の日とされています。
大天使ガブリエルがマリヤの元へやってきました。
これが最初の「命がけ」です。
マリヤはガブリエルに「お言葉通りにこの身になりますように」と答えました。
考えてみて下さい。
「婚約しているのに、婚約者ヨセフの子ではない子を妊娠している」とはどういうことか。
律法では死刑に値する罪でした。
もしもヨセフがマリヤを受け入れてくれればいいですが、もしそうでなければ死刑だということはマリヤにも分かっていたはずです。
これは命がけの決心でした。

大きな悩みととまどいがあったことでしょう。
「神の子」をどのように育てたらよいのかわからなかったでしょう。
しかし、主はちゃんと救い主、王となるように育てられるようにして下さいました。
神を信用しているから、神は与えて下さるのです。
「助ける」と言ってくださるのです。
神が「~しなさい」と言われているから、神が助けてくださるのです。
マリヤはイエスを立派に育てました。

ヨセフにもガブリエルがマリヤの受胎を伝えました。
そして、妻としてマリヤを受け入れるように、と命じました。
マリヤは3ヶ月間伯母エリサベツのもとにいました。
当時はそれぐらい経たないと、妊娠していることがはっきりしなかったからです。

さて、いよいよ産む時期が近づいてきました。
ルカの2章によると、皇帝アウグストの治世に人口調査が行われました。
これは歴史上証明されています。
皇帝は、5%の税金を取るために国民の数を把握しようとしていました。
ヨセフとマリヤはダビデ王の子孫だったため、ベツレヘムに向かいました。
「救い主はベツレヘムで生まれる」という預言がありました。
それが実現する為に、マリヤは「命がけ」をしました。

イエスは家畜小屋で生まれました。
なぜベツレヘムで産むことができたのか。
それは、臨月になってからベツレヘムへ行ったからです。
マリヤは何としても滞在中に産もうとしていました。
預言は必ず実現するとマリヤは信じていました。
そして、生まれた子を飼い葉桶に寝かせました。

宿にも泊まれず、みじめな思いをしていたかもしれません。
そんなとき、天使が羊飼いに救い主の誕生を知らせに行きました。
「神さまは見ている。知っている。」
羊飼いたちが来て、幼子を礼拝し、天使の言葉を伝えたとき、マリヤは全てを心に留めました。

幼子を捧げるために神殿に向かうマリヤ。
親は、神が子どもを授けてくださったのだから、感謝して祝福を祈ってもらいます。
マリヤとヨセフもイエスを主に捧げました。
そして、彼らはナザレに向かいました。
ところが、2年後、一家はベツレヘムに住んでいます。
家を借りていたのでしょう。

当時のヘロデ王は疑い深く、王位を狙われていると疑っていました。
親族や子どもまで殺してしまうほどに。
マリヤは、イエスは救い主なのだからベツレヘムに住まなければいけないと考えていました。

そこへ東方の博士たちがやってきました。
彼らはヘロデに「救い主はどこでお生まれになったのですか?」と尋ねました。
律法学者から「ベツレヘム」と聞いて、博士たちはイエスを礼拝しに行きました。
王として。
神はマリヤに「正しいことをした」ということを示してくださいました。
不安になったヘロデは2歳以下の男の子を殺すように命じました。
ヨセフ一家はその前に夢で示されてエジプトで6年ぐらい難民生活をしました。

母も子も政治の影響を受けます。
6年間どのように過ごしたのかは書かれていませんが、博士の贈り物を売って生活費にしたのかもしれません。
エジプトには多くのユダヤ人が住んでいました。
見つからないように、命がけの逃亡生活だったことでしょう。
モーセによる「出エジプト」はイエスの脱出の預言でもあります。
AD4年、ヘロデ王は死に、一家はナザレに戻りました。

ナザレは旧約聖書には出てこない町です。
「ナザレ人」という言葉は「軽蔑されている人」という意味合いがありました。
それでも彼らはいやなうわさのある町へ向かいました。
「ヨセフの子」ではなく、「マリヤの子イエス」と言われた場所です。

聖書にはイエスを「神と人から愛された」と記しています。
イエスが神と人を愛していたからでしょう。
マリヤは模範でした。
親は子の模範となることを大切に心がけなければなりません。
ユダヤでは6歳から12歳が義務教育でした。
12歳でイエスは父母に言いました。
「私は父の仕事をします」と。
イエスは自立しました。
子どもの自立は「神に与えられた仕事をするようになる」ことです。
ユダヤでは13歳で成人です。
マリヤは喜んでいたのではないでしょうか。
ユダヤ社会では、30歳にならなければ聖書を教えることはできませんでした。
それまでは、イエスのメインの仕事は「大工」でした。
15年ぐらい、6人の弟妹を養うために大工仕事をしたと思われます。

マリヤが受けた報いは何でしょうか?
カナンの結婚式でマリヤは接待していました。
ところが葡萄酒がなくなってしまいます。
そこで、イエスは「最初の奇跡」を行われました。
水を葡萄酒に変えたのです。
マリヤのために。
母への感謝の奇跡だったのではないでしょうか。
マリヤとイエスの弟はイエスを連れ戻しに来たのだと思われます。
そのときイエスは、

「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ3:35

と言わました。

その3年後、イエスは十字架に付けられました。
十字架の下にはマリヤが立っていました。
ローマの兵士はイエスの衣をはぎ取って分けていました。
その衣はマリヤが縫ったものだったのではないでしょうか。
マリヤの思いは、つらい、悲しいものだったに違いありません。
わが子が殺される姿を目の当たりにしなければならないのです。
十字架から、イエスは言われました。

「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。」
ヨハネ19:25,26

「女の方。」という呼びかけは敬意のこもった言葉です。
イエスは、マリヤをヨハネに托しました。
の師をとった父母を敬うこと、養うことをイエスは忘れませんでした。
マリヤの老後への配慮をなさいました。
マリヤは感謝を持って聞いたに違いありません。
マリヤは立派に育て上げました。
わが子はつとめを成し遂げました。
「神のことばの通りに実現した」とマリヤは感じていたでしょう。
マリヤはまさに、最も幸せな母だったのです。

フィンランドデザイン展

昨日、りーちゃんと2人で「フィンランド・デザイン展」に行ってきました。
おなじみのムーミンやマリメッコを始め、家具から食器や遊具、絵本に到るまで様々なデザインに触れてきました。

2017-05-13 14.24.15

ここだけは撮影OK。
目にも鮮やかですね!

なかでも私が気に入ったのはガラスの鳥たち。
売店で販売もしていましたが、ちょっと手が出ない値段でした(^^;

あと、ボールチェアっていうのも好きです。
実際に座れるコーナーもあって、試してみました。
体をあずけると、なんかすっぽり包まれる感じがして心安らぐ椅子。
わが家には到底置けるようなスペースがないのが残念です。

りーちゃんは、「もう一回行ってみようかな」と言うほど。
開催はあと2週間ほどです。

5月7日 聖日礼拝

マタイの福音書 6章 31~39節
「心配は無用です」

ここは聖書の中でも最も有名な箇所のひとつです。
よく知られているということは、よく知らない、ということでもあります。
耳慣れていると、意識から薄らいでいくからです。
最も大切な事柄を再確認したいと思います。
聖書は注意深く読む必要があります。
わかりやすいメッセージはたとえて言えば「乳」や「離乳食」です。
飲み込みやすいかもしれませんが、それは乳幼児のための食べ物です。
大人は、固い食べ物をよく噛んで食べます。
労苦して理解するのです。
聞いた御言葉を生活の中でどう生きるか、主の御心探って思い悩むことが大事です。

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」6:31

「そういうわけだから」という言葉は、前の言葉を受けて発されています。
それは、

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」6:25

という言葉です。
命を養うために、私たちは毎日飲んだり食べたりします。
私たちの体は、食べるもので形作られていきます。

先日妻に「甘い炭酸はやめたら?」と言われました。
甘い食べ物や脂分をたくさん摂ると体に脂肪がついてしまうからです。
食べるものは大切です。
「何を食べるか」は心にとめるべきことです。
聖書はそれを「どうでもいいことだ」と言っているのではありません。

私は大学で保健体育を専攻したので、栄養学を学びました。
バランスよく栄養を摂ることが大切だと教えられました。
最近は「サプリ」もあります。
どうしても食べ物だけでは不足してしまう栄養分を補うためのものです。
私たちが服を着るのも、身を守るためです。

聖書は、「心配するのをやめなさい」と言っているのであって、「考えるのをやめなさい」と言っているのではありません。

命>食べ物
体>着るもの

だと言っているのです。
食べ物「よりも」命が大事。
着るもの「よりも」体が大事。
より大事なことを考えずに心配ばかりするのは見当違いだという意味です。

「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」6:32

ここでも「それがあなたがたに必要である」と言っています。
必要であることを父なる神は知っておられます。
私たちは知っているでしょうか?
暴飲暴食。
好き嫌い。
していないでしょうか。
食べ物で体が作られるのです。

それでも、食べ物よりも大事なことがあります。
「異邦人が切に求めている」とありますが、つまり異邦人は「よりも」ということに目が閉じられているということを指しています。
クリスチャンである私たちは、異邦人と同じように心配ばかりしていたらいけません。

大学時代に、母方の祖父母を訪れた時のことを思い出します。
縁側から家に近づくと、祖父母がけんかしているのが聞こえてきました。
祖父は風邪気味だったようです。
祖母は祖父に風邪薬を渡そうとしていました。
すると祖父は、「薬よりも神に頼ることはできん」と言い張ります。
祖母は「屁理屈を言わずに飲みなさい!」と叱ります。
聞いていた私は、「それなら祈ってから薬を飲めばいいのに」と思いました。
病気になったら医者や薬に頼るだけでは異邦人と同じです。
が、逆に祖父は、変人と思うぐらい信仰に生きた人でした。
思えば祖父母はバランスが取れていたのだと感じます。
現実的な祖母が、祖父を支えていました。
医者に掛かり、薬を飲むことは「信仰を否定する」ことではありません。
私たちは神の恵みを忘れてはいけないということです。
命を与え、体を養って下さる神に目を向けなさい、ということなのです。

「万物の尺度は人間である」とは、ある哲学者の言葉です。
たとえば、教会堂のエアコンの温度を考えてみてください。
同じ部屋にいても、ある方は「エアコンがきいていない。暑すぎる」と言いますが、ある方は「冷えすぎている」と言います。
基準は自分の感覚であり、自分にとって「暑い」か「寒い」かを言っています。
多くの人は、自分が基準です。
おいしさもそうです。
自分の目にどうか。自分が好きか嫌いか。
これを「相対主義」と言います。
イエスが教えたのは、そうではなく、「絶対主義」です。
「万物の尺度は神」です。
聖書こそが尺度です。
聖書が、信仰と生活の究極の権威です。

自己中心は異邦人の生き方です。
クリスチャンは、神が命を与え、必要なすべてを与えて下さっていることに目を留めます。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」6:33

聖書が何と言っているかを尺度にするのです。

大きさを測るにはどうしますか?
定規を使います。
人によって定規が違うことはありません。
誰が測っても測定結果は同じです。
尺度とはそういうものです。
「定規」は神が持っている価値観です。
それが自分のものになっていることが大切です。
求めるべき第一のものは、人勢を照らす光です。
尺度は、船にとってのコンパスであり、道しるべです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119:105

イエスがこの状況をご覧になったら、どのようにみられるか?
その光に照らして考えていくことが大事です。

「だから」明日のための心配は無用なのです。
必要なのは、今日、今のことを考えることです。
将来のことではなく、今のことを悩むべきです。
明日のことを心配して、今のことに目を留めないということは間違っています。

神を信頼して与えられているものを用いていくとき、必要なものは与えられます。

鄭先生についてお話ししましょう。
鄭先生が国立名古屋病院を退院するとき、ケースワーカーの方と話し合いをしました。
その時に、鄭先生は、国民健康保険に入っていたので、生活保護が受けられると教えられました。
先生は日本に来られるとき、40年の教師生活で蓄えたものに加えて、家を売って全財産をもって来ていました。
私は時々先生に「引退して、韓国に戻って隠居生活をしたら」と話したこともありましたが、先生には戻るべき場所はもう故郷になかったのです。
今、私は先生の持ち物を預かっていますが、それは箪笥段ボール10個だけです。
ところが、今まで施設でかかった費用の計算書を見て私は愕然としました。
すべてをささげつくした先生のために、日本政府は、それ以上のものを支給していたことを知ったからです。
葬儀の費用も、娘さんからの申し出は辞退して、なんとか私たちで工面しようと考えていましたが、愛の献金によってちょうど満たされました。
主は必要なものを与え、ご自身の栄光を表してくださいます。
そのことを私たちは学ばなければなりません。

能天気に何も考えないでよい、ということではありません。
すべてのことを真剣に考え、今日できることをする。
主を信頼して一歩踏み出す。
「安心して何もしなくてもいい」ということではありません。
御言葉を尺度として、人生を歩むなら、必要なものはすべて神が備えて下さるのです。

鄭先生は、倒れる1週間前に私に電話をしてきて「2週間後にアメリカに行きます」と言われましたが、主は先生を最後まで日本に留め置かれました。
老健はふつう6か月しかいられませんが、特養に移ることもできず、結局先生はそこに11年間お世話になりました。
11年の間に職員は次々と変わっていきましたから、先生が最長老でした。
職員の方たちは「こんなにいろいろな人が面会に来る入所者はいません」と言っていました。
先生は、日本での生活の前半は言葉ともてなしで宣教されましたが、後半はその存在で宣教し続けたのです。

4月30日 聖日礼拝

伝道者の書 3章11節
「神のなさることは」
           名古屋福音自由教会牧師 平井聖歩師

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」3:11

前回西教会に来たのは5年前。
2012年の6月にインターンとしてお世話になりました。

人生には様々なことが起きます。
喜ばしいことも、悲しいことも。
教会の歩みにも、世界の情勢でも、「なぜ?」ということが起きます。
悔しくて、悲しくて、落ち込むこともあります。
しかし、

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

このみことばに信頼するとは、どういうことでしょうか?
ここにふたつのキーワードがあります。

「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」
1:1~3

「日の下」と「天の下」という言葉です。
常にあるものは一つもない。
はかなさ、むなしさを感じます。
「諸行無常の響き有り」。
日本人の心にひびいてくることばではないでしょうか。
伝道者の書の著者はダビデ王の子、ソロモンです。
イエスはソロモンを「栄華を極めた人」と表現しています。
王であり、召使いや財産をたくさん所有していました。
聖書には、彼に700人の妻と、300人のそばめがいたとも書かれています。

「しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」2:11

事業に成功し、欲は満たされて、やりたいことは全てしたのに、空しい。
物も人も実績もあるのに、心が満たされない。
自分がしてきたこと、自分が持っているものに意味を見いだせなかった空しさ。
これが「日の下」にあるものです。
この言葉は「天の下」と対になっています。
「日の下」を歩むのは、神を信頼しないで歩むこと。
「天の下」を歩むのは、神を信頼していることです。
私たちをむしばむ空しさの原因は、主を信頼しないことにあります。

私は最近、目が悪くなって、夜の運転にメガネが必要になってきました。
標識に何かが書いてあるのは見えるのですが、何の意味かが見えないのです。
世界を見るとき、視力を悪くしている原因は「罪」です。
罪にはふたつのレベルがあります。

①殺人など、具体的な行動
 これは、自分の価値を失わせます。
②神を信頼しないこと
 これが、私たちを苦しめる原因です。

「永遠」で満たされないため、私たちは目先の物に惑わされるのです。
「結局は1人だ。」という思いに苦しみます。
この世界は神に造られ、治められている世界です。
目を一時的な物にではなく、永遠に向けましょう。
目に見える、起こる出来事だけでなく、背後にある神を見るのです。
それが「信仰」というメガネをかけるということです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」3:11

ここには3つのことが書かれています。

①ベストタイミング

神のなさることは、神の子としてベストタイミングで起こります。
親の立場になって考えてみましょう。
子どもが1歳だとします。
ハサミを見つけて興味を持ち、そちらに向かってハイハイしていたらどうでしょうか。
放置しますか?
いくらほしがっていても与えないでしょう。
危険だからです。
では、子どもが5歳だとしたら?
ハサミを見つけて使いたがったら?
5歳の子だったら与えることでしょう。
注意して使うように言い、もしケガをしてもそこから学ぶことができると考えるでしょう。
与えるのも、与えないのも、痛みを覚えるのも、タイミングがあります。
では、親と子どもで、タイミングを知っているのはどちらでしょうか?
親でしょう。
自分と神さまと、どちらがタイミングを知っているかは明らかです。

②人間には限界がある

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。
私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。」
7:13~18

正しすぎてはいけない。
知恵がありすぎてはいけない。
と、書かれています。

神学校で私が得たことの一つは、「自分はなにも知らない」ということを知った、ということです。
私は神の偉大さをまだまだ知らないと。
私たちが思う以上に神は偉大な方です。
正しさを求めると、自分が正しくないと言うことを知ります。
自分が正しいと思う人は、人を傷つけ、聞く耳を持ちません。
そして、神のことばにも耳を傾けません。
私たちには限界があるのです。
1分先のことも分かりません。
だからこそ、神に頼る者になりましょう。

③神のなさることは美しい

なぜでしょうか?
神は私たちを愛しておられるからです。

「『わたしはあなたがたを愛している』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか』と。『エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。』」マラキ1:2

BC400年頃、イスラエルの民は叫びました。
「どのように私たちを愛されたのですか?」と。
その答えは新約聖書にあります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

ひとり子をお与えになったほどに。
「ほど」とはどれほどなのでしょうか。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ローマ7:32

私たちはなにを信頼して生きているでしょう。
他人の声。
雑誌の声。
テレビの声。
ネットの声。
自分の思い。
それとも、神の約束でしょうか?

昨年10月から11月にかけて、フィリピンに研修に行かせて頂きました。
目的は、①英語を学ぶこと②神学を学ぶこと③フィリピン教会との交わりの強化、この3つでした。
事前にメールでやりとりし、10月15日に行くこと、神学校で1ヶ月無料聴講できることを確認しました。
さて、フィリピンに到着したその日、迎えの先生から「今日から神学校は休みに入ったよ。」と告げられました。
休みは11月7日までと言います。
目の前が真っ暗になりました。
これからどうしたらいいのか??
学ぶためにやってきたのに。。。
これも神が成しておられること。。。
でも、私の計画はボロボロ。
私はアワアワ、ソワソワ。
しかし、神に信頼すると変わっていきました。
「自分の計画ではなく、神の計画したことが起きているのだ」と。
目に見えることではなく、神のなさることに心が向かいました。
それから1週間、図書館で勉強し、牧師との交わりや牧師のためのセミナーに参加しました。
2週目は大学生のキャンプと、10代の若者のキャンプに参加。
3週目はある教会のプログラムに参加。
そして、4週目にとうとう神学校の授業が始まりました。
そのころには、授業で話されることの80%は理解できるようになっていました。
フィリピン滞在中に14の教会を訪れ、30人以上の牧師にあいさつすることができました。
もしも最初から重病があったとしたら、こんな豊かな経験はできなかったことでしょう。
これは単なるポジティブシンキングではありません。

「美しい」と思えない時。
葛藤するとき。
「信頼せよ」と神が語られる言葉を聞き、上を見上げることが大切です。
信仰を働かせること。
今はわからなくても、必ず分かる時が来ます。

私はこの西教会に牧師が与えられることを信頼しています。
神が送って下さる牧師として、受け入れてください。
自分を、教会を、世界を見るときに、この信仰をもっていきましょう。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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