4月23日 聖日礼拝

マタイの福音書 4章 19節
「イエス様の本当の弟子を築き上げる」
               フィリピン教会 ラモス師

「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』」4:19

昨年に続き今年もお招き頂ありがとうございます。
日本に来たのは、名古屋にあるインマヌエルのフィリピン教会のためです。
トレンドさんというフィリピン人で、6,600ある教会のリーダーの方が、あらゆる教会に共通する3つの問題があると指摘しました。

①小さい福音
②義務の軽減
③働き人の減少


私も同感です。
フィリピンでもそうなのです。
問題は、イエスが救い主であることを強調すると、「イエスは主である」ということが弱くなるということです。
もちろんイエスは救い主です。
が、私たちの主であることを忘れています。
イエスが主でなければ救い主となることはありません。
多くの人が「私はクリスチャンです」と告白しますが、献身しません。
神学校でさえ、宣教師としてトレーニングされていません。
卒業した後で牧師にならない人が多いのです。

では、本当の弟子とはどんな人でしょうか。
弟子となるには3つのステップがあります。

①変えられる
②徹底的な刷新
③宣教への関与



イエスは「ついて来なさい」と言われました。
イエスの所に来る人は変えられます。
「変身」はまず、「新生」から始まります。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
ヨハネ1:12,13

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ3:8

聖霊の働きによって。
聖霊は目には見えませんが、聖霊によって起こる影響は見ることができます。
悔い改めたら心が軽くなったと感じます。
「願い」が変わります。
自分の欲よりも、主の望むことを望むように変わります。
何か良いことがくるのを感じます。
古いものは過ぎ去り、新しいものが北からです。
それは「改革」ではなく、あなたが変えられたからです。
「改革reformation」ではなく、「変容transformation」です。
聖霊の働きを見たことがありますか?
あなたが変えられたことが、自分に、周囲の人に、友人に見えていますか?
見えていないとしたら、主に変えて下さるように求めなければなりません。
本当のキリストの弟子は、変えられることから始まるからです。


徹底的な弟子訓練とは、「もっとキリストに似たものに変えられていく」ことです。
変えられると、主の要求に従うことができるようになります。

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。』」
ルカ9:23~26

自分を否定して、イエスに従う。
十字架を背負い、進んで苦しみを受ける。
ポリカーフ司教という方は、自分を律しました。
イエスに従う者は殺される時代に生きた彼は、迫害を受けました。
85歳で捕らえられ、死刑を宣告されました。
木に縛られて焼かれるとき、公にイエスを否定することをしませんでした。
「85年間、イエスは私に忠実でいて下さった。
 どうして今、イエスを否定できましょうか。
あなた方は私を燃やすことができるでしょう。
しかし、信仰は殺されても消えません。」
と彼は言ったのです。
人生をイエスに捧げ、イエスが私たちにさせようとしておられることをしていきましょう。


宣教に携わること。
主は、「人間を捕る漁師にする」と言われました。
つまり、宣教師にするという意味です。
どこにいても、主の働き人となるのです。
ペテロとアンデレは漁師でした。
その彼らが人間を捕る漁師になりました。
主は、私たちそれぞれに言われます。
教師なら、主の為の教師に。
労働者なら、主の為の労働者に。
母なら、主の為の母に。
なにをしている人でも、主の為の働きをするように、求められています。
主は、全てのキリストの弟子を用いることがおできになります。
全てのクリスチャンが宣教にたずさわるようにと召されています。
牧師だけが宣教するということではありません。
だから、できることを見つけましょう。
教会を建て上げるために。

まとめると---
キリストの真の弟子になるためには①変容②変革③奉仕が必要です。

ニトイさんという方がいます。
フィリピン福音自由教会の方です。
肉体的な障害があって、胸に大きなコブがありました。
彼は教育を受けていませんでした。
が、彼は町でイエスのことを伝えていました。
彼は、フルタイムで働くようにと私に迫りました。
そして、死ぬまで福音のために働き続けました。
なぜでしょうか。
ニトイは神に変えられたからです。

みなさんは元気ですね?
まだ①を経験していないなら、まず①を。
「教会に来る」と言うことが「変えられる」ということではありません。
主の弟子になって欲しいと思います。
奉仕に携わって欲しいと願います。
そうして教会を建て上げて欲しいと思います。
God Bless You!
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ツバメ\(^o^)/

なんとも久しぶりの普通記事です。

例年になく、早くもわが家のツバメが営巣しています!!!

2017-04-16 07.57.06

これは先週の日曜日に撮影したものですが、巣の色の濃い部分が補修した箇所です。
その後着々と修繕して、どうやらすでに抱卵している模様。
今まではずっと5月初旬だったので、ちょっとビックリ。
まだ肌寒い日が続いていますが、ツバメの子育てがうまくいきますよう、祈ってます!

4月16日 イースター礼拝

使徒の働き 1章 12~14節
「使徒たちの第一歩」
            hi-b.a. 丸山告スタッフ

今日はイースターです。
キリストの復活をお祝いする復活祭です。
前回の続きで使徒の働きを学びたいと思います。

使徒1章はイエスの復活からペンテコステまでの50日間を描いています。
日本には「49日」という行事があります。
仏教では「輪廻転生」という考えがあり、死後49日までに次に生まれ変わるべきものが決まると言われています。
いわゆる、「喪に服する」期間になります。
弟子たちには希望がありました。
復活の希望です。

近年日本でもイースターが浸透してきているように感じます。
「キリスト教の文化」として。
たとえば、小さい子どもたちがエッグハントを楽しみます。
隠されたイースターエッグを見つけて喜びます。
卵には「豊穣」の意味があります。
また、卵からひよこが孵ることから、復活を連想します。
また、イースターと言えばウサギが登場します。
イースターバニーもイースターのシンボルです。
多産なウサギは命の象徴です。
ウサギは、はねることから、躍動感も感じさせます。
でも、なぜカエルじゃないのか?
カエルもたくさん卵を産むし、ぴょんぴょんはねます。
たぶんウサギの方がかわいいからでしょう。(笑)
東京ディズニーリゾートでは今イースター仕様で楽しんでいることでしょう。

復活後、聖霊が下る前の期間を、弟子たちはどう過ごしていたのでしょうか。

「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。」1:12

弟子たちがいたのはエルサレムです。
イエスが昇天されたのはオリーブ山。
オリーブ山はエルサレムのすぐ近くにあり、それほど高くない山です。
イエスの生涯の最後の頃、夜にはオリーブ山で祈りを捧げていました。
ルカ21章の「ゲツセマネ」はこの山のふもとにあります。
オリーブ山で待つのが理にかなっていると思われますが、彼らはエルサレムに留まりました。
それは

「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』」
1:4,5

と言われたイエスの命令を忠実に守っていたからです。
彼らが集まっていたのは、最後の晩餐の部屋です。
誰が集まっていたのかに注目しましょう。

「彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」
1:13,14

ここに3つのグループがあります。

①ペテロ、ヨハネ、ヤコブなど11人の弟子たち
②婦人たち
③母マリヤとイエスの兄弟たち

②の婦人たちの中には、マグダラのマリヤ、クウザの妻ヨハンナ、スザンナがいました。
マグダラのマリヤはイエスに悪霊を追い出してもらいました。
ヨハンナはヘロデアンテパスの執事の妻です。
スザンナはイエスに病を癒された人です。
彼女たちは初期からイエスに仕え、イエスが十字架で死んだ後は、週明け早くに墓に行き、復活を報告した女性たちです。

③はイエスの親族です。
マルコ6:3によると、イエスの兄弟はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンで、ヤコブはエルサレム教会の指導者になりました。

彼らは、「心を合わせ、祈りに専念」していました。
聖霊を待ち望んで祈っていたのです。
専念していた、ということは、「打ち込んでいた」「忙しかった」という意味です。
祈りが最優先事項になっていました。
継続して集まり、祈っていました。
3つのグループが一緒に祈っていたのは興味深いことです。

①の弟子たちもひとくくりにはできません。
ペテロは弟子たちのリーダーで、スポークスマンでしたが、イエスをキリストであると告白した次の瞬間、「さがれサタン!」と言われてしまいました。
そして、十字架の際には「死にまでイエスに従っていく」と言っていたのに、3度イエスを否定しました。
彼は一番近くにいたのに。
ヤコブとヨハネは「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付いていました。
怒りっぽくて、宣教の働きの時にも、イエスを受け入れない人にキレてしまうような人々でした。
マタイは収税人。
シモンは愛国心が強い過激派。
トマスは疑い深い人でした。
考え方が全く違う人々です。
アルパヨの子ヤコブは目立たない人です。
彼らはみなガリラヤという田舎の出身でした。
だれを見ても、「教会に来てもらったら困るな」と思えるような人たちです。
ヨハネ以外の弟子たちは、十字架の前で逃げ出した人たちです。
みな棄教寸前まで行っていました。
しかも幹部クラスの人たちです。
「信仰歴は長いが、癖のある人」は教会にもいるでしょう。

マグダラのマリヤはイエスの死を見届けた人です。
教会は婦人会がないと成り立たないと思います。
スザンナはイエスの為に財産を捧げていました。

「それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。『この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。』
こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。『預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。』」
マタイ13:54~57

イエスの親族は、弟子や婦人たちとは全くタイプの違う人々でした。
そんな人たちが、心を合わせて祈っていました。
教会は、世の中の原則とは違う場所です。
普通プロとアマは一緒に活動することをしません。
野球を例に取ると、子どもは少年野球、高校生は高校野球、プロに入るとプロ野球の世界で活動します。
教会はそうではありません。
信仰も、イエスへの思いも、年齢も背景も違う人々の集まりです。
ただ、「罪の身代わりとして、イエスが死に、復活して下さった」ということを信じるという共通項があります。
だから、心を合わせて祈れるのです。
だから、まず、待って祈っていました。

ある教会を訪れたときのことです。
歴史のある教会で、会堂が古くなってきていました。
そこで、会堂を建て直すための話し合いをしていました。
大人たちは希望に満ちていました。
「こんな教会にしたい」という夢を、それぞれに語りました。
ところが高校3年生の女の子は「まとまらないと思う」と言いました。
「このままではいけない。
 共通にできることから始めたらいいのに」と。
「同じ信仰があるのだから、祈るところから始めたら」という言葉には、共感しました。
これは大切な原則です。
牧師をしていると、色んな人とかかわります。
牧師をしていなければ、一生かかわることはなかっただろうと思う人もあります。
でも、一緒に祈っていくと、神の家族だと感じることができます。
イエスは復活して、今も生きておられると感じることができます。
聖霊の力によって、祈りによって、求め続けることができます。
復活の希望があるから祈れるのです。

4月9日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 1~14節
「愛の神の驚くべき救い」
          東海聖書神学塾塾長 後藤喜良師

今年度は西教会に8回お招きを受けています。
8という数字は日本では末広がりのおめでたい数字と考えられていますが、キリスト教でも8は復活と、神の祝福を表しています。
神の天地創造は7日で行われ、その次の数字である8は再創造を表すからです。
また、古い教会で使われている洗礼器は8角形をしています。
洗礼は、古い人が死んで新しく生まれ変わることを象徴しているからです。
この教会が、本当に神の愛と恵みによって新しく作り変えられるよう祈りながらお話ししたいと思います。

どこから話そうかと考えましたが、役員との学びもあるということなので、教会について教えている箇所から学ぼうと考えました。
これは、エペソという古い町とその周辺の町に宛ててパウロが書いた手紙で、6章あります。
エペソ書を語るということはとても大きなチャレンジであり、私は長い間できませんでした。
牧師を終える頃になって、ようやく語らせていただく決心をしました。
神のことばを本当に理解していなければ、神のことばを語ることはできません。
理解するだけでなく、実践して、人生で経験していなければなりません。
私は東海聖書神学塾の塾長ですが、自分自身が学んで実践していることを教えているつもりです。
「こうだといけない」とか「聖書にはこう書いてある」だけではいません。
語ろうとする言葉を実行しながら語らなければなりません。
実行しようとしていないことを語ってはいけないのです。
しかしそう簡単に実行できないので、どれだけ祈り苦闘していることでしょうか。
聖霊に満たされなければみことばは実行できません。
祈りながら、少しずつ。
人間の力と知恵ではできないことだと分かっていなければなりません。

たとえばエペソの5章には「夫は妻を愛しなさい」と書かれています。
それを実行していなければこの箇所を語ることはできません。
実は昨日再婚して5周年目でしたが、妻は「思っていたより10倍幸せになった」と要ってくれました。

神の愛の広さ深さ高さを、どれだけ知っているでしょう。
パウロはどれほど神の愛を知っていたか。
教会を分かっていたか。
どう教会を建てたらよいかの経験をどれほど持っていたか。
それを学ぶことで新しい歩みを始められるのではないか。
教会が建て上げられるスタートになるのではないか。
と考えました。

「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」1:1

弟子であるパウロが書いています。
彼は12使徒ではありません。
イエスの復活後もまだ信じてはいませんでした。
教会を迫害していた第一人者で、ステパノを石内にした主導者でした。
彼はイエスを呪っていました。
そのパウロを、イエスは愛し、赦し、弟子とされたのです。
パウロほどキリストの愛を知っていた人はいません。
ペテロも三度主を否定して赦された弟子ですが、ペテロ以上に神に敵対した者であっても愛し、赦し、用いて下さることをパウロは知っていました。

パウロの喜びがここにあります。
イエスの弟子にしていただけたという喜びに満ちあふれています。
みなさんは「自分はイエスの僕である」「私の主はすばらしい」ということができるでしょうか。
パウロは喜びを持って語っています。
「私は世界中にイエスを語りたい。」
「私のような者を用いて下さるとは何という恵であることか。」
すばらしい主人イエスに仕える喜びがここにあります。

宛名は「キリスト・イエスにある忠実な聖徒たち」です。
「忠実な」とは「信頼できる」という意味です。
「聖徒たち」は「クリスチャン」のことです。
私と同じように生きているエペソのクリスチャンたち。
社会で一番大切なことは「信頼」です。
牧師として一番大切なことは信頼されることです。
そして、夫婦でも信頼関係が大切です。

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」1:2

パウロの祈りです。
「恵みと平安」を祈っています。
パウロはどの教会に手紙を書いても、何十年も同じ祈りをしています。
パウロは「恵みと平安」を祈りました。
繰り返し祈りました。
それらはイエスの弟子として生きていく土台です。
恵みがなければ救いもありません。
恵みがあるところに平安があります。
恵みから平安がもたらされます。
恵みという言葉には「完成する。使命を果たす」という意味もあります。
恵みは私たちを完成させることができます。
恵みは私たちを覆います。
上から、天から注がれるように。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
1:3~6

3節から6節には父なる神の愛が、7~12節にはイエスの救いが、13~14節には聖霊の働きが書かれています。
この手紙はローマの獄中で書かれました。
パウロは獄中で4つの手紙を書いたのです。
ここは父、子、聖霊についての讃美歌です。
頌栄が捧げられています。
パウロの祈りは賛美から始める祈りです。

みなさんはどのような姿勢で祈りますか?
手を組んで。
手を挙げて。
いろんな祈り方があるでしょう。
指を組むのは奴隷の手で、神の僕であることを表します。
親指は父を表すので、父なる神を賛美します。
人差し指で恵みを数えて感謝します。
中指は天に向かって心のなかにある信仰の告白をします。
薬指は薬草を刻んだ指です。
病の癒し、人の悩みのために取りなしの祈りをします。
小指で、神の子として小さなお願いをします。

パウロは父なる神について驚くべきことを語っています。
「父なる神が褒め称えられますように」とパウロは言います。
御子を与えて下さった方を称えることは大切です。
父の愛を示すために御子は来られました。
何が語られても、褒め称えられるのは神です。
神はなにをして下さいましたか?
パウロは神の愛と救いを十分に深く、パーフェクトに知っていました。
神の祝福がどんなに豊かなものかも、パーフェクトに知っていました。

「すべての霊的な祝福をもって」とは?
もっと具体的に要ってくれればいいのに、と思います。
すべての…とは何だろう?
私はまだ「すべて」を分かっていないと思います。
よく人に問いかけます。
どんな祝福を頂いていますか、と。
答えを聞くと、
「あ、それだけですか?」と思います。
みなさんはいくつあげられますか?
3つ?4つ?
聖書には「満ちあふれる」という言葉が度々書かれています。
宝探しをして欲しいと思います。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」マタイ13:44

とあるように、主の恵みは全財産をはたいてもいいほどの宝であり、圧倒的なものです。

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
1:13,14

聖霊は約束の証印、つまり「手付け金」です。
現代は手付け金と言えば1割ぐらいが相場でしょうが、当時は7~8割でした。
私たちは、天の恵みの80%をすでに与えられているのです。
私たちに必要な物は与えられています。
すでに、です。
私たちが知らないだけです。
救いはプレゼントであり、宅配便で送られてきた物と同じ。
私たちは、ただ感謝して受け取った物です。
受け取っただけで中身を確認していないままにしていないですか?
知らないままに自分の力で頑張るのは大変な事です。
クリスチャンは、恵みを生かして奉仕するのです。
与えられた愛で、人を愛するのです。
愛を与えられていなければ、人に与えることはできません。

もう一度聖書を読み直して下さい。
神を知るために。
神がして下さったことと、やがてして下さることを見つけて下さい。
教会で、「聖書を読めば読むほど楽しくなる人はいますか?」と訪ねると、誰もいない。
読むほどに責められて苦しくなると言います。
聖書を、倫理的道徳的に読んではいけません。
恵み、愛、感謝につながる読み方をして下さい。
エペソ人への手紙は、3章まで「~しなさい」という言葉は一言も書いてありません。
パウロはまず、どれほど主が私たちを愛し、恵み、私たちに祝福が与えられているかを教えました。
「~しなさい」と言うのはそれからです。

霊的祝福は御利益とは違います。
人格的祝福です。
あなたが、罪人から正しい人へ変えられるという祝福です。
「人」から「神の子」に変えられる。
身分が変えられるのです。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」1:4

「聖く、傷のない者」とは、すなわちキリストです。
主は私たちを、キリストと同じ者にしようとされているということです。
「罪」という行為が消えたのではありません。
もう、神の子、義人として認められているということです。
古い人は死にました。
あなたはもう新しい人になりました。
別人になったのです。
クリスチャンはイエス・キリストに似たものに作り変えられていきます。
神の子どもだからです。

私は17歳でクリスチャンになりました。
17歳にとって「罪は赦された」と言われてどれほど嬉しいと思いますか?
親の財布からお金をくすねたとか、畑からスイカを盗んだとか、せいぜいその程度の「罪」しか犯していません。
「永遠の命」なんて、ご免被りたいと思いました。
しかし、「人格的に作り変えられる」ということを知った時、圧倒的な喜びがありました。
最初の10年は「堅い、きつい、暗い」3Kクリスチャンでした。
かわる雨に必要な物は全て与えられていると分かったときに変わりました。
祝福を知り尽くして欲しいと思います。
神のご計画なので、それは必ず実現します。
主は天地創造の前からあなたを知っていました。
あらかじめ定めておられました。
主は、罪人であるにもかかわらず、互いに愛し合って生きる世界を作ろうとご計画されました。
罪があっても、愛する愛を与えられています。
「立派なクリスチャン」ではなく、キリストと同じ姿に変えられる祝福が与えられています。
歳を取るということは成熟することです。
人として。
希望を持って、うめきながら、見習いながら、変えられていきます。

「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」1:12

感謝はしても、賛美をしない人が多いと思います。
まず、賛美をしましょう。

「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」1:5

「みこころのままに」とは、「進んで」ということです。
全てを知った上で、神は喜んで、進んであなたを選ばれました。
ご自分の子にしようと、選ばれました。
主はあなたを、永遠にふさわしい者にして下さいます。
「聖霊に満たして下さい」と祈って欲しいと思います。
人間の力で神と人を愛することはできません。
聖霊があなたにも与えられています。
必ず、キリストに似たものに変えられることができます。

結論はこうです。
「恵みの栄光がほめたたえられるため」
「神がほめたたえられるため」とは書いていません。
信仰は「受け入れるだけ」のことです。
人間が何かをしたことによるのではなく、一方的な恵みです。
私たちを通して、証されて、人によって神の恵みが褒め称えられるようになるのです。
神の恵みを証していくことが求められています。
「あなたの神の恵みはすごいねえ。」と、言われるように。
信仰とは、神に信頼することです。

4月2日 聖日礼拝

テモテへの手紙第二 3章 1~13節
「教会のリーダーの大切さ」
         尾張旭福音自由教会 野口恭一牧師

神は不思議なお方です。
人間の臣をはるかに超えたご計画を、この西教会に対しても持っておられます。
教会の主はイエス・キリストです。
本当の意味で教会を牧しておられるのは、イエス様です。
西教会は無牧の時期を迎えますが、主は今まで以上に祝福して下さることを信じています。

私は高校生の時から、6人の牧師によって育てられてきました。
人間的に見れば、それぞれの牧師には個性がありましたが、「神からの召しを受けており、それを果たそうと一生懸命頑張る」という生き方を尊敬しています。

最初の牧師は辻岡先生でした。
「小さな命を守る会」を創立した方です。
メッセージで、ヨハネの福音書の話をされたことを覚えています。
内容は覚えていませんが、心に残っています。
先生には1年間お世話になりました。
続いて若い牧師が7年間来られ、その後、少し年輩の方が1年。
そして、私は神学校に入りました。
神学校を卒業してから、南教会で和田先生にお世話になり、名古屋教会に来て、飛来先生とも交わりを持ちました。
どの方も、神が送って下さった牧師でした。
今日は、牧師について共に考えていきたいと思います。

この手紙は、パウロからテモテへ送られた手紙です。
当時テモテが指導していた教会は、ニセ教師のために混乱し、そのニセ教師が去った後でした。
テモテへの手紙の1章は律法の意義と正しい福音について、2章は祈りの大切さと敬虔な生き方について、3章ではリーダーとはどういう生き方をする人か、ということが書かれています。
ニセ教師の生き方はこうではなかったからです。

ここに大前提があることを確認したいと思います。
それは、「教会には牧者が必要である」ということです。
牧者を迎えることは神のみこころにかなっています。
旧約時代、イスラエルをエジプトから率いるために神はモーセを立てられました。
教会に牧師を立てるのは神です。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
4:11~13

「キリストご自身が」牧師をお立てになります。

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」使徒20:28

「聖霊」が牧者をお建てになります。

この手紙にはふたつのタイプのリーダーについて書いてあります。
監督と執事です。
当時の言葉におけるそれぞれの意味ははっきりとわかりません。
しかし、双方に共通した資質が必要だと書かれています。

リーダーになると言うことは、「個人的、野心的な理由で求める」ものではありません。
価値ある尊い仕事を求めるという意味です。
「なりたいと思えばなれる」ということではないのです。
①神からの召し
②本人が望み、確信すること
③教会によって召しが認められ、受け入れられること

が必要です。

「監督」は牧者であり、群れの責任者として髪の召しで選ばれます。
「執事」は牧者を支え、仕えるリーダーです。
執事は教会の中で選ばれます。

監督のつとめは次の6つです。
 ①群れを見張る
 ②神のことばを教え、教えの健全さを守る
 ③群れを治める
 ④群れを導く
 ⑤羊飼いとして養い、育て、世話をする
 ⑥審とを教え、奉仕の働きをさせ、教会を建て上げる


執事はもともと「テーブルで仕える人」という意味です。
本来身分の低い、奉公人です。
それはイエスご自身が

「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」ルカ22:27

と言われているとおりです。
従って、執事の役目は次の通りです。
 ①仕えること
 ②先程の牧者の使命を支えること
 ③きよい良心を持って信仰の奥義を保つこ


3つめの使命がここで語られているのは、ニセ教師が問題を起こして教会の評判を落としたからです。

さて、では執事に与えられる祝福はなんでしょうか。

「というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。」3:13

 ①教会の中でしっかりとした立場が与えられる
 ②キリストへの信仰に強い確信が与えられる


今日のメッセージをまとめましょう。
第一に、健全で命ある教会であるためには、教会には牧師が必要です。
牧師のために祈る必要があります。
「神がお立てになった牧者を迎える」ことを忘れずに祈っていきましょう。

第二に、牧師のリーダーシップを尊重すると共に、私たちも仕えるリーダーとして成長し、教会の中で共に仕えるしもべになりましょう。
執事だけでなく、リーダーへの信頼が崩れると、教会自体が崩れてしまいます。

私には忘れられない経験があります。
2番目の若い牧師が辞したとき、私は信仰を持つ前から7年間もお世話になっていました。
礼拝直後に代表執事が「重大な発表」をしました。
3月で牧師をやめて、開拓に出て行くことになったということを発表したのです。
あまりに突然で、私は動揺もできませんでした。
「牧師先生って辞めることがあるんだ」と。
いなくなったらどうなるんだろう?と。
先輩クリスチャンは「大丈夫」というけれど・・・。
心が落ち着いた頃に、新しい不安が起きてきました。
若い牧師は
「私がこの教会を離れたら、2,3年は一切連絡を取りません。
 新しい牧師に相談して、祈って下さい」
と言われました。
そのとき私は「見捨てられた」という気がしました。
そこで、私は「引っ越しの手伝いをします」と申し出ました。
手伝って、寂しく帰りました。
私は心理的にその牧師から離れられなかったのです。
「私の信仰は本当に神への信仰なのか?」と考えさせられました。
その後年輩の厳しい先生が来られました。
それが、私が牧師になるための大きな基礎となりました。
神は一番大切な必要なことを計画しておられたのです。
主が立てる牧師が、どういうものかを本当の意味で理解したのでした。

3月26日 合同礼拝

ヨハネの福音書 13章 34~35節
「愛し合う家族としての教会」

2016年度最後の礼拝です。
この3週間、私たちの教会がいただいている3つの目標を学んできました。

ひとつめは、千代の祝福の基となる教会。
祝福を受け取るための手順を学びました。
それは主を愛し、その戒めに従うことでした。(出エジプト20:6)
主と私たちの関係は、夫婦の関係に例えられます。
夫婦は二人三脚とも言われます。
各々が自分のペースで走ったらうまく走れません。
私はスポーツをしていましたから、もし本気で走ったら妻は引きずられてしまうでしょう。
でも、妻のペースでは「勝つ」ことはできません。
私は少しペースをゆるめ、妻は少しがんばって、ペースを合わせなければいけません。
歩調を合わせるということが、「愛し合う」ということです。
自分勝手ではだめなのです。
私たちは一方的に神に引きずられているのではありません。
神が私たちを愛し、祝福して下さることをよく分かって、私たちも喜んで従うとき、祝福されます。
それは、ヨハネ15:16で言われている、ぶどうの木と枝のような関係です。

ふたつめは、救霊への思いを持つ教会です。
私たちが今ここにいるのは、まだ見たことのない多くの兄弟姉妹が祈り、ささげてくださったからです。
なぜそんなことをしてくれたのでしょうか。
イエスが「全世界に出て行き~」と、使命を残されたからです。
私たちはその使命を託されて生きています。
目当てを失ってはいけません。
牧師やリーダーは船長のようなものです。
船が動くためには、どこに向かうかが明確でなければなりません。
その中で、おのおのが与えられた役割を果たすのです。
まだ福音が伝えられていない人の為に、全世界へ向かって。

では、全世界とはどこでしょうか?
今、私たちの教会はフィリピンの3つの地域に焦点を当てています。
また、東日本大震災の中で、石巻の渡波地区にhそうてんを絞ってきました。

そして、3つめは、愛し合う神の家族です。
神と私たちは夫婦の関係に似ていると言いました。
「夫婦と言っても所詮は他人」というのは間違いです。
結婚を通して、私たちはひとつの家族になります。

「養子、養女」という関係が、聖書に出てきます。
私たちは、イエスを信じる信仰によって、神の子にされます。
つまり、神の養子に迎えられたということです。
私たちたちは同じ神を父としている、つまり、兄弟であり姉妹であり、神の家族なのです。
それぞれ背景は違いますが、イエスキリストによって神の子とされ、神の家族になりました。
御子イエスの十字架と復活を、罪からのあがないとして信じることによって。
この意識が大切です。
私たちは神の家族です。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
13:34,35

新しい戒め、というとき、「新しい」という言葉にはふたつの意味合いがあります。
ガラケーしかなかった時代にiPhoneが登場した時、「それまでにない全く新しいもの」ができたことに驚きました。
そして、今、「新型のiPhone7が発売される」という時には、「改良された新製品」ができたという意味です。
「新しい戒め」は後者にあたります。
戒めは旧約聖書にもたくさん出てきます。
それをイエスは新しくしました。
旧約の教えを「バージョンアップ」して、新しい角度から教えているということです。
これまでも聞いていたことを、明確に分かりやすくした戒めです。
イエスは、全ての律法は「隣人を愛せ」と要約できると言われました。
戒めの中心を、イエスは「互いの愛し合う」ことだと教えました。

現在「愛」と言っている言葉を始めて日本語に訳した人は「大切にする」と訳したそうです。
「愛する」ということは「好きになる」とイコールではありません。
「存在が大切である」ということです。
互いを大切な存在として認めて、丁重に扱うようにと教えておられるのです。

では、愛するにはどのようにしたらいいのでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように」です。

私の父は書道の師範でした。
私はその父に習っていました。
毎月課題の文字があって、父がお手本を書いてくれました。
お手本は朱色の墨で書かれています。
なぜかわかりますか?
先生のお手本をそのまま提出するといけないからです。
そんなことをしたら賞を取ってしまうでしょう。
私はそのお手本を見ながら練習します。
お手本がないと我流になってしまいます。
書道の目標は、先生が書いてくれた手本と同じ文字を書くことです。
重ねて透かしてみれば、ぴったり合うように。

そのように、イエスは私たちに愛し方を教えてくれました。
自己流の「愛」ではない愛です。
相手の求めや願いを知らなければ自分本位の「愛」になってしまいます。
本当の愛には想像力が要ります。
相手についての調査研究が必要です。

「わたしがあなたがたを愛したように」
というからには、「私はイエス様から愛されている」という自覚がない人はこの戒めを守ることができません。
受けた愛を実践するためには、正確に受け止めなければなりません。
私たちは、新たに意識して学んだこと意外は、自分がされたようにするものです。
子育てでよく起こることです。
私たちの中にすり込まれたように生きてしまうと、悲劇が起こります。
親が失敗したことで、子も失敗するということが生じます。
でも私たちは、どんな境遇にあったとしても、改めてキリストから学ぶことができます。
学んで受け取ることで、変わることができます。
親からもらったものが、本当によいものかどうかを確認して、握り治すことができるのです。

「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」13:35

私の生き方の中にイエスの生き方が表現されているから、他の人にも分かるのです。
時々、自分は父の子だなと自覚することがあります。
父と同じ事をやっているな、と。
ちょっとした仕草や癖、習慣が同じなのです。
ずっと見ているから、自然にその行動を取ってしまいます。
芸事はそれを利用して伝えられます。
昔、腹話術をしている方から「才能がある」と言われたことがあります。
ちょうどその教会の3階に、以前牧師が使っていた人形が眠っているということが判明し、私は無料で門下生になりました。
門下生は師匠のすることを何度もします。
型があって、「春風」一門は芸が似ています。

クリスチャンとして生きたとき、キリストが愛してくれたように生きていくことで、「あの人たちはイエスキリストに似ている」と言われるようになりました。
それが「クリスチャン」という呼び名であり、キリストの弟子であることを表していました。
「キリストに似ていた」からです。
それはクリスチャンの誉れです。

落語家が、古典を大事にしながらも新しい要素を加えるように、私たちもキリストの愛を受け、現代の時代を生きています。
最大の課題は、
「自分は愛されていないのではないか?
 主の役に立てていないのではないか?」
と、自尊心が低いことです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

と、主は言われます。
最も大切なひとり子を差し出すほどに、目に入れても痛くないほどに、主はあなたを愛しておられます。
私が全力でやってもたいしたことはできないかもしれません。
それでも、私は愛して下さっている方のために全力で生きていきたいと思います。
神がして下さったからです。
愛は、はじめからあるものではなく、作っていくものです。
私たちははじめから家族だったのではありません。
主によって家族になったのです。
互いを大切にする自覚を持ちましょう。
「所詮他人」と思っていると家族にはなれません。
イエスが愛して下さったように、互いに愛し合うことを目指しましょう。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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