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3月19日 聖日礼拝

「救霊の思いに熱心な教会」
マルコ16:15

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」16:15

結婚すると様々な変化があります。
日本ではその変化は男性の方が少ないかもしれません。
女性は多くの場合旧姓を捨てて夫の姓を名乗ります。
キリストと教会はよく夫婦に例えられます。
キリストが夫で、私たちが妻をあらわしています。
妻である私たちのために命を捨てて下さったキリストとともに、私たちは変わる必要があり、ともに生きていきます。
夫は惜しまずに愛する者のために生きます。

神の国の宣教を進めていくことが教会の使命です。
そのスタートは、御子が十字架で命をささげてくださったことです。
「そのことを個人的に受け入れるなら、罪を赦し、永遠の命を与え、神の国の民とする」と、神は言われました。
それを信じることが、罪の赦しをもたらすのであって、感情的に捉えてはいけません。
神が私のためにしてくださったという事実を受け入れて生きることが、信仰です。

今日の箇所には、なすべき使命が書かれています。
それは、キリストの使命の延長線上にあります。
教会が教会であるために、忘れてはならないのは、設立のビジョンです。
キリストが命がけで集めた人々に与えた使命に生きることです。

では、イエスはどういう心構えで生きていたのでしょうか。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
ピリピ2:4、5

自分にとって好ましくない状況になっても、それが主のためになるというときに、自分を変えていく姿勢。
それが、主に従うということです。
他の人の益になるなら、主のみこころにかなうなら、あえてそれを選択することがありますか?
罪の性質は「自分がしたいことをする」というものです。
「したくない」。
それでも従っていくのは主への信頼があるからです。
イエスでさえ「したくない」という思いは持っておられました。

「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」
マルコ14:35,36

イエスはエルサレムでなにが待っているかを知っておられました。
結果が分かっていても従われました。
しかし、ゲツセマネの園で、イエスでさえ「できることなら・・・」と正直な気持ちを祈られました。
主は私たちの正直な思いを聞いて下さいます。
そして、イエスはそれでも従われたのです。

多くの場合、主は私たちに合わせて下さっています。
主の犠牲を知りながら、自分は主の為に犠牲を払うことを惜しむのですか?
主はアブラハムにとって最良のもの、ひとり子イサクを捧げるようにと命じられました。
アブラハムが葛藤の末、わが子を捧げようとしたときに、主は彼の心を分かって下さり、イサクの代わりに捧げるように雄羊を与えて下さいました。

神の働きの中心は何でしょうか。
教会が作られた理由は何でしょうか。
それは、まだ福音を知らない人々に、福音を宣べ伝えることです。
その中で、大きな壁があります。
「教会が整うと力を失う」のです。
多くの人は教会を整えたがります。
しかし、福音自由教会の歴史を振り返るとき、教会の成長の勢いが止まった時期は新会堂建設ラッシュに重なっていることに気付きました。
会堂建築の返済に目が向き、宣教の働きが鈍化したのです。

アメリカの大統領トランプ氏は「アメリカファースト」を掲げています。
これまでアメリカは自国の利益だけを考えることはしてきませんでした。
世界の発展が自国の発展につながると考えていたからです。
ところが今は方向転換しようとしています。

他人事ではありません。
私たちの教会では、財政面でひとつの原則を持っています。
・教会員は、収入の十分の一をささげる。
・教会は、収入の十分の一を他の働きのために使う。

というものです。
それを「もったいない」と感じると、宣教の勢いを削いでしまいます。

私たちの教会は、主の教会のために遣わした人がいるでしょうか。
アメリカの福音自由教会本部を訪れたとき、思い切って聞いたことがあります。
「宣教師を1家族派遣するのにいくらかかるのですか?」と。
年間1,000万から1,500万円という回答でした。
「宣教師の給料は、教会が負担しなくてもいいからいいね」と思う人がいますが、宣教師を支えているのはアメリカの兄弟姉妹の捧げ物なのです。
彼らは、本来自分たちのために使っても良いものを、日本のために捧げ、祈ってくれたのです。
そのようなスピリットが私たちの中にあるでしょうか?

西教会が建てられたとき、名古屋教会から3名の教会員が派遣されてきました。
そのうちの一人はさらに南教会へと派遣されました。
この2016年度、創立の時に派遣された二人の兄弟姉妹が天に召されました。
まさに、教会が新しいページをめくるべき転換点を迎えているように感じました。
この方たちは、親しい友のいる名古屋教会を手放して、まだだれもいない西教会に来て下さいました。
そのような人がいなければ、教会は建ちあがりません。
成長していくときには、別れが頻繁にありました。
自分たちの教会を整えるためなら、人材を外に出したくはないはずです。
それでも、宣教のために、教会は優秀な人材を送り出してくれました。
それも、当時20人、30人しか会員がいないような教会がです。
「やりたいから」ではなく、主から托された使命を果たすために。

宣教のスピリットを失ってはいけません。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
エペソ4:11~13

ここで言われている「奉仕」とは、いわゆる教会の中で行われている「奉仕」ではありません。
聖徒たちを整えて、「派遣する」という意味です。
外に向かって様々な働きをすることです。
内に向かうと、熱意と力を失います。
その結果新しい人材も育ちません。

伊藤先生とドイツを訪問したときにこんなことがありました。
高速道路を走っていると、所々に塔が建っています。
案内をしてくれた方が、
「あのような教会が献身者を送り出しています。
多くの献身者は田舎の出身者なのです。」
と言われました。
色んな面で満たされた大きな教会ではなく、小さな田舎の教会が人を送り出している。

若い世代に宣教のスピリットを分かち合わなくてはなりません。
もし導かれたなら、もっと広い世界で活躍するように励まさなくてなりません。
祈りましょう。
励まし、サポートしましょう。
もし私たちが捧げたら、そこに欠乏が生じるでしょう。
しかし、主はそこを整えて下さいます。
使えば使うほど、豊かになることを忘れずにいましょう。
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3月 12日 聖日礼拝

出エジプト記 20章 1~6節
「千代の祝福の基となる教会」

1975年。
今から41年前、福音自由教会の国内宣教委員会が、日本での宣教25周年を記念して、中部地区に第3番目の教会を建てることを決定しました。
3つの教会があれば、そこに「地区協議会」が生まれます。
そのころ、日本全国には13の福音自由教会がありました。
諸教会は、当時すでにあった名古屋教会、春日井教会に加えて、新しい教会を作ることで、主への感謝を表そうとしたのです。
国内宣教委員会が土地を購入し、アメリカの宣教団が建物を建てました。
そして、日本人牧師である吉井先生と、米国人宣教師コンラッド先生が開拓を始めました。
西教会がどのような教会を目指すか、その指針が週報の右上に書かれています。
「千代の祝福の基となる教会」
これは出エジプト記20章6節からきています。

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」20:6

イスラエルの民は、エジプトで奴隷とされていたときに、苦しみの中で助けを求めました。
すると主は、モーセを立てて彼らをエジプトから導き出し、約束の地カナンへ連れ戻しました。
彼らは「連れ戻され」ました。
ヤコブ(=イスラエル)の時代に起きた飢饉を逃れるために、ヤコブの一族はエジプトに逃れます。
それは、ヤコブの息子ヨセフが兄たちから不興を買い、エジプトに奴隷として売られるというできごとから始まります。
奴隷であったヨセフはやがてエジプトの大臣にまで上り詰め、そうとは知らずにエジプトを頼ってきたヤコブの一族約70人を呼び寄せました。
彼らはやがて200万を超える民となりますが、ヨセフを知らない時代の王に苦しめられました。
主は、彼らを先祖アブラハムに約束された土地に再び導き入れました。
その途上、神の民として生きる指針となる言葉であるモーセの十戒を与え、そこから律法が生まれました。
十戒は神がイスラエルに求めたものであり、信仰の中心となるものでした。
では、それが今日の私たちとどんなつながりがあるのでしょうか?

イスラエルは奴隷状態であったのに、モーセを立てて約束の地へ導かれました。
全ての人は罪の奴隷でしたが、主は御子イエスを遣わして私たちを罪からあがない、天の御国へと導いてくださいました。
「旧約」と「新約」。
「新約」は「新しい契約」であり、約束の更新を意味します。
ふたつは「全く違うもの」ではありません。
イスラエルへの約束は、全ての民のための計画の第一歩でした。

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。」
創世記28:13,14

かつてイスラエルの民が多くの民の中から選ばれたのは、彼らがすぐれていたからでも、数が多かったからでもありませんでした。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」
申命記7:6,7

最も少なくて弱い民が生き残り、困難に打ち勝つのは、神を信じ、崇めたときです。
神を崇めず、感謝もしなくなると、彼らは恵みを失いました。
そのことを、全ての民は見てきました。

私たちが救われたのは、私たちが優れているからではありません。
弱く、小さい者を神はあえて選ばれたのです。
12弟子もそうでした。
彼らの中に影響力のある人はほとんどいません。
むしろ「無学な者」と言われました。

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」使徒4:13

私たちも、神を信じて生きていくときに、神は幾重にも祝福して下さいます。
これが神のご計画です。
私たちが祝福されることをとおして、神の栄光が表されるためです。
ただし、それには条件があります。

・わたしの命令を守る者

イエスが私のために十字架に掛かり、死んでくださったことを信じる信仰によって、私たちは罪の許しを得て、神の子とされました。
神の栄光を表すために必要なことは、神の神としてあがめて、感謝を捧げることです。
イエスが復活後、天に帰る前に弟子たちに命じたことはこうです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

祝福されるためには、信じて従わなければなりません。
聞いたことを自分のこととして守るのです。

・わたしを愛し

私たちは神を愛しているでしょうか。
神は私たちを愛していると公言しておられます。
愛のゆえに、罪のあがないとしてひとり子を与えて下さいました。

私は高1のキャンプの時に、イサクを捧げたアブラハムの話を聞きました。
それは、神がご自分の御子さえもおしまずに与えて下さることを示しています。
そのメッセージの中で、自分のもっとも大切なものを捧げることを示されました。
「私にとって最も大切なものは何だろう」と考えたとき、私は「命だ」と思いました。
そして、私も命をささげようと、献身の決意をしました。

もしプロポーズされたら、黙って無視しますか?
何らかの応答をするでしょう。
神の告白に対するあなたの答えは何ですか?
人生をもって主に応えることが求められています。

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」20:6

この言葉は、新約の言葉と呼応しています。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
ヨハネ15:5~8

恵み=実です。
「何でも求めれば与えられる」という言葉には条件があります。

・キリストにとどまり=神を愛する

それは命のつながりであり、一方通行ではダメなのです。
私も心から神を愛するように求められています。

・キリストの言葉がとどまる=神の命令を守る

「とどまる」、キープすることが大切です。
「与えられる」ということは、すぐに実現することもあるかもしれませんが、時間差があることもあります。
信じて待ち続けることが「とどまる」ということであり、とどまるときに主の約束が確かであることを見ることができます。
私たちは、しばらく実現しないと諦めたり忘れたりしてしまいます。
保ち続けるなら、律法の祝福は今の私たちにも及びます。
神が支払って下さった犠牲を受け止めて、従うという応答をするとき、祝福をいただくことができます。
教え、祈り、励ましていきましょう。
千代の祝福の出発点として。

3月5日 聖日礼拝

使徒の働き 2章 37~42節
「教会の働き」

キリストの体である教会は、どんな働きをゆだねられているのでしょうか?
教会はなにをする場所なのか、考えていきたいと思います。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」2:37

ペテロの説教を聞いた人々が自らの過ちに気付き、どうしたら回復できるのか、改善できるのか、と自覚しました。
最も大切な働きは、
「今置かれている現状を正しく知る」
ように人々を促すことです。
今まで気付かなかったが、このままではいけない、と気付く。
解決するにはどうしたらよいのか、という内から出てくる問いと求めが大切です。
「求道心」
それは、人々が自分の中に欠けていること、足りないことを理解して、「どうしたらよくなれるのか」と飢え渇きを持つようになることです。
求めのない人は、自分の前にどんなにすばらしいものがあっても欲しいとは思いません。
戦前、戦中、戦後を経験した人は、飢え渇きを経験しています。
今はいつでも欲しいときに買って食べることができます。
いつも豊かさが満ちあふれています。
心の飢え渇きは、代用物でなかったことにして、直視せずに済ますことができます。
見ないようにフタをして、毎日を生きているのが今の時代ではないでしょうか。

「人々はこれを聞いて~」とありますが、「これ」とは、

「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」
2:22,23

で始まるペテロの説教です。
そして、ペテロの答えは、

「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」2:38

という、悔い改めの勧めでした。
人が持っている罪の現実に目が開かれ、そこから何とか脱出したいという飢え渇きを持ったとき、「悔い改め」が必要です。
それは、これまでのやり方を、方向を、変えることです。
神の用意された道に方向転換すること。

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」マタイ4:17

これはイエスが最初に語られた言葉です。
では、なにからの悔い改めでしょうか。
「神を神としてあがめず、感謝もしない生き方」からの悔い改めです。
神を神としてあがめ、感謝を捧げる者になる。
それが、クリスチャンになるということです。
不平不満、つぶやきを捨てて、喜びと感謝の生活をすること。
神のひとり子が、私の罪のために十字架で命をささげてくださいました。
これを神がしてくださったこととして、受け入れること。
すなわち、信仰の告白です。
そのとき、神は約束の聖霊によって、私たちを神の子として、永遠の命を与えて下さいます。
これを自分のためのこととして受け止めること。
自分の罪を悟り、「どうしたらいいですか」という飢え渇きを持つ私たちに、「罪のあがないはすでに成された」と主は言われます。
私たちは、御子によって清められているという信仰を持って、神の国に仕えるものになっています。

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」2:41

イエス・キリストから学ぶ弟子に加えられた者は、バプテスマを受けました。
救われたクリスチャンが取り組むべき働きは4つあります。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」2:42

①教えを堅く守る
②交わりをする
③パンを裂く
④祈りをする


①教えを堅く守る

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:19,20

これはイエスの言葉です。
教えを聞くだけでなく、生活の中に教えが根付くように、keepするように指導すること。
聞いたことをすぐにできる人は天才です。
聞いても、頭では分かっても、生活の中で身につくようになるにはかなりの時間が掛かります。
スキージャンプの高梨でも、天候や体調や、解錠のコンディションによっては勝てないこともあるのです。
聖書の言葉を学んで教えても、その人の日常生活の中で維持されていくためには努力が必要です。
ペテロの教えを聞いた人々は、守ろうと努力していました。
御言葉通りに生きるようにサポートすること。
その通りに生きられるように励まし、共に取り組み、叱責し、促すこと。
それが教会のすべきことです。

私は神学校の卒論のテーマで「敵を愛する」を選びました。
「敵を愛しなさい」と言われたとき、3つの反応があります。
・「できっこない」
・「守るべきである。愛せないのはダメなことだ」…これは律法主義とも言います。
・「守れるか守れないかが大事なのではない」…イエスの言葉だから、心の留めておく。

不漁のまま戻ろうとしていたペテロたちに、イエスは「船の反対側に網を下ろすように」と言われました。
その時、ペテロたちは、
「お言葉ですから」と従いました。
自分の経験や価値観では無理だと思われても、主の言葉ならやってみよう、という心です。
「でも、やってみよう」と一歩踏み出さないと、自分の経験に合わない聖書の言葉を排除することになってしまいます。

②交わりをする

イエス・キリストを介しての交わりです。
年齢、生まれ、育ち、趣味の違いを超えて、ひとつの交わりを形成するのが教会です。
結ぶつけるのは、主キリストです。
それは、父と御子の交わりになぞらえられます。
教会はイエスへの信仰を通してつながる共同体です。
「仲良くしましょう」という交わりではありません。
私の内に働く、キリストの恵みと愛を分かち合うことです。

私にできることは限られています。
一人の牧師の一日の時間は皆さんと同じ24時間です。
その中で、どれだけのことができるでしょうか。
できることは限られています。
だから、交わりが必要なのです。
主が、その人のうちに働いてくださるように、ともに労してくれる兄弟姉妹が必要です。
証しをすること。
それは、神がイエスを通して私にどのように働き、慰め、力を与えてくださったかを語ることです。
そうして共有した課題をともに祈り合う交わりです。

③パンを裂く

喜びと真心を持って食事をする交わりです。
これはまた、聖餐式もあらわしています。
食事の交わりの中に、キリストがともにいてくださることを意識しましょう。
食卓を囲むとき、キリストもそこにいてくださいます。
見えざる客として、一つの共同体として。

④祈りをする

個人的な祈りも大切ですが、心を一つにして祈ることも大切です。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20

必要を分かち合いながら、励まし合いながら、互いに祈り合いましょう。
私はある時から祈りを変えました。
それまでは
「病が癒されるように」
「困難が取り除かれるように」
という祈りをしていました。
しかし、病は癒されても、また病気になります。
困難は次々に起こってきます。
そう感じた時、
「負の部分を取り除いてください」という祈りから、
「立ち向かう知恵と力を。
 克服できるように信仰を守り、内なる人を強めてください」
と祈るようになりました。
牧師として、いろいろな現実を見てきたからです。

イエスはともにいて、必要に答えてくださいます。
教会としての使命を果たしていきましょう。
各々が、キリストに似た者になるように。

2月26日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章31~35節
「今日も明日も次の日も」

今日は教会文化祭が行われます。
私たちにはひとりひとり賜物が与えられています。
それを神のみわざのために用いていくことが大事です。
人生の積み重ねの中で獲得した経験もまた、賜物です。
経験しないと、人の心には思い浮かばないものです。
経験の中で獲得して、大事だと思っているから思いつくのです。
痛みや苦しみはそれ自体、嬉しいものではありません。
が、それを経験したからこそ、同じ経験をしている人に共感できます。
まさに、

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ローマ8:28

のです。
経験は自分のためだけではなく、他の人を励まし、仕えるためのものであるという考え方を身につけるとき、「あの経験をしたから、気付くことができ、共感することができる」ということがわかり、用いられるように生きることができます。
そして、用いられるとき、苦しみから解放されるのです。

さて、イエスの生涯における地理的な転換点がルカ9:51にあります。

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」9:51

当時、北イスラエルと南ユダのふたつの地域に分割統治され、ローマ帝国の支配下にありました。
南にはエルサレムがあり、北にはガリラヤ地方があります。
9:51以前は、イエスは主に北野ガリラヤで活動していました。
北はヘロデ王が統治しており、南はポンテオ・ピラトという総督が統治していました。

「ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。『ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。』」13:31

このように言われたからエルサレムに向かったわけではありません。
イエスはすでにエルサレムに行く旅の途中だったのですから。

「イエスは言われた。『行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。」』」13:32

あの狐、とはヘロデ王のことです。
ここで言われていることは暗示で、わかりにくい部分です。
これはヘロデへのメッセージです。
イエスが伝えようとしていることは何でしょうか。

ヘロデの支配地域で、多くの人々がイエスを支持していました。
ヘロデはユダヤ人ではありません。
そのため、反発もありました。
ヘロデは神経質で、猜疑心が強かったと言われています。
自分の地位が脅かされているという不安にさいなまれていました。
そのヘロデに、イエスはこう言いたかったのです。
「ヘロデ、心配しなくても大丈夫。
 私の働きはまもなく終わる。
 ヘロデをおびやかすつもりは全くない。
 病を癒し、悪霊を追い出しているだけだ。」
と。

エルサレムに向かっているのは、ヘロデから逃れるためではなく、使命を全うするためでした。

「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」9:22

と言われていたとおり、エルサレムで死ぬためです。

そして、ヘロデへのメッセージにある、「三日目に全うされます」という言葉の、もうひとつの意味はこうです。
「エルサレムで苦しめられて死ぬが、3日目によみがえらなければならない。」
それは、神の救いの完成のためです。
ヘロデによってでも、ピラトによってでもなく、自ら命をささげるために。
3日目によみがえって、救いを完成させるために。

今日、明日に行っていることは、直面する問題の解決です。
しかし、3日目に、根本的な罪の解決をしてくださいます。
なぜ十字架の死が、私たちの救いにつながるのでしょうか。
しっかりとらえることが大切です。

罪の大元は何でしょうか。
それは、アダムとエバが善悪の知識の実を取って食べたことから始まります。
その実に毒があったわけではありません。
しかし、「必ず死ぬ」と主は言われました。
善悪の判断基準は神にあります。
「禁じられた実を取って食べた」ということは、神を信じないという意味です。
彼らは、たった一つだけ「してはいけない」と言われていました。
神は他の全てのものと、自由を与えたのに。
神を信頼する証として、それをしないようにと命じられました。
食べないことで、神への信頼を示すようにと言われたのです。
ところが、誘惑する者は、
「食べたら神のようになる。
 死なない。」
と言いました。
彼はなにもふたりに与えていないのに。
アダムとエバは、彼の言うことを聞いて食べました。
それはつまり、神への信頼を捨てたということです。
そのときに、人は死ぬべき存在になりました。

結婚式の誓約で、「生涯、妻/夫となるのはあなただけ」「信頼するのはあなただけ」という誓いをします。
その証として指輪を交換します。
信頼を破ってはいけません。
信頼を破ったら、その関係は終わります。
その関係が「死んだ」と言ってもいいでしょう。
罪とは、全ての良いものを与えて下さる神と、神への信頼を裏切ることです。
その報酬は「死」です。
神は愛なので、死すべき私たちを何とか救おうとして、ひとり子イエスを遣わすことを決めました。

連帯保証人は、債務者が借金を返済できない場合、それを肩代わりして返済しなければなりません。
神はイエスを私たちの連帯保証人として下さいました。
私たちには支払えない、罪から来る報酬を代わりに支払って下さいました。

私が人からボイスレコーダーを借りたとします。
もし、私がそれを落として壊してしまったら、そのまま返せるでしょうか?
壊したら、修理してから返さなくてはいけないでしょう。
「弁償」が必要です。
私たちは、神から与えられたもともとの命をお返ししなければなりません。
もともとの命、罪に汚れていない命をです。
私たちには、罪の汚れを落とすことはできません。
イエスのきよい命をささげることでその罪が赦されるのです。
1万円の負債なら返せるかも知れません。
でも、もし1億円の負債があったら、普通の人は一生掛かっても返すことはできないでしょう。
イエスが支払ってくださったから、私たちは、責めを負わなくてもよくなりました。
そのために、イエスはエルサレムに向かっていたのです。

信仰は信頼です。
信頼にはふたつのものがあります。
御子を与えて下さった神への信頼。
そして、神が身近に与えて下さった人々への信頼です。
信頼の関係があれば、人生は満たされます。
神と、神のことばを信じ、友人を信じること。

「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」ヨハネ15:17

それが、祝福のゆるがないカギなのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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