FC2ブログ

2月19日 聖日礼拝

ルカの福音書 13章 22~30節
「救われる者は少ないのですか」

「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」13:22

イエスはエルサレムへの旅を続けられました。
イエスのうわさを聞き、「一目会おう」「病気の友人を連れて行ったらよくなるのではないか?」と、人々は我先にとイエスの元に行きました。
多くの人は、問題が解決し癒されました。
それは信仰の故、神の恵みによってです。

ではそれらの人々のどこに信仰があるのでしょうか。
「イエスの元に行けば解決するに違いない」と思ってイエスの元に行くこと。
中風の人を床ごと運んで連れて行った友人たち。
イエスはそこに、「求める」信仰を見られたのです。
イエスの元に来ることに信仰の表れがあります。
「イエス様、信じます!」というシーンはここに出てきません。

そんな中で、旅の途中で、ある人が質問しました。

「すると、『主よ。救われる者は少ないのですか』と言う人があった。」13:23

多くの人の心の中にある問いでしょう。
先程の宣教報告で、年間で日本国内でクリスチャンになる人の数と、海外で救われる日本人の数はほぼ同じだと言われていました。
日本でクリスチャンだという人は極々わずかだと言えます。
「なぜ?」という思いもあるかもしれません。

この問いを発したのは弟子ではありません。
「少ない」と答えられたら、「厳しい」と思うかも知れません。
中には、「神が愛なら、信じる者だけでなく、全部まとめて救ってあげたらいいのではないか?」という人もいます。
「救いの条件が厳しすぎるのではないか?」と。

北海道に黒いスイカがあります。
出荷する前にひとつひとつレントゲンを撮り、中に空洞があったり糖度が低かったりしたものはそのブランド名が付けられないそうです。
ブランド名が付けば1個1万円以上するスイカです。
条件が厳しいから高価になります。

救いの条件はそんなに厳しくしなくていいのではないか、という思いがその質問の背後にあるのかも知れません。
イエスはその人だけでなく、周りにいる人々に向かって語りました。

「イエスは、人々に言われた。
『努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。』」
13:23,24

イエスの言った言葉を理解するために、イメージを持って欲しいと思います。
子どものおもちゃですが、サイコロ型の箱で、6つの面に違う形の穴が空いています。
そして、いろんな形をした部品があります。
どうしたら、その部品を箱の中に入れられるでしょうか。
四角い穴には四角を、星形には星形を。
同じ形のものと合わせれば入ります。
違うものを入れようとしても入りません。
狭い門から入るとは、そのようなものです。
その人のために用意された入り口があります。
多くの人は、「このままで入りたい。どんな形でも入れる大きな円があればどれでも入れるじゃないか。」と考えます。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
マタイ7:13,14

マタイの福音書にはこのように書かれています。
「道は広い方がいい」と思うのは、その方が楽だからです。
しかし、救いの門は主が用意されたものです。

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」ヨハネ14:6

人は、イエスを通してでなければ父なる神の元に行くことはできません。
救いの門は神にしか作れないからです。
物理的に狭いのではありません。

子どもの頃に聞いた話です。
さきほどの箱で、星形の入り口からは、星形にぴったりでないと入ることはできません。
「救い」には、私がぴったり入れる穴があるのです。
「入れない」と思ったら、大きな荷物を持っていたからでした。
入るためには、持っているものを手放さなければなりません。
それが悔い改めです。
この世の実績は神の前では役に立ちません。
ありのままの、本来の姿でなければ入ることができないのです。

春日部教会の髙橋敏夫先生は茶道の先生です。
先生によれば、茶の湯にはイエス様の教えが根付いているそうです。
茶室には「にじり口」があります。
とても狭い入り口で、頭を下げてくぐらなければなりません。
武士も腰の物を全て置いて、丸腰で、首を垂れて謙遜にならなければ入れないのです。
それは「狭い門」を具現化したものです。
自分を、権威を、全て置いて、主人と対面する。
ルールを守らなければ茶室には入れません。
同様に、神が用意した救いの道と手順は、狭き門なのです。

なぜ入ろうとしても入れないのでしょうか。
「神が用意されたもの」意外で入ろうとするからです。
「神が用意されたもの」とは、ひとり子イエスが代価として十字架に掛かって下さったこと、そのキリストが救い主だと信じて受け入れることです。
そして、生涯キリストを主として従っていく者になることです。
大勢の人がイエスと出会い、病が治り、問題が解決しました。
しかし、イエスに感謝するために戻ってくる人は少なかったと書かれています。
多くの人は、イエスを利用します。
そして、解決したら忘れてしまいます。
イエスは12弟子を選ばれました。
そのときに言われた言葉は「私について来なさい」でした。
それに対して弟子たちは「仕事があります。船も網もあります。」と言わずについて行きました。

「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』
・・・
イエスは彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』
ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』」
マタイ19:16、21~24

この青年は永遠の命を求めたのに、得られませんでした。
この世の持ち物は救いの役には立ちません。
手放して入らなければなりません。
それを知った青年は感心で去っていきました。
なぜでしょうか。
多くの財産を持っていたからです。
これまでの実績、プライド、頼りにするもの、など別の方法で天の国に入りたいと思っていました。
信じて受け入れた、その先に二つの道があります。
「救われたからもういい」と「神との交わりの中で新しい歩みを生きていく」です。
イエスは救い主であると同時に、人生の主です。
ブドウの木とその枝のように、イエスとのつながりの中で私たちは生きていきます。
「将来天国に入れる」だけでなく、地上にいるときから天国で生きるように生きることができるのです。

イエスがこの世に来られたことのメッセージは「インマヌエル=神が共にいてくださる」ということです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

イエスが共にいて下さっても、心が通じていないことはないでしょうか。
イエスを救い主と信じることは、信仰の土台です。
「私も世の終わりまであなたと一緒に行きます」という応答が必要です。
それは、夫と妻の関係になぞらえられます。
「私も一緒にいきたいのです」という応答こそが狭い門です。
人は「自由でいたい」「縛られたくない」と思うからです。
本当の意味で生かされ、主の役に立つためには、主と共に歩まなければなりません。
そこにある恵みと喜びが分からず、多くの人は「それでは不自由になる」と思ってその道を選びません。
成熟していくためにたいせつなことは、人生の新湯婦場面でイエスと共に行動していくことです。

夫婦になると、今まで別々に経験していたことを共に経験します。
一緒に決断して行動します。
決して言いなりになるのではありません。
イエスは私のことを「自分のこと」として考えて下さいます。
それに対する応答は、「イエスのことを自分のこととして考えていく」ことです。

なぜその道は狭いのでしょうか。
自分を主張するからです。
イエスは、神のあり方を捨てて、仕えるものになって下さいました。
人生の喜び、悲しみ全てが共有される恵み。
そこに目が開かれるとき、それは狭い門ではなくなります。
どんな状況でも、主が共にいて下さいます。
生涯その生き方を貫くとき、イエスの言葉は本当だと実感できます。
実感できるのは従った人だけです。
私たちはそこに招かれているのです。
スポンサーサイト

2月12日 聖日礼拝

ルカの福音書 13章 18~21節
「神の国とはどのようなものか」

神の国は天の国とも言われます。
バプテスマのヨハネの第一声は

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイ3:2

でした。

イエスの言う「神の国」とはどのようなものでしょうか。
そのイメージをつかめているでしょうか。
イエスは町々を巡って神の国の訪れを伝えました。
神の国は、神が治めて支配している国です。
今年は西暦2017年ですが、これは「主の年」の年号です。
日本では平成29年と言いますが、それは今の天皇が即位して29年目という意味です。
2017年というのは、イエスがこの世に来られ、神の支配が始められてから2017年目という意味です。

イエスの時代、「とこしえまで続く」と言われたダビデの国は消滅していました。
ダビデの子孫として、その国を引き継ぐ者として、イエスは神の国を再建しました。
今、その2017年目を迎えました。
神の治世により、神が治めている人々とは、「悔い改めなさい」という神の招きに応じた人々。
悔い改めて、救いの道を、神への信頼を持って受け入れた人々です。
神はそのような人々を赦し、救い、神の民として下さいました。
神の国とは、神の救いによって新しい神の民とされた人々の国です。

「そこで、イエスはこう言われた。『神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。』」13:18

「そこで」と言われているので、前の事柄と無関係ではないことが分かります。
先週学んだように、18年間病んでいた女性が癒されたことが、この前に書かれています。
私たちの人生には、苦しみや課題が横たわっています。
彼女は、それでも神に仕える信仰を持っていました。
聖書に書かれてはいませんが、癒されるようにと何度も祈ったに違いありません。
それでも18年間かなわなかった。
イエスはそこに彼女の信仰を見たのです。
言葉に出はなく、生き様に表れる信仰です。
ありのままの彼女の姿を見て、悔い改めと神への信頼があることを見抜き、イエスは彼女をお救いになりました。
それを、安息日にすべきことではないと責められたとき、イエスは「18年の病の束縛を解いてはいけないのか?」と言われました。

モーセによる出エジプト。
神はイスラエルの民を、奴隷の立場から導き出されました。
主は、途中でホレブの山で律法を与え、その中で,「6日間働き、7日目は休む」ようにと命じられました。
安息日は、神の救いであり、解放を記念する日です。
かつてエジプトで苦難に直面したとき、神はイスラエルを救い出して下さった。
そのことを忘れないようにするために、7日目には神を思い、日常を離れるようにと定められました。
礼拝は義務ではありません。
喜びの日であり、救いを自覚し、内からわき出る喜びと感謝を捧げる日です。
「18年間苦しみながらも神と共に歩んだ女性を解放することは、神の心にかなうのではないか」と、イエスは言っているのです。
解放は救いです。

イエスの宣べ伝える神の国とはどんなところでしょうか。
イメージを持つようにとイエスは語られました。
神の国は

①からし種のようなもの
②パン種のようなもの


と例えられています。

「それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」13:19

からし種は、ほんとうに小さい物の代名詞です。
小さいけれども、庭にまかれると、成長して大きな木になります。
救いのみわざはどこから始まったのでしょうか。
それは、イスラエルという小さな国の、地方都市ガリラヤでした。
12弟子は、学問を究めたエリートではありませんでした。
名士でもない、漁師であり収税人であり熱心党員であり、影響力のある人はいませんでした。
それでもイエスはお選びになりました。

旧約時代にイスラエルが選ばれたのは、小さくて弱い民だったからです。
「小さくて弱い」からし種のようなものに神の救いのわざが実現していく時、成長して、豊かに葉を茂らせます。

「自分は小さい。弱い。」と思いますか。
そんなことは主はご存じです。
そういう人を選ばれたのですから。
小さく見えるかも知れないけれども、やがて成長して神のみわざに貢献することができます。

「またこう言われた。『神の国を何に比べましょう。
パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。』」
13:20,21

3サトンはおよそ39リットルにあたります。
かなりの量です。
わずかパン種、つまりイースト菌を入れると、パン生地全体に影響します。
神の国はそのようなものだと言うのです。

クリスチャンにとって「解放の日」は日曜日、イエスが死からよみがえられた日です。
1週間の内、礼拝するのは1時間ほど。
救いを与え、恵みをくださる主を礼拝する時間はほんのわずかな時間です。
イエスを通して救いを与えて下さった主の為に捧げる時間。
主は命を与え、罪からあがなうためにひとり子を与えて下さったことを、私たちは信仰を持って受け入れました。
私はからし種のようなものなのに、私の人生に救いをもたらして下さいました。
あえて主は私を選び、聖なる者とするために愛を注いで下さいました。
その恵みに感謝するために、私たちは日曜日集まります。
人生という大きな事から見たら、礼拝する時間はほんのわずかです。
でも、生活の中の、困難、苦しみ、痛み、衝突の中に、小さなパン種が入れられると、生活全体に働き、恵みを膨らませてくれます。

18年間苦しんだあの女は、毎週神を信じて礼拝を捧げていました。
そこに神の恵みが及んだのです。
癒されたいから神を頼ったのではありません。
クリスチャンにとって、礼拝を捧げるのはほんのわずかな時間です。
「毎週行かなくてもいいんじゃないですか?」と言われたこともあります。
礼拝を捧げていくことは、神の恵みが人生に入るパン種のようなものです。
礼拝を通して、恵みが生活の中に豊かに及んでいきます。
神の支配が豊かに広がっていきます。
私たちにとってもっとも大切なことは、主が救いを与え、神の民として下さったという恵みをしっかりと覚えること、感謝することです。
未解決の問題もあります。
それでも、強いられてでもなく、義務としてでもなく、命を与え、恵みを人生に結びつける場として礼拝を捧げていきましょう。

2月5日 合同礼拝

ルカの福音書 13章 10~17節
「なにが正しいかを判断する」

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
イエスは、その女を見て、呼び寄せ、『あなたの病気はいやされました』と言って、
手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」
13:10~13

今日の箇所には18年間病にかかっていた女性が出てきます。
おそらくイエスと出会うのは初めてではないと思われます。
イエスは町々を巡り歩いていました。
それまでも群衆の中にはいたかもしれませんが、今、会堂にいる姿がイエスの目に留まりました。
イエスは彼女を呼び寄せて「癒されました」と言いながら手を置きました。
これは、多くの人々の前で起こったことです。

「すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。』」13:14

会堂管理者は、会堂で語られる聖書の言葉について、誤りを正す責任がありました。
そして、彼はイエスの癒しに対して憤りました。
女性は病気でも、毎週会堂に来ていました。
癒されるように、と祈っていたのかも知れませんが、病を受け入れながら生きていくために祈っていたのかもしれません。
困難な境遇にあっても、女性は神を礼拝することをやめませんでした。
そんな女性が癒されました。
会堂管理者は、毎週彼女が来ている姿を見ていたはずです。
その病が癒されるのを見て憤ったのはなぜでしょうか。
女性が癒されて神をあがめるのを見て、憤ったのです。

私たちも、神のみわざが行われたのに、不満が心にあって、
「納得できない。おかしい」
と思うことはないでしょうか。
会堂管理者は、熱心さのゆえに憤っていました。
「安息日には何の仕事もしてはならない」ということを自ら守り、人々にも守らせようとしていたからです。

「すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。『働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。』」13:14

パウロには疑問がありました。
主は、同胞であるユダヤ人を見捨てて、異邦人に救いを与えようとされているのではないか、と。
しかし、主は異邦人を通して、イスラエルを救おうとしておられるのだと言うことに思い至りました。

会堂管理者は、律法を守ることに命を賭けていました。
熱心で、正しい人でした。
が、それは知識による熱心さではありませんでした。
彼はこの感動的なシーンで怒りを感じました。
「仕事は6日のうちにしなければならない」と、彼は会堂にいる人々に教えてきました。
彼はイエスに抗議したのではありません。
間接的に、イエスの間違いを指摘していたのです。
なぜ水を差すようなことを言ったのでしょうか。
なにが正しい子とかの判断が誤っていたからです。
正しく神の律法を理解していなかったのです。

私たちは正しくみことばを聞いているでしょうか。
人は、自分を中心にして聞いています。
神が私にどんなことを語ろうとしておられるか、神の心を理解しようとして聞くことをしていません。
自分にとってどう役立つか、ということにしか興味がないのです。

牧師として様々な相談を受けることがありますが、「多くを語りすぎた」と思うことがあります。
牧師に相談するとき、その人はアドバイスをして欲しいのではありません。
自分でもどうしたらよいか分からない思いを、知って欲しいと思っているのです。
話すことで、すでに解決に近づいているとも言えます。
なにに、語りすぎてしまいます。
しっかりと相手の言うことを聞き出して、心の中のものをしっかりと受け止めることが弱いからなのではないかと感じます。

「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」ヤコブ1:19

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17

イエスはどういう意図で語っているのでしょうか。
律法の背景にはなにがあるのか、旧約の安息日の規定を読んでみましょう。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――」
出エジプト20:8~10

家畜さえも休むようにと書かれています。
安息日は、休息と安らぎのためのものでした。
それなのに、会堂管理者は、背後にある神の恵みと祝福に目が留まっていませんでした。

「六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。
七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。
あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。
地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、
また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」
レビ25:4~7

それどころか、主は土地の休みも宣言しておられます。
6年間収穫したら、1年間休ませる。
酷使しないようにと言う恵みであり、土地がやせ細るのを防ぐことができる、理にかなった律法です。
安息日に規定は、労働から人々を解放するための規定です。
安息を与える神をほめたたえるための日です。
癒された女性は神をほめたたえました。

「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。』
こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。」
13:15~17

なにが正しいかを判断するには、主の教えを表面上理解するだけでなく、神の心がどこにあるのかを正しく受け止めることが必要です。

1月29日 聖日礼拝

イザヤ書 66章 18~24節
「主への贈り物」
                    柳橋神学生

今日の箇所はイザヤ書の最後です。
ここに書かれていることの中心テーマは「神の栄光」です。
神は全世界を造られたとき、人をも造り、主の栄光を表そうとされました。
しかし、すぐにアダムとエバは罪を犯し、全ての人が罪を負って生きることになりました。
そのために、人は神の栄光を表すことができなくなりました。

そこで神はイスラエルの民を選び、彼らを通してご栄光を表そうとされました。
ところが、彼らも主に従うことができずに、二つの王国、イスラエルとユダに分裂してしまいました。
イスラエルは神から離れてアッシリアに滅ぼされ、ユダも滅びました。
そんな状況で、主はイザヤを預言者としてお建てになり、御言葉を語らせました。
もう一度悔い改めて従うようになって、ユダの民が神の栄光を表すようにと、イザヤを通して忠告されたのです。
「悔い改めて立ち返れば幸せにする」と、変わらぬ愛が語られています。

「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。
わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」
66:18、19

ここには国々の名前が書かれています。
それらはイスラエルから離れた遠い国です。
「神」のうわさも聞いたことがないような国々。
そこまで神の栄光が伝わると言われています。

神は世界を言葉で造られました。
神のことばは必ず実現します。
この御言葉も成就しています。
この日本という場所、遠い島にまで伝わり、私たちは神の栄光を見ています。

「私個人がイエスの栄光をいつも見ているだろうか?」
と思わされました。
日々の忙しく、楽しいこともいろいろありますが、神のすばらしさがぼやけていないか?と。
主が見せて下さったイエスの栄光は、この世のどんなものよりも素晴らしいものです。
本当に神の栄光を、最も見上げなければならないと思いました。

「彼らは来て、わたしの栄光を見る。」66:18

イエス・キリストの栄光とはどのようなものでしょうか?

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
ヨハネ1:14,18

ひとり子だけが、神の栄光を見たのです。
そのひとり子が、罪によって神を見ることのできない人の為に、人となって来て下さいました。
そのイエスを通して、神の栄光を見ることができます。

「わたしは彼らの中にしるしを置き」66:19

しるし、とは、神のことばを「その通りだ」ということを示す証拠です。

「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」ルカ11:29

ヨナのしるしとはどういうことでしょうか。
ヨナの時代、ニネベの町は堕落していました。
神は「悔い改めるなら滅ぼすのをやめる」という約束を、預言者ヨナを遣わして伝えさせました。
するとニネベの民はヨナの忠告を聞き入れて悔い改め、救われました。

イエスは、奇跡によって、ご自身が神の子であることを示されましたが、最大のしるしは十字架の死からよみがえられたことです。
そして、今も生きておられます。
やがて、悔い改めた者には救いを、そうでない者には裁きをするために戻ってこられます。
「復活」という奇跡につまずく者もいました。
が、信じて救われた人もいました。

「『彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る』と主は仰せられる。『それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。
わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする』と主は仰せられる。」
66:20,21

すべての国々から「主への贈り物」が連れてこられます。
私たちは、失われた世界に遣わされています。
世の人々を主の元へと、贈り物として捧げるために。
それは、私の心に残った御言葉、

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」ルカ15:7

につながりました。
主は、神の栄光を見て、神の元に来る人々を求めておられます。
祭司は主の御前で仕え、主のすばらしさを宣べ伝える働きをする者です。
主への贈り物。
私たち自身が、キリストの栄光を見て、信じ、悔い改めて赦され、永遠の命を与えられています。
そのすばらしさと栄光を伝えていくという、何よりも十問い目的を与えられているのです。
そのことを、この御言葉から教えられたと思いました。

「『わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。
毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る』と主は仰せられる。
『彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。』」
66:22~24

神のご計画の最後を表す預言です。
主はとこしえに正義を固く立たせる方です。
この世界には様々な問題、犯罪、戦争が起きていて、なぜ野放しになっているのかと思うこともあります。
が、必ず主は義を持って世界を治められます。
新しい世が来るとき、永遠の祝福と救いと同時に、永遠の裁きと滅びがもたらされます。
イエスはやがて来られます。
新しい天と新しい地で、イエスはこのみわざをなされるのだということを覚えて、感謝しつつ、一人でも多くの人を「贈り物」としてイエスの元に届けられるように、共に歩んで行くように、私たちは召されています。
イエスはそのために全ての力を与えて下さいます。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 真田丸 何者 懸賞 あさが来た 知多 超ネプの法則 Q10 ピンポン 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ