1月22日 聖日礼拝

テモテへの手紙 第二 1章1~2節
「恵みによって強くなりなさい」

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
2:1,2

私たちが生きていく過程で、うれしいことや楽しいこと、心躍ることと出会います。
同時に問題に直面して、苦しんだり悩んだりもします。
人生には二つのものがいつも同居しています。
100%感謝という人もいませんが、100%不幸な人もいません。
「隣の芝生は青く見える」と言いますが、芝生を青く保つために払われた労苦に、私たちは気付きません。
祝福の背後にある労苦にも目を留めなければなりません。
シーソーのように、割合が変わることがあっても、喜びと苦しみの両方とも消えることはありません。
それでも、喜びと感謝で生きる人もいれば、「自分だけ不幸だ」と思って生きている人もいます。
では、何が問題なのでしょうか。
それは心の姿勢です。
何に目を留めるか、が大事です。

「わが子よ」とパウロは呼びかけます。
この手紙は、テモテという若い教会の指導者に書かれたものです。
でも、テモテ個人に宛てたものではありません。
テモテを通して教会で回覧されることを想定して、教会に宛てて書かれたメッセージです。
テモテはパウロにとって「わが子」というべき存在でした。

1節には、私たちはキリスト・イエスにある恵みによって強められるということが書かれています。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
エペソ2:3~9

聖書の「恵み」とは、「かつては肉のままに生きていて滅ぶべき存在であったのに、一方的な憐れみによってキリストの犠牲により、神の子とされた」ということを表しています。

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」イザヤ1:18

愛のゆえに罪が赦されるのです。
取り引きではありません。
私たちは日常生活の中で、取り引きをして生きています。
何かをすることで、その対価として給料をもらいます。
プラスマイナス0です。
給料を支払われない労働は「ボランティア」と呼ばれます。
店で欲しい物があったら、値札分の代金を払います。
これが取り引きです。

恵みはそうではありません。
家族関係、親子の関係の中に、それは見られます。
私が大学生の頃に、あるデータが取られました。
主婦の家事を全て労働と換算して給料を払うとしたらいくらになるか、というものでした。
それは相当の金額でした。
多くの主婦は、その労働を、計算抜きで、喜んで、「自分の持っているものを使いたい」と思ってしています。
これは、神の恵みに近いものです。
そして、私たちは、そういった恵みを「当たり前」と思ってしまっています。

神はどれほどすばらしいことをしてくださったことか。
取り引きできるような良いもの、差し出すべきものなど、私たちは持っていないのに。
人生が豊かになるためには、神が私に恵みを与えて下さっているということを知ることが大切です。
神の恵み、家族への感謝が人生の秘訣です。

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」ヘブル13:5

神の与える恵みは、このように言ってくださる方を知っているということです。
私たちが陥りやすい過ちは、「病気なって始めて健康のありがたみに気付いた」という言葉に表れています。
健康を失う前に気付ける方がもっといいのです。
そういう生き方をしたいと思います。

自分に与えられている恵みを知ることで、私たちは強くなります。
弱くなるのは、恵みが分からないからです。
問題にばかり目を留めると、共に祈り、苦しみ、支えてくれる人がいることに目が留まらなくなります。
人生の一番の問題は、「そのときに一緒に考えたり悩んだりしてくださる神がおられて、助け手を与えて下さる」という恵みに気付かないことです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」
詩篇103:1~5

「主のよくして下さったことを何一つ忘れるな」といわれているのに、実態はどうでしょう。
すぐに忘れてしまいます。
よかったことはすぐに忘れたり、慣れたりしてしまいます。
逆に、傷つき悩んだことは忘れません。
無意識的によいことを忘れるので、自分が一番不幸だと思ってしまいます。
だからこそ、主が注がれる愛のまなざしを忘れないようにしましょう。
当たり前と思っていることの中に、たくさんの恵みがあります。

年末に足が痛くなりました。
足の裏を見ると、とげのようなものが見えます。
痛みがなかなかひかないので、皮膚科に行きました。
診断は「魚の目」でした。
治療中ですが、まだ痛みます。
妻に話すと、「魚の目なんてたくさんあるわよ」といわれてしまいました。
そのときに、今まで魚の目がなかったことに感謝しよう、と思いました。

多かれ少なかれ、だれでも具合が悪いことがあります。
「だからダメ」なのではありません。
そういう時に「何で私が?」と思ったら「不幸」になります。
だから、「何一つ忘れるな」といわれているのです。
恵みを覚えている人は、困難の先に大きな祝福があることに心が留まります。
困難を通して、恵みを与えて下さることに目を留めると、強く成っていきます。

私は大学で保健体育を専攻していました。
そのときに知ったことですが、筋力を付けるには負荷をかけることがだいじなのです。
2週間寝込んだら、がくっと筋力が落ちます。
スポーツでは、鍛えたいところに負荷を掛けます。
すると、筋肉が傷つきます。
休むとそこが修復され、そのときに、より頑丈になります。
傷が癒されることで、より強くなるのです。

人生の苦しみ、悩みには意味があります。
そこに恵みが働くことで、強くなれます。
嘆いて恵みに心が留まらないことが不幸なのです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」ヤコブ1:2

私たちは強くなれます。
強められることで、他の人を励まし、強めることができます。
教える力のある人(2:2)とは、自ら学び、自分で経験している人です。
自分の歩みの中で、恵みによって強められる経験をした人。
単なる人生経験や知識ではありません。
主によって強められて、立ち上がる経験をした人です。
一緒に悩み、考え、祈り、乗り越えることで、私たちの絆が強められるのです。
スポンサーサイト

1月15日 合同礼拝

マタイの福音書 9章 35~38節
「収穫が期待できる」

「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
9:35~38

今日は石巻教会の報告がありました。
震災の折、目の前にある課題にどのように信仰を持って向き合ったらいいのか、主は何を求めておられるのか、考えさせられました。
私たちはつい、こう考えます。
「条件が整い、環境が整えられたら宣教ができる」と。
「課題があるから、収穫は期待できない」と。
主の考えは違います。
主が御子イエスを遣わされたのは、そうしなければならない課題があったからです。
しかも、ヨハネの福音書1章を見ると、イエスが来られたとき、当時の人々は歓迎しませんでした。
そこに目を留めていくことが必要です。
13番目の弟子として、福音書に聞き、見て、心に留めましょう。

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」ヨハネⅠ 2:6

私たちには「キリストと同じように歩む」という意識が求められています。

さて、35節には教会の3つの使命が書かれています。

①会堂で教え
これは教育です。
集まる人々に神のことばを教えることです。

②御国の福音を伝え
これは宣教です。
まだ救いにあずかっていない人々に福音を伝えることです。

③病やわずらいをいやされた
これは「愛のわざ」。
地域社会にある課題や必要に応えていくことです。

イエスは人々の現状を見られたとき、「羊飼いのいない羊のよう」だと思われました。
羊は単独で生きていくことができません。
羊飼いがいてこそ、必要な食べ物が与えられ、危険から守られます。
イスラエルは本来、羊飼いである主によって導かれる民でした。
しかし、彼らが弱り果て、倒れている様子を見られたのです。

弟子たちはどうでしょうか。
周囲の問題や課題に目が留まっているでしょうか。
問題や課題を知ってからどう対応するかが大事です。
イエスは人々を見て「かわいそう」に思われました。
憐れみの心、共感する心を持たれました。
人々の課題を自分のこととしてとらえた、ということです。
それは他人事のようにではなく、自分の家族、自分の地域に起きたこととして、心を動かすこと。
我がことのように、受け止めて共感することです。

恵泉ファームでは農業に取り組んでいますが、始めた頃、耕すべき土地がありませんでした。
あるとき、一人の人が教会を訪ねてきました。
話をしているうちに、
「畑がいるんですか?
 二ツ寺には放置されている畑がありますよ。
 電話してみましょうか?」
ということになりました。
「貸してもいいという人がいますが、来ますか?」
と言われてその土地を見に行きました。
300坪もの土地です。
見て唖然としました。
3年ほど放置されていた畑には、人の背丈ほどの草が一面に生えていました。
いわゆる耕作放棄地です。
これをどうしようか・・・とM兄と考えました。

管理する人がいないから草がボウボウになったのです。
でも、もう一度草を刈り、耕せば元に戻すことができます。
そのために必要なのは何でしょうか?
種をまくこと、ではなく雑草を取り除くことです。

マイナスをゼロに戻す働きをする人が必要なのです。
耳にたこができるぐらい言っていますが、「問題があることが問題」なのではありません。
どの時代でも、どこにでも、問題はあります。
解決の為に、使命感を持って立ち上がる人がいないということが問題なのです。
責任や原因追及することよりも、解決に立ち上がることが求められています。

36節と37節の間にイエスの心には何が起きているのでしょうか。
イエスは「収穫は多い」と言われました。
現状を見て、イエスはそう言われたのです。
問題の向こうに大きな収穫、大きな祝福を見ておられます。
私たちには見えているでしょうか。
信仰を持って受け取れてくことが必要です。
そのためには働き手が要ります。
イエスと同じ心を持って、「私のこと」として、私の責任として引き受ける人が。
荒れ地を前にして収穫を確信できる人だけが、祈ることができます。
「むり」「できっこない」と思うと祈らないし、期待しません。
主は「収穫は多い」と言われているのです。

私にできることをしようと応答すること、それが献身です。
そうすると具体的な祈りが生まれます。
そして、主は祈りに応えて下さると言うことを学ぶのです。

1月8日 聖日礼拝

使徒の働き 1章 1~8節
「私の期待と神の定め」
               丸山告スタッフ

Hi-b-aの冬のキャンプが年末年始に行われました。
年末のキャンプには岐阜から高校生が1名参加。
年始は3名の高校生が愛知、三重、静岡から1名ずつ参加しました。
中部地方で活動を始めてまだ2年目ですが、幸いなことだと思います。

さて、今日学ぶ使徒の働きは、ルカの福音書の続編です。

「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、
お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」
1:1,2

ここで「前の書」と書かれているのがルカの福音書です。
つまり、使徒の働きは「ルカの福音書 ―エピソード2―」です。
エピソード1ではイエスの物語が記されています。
興味深いことに、この福音書は神殿で始まり神殿で終わっています。

「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」1:3

イエスの復活は、使徒たちの思い込みや、願望ではありません。
それが事実であるということを、イエスは確かな証拠で示されました。
そして、天に昇る直前にこう語られました。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
1:4,5

父の約束、それは聖霊のバプテスマであり、それを待ち望むようにとイエスは言われました。
聖霊は、私たちを救いに導き、個人的なクリスチャン生活にかかわってくださいます。
それは、受動的な働きです。
聖霊は私たちを復活の証人になるようにと駆り立ててくださいます。
これは能動的な働きです。
私たちは、世界宣教への動力として、聖霊を受け取る必要があります。

イエスは約束を「待つ」ようにと言われました。
それに対して弟子たちの言葉はこうです。

「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」1:6

どのような語調で言われたのかは分かりません。
どちらにしろ、イエスの真意をつかんでいないことは確かです。
彼らの思いはみこころからずれていました。

福音書によると、弟子たちは3年ぐらいイエスと生活を共にしていきました。
ずっとクリスチャンキャンプをしてきたようなものです。
徹底的に教えられてきたのに、まだ勘違いしているのです。
イエスが十字架の予告をされたとき、ペテロはイエスを脇へ連れて行ってイエスをいさめ始めたという記事があります。(マタイ16:22)
そのときイエスはペテロを叱りました。
それも人前でです。

イスカリオテのユダが裏切って、口づけをもって「これがイエスだ」と示したとき、ペテロは剣を持っていて、言葉より先に行動を取りました。
彼は兵士の耳を切り落としたのです。
するとイエスは「やめなさい」と言い、兵士をいやされました。

ヤコブ、ヨハネ、ペテロはイエスの最も近くにいた弟子たちです。
ヤコブとヨハネの母親は、イエスの元に来てこういいました。

「イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」マタイ20:21

本人たちだけでなく、親も勘違いしていました。
さらに、

「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」
マタイ20:24

周りの弟子たちも、「抜け駆けしやがって」と、先を越されたと感じていました。
みなイエスへの信頼がずれていました。
各々の期待がありました。
しかし、イエスの使命である「あがないによる救い」には誰も目が向いていませんでした。
一緒に歩んでいたのに、分かっていませんでした。

イエスが十字架にかかられたとき、ほぼ全員が逃げ出しました。
各々が様々な形で声を掛けられていたのに。
最終試験に落第したようなものです。

イエスは復活されて後、40日間地上で生活し、天に戻られました。
もう一度チャンスが与えられました。
ところが、天に戻られるときに弟子たちが言った言葉がこうです。

「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』」1:6

まだ彼らは分かっていませんでした。
十字架の後なのに、です。
全人類にとってのイエスについての理解がなかったのです。
もし私がイエスの立場にあったとしたら、きっと心底がっかりすると思います。
「今までの日々はなんだったのか。」
「さんざん教えてきたのに。」
一生懸命に教え、伝えてきたのに、中心が分かっていなかったら、教えてきた側は落ち込みます。

イエスはそうではありませんでした。

「イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』」
1:7,8

弟子の過ちを指摘せず、神の主権を強調されました。
失敗は織り込み済みでした。
私たちはずれています。
それでも、イエスはそれを受け止めて、聖霊を与えて下さり、私たちは証人となっていくのです。

「宣教するように」と言うと、「無理です。」「もう少し学んでから。」「もっと信仰が深まってから。」と言う人がいます。
どんな証でも、その背後には聖霊の働きがあります。
使徒の働きの前半はペテロ、後半はパウロの宣教が書かれています。
しかしそこには、使徒の働きの背後にあった聖霊の働きが書かれています。

再起したペテロは初代教会のリーダーになりました。
パウロは回心し、福音を宣べ伝えました。
それは聖霊の働きによる福音の前進です。
それが、使徒の働きの冒頭で宣言されています。

「ユダヤ、エルサレムとサマリヤの全土、および地の果てにまで」という言葉の中には、どのように福音が拡大していくかが書かれています。
これは地理的な順序でもありますが、それだけではありません。
サマリヤの全土、とはどういうことでしょうか。
ユダヤ人にとって、サマリヤ人はかかわりたくない存在でした。
混血であり、異教徒でした。
サマリヤ人に対するイエスの言動は一貫しています。
イエスは、あえてサマリヤを通られました。(ルカ9章)
イエスは、あえて「よきサマリヤ人」のたとえ話をされました。(ルカ10章)
イエスは、あえてサマリヤの女に会いに行かれました。(ヨハネ4章)
そして、イエスの最期の言葉の中にもこうして出てきています。
ユダヤ人がきらっているサマリヤ人にも福音は広がると、イエスはあえて言われました。

その聖霊が今も私たちに注がれています。
私たちは自分で決めつけています。
何度語られても分かりません。
信仰を後付にしています。
弟子たちの姿は今の私たちの姿です。
それを覆うようにして、イエスは「聖霊の助けが必要だ」と、聖霊を与えて下さるのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に望まれるとき」と。
決して救われないと思っている人も救われると。

1月1日 元旦礼拝

ヘブル人への手紙 11章 1~3節
「信仰によって悟るのです」

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」
11:1~3

西暦2017年を迎えました。
主が地上に神の国を再建し始めてから2017年。
世界中で実を結び、広がり続けています。
私たちの教会では、昨年は7名の方がバプテスマを受けました。
世界中で新しくキリストを心に迎え入れ、人生の主と下人々が加えられ続けています。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15

主はその働きを教会にゆだねてくださいました。

さて、ヘブル人への手紙11章には「信仰によって」という言葉が繰り返し出てきます。
そして、歴史の中で主に仕えた人々の実例が挙げられています。
その大きな見出しのように掲げられているのが1節から3節のみことばです。
私たちは信仰に基づいてこれからの1年を進みたいと思います。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」11:1

昨年のリオオリンピックでは日本人選手も活躍しました。
スポーツにおいては目標を明確にすることが大切です。
一流の人ほどそうしています。
「金メダルを取る」という目標はにわかに考えついているのではありません。
未熟なときから「将来そうなる」という明確なビジョンを持った人は強いです。
年末の特集番組で、ある選手の幼い頃からの様子を記録したダイジェストを見ました。
その人は小学校の文集にすでにオリンピックという目標を書いています。
そして、実現のために一生懸命に取り組んでいました。
また、日本ハムの大谷選手もそうです。
大谷選手は投手でありかつ野手でもあるという「二刀流」で有名です。
彼は高校時代から両方を極めたいと思っていました。
大学に行くつもりでいましたが、三度にわたる交渉の中で、日本ハムはその夢を実現させることを約束してくれたので、入団を決意したそうです。
彼も作文に「プロの選手になる」と書いています。
若い頃に何を目指すかが大事です。
それがないと、毎日無為に過ごしてしまいます。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
みなさんはどんな望みと期待を持っていますか?
それはアスリートとは少し違います。
「信仰があればビジョンが実現される」と言っているわけではありません。
では、どういうことでしょうか。
「望んでいる事柄」とは、主がイエスによって約束してくださった御言葉です。
ここで書かれているのは、「神のことばは必ず実現する」という保証です。

アスリートの目標は、「自分はどうなりたいのか」をしっかり持って、日々努力することです。
クリスチャンの目標は「神によって語られた御言葉は実現する」ことを信じて取り組むことです。
そのためには、約束の言葉をしっかり持っていなければなりません。

私は1994年の元旦から西教会で奉仕を始めました。
その前の年末、12月29日に夜逃げのようにトラックに物を積んで引っ越してきました。
祈っていたときに、

「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
』」
創世記12:1~3

という御言葉を示されて、ここに来ました。
主はその約束を果たして下さいました。
主は必ず約束した御言葉を実現してくださいます。
大切なのは、信じて一歩踏み出す信仰です。

イエスの母マリヤの伯母エリサベツは、

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

と、御言葉の実現を期待しています。
御言葉を聞いた時点では、何も始まっていません。
それでも信頼して、一歩踏み出すのが、主に喜ばれる信仰です。

かつて私は「石橋を叩いても渡らない男」と言われました。
よく言えば慎重。
悪く言えばびびりでした。
何かしようとすると、あらゆることを考えてしまいます。
考えるほどに前に進みづらくなります。
その後、私は神が導いておられるならリスクがあっても前進することを学びました。
自分の力ではぬぐい去れない不安が解決し、道が開かれた時に、「主がしてくださった」ということを明確に悟ります。
信頼して進んだ人だけが、主の力を実感できます。
だから、信仰が必要なのです。
それは「無謀」とは違います。
「考えない」ということでもありません。
「主がそういわれるなら」前進する、ということです。
そうすると、目に見える変化がなくても、確信できるようになります。
それが信仰の成長です。
「できっこない」と考えて、祈らない、取り組まないと、現状維持から脱出できません。
主への信頼がある時に、実現していく神の御業を見ることができます。

「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」11:2

私たちの生涯が、この後に綴られていきます。
そのような生き方をしていきたいものです。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」11:3

見える現象やありさまに、必要以上に心を奪われてしまうことがあります。
目に見えず、触ることはできなくても、神ご自身の御言葉は目に見える形を作り、変化を起こし、新しいものを生み出す力があります。
天地も無からみことばによって造られていきました。
今、何も期待できないように見えても、神のことばに信頼できるなら、見える形でも始まり、建て上げられ、実現していきます。
そのような信仰をしっかり持っていくことが大事です。

人生の中には課題が起こってきます。
全ての人が、です。
課題に直面したときに、どうとらえ、どう挑戦していくかが大事です。
道が拓かれ、変えられる必要があります。
それを語るのが「証」です。
主はどんな祝福をしてくださるか、どんな約束を与えられているか。
そこに信頼して、そこに立つ一年にしたいと思います。

あけましておめでとうございます

2017年が始まりました。

2017-01-01 07.01.38

元旦の朝、ウォーキングで見た近所の初日の出です。

昨日は例年通り教会で元旦礼拝。
今年は、元旦と聖日が重なるというラッキーな年ですw

おぞうにを食べた後、着付けに取りかかりました。
今回は初めて振り袖の着付けに挑戦!
伊達襟の付け方、華やかな帯の結び方、今はやりの帯締めの締め方など。
年末からYouTubeで研究してきた成果を発揮しましたよ^^

2017-01-01 09.21.111

リーちゃんに着せて、髪をセットして、自分も紬の着物を着て・・・というところでふーみんが帰宅。
ふーみんはナガシマのカウントダウンイベントに参加して朝帰りだったんです。
そこからふーみんにも着物を着せました。
若い頃私が気に入っていた着物です。

午後は実家でまったり。
花札をしたりテレビを見たり。

一夜明けて今日のテーマは1Fの気になる場所のお掃除。
かなり思い切って物を捨てて、玄関付近をきれいにしました。
キッチンも少しだけ掃除。
あとは買い出しと花札とおひるね。
ああ、お正月っていいなぁ。

12月25日 クリスマス礼拝

ピリピ人への手紙 2章 6~11節
「クリスマスありがとう」

罪のあがないのために、私たちが神に愛される子として自分を取り戻して神に感謝を捧げられるようにと、ひとり子を遣わして下さった日がクリスマスです。
「クリスマスおめでとう!」ということも間違ってはいません。
救い主がお生まれになったことは喜ばしいことです。
そこにある、神の揺るがない愛への感謝が生まれることが大切です。
今、世界中でクリスマスは祝われています。
創造主を信じる人々が世界には三分の一、20億人以上います。
今日はクリスマスに込められた、神のメッセージを学びたいと思います。
神のメッセージを聞いた私たちが、どう応答することが求められているかを考えましょう。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、」
2:6,7

イエスがこの世にお生まれになったことを「受肉」と言います。
神が肉体を持って生まれて下さったという意味です。
そして、人として、苦しみと悩みを素のみに負って下さいました。
日本において、天皇は戦前・戦中には人目に触れることのない存在でした。
今は被災地を訪れ、膝をかがめて話をされます。
天皇家にも福音が伝えられていると聞いています。
そのような天皇の姿勢にも、福音の影響が現れていると考えています。

神は、高いところからただ眺めている方ではありません。
飢え、渇き、苦しみ、悩みを、イエスは経験して下さいました。
だから、私たちの苦しみがわかるのです。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」ヘブル2:17

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」4:15

イエスは「インマヌエル」と呼ばれます。
インマヌエルとは、「神が共におられる」という意味です。
神は私を理解して下さいます。
共にいて下さいます。
それは人生の中で最も大切なことです。
主は私を知って、共に悩み苦しんで下さいます。
私たちを知るために地上に来て、共に歩んで下さいました。

キリストが地上に生まれるのは簡単なことではありませんでした。
エリサベツとその夫ザカリヤは、長年子どもを与えられませんでした。
それは、親戚に当たるマリヤを励ますためでした。
私たちの人生の苦悩には意味があります。
必ず誰かの信仰の助けになります。
信仰を持って受け止めなければ、それは「ただの苦しみ」になってしまいます。
意味のない苦しみはありません。
大切なのは、主語自身からなぐさめをと励ましを受けて、苦しみを乗り越えるという経験です。

キリストの誕生は、ゴールに向かうためのスタートでした。
そのゴールとは、ご自身の命をささげるということでした。
救い主の使命は、私たちのために命をささげることでした。
これは「おめでたい」ことでしょうか。
「おめでたい」中にある主の苦しみを知るとき、そこまでして下さる神への感謝が生まれます。

罪とは、まことの神を知らずあがめもしないことです。
私たちには人生が変えられる必要があります。
私たちの内にある不平不満をも、神は知っていて下さいます。
あなたはだれか他の人のことを理解しているでしょうか。
「だれかにわかってほしい」という心から、「だれかを理解しよう」とする心へ。
誰かを愛し、理解する行動を起こすように。

クリスマスはプレゼントをもらう日ですか?それともあげる日ですか?
普通クリスマスプレゼントは、子どもが受け取ります。
そして、子どもは大人になると、プレゼントをあげる側になります。
お年玉はどうでしょうか。
私たちは、この世の中の恵まれない人の必要に応えていく心を持つべきです。
それが神の国の実現へとつながります。
プレゼントを用意するためには、受け取る人のことを考えなくてはいけません。
それを考えて、準備するところに意味があります。

「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
2:10,11

これが究極のゴールです。
全ての人がイエスを主と告白し、神をほめたたえるようになることです。
人生を暗くするのは不平不満、つぶやきです。
人生を明るくするのは感謝です。
感謝することが見えないと、感謝することはできません。
プレゼントをするには、悩む時間とお金を使います。
主はいやいやながらではなく、ご自身をささげてくださいました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ローマ12:10

全てのことには意味があります。
全ての経験は祝福に変わります。
他の人を支え、生かす経験になるからです。
そのような人生にしたいものです。
人の役に立つように。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 懸賞 ピンポン 真田丸 あさが来た 知多 何者 超ネプの法則 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ