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紅葉@西明寺

湖東三山の一つ、西明寺を訪れました。

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思い出せば、百済寺に行ったのが4年前でした。

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入ってすぐ左手に、有名な不断桜。
弱々しく見えるはなびらが楚々と開いています。

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ちょっと奥に入ると紅葉が。

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青々とした苔に映えて美しい。

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ゆるい階段がず~っと奥の方まで・・・。

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どこまで続くのか・・・。

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ふ、と笑いを誘う看板w

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池のあるお庭。

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池を上から眺めます。

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三重の塔は国宝です。
中を見るには、拝観料とは別に一人1,000円必要です!
ちょっとお高い。
でも、もう二度と来ないかも知れない、と、思い切って財布の紐をゆるめました。
入る前に荷物は預けます。
うっかり壁画に触れて文化財を傷つけるといけないからです。
中はもちろん撮影禁止です。
約10分ほどの解説つき。
天上、柱、壁にびっしり描かれてる絵。
色あせぬまま残っている部分もあって、数百年を越えて、当時の人々の息づかいが伝わってくるようです。
ここは春と秋に公開されているそうで、秋はこの日が最終日とのことでした。
うん、やっぱり入って良かった!

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こちらは本堂。
ここでは、秘仏「刀八毘沙門天像」がご開帳でした。
5年に一度とか言われていました。
12月8日までらしいので、ほんとうにラッキー!
西明寺は干支の十二神将が有名だそうです。
解説をしてくださった方は、調子の良い関西弁で笑わせながらでお話のうまいこと!
もし行かれたら、ぜひお話を聞いていって下さい。

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赤と黄色の美しいこと!

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ここにも不断桜があって、紅葉と競っています。

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もう少しアップで。

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山門へ戻る道。
団体さんも結構入ってきましたよ。


さて、昼ご飯は外から入れる高速のドライブインで近江牛を食して大満足。

帰路についたのですが、せっかくだから関ヶ原に寄ろうかということに。
なんせ二人して真田丸を欠かさずに見てきましたから。
いくら歴史に弱い私でも、少しは展示の意味がわかるようになっているだろうと期待して、歴史民俗資料館に入りました。
入ってすぐにある、地図を示しながらの8分ほどの解説が非常にわかりやすい!
真田丸ではほんの45秒で終わってしまった関ヶ原の合戦ですがw
約半日かかってたんですねwww
そのときの布陣や、それぞれの部隊の動きが電光掲示で示されて、ほほう、なるほど、となりました。

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グッズ売り場も充実。
戦国ファンにはとても楽しめると思いますよ。
外にはこんな旗がはためいていました。

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周囲にはいろんな史跡があるのですが、寒いし時間の制限もあって、ここだけ見てきました。
あ、ちなみにこのあたりだけで3つぐらいポケストップありますよw

今年は割と紅葉がまだ美しい内に見られてよかったです♪
楽しい旅をありがとう^^
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11月20日 聖日礼拝

コロサイ人への手紙 1章 27~29節
「教会の最優先事項」
            スティーブ/エリオット師

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」
1:27~29

みなさんに質問しましょう。
教会にとって最も大切な使命はなんでしょうか?

① 聖書研究
② 貧しい人々を救うこと
③ 福音を伝えること
④ 子どもの教育
⑤ 青年の宣教


どれもたいせつなことです。
では、イエスは何と言っているでしょうか。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:20

イエスが命じていることは「弟子を作ること」です。
そのためには、私たち自身がまず弟子にならなければなりません。
服部先生はいつも「自分が13番目の弟子になったつもりで」聖書を読むように教えているそうですが、良いことだと思います。

では、弟子とはなんでしょうか。
クリスチャンを「キリストを信じる者」ではなく「キリストに従う者」と言っているのを聞きました。
「従う者」は必然的に「信じる者」ですが、「信じる者」は必ずしも「従う者」ではありません。
弟子は、ただ信じるだけの者ではありません。
クリスチャン=信じる者。
弟子=従う者。
です。
イエスと同じ方を向いて、歩んでいく者。
イエスと同じように人を愛する者。
全ての意味でイエスに従う者にならなければなりません。

パウロも「弟子を作ることが最も大切だ」と言っています。

「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」1:29

「このために」とは、何のためでしょうか。
キリストの成人とすることです。
私もそれをしたいと望んでいます。
みなさんにチャレンジしたいのです。
私は、クリスチャンを励まし、教え、訓練するために献身しています。
イエスとイエスの生き方を愛していくことを伝えたいのです。
イエスは地上で12弟子と共に歩まれました。

今、全世界に教会があります。
カリフォルニアでももうすぐ同じように礼拝が持たれます。
その教会を助ける宣教のリーダーを育成しています。
アメリカではあまり弟子訓練をしてきていませんでした。
人を教え、聖書研究をしてきましたが、イエスと共に働くということを教える機会がありませんでした。
宣教には、人々との親密な関係が大切です。
人を助けるには、毎日イエスに信頼することが大切です。

弟子訓練とは、人が霊的に成長できる関係を築くことです。
①経験のあるクリスチャンが、若い人と共に歩むこと。
②若者の霊的な生活を具体的に導くこと。
「証をするように」と言うけれどもどうすればいいかを教えないと、「できません」「私は牧師ではありません」「セミナーに参加したことがありません」ということになります。
イエスは、私の人生に入ってきて、やり方を、生き方を教えてくれました。
私を気に掛けて、共に祈ってくれました。
このイエスに信頼しています。

パウロは、「全ての人」をキリストにある成人とすると言っています。
簡単な人だけではありません。
教会に来る人だけではありません。

私が若い牧師の頃、私は人々の教会での奉仕に感謝していました。
メモにこのみことばを書いていました。
でもある日気付きました。
私はそのことを信じていないということに。
「あらゆる人」「全ての人」と考えていませんでした。
教会に来る人たちは、「よいメッセージでした。」と言っているけれど、では彼らは成長しているのか。

教会員と共に食事をしたり、釣りをしたりしたが、重要な質問はしてこなかった。
その人と、イエスの関係を聞いてこなかった。
先週のメッセージにどんな応答をしたのか、と聞かなかった。
「変わろう」と思ったことはあったかどうか、聞かなかった。
「魚は釣れた?」とか「試合は楽しかった?」としか聞かなかった。
「このレシピを教えて欲しい」としか聞かなかった。
イエスが、その人の人生に何をして下さったかを話してこなかった。

キリストを宣べ伝える、ということは、その人の中におられるキリストを伝えるということです。
このパウロの言葉は未信者に語られているのではありません。
クリスチャンに語られているのです。
「牧師でないから聖書のことを話す資格はない」のでしょうか?
栄光と望みは、私たち全員の中にあります。
クリスチャンにはその力があります。
「できない」と思っても、主は「力がある」といわれています。
「このキリスト」を伝えるのです。
どのように?
「戒め」「知恵を尽くして」。
離れていく人には戒めが必要です。

国立公園におおきな滝があります。
そのてっぺんまで行ける道があります。
滝の、ギリギリの端まで行けます。
景色が見えるように、フェンスは低く作られています。
その近くには看板があります。
「フェンスを越えてはいけない」と。
「さもないと死ぬ」と。
すばらしい看板ですが、多くの人が毎年このフェンスを越えます。
よい写真を撮りたいからです。
そして、落ちて死ぬ人が後を絶ちません。

共に歩くことは大切だと、あらゆる人に教えなければなりません。
日常生活に合うように。
本を教えるのではなく、どのように人生の中で適用するかを教えるのです。

私はこのために奮闘しています。
弟子訓練は簡単なことではありません。
人の人生にかかわるのは大変な事です。
信じて従う人の人生にかかわるのは比較的簡単ですが、中には戻っていってしまうひともいます。
その人と共に生きること。
その人が残念なことをしても、諦めないこと。
もしも他所にいってしまったらやめるかもしれませんが、関係があれば、ずっとその人と共にいます。
「労苦しながら奮闘」するのです。
内にある神の力によって。
内におられる栄光あるキリストの望みによって。
中には聖霊がおられます。
自分の力でするのではなく、聖霊の力によってです。

ブルースさんという人がいます。
彼は薬物で全てを失いました。
家族も仕事も。
そして、ホームレスになりました。
ある日、我慢の限界にきました。
その日の午後、教会の近くを通りました。
そこに来れば一人きりになれると思ったからです。
後に聞いたのですが、彼は教会に参加するために北野ではなく、自殺するためだったそうです。
教会では毎週コーヒーとベーグルのサービスをしていました。
通りかかる人なら誰でも、ホームレスでも食べてよかったのです。
ブルースさんは、そこに通りかかって「死ぬ前にコーヒーを飲んでみよう」と思いました。
彼はテーブルに来てコーヒーを飲みました。
そのとき牧師が来ました。
「前にも会ったね。ようこそ。」と、彼に話しかけました。
ブルースさんは毎週教会に来るようになりました。
教会には貧しい人々のためのランチもありました。
そして、聖書の会話の時間もありました。
その中で、彼はイエスに従うようになりました。
奉仕されるのではなく、奉仕するようになりました。
やがて公園で聖書を教えるようになりました。
彼はドラッグのせいで歯がなく、美しくはありませんが、内に美しいものを持っています。
技術はありませんがハートがあります。
彼の内にはキリストがあります。
イエスを愛することが弟子の条件です。
イエスは、私の人生を使って下さいます。
人と共に歩むことはすばらしいことです。

11月13日 成長感謝礼拝

マルコの福音書 10章 13~16節
「子どもたちは神の賜物」

「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」

イエスと弟子たちのやりとりには独特な視点があります。
多くの場合、弟子の質問や行動に対応するイエスの話です。
日常生活で生じる様々なことをきっかけとして、イエスは語られます。
そのきっかけに気を取られすぎてはいけません。

大勢の人々がイエスのそばに集まっています。
イエスが弟子たちに教えている最中に、人々が子どもを抱えてイエスに近づこうとしています。
「イエスに触れてもらいたい。祝福して欲しい。」
と親たちは願っていました。
多少迷信的な思いを持ってイエスにあやかろうと連れてきたのでしょう。
弟子たちは彼らを叱りました。

なぜ叱ったのでしょうか?
これは悪いことなのでしょうか?
われ先にと群がり、人を押しのけてでも我が子のことしか考えていない、という面もあったでしょう。

時代背景もあります。
現代日本人の子どもに対する感覚と、当時のイスラエル人の見方は違います。
日本人は子どもを見るとき、「純粋」「無垢」というイメージを抱きます。
イスラエルでは、子どもとは、これから律法を教え、訓練すべき対象でした。
放って置いたら神から離れてしまう。
未熟で、役に立たない存在。
「子どもの出る幕じゃない。
 イエスは大人に向かって話をしているのだ。
 イエスは忙しいのに。」
という思いが、弟子たちにはあったのでしょう。
彼らはイエスをガードしました。

私たちは13番目の弟子としてどうするでしょうか?
教会の中で、「あなたは教会にふさわしくない。」という態度を取ってはいないでしょうか。
自分ならどう対応するかを考えることは大切です。

イエスは憤りました。
イエスらしくないと思われるでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカは福音書によって3つの角度からイエスを描いています。
そして、マタイとマルコはイエスが憤ったことを書き残していません。
弟子たちの権威を守るために省いたのではないかとも言われています。
めったに出てこない、イエスの感情があらわになる場面です。
なぜ厳しく言われたのでしょうか。
それは、福音のメッセージに反していたからです。
イエスはそれを放置できませんでした。

「神の国はこのような者たちのものです。」10:14

弟子たちは神の招きを否定したことになります。
招かれた者を近づくのを邪魔しているのですから。

一方、弟子が叱ったのは、子どもではなく子どもを連れて来た親たちです。
イエスは親のことは触れていません。
子どもたちに目を留めておられます。
子どもは親に連れてこられました。
自分の意志ではなく。

子どもには社会的な地位はありません。
奉仕をして役に立つこともありません。
「このような者たち」とは、「純粋無垢な信仰を持っているもの」という意味ではなく、「何も持っていない。地位も名誉もなく、働くこともできない者」という意味です。
子どもはだれかに支えてもらわなければ自分だけでは生きていけません。
まだ成長の途上で役に立たない存在です。
神の国はこのような者たちのもの。
これは大事なポイントです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」
申命記7:6,7

神の選びは、お金や地位や体力があるからなされるわけではありません。
12弟子も正規の教育を受けていない、無学の者たちでした。
社会の中でも注目されていない人を、イエスは12人選びました。
これが福音のメッセージの神髄です。
何かを持っているから、役に立つから救われたのではありません。
選ばれたのは、神の国がどのような者かを示すためです。
それは、ただ主の恵みによるということです。

弟子たちは誤解していました。
弟子たちに共通していたのは、全てを捨ててイエスに従ったということです。
だから、自分たちは群衆とは違うという意識があったことでしょう。
主は、私たちのそのような価値観に憤られます。
熱心に仕えるのはよいことです。
でも、それによって救われるのではありません。
私たちは、恵みの応答として奉仕します。
見返りとしてするのではありません。
弟子たちは、「何もかも捨てて従いました」と言いました。
が、イエスが選んで下さった恵みを忘れています。

人は歳を取ると子どもに返っていくとも言います。
それは神からのメッセージです。
元気で、社会貢献し、奉仕ができるうちはそれによって自尊心を持ち、それで神の喜ばれていると考えてしまいます。
主は、私たちに付随するものは見ておられません。
私たち自身を見ておられます。
それを正しく理解するとき、持っていたものから解放されます。
神は私たちを等しく愛して下さいます。
子どもたちも、そのように生きていけるようにはぐくみましょう。
子や孫の頭に手を置いて、祝福を祈りましょう。
触れて、祈られた経験は、心に深く刻まれます。
私も祖父母の家に行くと必ず、ひとりひとり名を挙げて祈ってくれました。
いつも祈られているのだと感じるとき、
「愛されている。祈られているから大丈夫。」
と、生きていくことができるのです。

11月6日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章 49~53節
「平和ではなく分裂が起こる」

何でも、慣れ親しんだものはしっくりきます。
そうでないものに触れると、敏感に反応し、時として拒絶したくなります。
今日はセンセーショナルなタイトルが付いています。
が、これは聖書に書いてあることです。
私たちは、イエスが来られたのは、平和をもたらすためだと思い込んでいます。
分裂だなんて間違いじゃないのか?と思います。
無意識に「そんなことはありえない」と反応します。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」12:49

これはイエスの言葉です。
イエスがもたらすのは、一致と平和ではないのでしょうか?

3週間前から受洗準備クラスを始めました。
以前は12回でしたが、凝縮して7回行っています。
その中心は、「信仰とは何か?」ということです。
信仰とは、神への信頼です。
神と、そのみことばに信頼することです。
信仰の深さは、神にどれぐらい信頼しているかで計ることができます。
たとえ、「なぜイエスがそんなことを言うのか」「なぜ行うのか」がよく分からなくても、理解しようとすることです。
「きっと何かの意図があるに違いない」と思う人は、「信頼している」と言うことができます。
弟子たちも、「そんなのおかしいのでは?」と感じる経験をしています。
それを「おことばですから」と、踏み越えていく経験が必要なのです。

「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』
シモン・ペテロが答えて言った。『あなたは、生ける神の御子キリストです。』
するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』」
マタイ16:15,~17

このとき、ペテロはイエスを「神の子キリスト」と告白しています。
そしてイエスは、そのことを誰にも語ってはいけないと釘を刺します。
なぜなら、自らを「神の子」と称したことが、十字架に付けられた直接の理由だったからです。
ユダヤの指導者達は、イエスが人間でありながらご自分を神と等しくしていることを受け入れることができませんでした。
それを受け入れたペテロと弟子たちは、

「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:18,19

という約束を頂きます。
ところが、イエスの話はこれで終わりませんでした。

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」16:21

これは弟子たちが想定していた未来とは異なっていました。
とたんに、ペテロは反論します。

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」16:22

神と、神のことばを信頼しているならクリスチャンと言えます。
理解できなくても、です。
「なぜこんなことが?」という状況に立ったときに、クリスチャンの真価が問われます。

アダムとエバがエデンに置かれていたとき、園のみを思いのままに食べてもよいと言われました。
ただ、善悪の知識の実だけはだめだと言われたのです。
なぜ神はそんな木を植えたのでしょうか。
善悪の判断は誰がするのか。
それは神ご自身のすることである、ということを示すためです。
ところが、アダムとエバは自分の判断で善し悪しを選びました。
「死ぬ」とわかっていて食べたのでしょうか?
神は「食べたら必ず死ぬ」と言われたのです。
サタンが言った「決して死なない」という言葉の方を、自分の意志で選択したからです。
罪の本質はそこにあります。
善悪の判断基準は、神にあるのか、人にあるのか。
信仰とは、自分の判断は横に置いて、神のことばに従うことです。

「お言葉ですから」と、網を下ろしたとき、ペテロ達は信じていたでしょうか?
おそらく信じてはいなかったでしょう。
まさかこんな時間に魚が捕れるはずがない。
でも、イエスが言ったのだから、やってみよう。
そう思ったのでしょう。
確信はなかったと思います。
イエスに言われたら断れない。
言われたとおりにやってみたら網に入った大量の魚を見て、ペテロは怖くなりました。
「信じている」といいながら、信頼が弱いのです。

「今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」1
2:53

イエスが伝えようとしていたのは、こういうことです。
平和の前に、まず分裂があると。
クリスチャンホームに育たなかった人がクリスチャンになると、実際にこのようなことが起こります。

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」12;49

イエスが来られたのは「火を投げ込むため」です。
「火」は灯りです。
昔は暗くなったら火をともしました。
火は「光」の象徴です。
まことの光、とはイエスを指します。

イエスの「受けるべきバプテスマ」は、十字架の死と復活を表しています。
私たちにあてはめると、自分を基準にする生き方に死に、イエスについていく生き方を始めることです。
自分の感覚でものを言うとき、対立が起こります。
違いがあっても一致することはできます。
イエスへの揺るがない信頼がないと、自己主張が始まります。

イエスが言う「分裂」は、信仰を告白することでもめ事や摩擦が生じることを言っています。
それを経て、やがて平和と一致が生まれます。
真剣に生きようとするとぶつかります。
適当にやっていたら、世の中で受け入れられるでしょう。

御言葉は必ず実現すると信じて、十分な準備をするとき、「足りないこと」が分かります。
そこで、神のみことばに信頼するのが信仰です。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

と語ったエリサベツのように。

10月30日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章35~48節
「目を覚ましていなさい」

聖書は日本語に翻訳されているので、読めば内容は分かります。
でも、分かるようでいて分からないのが聖書です。
この箇所を通して何が求められているのか、私にどうするようにと言っているのかを読み取らなければなりません。
イエスが語るメッセージの核心をつかむことが大切です。
おそらく当時の弟子たちも、しばしば「イエスの話はわからない」と思ったことでしょう。
だから、彼らは質問しました。
正しく理解したいと思う心があるからこそ、彼らは質問しました。
その点でイエスの弟子は、他の人よりも優れていました。
人は、自分思い込みや判断で、「よかれ」と思って行動してしまいます。
主が私に期待していることは何か、正しく理解することが大切なのです。
それでも、理解できないことが多いのです。
今日のたとえも、一読しただけではわかりにくい箇所です。
弟子たちも、後になってはっきり理解するようになります。

大事にすべきことは、理解できてもできなくても、そのまま受け止める信仰です。
今分からないのは、未熟で見る世界が狭いからです。
いつか分かる時が来ます。
私自身も、先輩から言われたときにはよく分からなくて心に留めておいたことがあります。
後に、牧師となって、「ああ、このことを言っていたのか!」と思うことはしばしばありました。
小岩井先生が西教会にいたころ、牧師としての働きをできるだけ今の内に分かち合おうとしました。
でも、「伝わらないな」とも思いました。
それでも、「いずれ意味が分かる日がくるから」と伝えました。
数年経って、小岩井先生から「あの時の意味がわかりました」と言われました。
それは、先生が私の言ったことを受け止めていたからです。
受け止めていない人には分かりません。

弟子たちはイエスと共に3年あまりを過ごしました。
が、弟子たちにはまだ聞く力がありませんでした。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

生活の中で、はっきりとイエスの言葉を悟るときが来ます。
分からないことがあったとしても、心に留めることが第一に必要です。
できごとは偶然に起こるわけではありません。

「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」
ルカ2:17~19

「するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』
しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」
ルカ2:49~51

マリヤのように、分からないことを受け止めるのです。
やがて意味が分かるときが来ます。

今日の箇所の中で、どの言葉が中心か、が大切です。

「 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」12:40

イエスはこの後十字架に架かり、3日目によみがえり、天に戻られました。
天に昇られるイエスをぼーっと見ていた弟子たちに、天の使いは再臨の予告をします。
そのときになって初めて、この御言葉が理解されたのです。
それは再臨の約束です。
私たちは、いつイエスが来られてもよいように待ち受けるのです。
私たちは、管理人として、神から何かを任されています。
神に任された物を、用いる準備をしていなければなりません。
意味が分からないとしても、受け止めながら、意味が分かるように取り組むのです。

教会暦では「待降節」があります。
すでにイエスが来られた後を生きている私たちにとって、どんな意味があるのでしょうか。
メシアを待ち望んだ人々に習って、再臨するイエスを待ち望むということです。
全世界に出て行き、全ての人に福音を述べ伝えること。
それに取り組むために労力を惜しんではなりません。

「しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」12:48

祝福を与えられている者は、それを用いて、よりよい働きをするために、托されているのです。
主は、期待しておられます。
よい忠実なしもべになりましょう。
そうすれば主が給仕して下さいます。
恵みのよい管理者として、主人の心に従って生きていきましょう。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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