10月23日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章 22~34節
「神の国を求めなさい」

イエスが語られるとき、誰に向かって語っているかが大切です。
ここでは、弟子たちに語っています。
私たちも13番目の弟子として、私たちに向けて語られていると受け止めていきましょう。
イエスはいつも、全体に目を向けながらも、ご自身が選んだ弟子を育てることに最も強い関心がありました。
12人に、そして、日本にいる12万人のクリスチャンに目を留めておられます。
そして、クリスチャンを通して多くの人々を祝福しようとしておられるのです。
それは私たちを用いて、御業を進めるためです。

「それから弟子たちに言われた。『だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。』」
12:22,23

命は、持ち物や財産にあるのではありません。
どんなに富んでいても、神の前に富まなければ意味がありません。
人生のよりどころをどこに置くか、ということです。
今日、本や広告で言われていることは、
「老後を安心して生きるためには、貯蓄が3,000万は必要だ」
ということです。
さらに、保険金を3,000万残さなければ、とも言います。
それは、今と同程度の生活を維持するためには、平均してそれぐらい必要だと言うことです。
逆に、果たしてそうだろうか?という本も出ているようです。
たくさんの財産を蓄えて、「安心だ」と言ったとしても、命を突然失ったら何の役に立つのでしょう?
財産よりも命の方が大切です。
財産に頼るのではなく、必要な物を与える神により頼むべきなのです。
「拝金主義」
立派な家や車を持つことを誇ること。
かつて日本人はエコノミックアニマルと呼ばれていました。

「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」ルカ16:13

弟子はイエスに出会って招かれました。
ある物はプロの漁師。
マタイは収税人でした。
なぜ彼らはイエスについて行ったのでしょうか。
それは、本当の意味で「安定」「手応え」がなかったからでしょう。
イエスのことを耳にしていて、心が動いていたのだと思います。
彼らは今まで築いてきた生活を置いて、自らの人生を歩み出すことを決めました。
その弟子たちに、この言葉が語られているということが意義深いのです。

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」
12:29~31

毎日の献立を考えることや、服を選ぶのを迷うことは、クリスチャンとしてふさわしくないのでしょうか?
イエスはそういうことを言っているのではありません。
父なる神は、それらは必要だと言うことを知っておられる、と言っています。
食べることや着ることには意味がない、ということではありません。
心配ばかりしていること、不安、人の目によって心が揺れ動くのは、神を知らない人の姿だというのです。
食べ物も、衣服も、私たちにも必要な物です。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」コリントⅠ 10:31

それらすべてで神の栄光を表すことを求められています。
ものの見方、考え方を変えていく必要があるのです。
自分の得や楽を考えるのではなく、生活を通してどうすれば主の栄光を表せるかを考えていくことです。
では、神の栄光とはなんでしょう。
神に感謝をささげることができる、ということです。
必要なすべては神が備えてくださいます。だから、感謝できるように選択して取り組んでいきましょう。
自分の満足や納得、心地よさを求めていると、「やって損した」と思うことが起こります。
神が恵みを与えてくださっていることを忘れてしまうのです。

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」マタイ6:5

この例のように、人に認められることが中心にあると、人からの誉め言葉や感謝の言葉で終わってしまいます。
感謝されたときに、主がそのような機会を与えてくださったことに感謝していくことが大切です。
神の国を治めているのは神ご自身です。
何かがうまくいくとき、自分の栄光にするのではなく、主に栄光を帰するのです。
神は、私たちのことを心配してくださっています。
「自分のことは自分で何とかしなくては」と思わなくてもよいのです。

「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。」12:28

「信じています」と言いながら、自分の力で何とかしようとしがちです。
自分が安心するためではなく、神のために取り組みましょう。
信仰が生活に結びついていくことが期待されています。
そのためには、私にとって神はどういうお方であるのかを知ることが大切です。
求める人々に、主は祝福してくださいます。
神への信頼が、信仰です。
もちろん、神任せでなにもしないということではありません。
どうやって神に栄光を表せるか、を考えて行動するのです。
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10月16日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章 13~21節
「人は何によって生きるのか」

私たちは主の宣教の働きに携わるように召されています。
そして、「全世界に」という使命を果たせるように、主は導いてくださっています。
Hi.b.a.を通して丸山スタッフが送られ、大治では若い人々との礼拝Worship Youthfulが持たれ、そこにフィリピンの青年達が15,6人が集うようになっています。
「次世代を育てる」という目標が、中部地区と共に前進しています。
あま市の小さな町にある教会を通して、私たちは主に仕えます。

さて、人は何によって生きるのか。
何に支えられているのか。
今日の箇所からたくさんのことを学ぶことができます。

先日リオオリンピックメダリストにパレードに20万人が集まったというニュースがありました。
イエスを出迎えた群衆も足を踏むほどに大勢集まっていました。
にもかかわらず、イエスは群衆にではなく、弟子たちに目を向けられました。
そして神の国の考え方と生き方を示されました。
今日の箇所では、群衆の一人がそこに割って入ってきます。

「群衆の中のひとりが、『先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください』と言った。」12:13

当時、遺産は長男がほぼ全てを受け継いでいました。
この地方には「たわけ」という言葉がありますが、遺産である田を分けてしまうのは愚か者のすることであり、そんなことをしていたら先祖から受け継いだ田は結局失われてしまうということを表しています。
長男が全て受け継ぐことで、財産を守っていたのです。
それ以外の次男三男は、わずかな取り分を分けられただけでした。
この人は、「兄弟が正当な取り分を分けてくれない」ということを訴えているのです。

なぜイエスに訴えてくるのか。
それには背景があります。
当時パリサイ人は一般民衆の中に住んで、律法を教えるとともに、もめ事の調停を「律法に基づいて」行っていました。
この人は、イエスを「先生(ラビ)」と呼んでいますから、そのような存在として認めていたことがわかります。
ところが、イエスはその訴えを退けられました。
イエスは、ご自身とパリサイ人との働きの違いを示されたのです。
そのためにひとつのメッセージをされました。

人間は、「なるほど」と思ったことも3日で忘れるそうです。
では何が残るのでしょうか?
学んだことを身につけるには、3日以内に再び確認することです。
聞いただけでは身につきません。
もし疑問を持ったら、もっと分かろうとすることも必要です。
「今更聞けない」と、分かった振りをして流してしまってはいけません。
成長するためには、分からないことを聞くことが大事です。
つまり質問をする、ということです。

「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」12:15

貪欲に注意するように、とイエスは言われました。
遺産分けを求めるのは貪欲なことなのでしょうか。
法律上認められているのに。
では、貪欲とは何でしょうか。
それは「人は何によって生きるのか」ということと同じ質問です。

「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
12:16~21

豊作に恵まれ、どうしようかと考えた金持ちは、新しい蔵を造ろうと考えます。
そして、「もう安心だ。飲んで食べて楽しめ!」と思いました。
日本語の「貪欲」には「欲張り」という意味合いがあって、必要以上にほしがることを表しています。
では聖書の「貪欲」はどういうことでしょう?
この金持ちの「安心の元」はなんでしょうか。
それは、持ち物、財産です。
これがあれば安心だ、と思っています。
それが貪欲です。
イエスは「愚か者!」と言われます。
私たちの命は、財産や能力、お金にあるのではありません。
もちろん活動するには人もお金も必要です。
でも何のために用いるのかということが重要です。

命が持ち物にあると思ってしまうことからくる安心。
何のためにそれらを求めるのか。
「人と物とお金があればできる」のではありません。
イエスによってその働きが導かれていることが大切です。
神に寄り頼み、そこに安心感を持つことが「安心の基」です。
たとえうまくいかなくても、「主が私と共にいて下さる」ということが安心の基です。
「この働きは主の働きだ」ということが。
たとえ状況が厳しくても、主が共にいて下さるゆえに頂ける安心感が土台なのです。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
箴言3:5,6

10月9日 早朝礼拝

イザヤ書 43章 1~7節
「神様のみこころ」

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」43:4

心を知るということ、相手の心を理解すると言うことは、人間関係においてもたいせつなことです。
相手の真意が分からないと、人間関係はぎくしゃくします。
お互いに理解していれば困難があっても力を合わせて立ち向かうことができます。
でも、心は目に見えません。
神のみこころとは何でしょうか?
人の心が見えないけれどそこにあるように、神の心も見えないけれども知ることはできます。
それには二つの方法があります。

①語ることばによって

「心にもないことを言ってしまった」と言いますが、そうでしょうか?
心にあるからこそその言葉が出てくるのです。
「心にない」というよりも、「本心は他のところにあったのに」という意味でしょう。
「本当は違う思いもあるのに、一部が外に出てしまった」と。
言葉は、その人の中にある物が出てくるのです。

②その人が取り組むわざ=行動によって

人は興味がある物に目を留めます。
サッカーが好きな人はサッカーを見ます。
野球が好きなら野球を、釣りが好きなら釣りに行くでしょう。
それは行動を見ればわかります。
神はその心にあるものを、御子イエスを通して教えてくださいました。
イエスの語る言葉、行うわざを通して、神のみこころを知るようにしてくださったのです。
それを記してあるのが聖書です。
ですから、聖書は神のみこころを記した書物である、と言うことができます。

「高価で尊い」「愛している」と、主は言われます。
これをまっすぐに受け止めることができず、「そんなことはありません」と言ってしまうことがあります。
主は、「私の目には」と言われます。
もし、このことをしっかり受け止めるなら、強固な人生になります。
「人の目」を気にしていると、自分に劣等感を持ったり、その裏返しの優越感を感じたりします。
自分より優れた人に出会うとき、私たちは二つの反応をします。
「あこがれる」か「あきらめる」かです。
逆に自分より弱い人に対しては「優越感」か「助けなくては」という思いが生じます。
その根源に、揺るがない土台があるかどうかが大切です。
人がどう見るか、ではなく、神がどう見るか。
神は私に価値を見いだしてくださっています。
そうすれば、持っている自己を生かそう!と思えます。

「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。」43:5

「あなたとともにいるからだ」と主は言われます。
祝福を理解するカギは、「天と地を造られた神が共にいて下さる」という自覚です。
力のある人、権威のある人がそばにいてくれると心強く感じます。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」ヤコブ1:5

自分に駆けたところがあっても、相談できて助けてもらえるとしたら、私の人生は力強いものになります。
神は私に価値を見いだして、共に歩んで下さるのです。

「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」43:8

「わたしが造った、私の者」と、主は言われます。
神の所有とされている者。
神の作品として、愛して下さっています。
ご自身でお造りになったからです。

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」詩篇100:3

人がなんと言おうと、自分がどう思おうと関係ありません。
素直に受け止めることで私たちは変わります。

ルカの福音書14節には3つのたとえ話が書かれています。
100匹の羊の話、10枚の銀貨の話、失われた弟の話です。
この3つに共通するのは、「なくした物を見つけた」ということです。
そして、見つけたとき、「共に喜んで下さい!」ということです。
人は、神のものであったのに、失われたために価値を失いました。
それをもう一度、価値を見いだすために探して下さるのです。

物の価値は、買う人が払う代金で決まります。
神は私たちをどう見ておられるでしょうか?
ひとり子のイエスを代価として払うほどに。
「私には価値はない」というのは、それほどの代価を払って下さる方に対して失礼です。
そこまで神に愛されているなら、それにふさわしく生きなければなりません。

1万円の価値はどれだけのものでしょうか?
「いや、たしかに家には1万円持ってるんですが、手元にはないんです」と言ったら、1万円のものを買えるでしょうか?
なくした状態では価値がありません。
神の手の中にあってこそ、私たちには価値があります。
失われたものを救うために、神は探して下さるのです。

何者初日@地元

初日、おめでとうございます!
田舎のシネコンではお客さんは11人でした。
私にとっては「重め」な映画でした。

多少ネタバレ感想です。





淡々と。
淡々と進んでいきます。
周りに一喜一憂はあるけど、見たところ拓人は淡々として。
「三角関係」っていっても、別に拓人は告ってるわけじゃない。

光太郎は太陽だなぁ。
屈託なくて。
嫌みもなくて。
「内定」って全人格を肯定された気がするっていうのはそうだろうなと思うし。
ということは、逆もまた真なりで。

ミズキは家庭の事情もあるから妥協してそこそこの会社で決めた感じ?

売れ残ったのは意識高い系女子リカと冷静分析系拓人。



企業は本当にわかって採用してるのだろうか。

まさか自分が泣くとは思ってなかったのに、拓人が泣くのと一緒に泣いてた。
辛すぎるわ。

結局拓人はどうするのかな。
やっぱり就職はやめて、演劇にいくのかな。


私は就活した経験がないから、昔の就活との比較もできないけど、大変なんだなと思いました。
うちの娘、がんばったんだなと。
ふたりめもあと1年と少しで就活生。
心の中で応援するしかないけど。

こんなに苦労して就職しても、1年経たないうちに過労自殺とかが起こる世の中。

「生きているって楽しい!」と思える人生を送れるよう祈るのみ。

10月2日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章 1~12節
「信仰の表明が大切」

「人を恐れる」傾向があるなら、まず神を恐れなければなりません。
その時、神は「恐れる」方ではなくなります。
主はすべてをご存知な方です。
雀の1羽でも忘れられていません。
髪の毛1本さえ心に留めておられます。
その愛に触れると、「恐れ」はなくなります。

「神を恐れる」という言葉には二重の意味があります。
人に対して恐怖するよりも、ゲヘナに投げ込む方を恐れること、すなわち、「罪を恐れるべき」ということ。
しかし同時に主は、全てをご存知で、その罪を贖うためにイエスを贈ってくださった方でもあります。
それなのに、クリスチャンになっても「恐れ」が消えない方がいます。

秋の長雨が続いていますが、今年は夏に雨不足でナスの生育が不良でした。
今はたくさん採れます。
雨が土に浸透していかないと作物が育たないように、神の恵みの雨も表面的に受け止めるだけでは豊かな実を結ぶことができません。

「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
ローマ5:20.21

罪を自覚し、苦しみが増すほどに、イエスのあがないの恵みが分かるようになります。
自分でさえも受け入れられない状況でもです。
自己卑下に比例して、神の恵みが実感できます。

群衆が集まって来た時、イエスは群衆にではなく、弟子たちに語られました。
イエスは、群衆がやがて「十字架につけろ!」と叫ぶようになる姿を見通していました。
弟子たちはきっと、多くの群衆を見て、イエスの人気を誇らしく思っていたことでしょうが…。

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。」12:9

「不信感」は全体に影響を及ぼします。
イエスが「パン種」にたとえられた通りです。
イエスは、人前で認める者を、認めると言われました。
それは、信仰に反対する状況の中でもイエスを告白するということです。

「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。
また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
12:8~12

会堂や役人の前に立たされるなどと、弟子たちは想定していなかったことでしょう。
しかし、イエスはご自身が糾弾されることを知っておられました。
そして、弟子たちが尋問を受けることも。
自分にとって不利益になるときに、クリスチャンであることを表明するのは難しいです。
そのため、私たちは、カメレオンのように周りの色に合わせることをしやすいのです。
それでも、自分がイエスの友であることを表明することを求めておられます。
いエスご自身が、私たちに「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。」と語りかけてくださっているからです。
「人前で認める」というところは「同じ言葉を語る」という意味の言葉です。
自分がキリストに属するものであり、「キリストと同じです」と認めるのです。
「告白する」とは、「イエスと同じことばを話す」ということなのです。
「イエスは私の罪のあがないとして死んでくださった。
 私は今、神の子とされている。」
と認めること。
イエスの言葉を自分の思いとして発言することです。

私はバプテスマを受ける方に質問をします。
天地の造り主を信じますか?
御子を信じますか?十字架によって救われたと確信しますか?
と。
みことばを自分のこととして受け止め、告白することが揺るがない信仰を支えます。

しかし、「許されない罪」があるといいます。
聖霊は信仰のカギを握っています。
ルカの福音書22章54~62節を読むと、ペテロが3度イエスを否んだことが書かれています。
イエスは弟子の裏切りを想定していました。
牢も死も覚悟していたペテロが、孤立してイエスを否んでいます。
みなさんは、世の圧力に押しつぶされる経験をしたことがあるでしょうか。

では、聖霊を穢すとはどのようなことでしょうか。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

聖霊は助け主であり、イエスの言葉を思い起こさせてくださいます。

「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」ヨハネ16:14

聖霊はイエスの栄光を表します。

罪許され、神の子として永遠の命を持つように、救いを実現してくださるために、聖霊はまず罪を示してくださいます。
肉の弱さに直面したときに、責めることなく、あがないを分からせてくださる聖霊を、否定してはいけません。
私たちは、すでに許されているのに心責められます。
主は責めようとしているのではありません。
律法は養育係りです。
聖霊を汚したら、いいかえると聖霊の働きを最後まで否定したら、どうやって救われることができるでしょうか?
許されているという実感が持てるかどうかということにもかかわってきます。
「クリスチャンなのに、そんなことをするの?」と言われると、グサッときます。
でも、私はこう言います。
「そのとおり。
 だからこそイエスは十字架にかかってくださったのです。」
神に許されているものとして、誇りを持って生きていきましょう。

9月24日 聖日礼拝

ルカの福音書 12章 1~12節
「この方を恐れなさい」

「そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。『パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。』」12:1

「そうこうしている間に」この前の出来事の終わりに、人の目には見えない変化が記録されています。

「イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。」
11:53,54

イエスがユダヤ人指導者達の痛いところを突いたため、彼らはプライドを傷つけられ、敵意を持つようになりました。
敵意を持つようになると、これまで何となく聞いていたことがいちいちひっかかるようになります。
イエスの言うこと成すことが気に掛かってしょうがない。
人間関係が壊れていくのはこのような時です。

おびただしい数の群衆がイエスの周りに集まり、ますますイエスの人気は高まっているように見えます。
「互いに足を踏み合うほど」の群衆です。
聖書は、「群衆」と「弟子たち」とで言葉を使い分けています。
群衆の中には、「なんか人が集まっているから行ってみよう」という人もいたでしょう。
イエスを求めて来たわけではない人々も多かったと思われます。
その中から、イエスはご自分を求めて来た人を見つけ、癒し、救われました。
しかし、集まった人の背後には「敵対」も含まれていました。
「言いがかりを付けよう」という人もその中にいたのです。
そうなると、イエスは語りにくかってでしょう。

そこで、イエスは弟子たちに語り始められました。
誰に向かって語っているかは大事です。
今日の聖書は、全体の文脈を見ないとわかりにくい箇所です。

「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。」12:11

これを聞いたとき、弟子たちは何を言っているかわからなかったことでしょう。
今はとても祝福されているように見えるのに、イエスは危機感を持っていました。
イエスは、パリサイ人の「パン種」に気をつけるようにと言われました。
パン種、すなわちイースト菌は、少量でもパン生地を大きく膨らませます。
不信、悪意は伝染します。
喜びも広がりますが、不信も人々を浸食し、広がっていきます。
そして、この延長線上に十字架があります。
そのことを想定して、イエスは語っておられます。

自分では気付いていない人生の危機について、イエスは何を教えておられるでしょうか。

表面的には立派なことを行っていても、内心は人を陥れようとしているパリサイ人。
その「不信の芽」に気をつけるようにと言われました。
課題に目をつぶるのではなく、警戒しなければなりません。
神の名があがめられるようにするための批判はすべきです。

「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。
ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。」
12:2,3

この御言葉には二重の意味があります。
・人の目に触れない物は、本人の意志と関わりなく、表に出てくる。態度や言葉や表情に。
・イエスを身に帯びていれば、隠そうとしてもそれは自然に外に出てくる。

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」
12:4,5

イエスは弟子を「友」と呼ばれました。
友として、共有して欲しい、と。
これから起こる大きな変化を。
それは神のみ旨に叶うことでした。
十字架に架かり、罪をあがなうことが神のご計画だったのですから。
そのようなことが起きたとしても、パリサイ人を恐れてはいけない、と言われました。
神ご自身に目を留め、信頼せよ、という教えです。
恐怖を与えようとしているのではありません。
人への恐怖より、神に心を向けるようにと。

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
12:6,7

1アサリオンというのは最小の銅貨です。
最も貧しい人が捧げるいけにえとして売られていた雀。
その雀が5羽で2アサリオンでした。
1羽なら5分の2アサリオン。
そんなわずかな捧げ物も、神はお忘れになりません。

髪の毛も数えられています。
毎日抜けていき、生えてくる髪の1本1本が。
神は隅々まで知っていて下さいます。
神を「怖がる」日宇用はありません。
私たちは、神に知られています。
それは最良の喜びです。

心の中の思いも、神はお見通しです。
「その、あなたの汚れと罪深さのあがないとして、私は十字架にかかったのだ」
と言ってくださいます。
人間の力では覆うことのできない、根深い罪をあがない、清めるために、イエスはこの世界に来られた。
そのことが分かったとき、私たちは自由になります。

隠す必要はありません。
いや、隠すことなんかできません。
導いてくださいと祈ることが、神への信頼の証です。
主は、よいことも知っていてくださいます。
人が目を留めなくても。
人に評価されなくても。
主は目に留めておられます。
決してお忘れになりません。
人生で報われることは多くはありません。

「主よ、あわれんでください」と祈るなら、
「そのために十字架に架かったのだ」と、罪を覆ってくださいます。
弟子たちには、イエスの真意が分からなかったことでしょう。
でも、いずれ弟子たちは、主のゆえに死んでいきました。
イエスは友です。
父の愛を受け止めていきたいと思います。
その内にある喜びは、人々の目にさらされることでしょう。
それが、私たちの「証」です。

佐藤さん10周年おめでとうイベント♪ 2


つづくかも、って言いながら放置で済みません(^^;

イベント会場ではグッズ販売もあり、パネル展も開かれていました。

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主にCMの画像ですね。
実物を見ると、なかなかの迫力ですよ。

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会場ではたけてれのDVD(のトレーラー?)が流れてました。
この「たけてれ」サイコロ、秘密基地に置いてあった物なのかな??

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イベント後、フォロワーさんと遅めのお昼ご飯を食べて、2回目参加のお友だちを待ちました。
ロミジュリ以来だから、もう5年?
ほんとにお久しぶりのお友だちも!
懐かしい~。

ごあいさつをして、いよいよ丸ビルへ!
何度か東京には行っていますが、丸ビルは初めて。
ゆりかもめで向かいました。

吹き抜けを囲む回廊の一部に佐藤さんの写真でいました。
+actやananの、美しい写真。
はぁ~タメイキです。

2016-09-19 145910

20160919 145924

ここだけ撮影可でしたw

続いて新丸ビルの方へ。
こちらは、写真集Xtenの写真展示です。
これがまた美しくて。。。

そうそう、今日から名古屋で展示が始まってるはず!
行かないと~~~!
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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