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9月 18日 敬老の日歓迎礼拝

伝道者の書 3章 9~15節
「人の心にある永遠への思い」

創造主である神が、どのように私たち人間をお造りになったかが、聖書に書かれています。
主は人に「心」を与えて下さいました。
果たして動物にも心があるのかどうか。
それはなかなか難しい問題です。
本能的に物事を「考えて」いることは確かです。

わが家の飼い犬モモは食前のお祈りをします。
エサを前にして、お祈りが終わって「よし!」と言うまで待っています。
それは、飼い主が習慣づけをしたからです。
言葉の意味をわかってはいないでしょう。
では感謝の心はあるのでしょうか。
本当のところは分かりません。
少なくとも人間のような副\雑な心があるとは考えにくいと思います。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」3:11

神は人に永遠への思いを与えられました。
「今」を生きるだけではなく、過去を振り返り、過去から学ぶこと。
将来のために、今すべきことを準備すること。
今を超えた、過去と未来を意識しながら「今」を生きるようにお造りになりました。

「今を生きるだけで精一杯」と言われる方もいるでしょう。
よりよい人生にしていくために、与えられたものを正しく用いていくことが大切です。
「宝の持ち腐れ」という言葉があります。
与えられているものを生かすとき、祝福が得られます。
努力せずに、ただ祝福を待っていても、祝福は来ません。
歌にもありました。
「幸せは歩いてこない。
 だから歩いて行くんだね。」
何もせずに、向こうからやってくるものではないのです。
主は、私たちを幸せにする備えをして下さっています。
神の計画と招きを信じて、「与えて下さい」と、神に近づくことが信仰です。

私たちは、時の流れの中で生きています。
時は変化を与えます。
この地に赴任してきて23年になります。
私の髪は黒いですが、染めているだけで、実は白いものがたくさんあります。
手を見ると、いつのまにか「お年寄り」の手になってきています。
ふとした瞬間に、時の流れを感じます。
日々はいつも通りにすぎていきます。
でも徐々に変化しています。
心は永遠の青年だと思っていても、やはり変化しています。
晩年になると、かつてあったものが失われたことに気付きます。
しかし、私たちには、過去と未来を考える力が与えられています。
それは生きていくために欠かせないものです。
神にに近づく動機を与える能力です。

私たちは、神のなさることを見極めることができません。
永遠を意識するとき、決定的な事実に気付きます。
「私たちは有限である」と。
私たちは、普段は人生に終わりが来るなんて想像していません。
でも、永遠を意識するとき、過去を振り返ったとき、これまで例外なく「人は死んできた」ことがわかります。
未来を考えると、私たちはずっと子孫を見守り続けることはできません。
「永遠がある」ということは、裏返すと「私たちには限られた命しかない」ということを意識させられます。
そこにジレンマがあり、ストレスを感じます。
捕らえようによっては、それは「絶望」です。

箴言と伝道者の書は、神から特別な知恵を与えられたソロモンが書き残したものです。
哲学の世界には3つの大きな問いがあると言います。
多くの人はその問いを封印して生きています。

① 人はどこから来たか
② 人はどこに行くのか
③ 人は何のために生きているのか


この問いに向き合い、答えを見いだしたら、人生は意味あるものになります。
しかし、これらの問いに向き合うと、死を意識しなければいけなくなるので、人は向き合いたくないと思うのです。
「そんなことを考えずに、今を生きることに集中しなさい」と言われてしまいます。

ある小学生が「電話相談室」に電話を掛けました。
「人間は何のためにいきているんですか?」
と尋ねると、
「お母さんに聞いてみるといいね」
という答えが返ってきたそうです。
すると、お母さんはお父さんに聞きなさいと言い、お父さんは学校の先生に聞きなさいと言いました。
学校の先生は「そんなことを考えている暇があったら勉強しろ!」と言ったそうです。
人は、「死」を連想させるものを排除しようとします。
日本の場合、「4号室」がなかったり、「9」や「42」という数字も避けられます。

「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。」3:12

ここでソロモンは、喜び楽しむことだけを追求するようにと推奨しているわけではありません。
永遠を考え、死を意識しても、解決がないとしたら、「今」を楽しむことが幸せの道になるでしょう。

「また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」3:13

そして、喜び楽しむことは、神が与えてくれた「よいもの」でもあります。
食卓で子どもが神様に感謝の祈りをした時、お父さんは
「この食事はお父さんが働いたから食べられるんだ」
と言いました。
確かにそうでしょう。
お父さんが働いたおかげ、働ける職場があるおかげ、働ける健康があるおかげ・・・
全ては神がお造りになりました。
人に息をお与えになりました。
すべてのものは神に与えられています。
元気に、給料を手にできるのも神のおかげです。
支えてくれる人、支えてくれる仕組みに目を留められないと、自分の視点からしかものが見えません。

「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」3:14

神を恐れるということは「怖がる」ということではありません。
神の存在を認めて、敬い、意識して生きることです。

「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』私は心の中で語った。『これもまたむなしい』と。」
2:14,15

もし永遠を考えないとしたら、やりたいことをやった者勝ちということになります。
死んだら全てそこで終わりですから。

「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。」3:15

神が追い求めておられることとは何でしょうか。
それは、私たち人間です。
そして、私たち人間が神に近づくことを求めておられます。

さて、天国とはどのような場所でしょうか。
多くの人は誤解している気がします。
天国は、神の国。
神が私たちとずっと共におられる場所です。
神はあなたにとってどんな方でしょうか?

たとえば、パトカーに出くわしたらどう感じますか?
別に悪いことをしていなくても、「ヤバイ!」とびくびくする気持ちが起こりますか?
「町内をパトロールしてくれている」と安心しますか?

神は、あなたにとって「ずっと一緒にいたい方」でしょうか。
もしも神を信じない人が天国に行ったとしたら、そこはもはや天国ではなく「地獄」なのではないでしょうか?
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佐藤さん10周年おめでとうイベント♪

19日、参加してきました!

2016-09-18 155338

久しぶりに佐藤さんだけ1時間まるっとトークしてくれるイベント!!!

今回は(も?)レポは他の方におまかせして、ひたすら佐藤さんを見つめてきました。
MCはおなじみ荘口さん。
この方はほんとに頭の回転が速くて、安心して見ていられます。
大好きです!

10年のお仕事を振り返るコーナー。
最初のお仕事について、荘口さんからいじられ。
「全っ然、見ようと思わなくていい作品ですから!」
と、ご本人は強調していましたが、あの会場に来るほどのファンならとっくにチェック済みだと思いますよwww

役作りに関して、「プロのように見えることが大事」と。
たとえば料理番の場合は、包丁だな、と思った。
みごとな包丁さばきを見せれば、「あ、この人はスゴイ料理人なんだ」と説得力を持たせられる。
だから包丁を徹底的に練習した。
それ以外のことはしてない。
要はコスパ。
できそうだな、と思うから挑戦しようと思える。
壁走りもできそうだからやった。
努力しても、それだけのインパクトを見る人に与えることができなければ、もったいないな、ってなる。
そんな内容だったと思います。
理詰めで考える佐藤さんらしさを感じました。

そして、、かみっきーが作品ベスト3を発表!
3位 るろうに剣心・・・うんうん、納得。りゅうくんも共演だし。
2位 天皇の料理番・・・ほほう。なるほど。
「1位は、あれですよね。
 いろいろと初めてのことにも挑戦して・・・・・」
と言われたら当然「バクマン。」ってくると思うじゃないですか!!!
それが
1位 メイちゃんの執事・・・な、な、な、なに?????
さすがりゅうくんだわw

その場で募集のちょいハピコーナー。
それこそプリプリDから10年ずっとファンだという、その日が誕生日の女の子。
誕生日に初生たけるってことでちょいハピです。
21歳だっけ?
埼玉出身だけど、新潟の専門学校でスポーツトレーナーの勉強をしてるとのこと。
ちょっと待って!
10年前って11歳?
その頃に、深夜ドラマのプリプリDを見ていたという。
「俺が親なら全力で見るなっていいますね。」
と佐藤氏。
「大好きです!」
ってちゃんと告白もできてよかったね^^

次が、新しいスーツを買って、それを着てきたという女性。
「ルミネで買ったの?」
とか、けっこう突っ込んでお話してくれてました。
「たぶんお似合いです。」(たぶんwww)
「いえ、足元まで見えないので。」
こういうところですよ!
こういうところ。
見えてもいないのに口先だけで安易に「お似合いです」って言わない。
こういう誠実なところに惚れるんだわ!

3人目。
ポケGOプラスを入手できて、東京はすごいのでピカピカ光りまくりでちょいハピな方。
うふふふふ。
さすがですわ。
ツボを押さえてますわ!!!
この夏をポケGOにかけた佐藤氏が食いつくことは計算済みのツイート!
さすがっす!
佐藤氏、ラッキーとプテラがまだいないと。
「あ、私ラッキー持ってます!」
ここから「ボールが3種類ありますよねえ」などと、深みにはまっていきそうになり、「いいんですか?こんな話しててw」と女性、セルフつっこみ!
ちなみに佐藤氏のチームカラーは青。
私も青です。

最後は明日が就職試験という女性。
「何者」がああいう映画ですからね。
これもなかなかいいツイートですよ。
「何社ぐらい受けましたか?」
という佐藤氏に、
「学校からの斡旋なので1社です。」
「ああ、高校生なんだ。
 そういうパターンもあるのか。」
「がんばってください!
 佐藤健のイベントに行ったとかは言わない方がいいです!」
www

写真集の撮影裏話もいろいろあったような。。。
覚えてるのは、塩の結晶はとがってて痛いってこと。
高山病予防のため、動きはゆっくり。
呼吸もゆっくり。
しゃべるのも・・・
塩湖は新潟県ぐらいの面積ず~~~っと平らだって。
きゅうりのゆくえはわからないから、そのうちに塩湖にきゅうりが茂るようになって緑の部分ができるかもと。
その種をもたらしたのは佐藤健ということになるかも、パイオニアになりたい、とかw
車の運転してるところが一番楽しそうだったという荘口さん。
道も何もないから、好きに走っていいって言われて、気持ちよかったと言ってました。

あと、インスタやって!とかいう声があがってたけど。
やりません!て言い切りました。
荘口さんにインスタの使い方を教えられて、
「最近はね、インスタでタグを検索するんですよ。
 たとえば”渋谷” ”ラーメン”とかで。
 それで出てきた写真を見て、これうまそうと思ったら、そこからどこの店か調べていったりするんですよ。」
「へええ。
 でも、俺、食べ物出てきたら写メる前にすぐ食べる方だから。
 待ってられない。
 だから無理。」
いや、別に食べ物をUPしろとは言ってないのですよ~~~!

ほかにもきっといろいろしゃべってくれてましたが、思い出せません。
ほんとに、リラックスしてる感じの佐藤さんで。
あ、リラックスと言えば思い出した。
普通の舞台挨拶は、他にもキャストの方が大勢いて、お客さんの中には自分のファン以外の方もいる。
中には、「オレは映画を見に来たんだよ!」って感じの男性とかいて、ほんと恐縮しながら立ってる。
アウェイな感じ。
でも、今日はホーム。
そんな始まりでしたね。

書いてると徐々に思い出してくることもあるけど、こんなところかな。

会場では時間差でうまいことお会いできた方とはごあいさつできました。
用意したおみやげ16個は、帰りにはなくなっていたので、おそらく16人の方と初めまして&再会できたのだと思います。

2016-09-19 194454

こちらがいただいたおみやげ。
感謝感謝でございます。
もっとゆっくりおしゃべりしたかったなぁ。

とりあえず本日はここまで。
つづきがあるかも?

9月11日 聖日礼拝

ローマ人への手紙 12章1~2節
「心の一新によって自分を変えなさい」

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
ローマ12:1,2

新しい世代が常に意識されていくことが必要です。
アジアには、日本、シンガポール、香港、マレーシア、フィリピンにに福音自由教会があります。
20年前に、香港のリン先生が私たちを訪ねて下さったことがあります。
当時百数十名だったヤンフク教会を訪ねると8,000人の教会になっていました。
大きさの問題ではありません。
このように成長した理由の一つは、
「アジアの福音自由教会は35歳以下の若い世代に心を留めている」
ということでした。
統計学的に言って、教会内の35歳以下の人々が50%を切ると、将来的に力を失っていくというのです。
日本も例外ではありません。
私たちの教会はどうでしょう?
日本には、平均年齢が80代の教会さえあります。
聖書には「40歳」という基準があります。
出エジプトの時、成人していた人でカナンの地に足を踏み入れた人はほとんどいません。
40年間荒野をさまよううちに、世代交代がなされたのです。
私たちには、次の世代を支え、共に生きる必要があります。

パウロがイエスに教えられ、諸教会にお願いしたことが、今日の箇所です。
そこには3つのポイントがあります。

① 生きた供え物としてささげなさい
② この世と調子を合わせてはいけません
③ 心の一新によって自分を変えなさい


これらの言葉が、「神を信じている人」に向かって語られたということを覚えておきましょう。
この3つは、クリスチャンはどう生きるか、という指針です。
神の民として、豊かな実を結ぶのには3つのことが大切です。

① 
「からだを」捧げるようにと言われています。
体を、ということは、「全てを」と意味ことです。
信仰を、心の問題だととらえる人が多いです。
生活と精神世界に乖離が起きているのです。
日常生活に信仰が及んでいくことが大切です。
そうすると、生活が変わるはずです。
からだ=存在そのものを神の捧げるのです。
それには意識の変化が必要です。

昔、借家に住んでいた頃、毎月大家さんの所へ家賃を払いに行きました。
今のように銀行自動引き落としなどしなかった時代です。
家を貸して下さっている大家さんと、毎月顔を合わせて言葉を交わし、スタンプを押してもらう。
それも意味のあることだったと思います。

私たちは、毎週、毎月、献金を捧げます。
献金とは、必要を満たして下さる神様に捧げるものです。
私たちの人生は、借り物の人生です。
考えてみると、人生は自分で手に入れたり、手放したりできません。
私たちは自分の寿命を知りません。
命は、命を作られた神のものです。
私たちは、命、力、知恵を神から預けられています。その感謝として献金します。
本来全ては神のものです。
その自覚を持つことが大切です。
その意識を持たないと、人税は豊かになりません。

「私を使って下さい」と私たちは祈ります。
もしも私たちが、使い物にならないものをもらったらどうするでしょう。
壊れた電化製品を、「これ、使ってね」ともらっても困るだけです。
「私を用いて下さい」と祈るとき、「自分は用いて頂けるだろうか」と自己点検をすることが必要です。
それが、清い、受け入れられるものとして、捧げるということです。
「用いて下さい」と言いながら、自分のやりたいことを主張するのは間違っています。
「就職できそうにもないから、牧師にでもなるか」
これは、自分を捧げていることになりません。

用いて頂くためにはどうしたらよいでしょうか。
神に近づきたいと願う時に、自分の中の課題が見えてきます。
罪があらわになります。
そのとき、主は私たちを作り替えて下さいます。
「愛されているものとして、愛されるにふさわしくいきたい」という思いが出てきます。


私たちは、クリスチャンとして生きていても、同時に日本人であり、日本社会で生きています。
そして、日本では圧倒的多数は、私たちと同じ信仰を持っていません。
そこにはストレスがあります。
正しいことをしていても、自分だけが頑固なのではないかという気がしてきます。
学校では教師が「みんなと合わせること」を教えます。
世の中に合わせることを、世の中は求めて来ます。
大学時代、仲間は一緒に食事をしたあと、私と別れてからまた別の店へ向かって行きました。
「服部は来ないほうがいい」
と言われて、寂しい反面誇らしさもありました。
「服部がいると窮屈だ」「責められてる気がする」
それは、世の光、地の塩として機能しているということだったのではないでしょうか。
信仰に関して、世と調子を合わせてはいけません。


私たちは、変わることを好みません。
そのせいで神の国の世界が見えません。
神の国を間近で見るためには、私たちが変わらなければなりません。
「人生の中で、自分が中心である」ということを変えるのです。
自分を認めて欲しい。
人が認められると嬉しくない。
これは罪の性質です。

みこころは何か。
何がよいこと、神にうけいれられるか。
どう変わるか。
イエスの話を大勢の人が聞きました。
イエスは弟子に向かって
「私についてきなさい」
と言いました。
彼らは船を、網を、捨てて従いました。
「ついていく」とは、持っているものを手放してついていくということです。

「イエス様、私についてきて下さい。
 私の前から困難を取り除いて、守って下さい」
という信仰から一歩進みましょう。
イエスは、救い主であると同時に、「主」です。
主は「私についてきなさい」と言われました。
群衆は、願いが叶うと帰っていきました。
弟子はイエスについていきました。
生活の一部を捧げるのではなく、「私を用いて下さい」と捧げました。
世と調子を合わせず、イエスと調子を合わせていくのがクリスチャンの生き方です。
群衆はイエスの一部しか見ていません。
弟子はイエスの全てを見ました。

自分を変える用意があるでしょうか。
「導きだ」と思ったら、従う意志があるでしょうか。
「でも、お言葉ですから」と、自分の常識に反することにも従う意志。
自分を変える生き方をした人だけが、神の素晴らしい御業を経験できるのです。

8月28日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章 45~54節
「互いの重荷を負い合いなさい」

今日の箇所を通してイエスが教えているのは、「神の律法をどのように担っていくのか」ということです。
パリサイ人、律法の専門家とイエスの間には緊張関係があったことがわかります。
注目されている人を招く場合、その会食は、公開の食事の席になります。
中庭で、パリサイ人の親しい人々も、やりとりを見守っています。
律法の専門家もその場にいました。
イエスが清めの儀式をしないで食事の席に着こうとしたことに驚いたパリサイ人ですが、そもそも彼らが心からもてなそうとしていなかったことに先週注目しまいした。

イエスが弟子たちにはっきり示そうとしたことは、

「こう言われた。『律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。』」
マタイ23:2~4

ということでした。
「言っていることは正しいが、生活のありようをまねしてはいけない。」
私たちも、新しい律法への対応の仕方を持たないと、いつのまにかパリサイ人の生き方を身につけてしまいやすいものです。
その方が、しっくりくるからです。

「すると、ある律法の専門家が、答えて言った。『先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。』」11:45

この発言は少し変です。
イエスは、律法の専門家に話していたわけではなかったからです。
しかし、パリサイ人と律法の専門家は一心同体の関係でした。
パリサイ人は、律法を厳格に守らせることで、神の民にふさわしい生活をするようにと人々を教えていました。
そのもとになるのが、律法の専門家による律法解釈でした。
今日本では「憲法解釈」ということばをよく耳にしますが、同じ律法でも受け止め方によって幅ができてしまうのです。

マタイの福音書5章には6つの律法についての、イエスの解釈があります。
聖書を読んで正しく神の意志を捕らえないと、解釈は一人歩きしてしまいやすいのです。
「そのようなこと」とは、イエスがその前に述べていることです。
すなわち、「外側はきれいにするが、内側は汚い」「十分の一を捧げることにこだわっているが、正義と愛をないがしろにしている」「人に認められることを求めているが、神の目をきにしていない」という指摘です。
私たちも自己点検が必要です。
神より人に認められたい、挨拶されたい、という反応型の生き方が求められているのではありません。

律法の専門家が反論したのは、自分にも当てはまるという自覚があるからです。
痛いところを突かれると、黙っていられないのが人間です。
イエスは、彼にも厳しい言葉を投げかけられました。

「しかし、イエスは言われた。『おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。』」11:46

言うは易く行うは難し。
指摘することには関心があるが、どうすれば守れるかを教えられない。
問題があることは問題ではありません。
解決の為に労する人がいないことが問題なのです。
指摘するだけでアイデアがない。
彼らは正しいことを言っているかも知れませんが、言われた人は重荷を負って、どうしたらいいか分からなくなります。

イスラエルの民は、エジプトを脱出してから40年間荒野をさまよいました。
それは、エジプト流の考え方を離れ、神の民としての考え方を身につけるための場でした。
彼らはそこで律法を与えられました。
それは、救いにふさわしく生きるための指針として、与えられたのです。
当時の人々は、聖書を個人的に所有してはいませんでした。
だから、専門家が指導しました。

「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」11:52

律法を読み解くカギを持っている彼らが、「なぜ律法が与えられたのか」という神の根本にある意図を忘れてしまっていました。
イエスは、滅びに向かう人々のために、あがないとなって下さいました。
罪のあがないとして、命を投げ出してくださいました。
罪の解決の為に、ご自分を無にして、地上に住んで下さいました。
肉体があるが故の誘惑を受けられました。

指摘するだけでは、人々を苦しめるだけです。
イエスは、罪の重荷を担ってくださいました。
これが新しい生き方です。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
ガラテヤ6:1,2

重荷を負い合うこと。
分かっていても変えられない苦しみを、理解すること。

協議会の会長を務める中で、自分だけでは到底できない難しい問題に出会ってきました。
共にその重荷を負ってくれる仲間がいることがどれほど素晴らしいか。
チームで労する喜びを感じました。
自分の努力の限界を感じて、自分の器を広げようとしていた時、無理をしたら一人ではできないということが分かりました。
自分に諦めること。
一人で背負うのではなくて、一緒に負ってくれる人にゆだねることを学びました。
ちょうどキリストが負ってくださるように。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイ11:28~30

主は私を整えようとして下さっている。
重荷を負って下さっている。
兄弟姉妹と重荷を負い合う体験が必要です。
そうすることによって、立ち上がることができるのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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