8月21日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章37~44節
「そうすればきよいもとになります」

イエスはパリサイ人に向かって語られています。
パリサイ人とは、ユダヤ人の指導者です。
それは、パリサイ人に語ることによって、彼らの教えを聞く人々に教えるためです。
この箇所の中心は、

「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」11:41

です。
ここにはふたつのガキがあります。

① うちのもの
② 一切のものがきよくなる


「うちのもの」は「私のもの」ということではなく、「内側のもの」ということであり、その対になるのは「外側のもの」です。
「きよい」とは、「きれい」ということです。
たとえば、洗濯すると汚れが落ちてきれいになります。
元の状態になるということです。
では、聖書が言う「きよい」とはどういうことでしょうか。

人の生活には内と外があります。
行動、言葉、身振り手振り、これらは「外側」です。
外側の行動を決めていくものの見方考え方が「内側」です。
日本人はユダヤ人と似ているところがあります。
見た目、体裁を気にするところです。
見えるところをきれいにしようと気を遣います。
それも悪くはありません。
ただ、外見を気にするあまり、内面をおろそかにする傾向もあります。
いわゆる「外面(そとづら)がいい」という傾向です。
「外面はいいけど、家ではそうでもない」
という、大きなギャップがあるのです。

以前神学塾で教えていたときに、こんなことを言う人がいました。
「父は教会では評判がいいけど、家出は牧師の批判をするし、信者の熱心さを比べたりするんです。」
本音はそうではないから、家出不満が流れ出してしまうのです。
「それでもつまずかなかったのは、すばらしい先輩がいたからです。言っていることとしていることが一致している人を見て、あのように生きようと思いました。」
と、その人は続けました。

「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。」11;37

さて、共に食事をしたいと申し出た人はパリサイ人です。
一般のユダヤ人が、聖書の教えに従って生きられるように、律法を教えたり、相談にのったりする、今で言えば牧師のような人です。
パリサイ人は、一般人と一緒に住みながら、御言葉を学び生きるようにと教えた人です。
サドカイ人という言葉も聖書には出てきます。
サドカイ人は、神殿で主に仕え、教える人々でした。

パリサイ人にとって、イエスは無視できない存在でした。
自分の町の住民がイエスについて行こうとしていました。
もしもその教えが間違っていたら、「ついて行かないように」と教えなければなりません。

普通「いっしょに食事を」と言う場合、その人はどんな思いを持っているでしょうか。
家に招くのですから、自宅の中を見せてもいいということです。
もし、牧師である私がみなさんを「家庭訪問」するとしたらどうでしょう?
家を訪問して、「聖書はどこに置いていますか?」「みことばが飾ってありませんね」などとチェックしたらどうでしょう?
困るでしょう。
実際韓国ではそのようなことをしているそうです。
特に役員の家には、その生活に裏表がないようにするために、訪問するということです。
私はするつもりはありませんが。

人を招くときは、好意を持っているから招くのでしょう。
親しい交わりを持って、教えを受けたい。
公の場では聞きにくいから、密かに招いて教えていただきたい。
そのような動機が考えられます。
が、このパリサイ人はそうではないことが分かります。
「イエスを観察しよう」という感覚です。
客人として迎えるのではありませんでした。
もし、客として迎えたとしたら、イエスもこんな態度をとらなかったことでしょう。

客人を迎えたら、足を洗う桶と手拭いを用意したはずです。
そして、食事の前には手を洗うように準備をするのが普通です。
彼は、あら探しをするために招いたとしか思えません。
だから、イエスも意図的にこのような行動をとったのです。
「手を洗わなくても良い」ということを示すためではありません。
心からもてなしていない、自分を試そうとしているパリサイ人を見抜いて言われたのです。

「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」11:38

パリサイ人は驚いた、と同時に「よし!」と思ったことでしょう。
それを見たイエスは皮肉を言われます。

「すると、主は言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。』」
11:39,40

歓待するそぶりを見せながら、内側では「どうやって足をすくおうか」という気持ちで一杯だったパリサイ人。
彼に、イエスはこう言います。

「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
11:41~44

パリサイ人に対するイエスの見方を理解するには旧約聖書を見る必要があります。

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」マラキ3:10

パリサイ人は、この教えを文字通り守るために、あらゆるものの十分の一を納めるように、人々に徹底し、教え、監視していました。
しかし、イエスは「そこじゃない」と言います。

アメリカ人のある富豪の話を聞いたことがあります。
その人は収入の十分の九を捧げていると言うのです。
「神が私を成功させてくださった。
 十分の一あれば、私は十分な生活ができる。
私は、捧げるために与えられている。
いくら手元に残っているかが大切だ。」
と。

パリサイ人は、人の状態ではなく、金額にしか思いがいたらない、というワナに陥っていました。
私は幼い頃からお小遣いの十分の一で、生活を設計してきました。
だから十分の一を捧げることに抵抗はありません。
でも、新しくクリスチャンになった人にとっては、想定外のことでしょう。
負債を抱えている人に、「それでも十分の一を」とは言えません。
人の心に思いが至らないことを、律法主義と言います。
内側は目に見えません。
原則を教えたら、その人を信じて祈ります。
できないとしたら、できない事情があることに思いをはせるのです。
正しいことを言うが、その人が正しい行動を取れるように段取りをしないのは間違っています。
御言葉を語るとき、「分かってはいても、急には変えられない」という現実を知り、支え、祈っていくことが大切です。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:18

形を守らせようとするのはだめです。
最も大事なことは公儀と愛なのです。
スポンサーサイト

8月14日 聖日礼拝

使徒の働き 11章 19~30節
「祝福を分かち合う教会」
            安曇野ファミリーチャペル牧師 小岩井健師

20年前、この西教会で1年間お世話になり、安曇野ファミリーチャペルに赴任しました。
安曇野は福音自由教会に属しているわけではなく、単立教会です。
当時一人で安曇野に向かいましたが、今日は妻と4人の子どもを連れて6人で来ています。

1.エルサレムからアンテオケへ

「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」
11:19、20

今日は、最初の教会がどのように祝福を分かち合ったかを学んでいきます。

使徒7章には、迫害があったことが書かれています。
迫害にあって散らされながら、彼らはみことばを宣べ伝えました。
最初使徒達は、ユダヤ人にしか語りませんでした。
8章で、ピリポがサマリヤ人に福音を伝えたことが書かれています。
サマリヤ人はイスラエル人との関係が悪かったにもかかわらず、ピリポはみことばを伝え、その後ペテロとヨハネが派遣されていきました。
さらに、10章では、百人隊長コルネリオが救われます。
こうして、福音はユダヤ人にとどまることなく、異邦人にも語られ、イエスが約束されたように「地の果て」にまで伝えられていきました。

当時のユダヤ人は、ユダヤ州にとどまらず、ローマ帝国全体に住んでいました。
そこにはコミュニティが形成され、家長が10人に達するとユダヤ教の会堂が建てられました。
彼らは祭りがあるとエルサレムへ向かいました。
たとえばイエスが十字架に架けられた頃の「過ぎ越の祭り」、ペンテコステの頃の「五旬節」がそうです。

地図を見て頂くと、アンテオケはシリア州の州都で、エルサレムから500Kmほど離れていることがわかります。
アンテオケは国際都市でした。
ここに書かれている「キプロス人」とは、キプロス島に住んでいたユダヤ人のことであり、クレネ人とは、アフリカに散らされたユダヤ人のことです。
使徒6章には、ニコラオというアンテオケの改宗者の名があがっています。
アンテオケは国際都市であったため、異民族に対する壁や偏見が少なかったので、大勢の人々が信じました。
それは、「使徒達ががんばったから」ではありませんでした。

「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」11:21

イエスは全民族を祝福できるお方です。
異邦人にも救いをもたらすことができるお方です。
だから、今の私たちもここにいるのです。
これは、

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」1:8

の実現でした。

2.エルサレム教会、バルナバを派遣

「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。」11:22

バルナバという名は、「慰めの子、励ましの子」という意味があります。(使徒4:36)
彼はエルサレム教会にとって、大切なリーダーの一人でした。
エルサレム教会は、まだ迫害の余波があったにもかかわらず、大切な人材を遣わしました。
これは「犠牲」です。
それも、異邦人の教会を助けるためにです。
なぜそこまでするのか。
それは、イエスがもっと多くの犠牲を払ってくださったからです。
その恵みに応答したのです。
決してメリットがあったからではありません。

東北の震災直後、10回ほど被災地を訪問しました。
どうしても安曇野教会に不在がちになる私に、
「教会にとって何のメリットがあるのですか?」
と尋ねる役員もいました。
そこで、被災地を訪問する度に、一人ずつリーダーに同行してもらいました。
「先生、ただふらふらしてるだけじゃなかったんですね!」
と言われました。(笑)
エルサレム教会にとっても、バルナバを送り出すのは並大抵の決断ではなかったはずです。

「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」
11:23,24

バルナバは到着すると、まず喜び、そして励ましました。

「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、
彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
11:25,26

そして、サウロ(パウロ)を探して連れてきました。
そこで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。
サウロはもともとクリスチャンを迫害していたので、改宗したばかりの頃はエルサレム教会に受け入れられませんでした。
そのときにサウロを引き受けて弟子たちに引き合わせたのがバルナバでした。

バルナバは、文化や民族を超えて福音を伝えてることができるパウロをアンテオケのチームに加えました。
チームとして働くことは本当にすばらしいことです。

3. エルサレム教会に続く困難

「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」
11:27~30

エルサレムでは、迫害に続いて飢饉が襲ってきました。
エルサレム教会は困難な状態にありました。
そのとき、今度はアンテオケ教会がバルナバとサウロを送りました。
支援物資と共に。
双方向の支援です。
地域、民族、文化を越えて分かち合う教会の姿がここにあります。
どちらの教会も、決して楽だったわけではありません。
生きるか死ぬかの問題でした。
しかし、そこには、イエスが中心におられるパートナーシップがありました。
まさに、キリストの体、神の家族です。
これは、「自分たちの教会さえよければ」という考え方とは正反対のものです。
私たちは、自分の教会のことだけを考えていてはいけません。
人々のために働かれたイエスの姿を見るとき、私たちもそうしなければ、と思います。
最初の教会は、リスクを伴っても犠牲を払いました。
彼らは、自分たちだけが安全な場所にとどまっていることはできませんでした。

8年前に、安曇野教会は松本市の「豊かな命教会」の支援を始めました。
そのために、同労者であるジェンカー先生を送り出しました。
当時、豊かな命教会も、安曇野ファミリーチャペルも、ローンを抱えていました。
こんな状態で支援していけるのか、不安もありました。
ところが、結果的に、両教会とも今では1.5倍に成長し、豊かな命教会はローンも完済。
安曇野もまもなく完済予定です。
今日私が、安心してこの教会でご奉仕できるのは、メッセンジャーチームのおかげです。
私たちの教会では、チームを作って牧師以外にもメッセージを語れる態勢を作っているのです。
そして、今、乗鞍の山の中で、「乗鞍フェローシップ」を開拓しようとしています。

16年前、シンガポールの先生に、「祝福を分かち合う教会になりなさい」と言われました。
当時はそんな助教ではありませんでしたが、ビジョンを投げかけられました。
安曇野での20年。
そこに踏みとどまれたのは、この西教会での1年があったからです。
地域を越えて育てる素地がここにありました。
分が悪くても、信仰を持って進む姿勢がありました。
それは損得勘定ではできないことです。
困っている人に手を差し伸べること。
一緒に働けるということ。
そのことを教えてくれました。
西教会は、ブラジル人とも、韓国人とも、共にやってきました。
キリストの心意気をもって生きると言うことを教えてくれました。
この田舎にあって、世界を見据えて、各々の持ち場で証していくことを教えてくれました。
私は、私を送り出してくれたこの教会を信じています。
その心意気を持ち続けて欲しいと思います。

8月7日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章 33~36節
「あなたの内にある光」

「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」


幸いな人とはどんな人か。
それは聖書が問いかけているテーマの一つであり、山上の説教でも教えられています。
生まれ育ち、環境が恵まれた人が幸いなわけではありません。
そうでなければ、生まれながらにして人の幸不幸が決まってしまいます。
私たちは、幸いかどうかは外的な要因で決まると考え勝ちです。
「生まれが悪いから」
「もし違う状況に生まれていたら」
と考えると、
「不幸なのは、このような環境に置いた神のせいだ」
というところに行き着きます。

しかし、幸不幸の原因は人の内側にあります。
「主はこのことを通して何かを語ろうとしているのではないか」と考えない人は、「うなじの強い人」つまり「素直でない人」です。
御言葉を蓄え、実践する人になるためには、分かっても分からなくても、みことばを握って守る必要があります。
それがイエスのたとえ話です。

イエスのたとえ話は、はっきり言ってわかりにくいです。
普通はたとえを使って、難しいことを分かりやすくするものですが、イエスの場合は違います。
聞く耳のある人にしか分かりません。
表面的なストーリーは分かっても、本質は隠されています。
「分かっている」と思う人には真理が隠され、求める人にははっきり分かるようになっています。
主は、私たちに生き方を変えることを望んでおられます。

灯りを付けるのは暗くなってきたときです。
暗いとものがはっきり見えません。
昼間は見えたものが、夜には見えなくなります。
寝るときにはものを見ないので光は必要ありません。
灯りをつけたのに、それを隠したら、灯りの目的が分からなくなります。

からだのあかりは目です。
人生に強く影響するのは視覚です。
ものの見方考え方。
物事をどう見るか。
料理は、味だけでなく、目や耳でも楽しみます。
罪が入ってきたために、屈折し、ものをゆがめて受け取らせるようになりました。
疑って物事を見ると、全て悪意に思えてきます。
同じものを観ても、同じ経験をしても、不信感を持ち、不安になる人もいます。
だから、心の中の光が暗やみにならないようにしなければなりません。

マタイ13章18節からの、種まきのたとえにもそれが書かれています。
御言葉を、素直に、ゆがめずに受け取ることが大切だと言うことです。

「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」ルカ12:29

ヨナは、ニネベの町に、「あと40日で滅ぼされる」と預言しました。
ニネベの人々は悔い改め、主は滅ぼすことを思いとどまりました。
主から遣わされた者、イエスが語る言葉は
「悔い改めなさい。神の国が近づいたから」
でした。
そのとき、「この方はメシヤだ!」と悟った人と、「何者だ?」と言った人がいました。

みことばを生きていると、人生そのものが輝き、世の光となります。
みことばを通して物事をどう見るか。
神を信頼し続けることが大切です。
喜んで受け入れても、それを保ち続けるのが難しいのです。
つい世の困難に目がいってしまいます。
すると、祝福の経験をどこかに置き忘れてしまいます。
そして、自分の知恵で何とかしようと奔走します。

からだのあかりは目です。
主は必ず益としてくださることを私たちは知っています。
その考え方を守るとき、実を結びます。
私たちは健全に見ているでしょうか。
神がこれから与えようとする祝福が見えているでしょうか。
困難の先にあるものを。

7月31日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章27~32節
「いや、幸いなのは」

幸いな人、とはどのような人でしょうか。
これは、イエスの福音のメッセージではたいせつなことの一つです。
多くの人はこう考えます。
よい家、よい国に生まれること。
貧困や内戦のある地域ではないところに生まれること。
たしかに、「日本に生まれて幸いだ」と言えるでしょう。
治安も悪くなく、食べ物もコンビニで24時間手に入ります。

イエスが言う幸いは、国や家柄やお金持ちかどうか、ではありません。

「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』
しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」
11:27,28

群衆の中の女は、
「イエスのようなすばらしい人を生み育てた母親は素晴らしい!」
と叫びました。
子どもの成功は親にとって自慢であり感謝です。
逆にうまくいかないと、「自分の育て方が悪かったから…」と思い悩んだりします。
それは私たちの価値観を表しています。

イエスは、
「幸いなのは、聞いて守る人」だと言います。
労苦なくして与えられるものではなく、自らつかむもの。
「守る」とは、「実行する」ということです。
奪われないように、見守り、保つことです。
サッカーにはディフェンスとオフェンスがいます。
中でも守備に徹する人が、ゴールキーパーです。
ゴールを「守る人」です。
幸いな人は、みことばをキープします。
御言葉を守り、実を結ぶ人です。

「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」ヤコブ1:25

①一心に見つめて離れない人

聞くことから、「見つめて」離れないことへ。
眼と耳は機能が違います。
耳は意識しなくても聞くことができます。
360度どこから来る音でも聞けます。
眼は前しか見えません。
だいたい、120度の範囲しか見えないそうです。
しかも、見たい者を意識して、ピントを合わせないと見えません。
後ろは、振り返らないと見えません。

しかも、見ているようでも見ていません。
みなさん、私は今日、どんなネクタイをしていますか?
じっと私の方を見ていたはずです。
でも、いざどんなネクタイ?と聞かれると、色、柄を答えられる人はあまりいません。
同様に聞いているようで聞いていないものです。
一心に見つめて離れない、御言葉を守る人は、大事な御言葉をいつも意識します。

②すぐに忘れる聞き手にならない

聞いたことは何日間記憶にとどまっていると思いますか?
ある人が調べたところ、3日間だそうです。
今聞いているメッセージも、3日後には忘れてしまうのです。
記憶は長続きしません。
だから、御言葉を意識し、反復しなければなりません。
スポーツの世界でも、何度も反復練習が必要です。
イチロー選手は、毎日の生活リズムが決まっているそうです。
若い頃に身につけた基礎的な練習を忠実にこなしていく。
柔軟体操、筋トレを欠かさずに、淡々と繰り返す。
それが体に染みこんでいくのです。
「体によいこと」も、続けないと意味がないように、すぐ忘れる聞き手になってはいけません。

③事を実行する人

みことばのように生きる人になること。
みなさんは、常に意識している御言葉がいくつありますか?
暗唱聖句は、いつも御言葉を意識させてくれます。
熱心に聖句を暗唱しましょう。
目に付くところに置いておくのもいいでしょう。
毎日聖書から読むことも大切です。

その様な人は、行いによって祝福されます。
自分なりの、そのような工夫をしていきましょう。

シン・ゴジラ観てきた

私のツイッターTLでは大評判なので、とりあえず観てこようと思って行ってきました。

これは、好きな人は大好きな映画だ!と思いました。

果てしないエンドロールを最後まで見届けて、いやーほんとにスゴイって思いました。

ストーリーっていうより、撮った人の撮りたい気持ちがあふれ出ている映画かな。

意識せずに8月6日に観たのは意味があったかも。

3月11日も意識せずにはいられないが。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

最新記事
最新コメント
カテゴリ
ユーザータグ

るろうに剣心 イベントレポ 天皇の料理番 バクマン。 セカネコ PFフライヤーズ 鶴瓶の家族に乾杯! 2010カレンダー 懸賞 ピンポン 真田丸 あさが来た 知多 何者 超ネプの法則 

月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
//折りたたみ