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巣立ちは近い?

時々巣から身を乗り出して、落っこちそうになっている3羽のひなたち^^

2016-06-30 17.30.08

大きな口!

2016-06-30 17.30.49

喉のあたりも赤みが強くなってきて、今にも巣立ちそうです。
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6月19日 父の日歓迎礼拝

エペソ人への手紙 6章 1~4節
「主の教育と訓誡によって」

ここには、子どもに対する勧めと父に対する勧め、学ぶべき事がふたつ書かれています。
「子として父を見る」「父として子を見る」というふたつの視点です。
男性は、子であり父であるという二つの立場を経験します。
父を見ることは、子を見ることであり、子を育てることは、父としてどう養われるのかを学ぶことになります。
人生に最も影響を与える二人の人は、父と母でしょう。
人生の早い時期は、特に父と母の愛の守りの中で養われます。
両親の教えを受けて育ち、姿を見ることで、考え方や生き方のモデルを見ます。
成長と共に世界は広がります。
そして、友や社会とつながっていきます。
しかし、人間関係の基本となる絆は親子です。
それが土台となって、あらゆる人間関係ができあがっていきます。

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。」6:1

両親に従うのですが、「主によって」というところが大事です。
なぜ両親に従うのでしょうか。
主語自身が私たちを祝福して導くために、父を与えて下さっているからです。
理想的な、尊敬できる父親に恵まれた人もいるでしょう。
でも、生まれながら父がいない人もいれば、父はいても酒飲みで博打打ち、家庭内暴力の家庭で育つ人もいます。
むしろ、憎しみの心を持つ人さえいます。
「父に従いなさい」というだけで納得できない人もいるでしょう。

「父」には「肉の父」と「霊の父」があります。
その違いを理解することが大切です。

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」
ヘブル12:5~8

父親は完璧な人ではありません。
私は父を尊敬していますが、非の打ち所のない人だから、ではありません。
子が成長するに従って、父の弱さも見えてきます。
我が子も私の弱さを見ているのだろうと思うことがあります。
そのような「父」をとして、主は私たちを養おうとしておられます。
誰でも父によって教えられます。
それは、代々、不完全であっても受け継がれていきます。

子を愛していても、どう表現したらよいのか分からない「父親」もいます。
いつでも学び直せます。
お父さんには、すばらしいところもあれば、「ここはどうかなぁ」と思うような部分もあります。
批判だけなら誰でもできます。
もし課題があるなら、指摘するだけでは解決しません。
改善する必要があります。
どうやって?
本来あるべき姿を、霊の父から学ぶのです。

主は、御子イエスを通して、父を学ぶことができるようにして下さいました。
素直にそれを受け継ぎ、よくないところは本来あるべき姿を学び直すことで解決して、次の世代に渡していかなければなりません
霊の父から学んで、正していくのです。

父親は、「自分が良いと思うこと」を子に教えます。
しかしそれは、自分の意のままに子を動かすのとは違います。

父への教えはこうです。

「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」6:4

子を怒らせてはいけません。
子が怒るとき、それは、子どもの人格を無視するときです。
子を一個の人格として認めていないと、子は怒ります。
主の教育と訓誡によって育てるのです。
世代を超えて正しいことを教えるのです。
「懲らしめる」のは「自分の思い」によってではありません。
霊の父への感謝が生まれるように、人生の大黒柱として、家族を守るために時間を使っていきましょう。

散財しました

外での日常生活はコンタクトレンズ。
夜風呂を出てからはメガネの生活です。

なので、運転するときに使うコンタクトは近視の度が強めにしてあります。
でも、まあ、お年頃なので。
右目と左目の見え方が微妙に変えてあって、左は近くを見やすくて度は低め、右は遠くを見やすく度がきつめなんです。
メガネはかなり度が低くて、本は読みやすいのですが、テレビを見るときは相当近づかないとよく見えません><

そうすると、夜遅くに、コンタクトを外してから車でお迎え…ってことになると、正直運転が不安なんですよ。
で、とうとう諦めて(?)いわゆる「遠近両用」っていうやつを買う決心をしたのです。

金曜日メガネやへ。
そして、昨日は思い切ってコンタクトも買いに行きました。
どちらも現物が届くのは1週間後。
なんていうか・・・
ワクワクしますw

3羽だった!

わが家のツバメ家族、ようやく賑やかになってきました\(^o^)/

もう卵はかえったみたいなのに、やけに静かで、
「今年はヒナが少ないのかな?」
なんて話していたんです。

梅雨空の下、激しい雨の中でもせっせとエサを運ぶ親鳥たち。
そうこうするうちに・・・
ジージージージー!
とねだる声が日に日に大きくなってきて。
今日、頭が3つ突き出ているのを確認しました!!

2016-06-25 17.05.01

元気に巣立つ日まで、せっせと糞を片付けましょう^^

6月12日 聖日礼拝

ルカの福音書 11章 1~4節
「祈りを教えてください」

今日は「主の祈り」の前半部分を見ていきたいと思います。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」11:1

イエスは公生涯の中で、重要な局面で祈っておられました。
12弟子をはじめとして、イエスに従った人々は、イエスがどう生き、考えているかを近くで見ていました。
弟子たちは、イエスの祈りをしばしば見、聞きました。
祈りは、音声で聞こえることもありますが、心の中で言葉を発して祈ることも多いものです。
弟子たちは祈りを聞いてはいましたが、全てを聞いていたわけではないのです。
私たちは、心の中の祈りは知ることができません。
知っているのは父成る神のみです。
それは個人的な対話です。
それに対して、「祈り会」での祈りのような「交わりの祈り」は「私たちの祈り」です。
「教会の祈り」と言ってもいいでしょう。

弟子の質問は少し変です。
弟子たちが祈りを知らなかったわけがないからです。
敬虔なユダヤ人は日に三度以上祈っていました。
弟子たちも祈っていました。
使徒の働き野中でも、「日ごとに祈った」と書いてあります。
ですから、祈り方を知らなかったのではありません。

クリスチャンは祈ることを知っています。
世の中の人々も、神社で祈る人もいます。
決められたとおりの、型どおりの祈りもあります。

弟子たちが見聞きしてきた祈りと、イエスの祈りは違っていました。

「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」10:21

「父よ」と呼びかける祈りです。
弟子たちはこのような祈りを聞いたことがなかったのです。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」ローマ8:15

この「アバ」という言葉は、「おとうちゃん!」というような親しい呼びかけです。
神学校時代に結婚し、長男が生まれ、家族寮のドアを開けたら「パパ~!」と飛びついてきた時、
「『父よ』問い載るのはこういうことなのだ」
と思いました。
私たちは、息子が心の内を明かすように、聖霊の喜びに満たされて、「父よ」と呼びかけることができます。
神は遠いお方ではありません。
そばにおられます。

私は、12弟子を尊敬しています。
その理由は「教えてください」という言葉にあります。
なぜイエスは12弟子を選んだのか、これは私にとってひとつの大きなテーマです。
理由の一つは「素直さ」だと思います。
「教えてください」ということ。
もうすでに権威と力を頂いて、村々に派遣されるほど成長していたのに、わからないことを「教えてください」と言える素直さ。
これは、成長するために必要なことです。
彼らは「こんな事を聞いたら恥ずかしい」とは思わなかったのです。
祝福と正調のカギは、素直な心で求めることです。
歳を取るにつれて「教えてあげる」ことが多くなります。
それでも、「教えて欲しい」と言えるでしょうか?

今から20年前、福音自由教会の集まりで、2日間同室だった先生が牧師の息子である私に、
「なぜクリスチャンになったのか?」
「つまずきはなかったのか?」
と質問されました。
そして食い入るように答えを聞いておられました。
経験豊かな方が、若い者に「教えて欲しい」と言い、その答えを聞いて「それをやってみる」と言われたのです。

教師となり、親となっても、知るべき事を知らないと感じます。
「もっと知りたい」という切なる思いが弟子たちにはありました。
それに答えて、イエスは教えられました。

主の祈りは「お題目」ではありません。
いつも祈っていると、考えなくても、ほかごとを考えながらでも言うことはできます。
言葉で発していても、それが心の内側から出てくる言葉になっているかどうか。
「言葉を発すればよい」のではありません。
「私たちの言葉」として祈ることが大切です。
それを意識しないと、言葉だけになってしまいます。
自分の言葉として祈っているかどうか、です。

「見つけたい。探したい。開いて欲しい。成長したい」
という思いを忘れずに。
切なる求めに応答して、イエスが教えてくださったことを忘れずに。

「そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。」』」11:2

イエスは弟子たちに、「父よ」と祈るようにと招きました。
神との親しい、個人的な関係が意識されることが大事です。
父よ、という呼びかけによって、いつもそばにいて待ち構えているお方を意識します。
そして、御名があがめられ、御国が来るようにと祈ることで、目を天に向けます。

祈りは人格的な交わりです。
一方的にしゃべるだけではいけません。
祈ったら、静まる時間が大切です。
「主はどう見ておられるか教えてください」
と、尋ねるなら、主は聖霊によって教えてくださいます。
すでに学んだ御言葉が思い浮かんできます。
直面していることと、御言葉が結びつき、新しい理解の仕方が生まれます。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

記憶のどこかに隠れていたことが、思い浮かぶのです。
だから、御言葉を蓄えなくてはいけません。
「行くべき道を示してください」
と祈ると、導いてくださることが分かります。
それが、命の交わりの祈りです。
主は最善を導いてくださいます。
私たちの思いを超えて。

ツバメ便り続報

どうやらすでに孵っているようです!
まだチィチィと鳴く声があまり聞こえてきませんが、親鳥がエサを運んできています。
あまり数は多くないのかな?
ヒナが顔を出すようになるのを楽しみにしています^^

せかねこ4回目

木曜日、中学校の授業参観の後にちょっと時間があったので、見てきました。
ムビチケが使える映画館が、ちょうどいい感じの上映時間でした。
たぶんこれがラスト。

そろそろ感想を書きましょうか。

初めて試写会で見た時は、電王ワールドとかぶって参りました。
ケータイを「僕」に放り投げる悪魔は、オープニングのパスケースかと思ったし。
電話が消えていき、電話ボックスが破壊されていく。
「過去でイマジンが暴れてる!」
というハナさんの声が聞こえてきそうでした。
電話が消えた世界では、「僕」は彼女の記憶から消えてしまっていました。
でも、僕はちゃんと覚えてる。
そう、僕は特異点の桜井侑斗だったのです。

もちろん、すっごく好きなシーンもありました。
なんといっても、DVDを探すツタヤが・・・・・

ラストシーンも好きでした。
まあ、これも「俺、誕生!」を思い浮かべたんですけれども。

疑問なこともいくつかありましたが、4回見る内にこうなのかな?って思うこともあったりします。
電話消滅で彼女とのつながりが消えて。
映画消滅で親友とのつながりが消える。
「死ぬ」ということは、この世からいなくなることで、周囲の人の目に自分が映らなくなること。
大切な人との絆が切れてしまったら、たとえ体が生きていても、死んでしまったのと同じ。
いや、自分からは相手が見えるだけに、むしろ辛いことだと思いました。
時計が消えて、切れた絆はお父さんだったのかどうなのか。
いよいよ猫を消す段になって、猫がお母さんとの思い出だったのだとわかる。
ベッドで目を覚まして、キャベツがいないことに気付く。

実際この時点で猫は消されていたんじゃないかと思ったんですが、どうでしょう。

雨の中駆けだして、ずぶ濡れになって、キャベツを追い求める「僕」が本当に求めていたのはお母さん。
そのとき、「僕」は、もう命と引き替えに何かを消すのはやめようと決心したんだと思いました。

だから、世界は修復され、キャベツは見つかり、ポストには手紙が届く。
お母さんの、淡々とした手紙が、返って胸に迫ってきました。
「あなたのいいところ」は、ありのままの「僕」で。
手紙を持って会いに行った彼女は、ちゃんと僕を覚えていてくれた。
ツタヤも。

それらが全部、「僕」の想像の中で起きたにすぎないのだって考えてもいいけれど。
「死を受容すること」を可視化した、みたいにね。
でも、ほんとにドッペルゲンガーが現れて、取引を迫ったんだって見てもいいよね。
死を受け入れた「僕」は、むしろすがすがしいんだけど、妻も子も見送らねばならないお父さんが気の毒で。

全編を通して本人も「胸焼けするんじゃない?」っておっしゃるほどの佐藤劇場。
十分楽しませて頂きました。

秋には「何者」。
楽しみです。

では、また。

6月5日 聖日礼拝

ルカの福音書 10章38~42節
「どうしても必要なこと」

「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」
10;41,42

今日の箇所を表面的に捕らえてはいけません。
熱心に奉仕するよりも御言葉を聞く方が価値があるのでしょうか?
表に立って奉仕をする人もいれば、陰で奉仕をして、走り回っている人もいます。
物事を進めるときは、舞台の表と裏があります。
たとえば、おちついたホテルのレストランでも、裏では怒号が飛び交う戦闘状態です。
もてなしは、舞台裏を見せてはいけません。

キーワードは「どうしても必要なこと」です。
つまり、「必要なこと」はいっぱいあるのです。
可能性も一つではありません。
その中で、何を選び取るか。

その選択がここでの対話のテーマです。
マリヤとイエスの対話の中に、マルタとマリヤが登場します。

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。」10:38

マリヤとマルタと、ラザロは兄弟でした。
ラザロは一度病気で死んだのに、イエスによってよみがえらせて頂きました。
マルタは、「村に入られると」「喜んで」イエスをお迎えしました。
いやいやではありません。
喜んで、です。
イエスとその一行をもてなしたいと思いました。
ところが、舞台裏を主賓にぶつけてしまったマルタ。
イエスのために喜んでしたいと思ったはずなのに、イエスに愚痴を言い、イエスを責め始めてしまう。
これは、「もてなし」と言えるでしょうか?
もしそんなことを言われたら、客としてどう思うでしょうか?

何のためのもてなしでしょうか?
何のための「主の奉仕」なのでしょうか?
喜んで始めたはずなのに、不平や不満がたまってくるのはどういうことでしょうか?
締めくくりとして感謝できないとは。

私はよく「反省会より感謝会」と言ってきました。
課題はあるでしょうが、一つのことをなさせて下さった主への感謝を、まずしようと。
人は足りない部分をあげつらうのが好きです。
○周年というような節目になると、「過去を振り返って評価しなければ」と主張する人がいます。
それ以上に、どんなにすばらしい神の恵みと導きがあったかを数えたい。
そこから、新しいチャレンジを受け取りたいのです。
福音自由の60周年の時にも、足りないところを限りなく挙げていました。
逆に、感謝すべき事、素晴らしいことはなかなか出てきません。
私たちには、良い物よりも、悪い物を見る傾向があるのです。

マルタは喜んでお迎えしたはずなのに、イエスに異議申し立てをしました。
私たちもしていないでしょうか?
喜びと感謝で始めたことが、喜びと感謝で締めくくれるかどうか。
それにはちゃんと選択することが大切です。

マルタは、自分の口からマリヤに言えばいいのに、イエスに訴えました。
自分より権威のある人に頼ろうとしました。
このストーリーはイエスの真意を理解するための背景です。

「主は答えて言われた。『マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。』」10:41

イエスはちゃんと見ておられました。
「分かって欲しい!」という態度に気付いておられました。

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」10:42

これは、「活動するよりも聖書研究の方が大事」という意味でしょうか?
マルタはいろんなことに気を遣っていました。
人生には可能性がいっぱいあります。
どれを選択したらいいのか悩みます。
だから、「必要」に優先順位を付けなさい、ということです。
イエスは、必要なことは「わずか」いや「ひとつ」だと言われました。
そしてマリヤはその良い方を選んだ、と。
聖書の「良い」という言葉は、ほとんどの場合、「私にとってよい」ではなく、「神の御前で良い」ということを指しています。

世の中は健康ブームです。
あるときはタマネギが、あるときはニンジンが、またあるときはアボカドがよいと紹介されます。
要するに「野菜なら何でもよい」ということが分かります。
どれがいいか、と考えると悩みます。

「イエスは彼に言われた。『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。』」マタイ19:17

マリヤは、「イエスが私に求めていることは何か?」を捕らえました。
相手の心を先に察してもてなすことが、おもてなしです。
秀吉は「寒いだろう」と察して草履をあたためました。
相手の望むことをしたのです。
マリヤは、イエスが求めることは何かを考えました。
「もてなしはどうでもいい」と言っているのではありません。
人にはそれぞれ賜物、役割があります。
全員がしゃべるわけではないし、全員が聞くわけではありません。
全員が作るのではなく、全員が食べる側なのではありません。
各々の状況で役割が与えられています。
今何が求められているかを知り、選択する事が大事なのです。

「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。」コリントⅠ 7:7

人それぞれに生き方があります。
私たちは、自分が良いと思っていることに協力してくれる人は良い人だ、と思ってしまいます。
これは罪の性質です。
「自分にとってどうか」が善悪の判断になっているからです。
基準は私たちの側にあるのではありません。
神が私に何を願っているかを聞き分けて選択することが大事です。
イエスの為に生きる。
でも、具体的な方法は人によって異なります。
行為は違ってもいいのです。

マリヤは選びました。
マルタは選んでいませんでした。
「自分の役割だ」ということを明確にしていませんでした。
自分と同じ事をしない人はダメだという考えがあったのです。
求められているのは、選択の可能性がたくさんあるときに、イエスが私に何を求めているのかを聞く心を持って、ひとつ、神の前で選択することです。
恐れがあると選ぶことができません。
一つを選んだら、他を捨てなければならないからです。
間違わないためには、神の前で祈って、主と共に選択することです。
そうすれば、間違いすら、正しい方へと導いてくださいます。
主に聞く「心」があれば。

選択を躊躇してはいけません。
大事なのは、「何をするにも神の栄光を現すためにする」ことを目指すことです。
感謝できる選択をしていきましょう。

近況報告

もうずいぶんたってしまいましたが。

5月15日(日)には大阪のTOHOシネマズ梅田へ舞台挨拶を見に行ってきました。

2016-05-15 13.23.28

エレベーターはセカ猫仕様^^

2016-05-15 13.26.17

2016-05-15 16.32.21

今回はレポする気力がなくてごめんなさいm(_ _)m

ツバメちゃんは、ようやく最近卵をあたためてるみたいです。
ほんとにスロースターターなのは、我が家にぴったりですよw
無事孵るといいなぁ。

5月29日 聖日礼拝

ルカの福音書 10章 25~37節
「愛すべき隣人とは誰なのか」

今日の箇所はみなさん、よくストーリーを知っていると思います。
「善きサマリヤ人」のたとえとして、イメージがわくでしょう。
私も小さい頃から教会で育ちましたので、紙芝居、お話、劇などを通してよくなじんでいます。

先週、仙台への機内で読んだ記事の話をしました。
現代私たちは、様々な情報があふれて、知識は獲得しています。
しかし、「知っている」ことと「生活に結びつく」こととは別です。
大切なのは「体感すること」です。
たくさん聖書を知っていることは大事なことです。
聖書を読み、礼拝を捧げ、祈る。
そのときに、内からわき出るような命があるか?ということです。

「いずみ」はこんこんとわき出るものです。
私の故郷には「泉が森」という所があります。
そこには泉が湧いていて、いつもきれいです。
そこにニジマスを飼っていて、釣ってバーベキューをして食べるのです。
水は汚れますが、泉はいつもきれいです。
いつもわき出て、汚水は流れていくからです。
一年前兄と足を伸ばしてそこに寄ってみました。
もう30年以上ぶりのことでした。
今でも、そこはきれいな泉でした。

イエスを信じて約束の聖霊をいただいた私たちの内には聖霊の泉がわき出ています。
内から汚れを清め、そして清め続けて下さいます。
一度きりではありません。
それを「清め」「聖化」と言います。
今日のテーマは「永遠の命」です。
それを体感する、ということです。

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』」10:15

彼は、「知っていること」を尋ねました。
それは、イエスが答えを知っているかどうかを試すためです。
大人が、小さな子どもに「1たす1はいくつ?」と聞いている様子を思い浮かべて下さい。
大人は答えを知らないわけがありません。
子どもが答えられるかどうかを知りたいから聞くのです。
この律法の専門家には、イエスを試す気持ちがありました。
それも、消極的な気持ちできいたことがわかります。

彼の聖書観はこうです。
「永遠の命を得るためには何かを差し出さなければならない」
物を買うには代金を払います。
自分で払えなければ、親にお願いします。
お願いするために、「お手伝い」をします。
「それに代わる何かを差し出す必要がある」
これが、この世界で私たちが学んでいることです。
お金だけではありません。
物でもよいのです。
何もせずにもらえるものは、この世には何もありません。
時々「無料キャンペーン」などということがあります。
これは、「お金はいらない」という意味です。
気をつけてよく考えると、別の物を要求しています。
「広告からクーポンを切り取る」
「切り取ったクーポンを持って店に足を運ぶ」
時には、住所氏名など「個人情報を差し出す」ように要求されます。
「申請書」を持って行かなければならない場合もあります。
私たちにはそのような考え方が身についています。

だから、律法の専門家は「何をしたら?」と聞いたのです。
永遠の命にふさわしい代価とは何でしょうか?
イエスから見たら、「なにもわかっていない」と思われたことでしょう。
逆にイエスが質問しました。

「イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』」10:26

律法の専門家に律法を質問する!
自分の分野で質問されたら、答えないわけにはいきません。
彼はすぐに答えました。

「すると彼は答えて言った。『「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とあります。』」10:27

彼は、ふたつのことが聖書に書いてあることを知っていました。
・神を愛すること
・隣人を愛すること
律法を守っていても、泉のような喜びがない人がいました。
知識=手続きは知っていました。
でも、知っていることと、それを自分のものにすることとは別です。
知識は豊かでも、だからといってそれが命をもたらすものではない。
それが、前半のテーマです。

「イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』」10:28

イエスの答えは、「実行しなさい」でした。
実行したら永遠の命を実感できます。
「あなたはそれを実行していない」と、間接的に言われたことになります。
「実感できないのは、実行していないからだよ」と。

「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』」10:29

彼には、「神を愛する」ということはわかりました。
でも、「隣人」とはだれなのでしょうか?
ここからたとえ話が始まります。

「イエスは答えて言われた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。』」10:30

半殺しにされた旅人。
肉体的に、だけでなく、精神的にそんな目にあうことがあります。
そこに「祭司、レビ人、サマリヤ人」の3人が通ります。
大事なのは、そのあとの、イエスの言葉です。
メッセージをくみ取っているかどうか。
実行するかどうかが大事です。

「『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』
彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」
10:36~37

知っていることを、行って実践しなさい。
御言葉通りに、実践しなさい。
自分の思いは違っていても、やってみなさい。
そうすれば、体感できるし、命をえることができます。
神の祝福を得るためにしなくてはいけないことはそれです。

「行いではなくて信仰が大事だ」という人もいるでしょう。
しかし、聖書は「実行する事」を求めています。
御言葉を受け止めて、実際にやってみるようにと。
永遠の命はタダでもらえます。
代金はいりません。
でも、すべきことはあります。
対価はいりません。
でも、イエスの命が必要です。
イエスが代価、それ以外に、「永遠の命」にふさわしい対価はありません。
御子の命だからこそ、私たちは救われるのです。
私たちの努力で払えるほど、永遠の命は安くありません。
イエスはご自身の命を、あがないの代価として支払われました。
それを「信じて受け入れます」と答えることが、私たちのすべき行動です。

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ10:10

パンとぶどう液が象徴するイエスの十字架を、自分のこととして受け止めていくことが求められています。

さて、このたとえの主役は誰でしょう。
誰が襲われた人の隣り人になったと思うか、とイエスは聞かれました。
ここで、律法の専門家は「サマリヤ人です」と答えることはできませんでした。
これは当時の社会的な背景のせいです。
そこで彼は「憐れみをかけてやった人」という答え方をしました。
それは正しい答えでした。
「それを実行しなさい」と、再びイエスは言われました。

このたとえを、このようにとらえ直してみましょう。
「隣り人」はイエスご自身。
強盗に襲われた人は「私」。
私の隣り人になって下さったのはイエスです。
あなたのために、労苦を払い、代金を払って下さった隣人がイエスです。
そのイエスは、

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

と言われるのです。
命を賭けて代価を払ってくださったイエスを愛することが、律法の中心です。
愛を頂いた者として、永遠の命を持っているから、他者にも同じようにする。
救いの結果として「行い」が伴うということです。
イエスがして下さったから、私たちも精一杯お仕えすること。
それが求められているのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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