5月22日 聖日礼拝

ルカの福音書 10章 17~24節

「いのちの書に名が記されている」

 

牧師としてよく耳にする言葉があります。

「聖書の言葉はよくわかります。

 でも、実感がないんです。」

「救いの理屈は分かります。

 でも、手応えがありません。」

手応えをつかむことが大切です。

 

先日仙台での委員会に出席するため、飛行機に乗りました。

座席のポケットに雑誌があって、「ラボ」の人のコラムが載っていました。

「世の中は情報に満ちあふれている。

 知りたいときにすぐに調べて『わかった』 気になる。

 が、必要なのは体感することだ。

 これが、今日の時代に一番欠けている。」

というようなことが書かれていました。

いわゆる「頭でっかち」です。

知ってはいても、生活に根を下ろして、人生を変える力にまではなっていないのは、それが「知識」に終わっているからです。

 

では、どうすれば体感できるのでしょうか?

今日の箇所に手がかりがいくつか出てきます。

イエスの最初の奇跡を覚えておられるでしょうか?

カナの婚礼で、水をぶどう酒に変えた奇跡です。

披露宴の世話をしていたマリヤは、「ぶどう酒がなくなった」と、イエスに実情を訴えました。

イエスは「瓶に水を満たすように」といわれました。

なぜそんなことをしなければならないのでしょう?

さっぱり分からなかったでしょう。

それも6つもの瓶です。

しかし、いわれたとおりにしました。

そして、瓶から水を注いで客に出しました。

みなさんもご存じのように、その「水」を飲んだ人々は、「よくもまあこんな良いぶどう酒を今まで取っておいたものだ」と言ったのです。

驚いたのは舞台裏で世話をしていた人です。

つまり、瓶に水をくんだ人です。

 

私たちは、理屈を先に求めます。

「納得したら動きます。」と考えます。

自分の今までの経験の中で納得するのでは、経験から外に出ることはできません。

だから恵みを体感できないのです。

恵みを体感できる人は、今月のワーシップソングのように「みことば通りに網を下ろす」人です。

信仰は、納得して動くことではありません。

「お言葉ですから、まずやってみましょう」と言うことです。

その結果、2艘の船が沈みそうになるほどの魚が捕れました。

御ことば通りにやってみることです。

どんなに考えてもダメです。

私は「だまされたと思ってやってごらん」と言います。

そのときに、想定外のことが起きます。

神が、今も生きて働かれることを知るためには、私自身がやってみる必要があるのです。

 

さて、12弟子以外に70人の弟子が権威を授けられて遣わされ、帰ってきました。

彼らは、教えられたように行いました。

いろいろな町や村で、初めて会うのに受け入れ、もてなしてくれる人がいることに驚きました。

自分の話に耳を傾け、病気の人を自分の元に連れて来る人々がいます。

緊張するでしょう。

うまくいかなかったらどうしようと思うでしょう。

イエスが教えられたとおりに、見よう見まねで、勇気を振り絞ってやってみます。

「私」の身を通してものすごいことが起こる、という経験をします。

御言葉どおりにやってみたら、そこに御業が現れる、という経験をしたのです。

 

「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」10:17

 

弟子たちは、うまくいって、喜んで帰ってきました。

そして、「私たちに」服従します、と報告しました。

イエスの御名を遣うと、です。

自分の力でやろうとしてはいけません。

うまくいくと、「私」が何者かになったように錯覚します。

成功したときは特にそうです。

私たちが用いられるのは、イエスが選び、派遣し、知恵を与えて下さったからです。

私たちは、主が共におられるから強いのです。

不可能なこともできるのです。

イエスが共にいると分かっている人に、不可能はありません。

 

弟子たちは、大喜びで帰ってきましたが、イエスは

 

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」10:20

 

と言われました。

悪霊が従うことに有頂天になっていてはダメだと言うのです。

天に名が記されていることを喜ぶようにと。

一時的な喜びは変化していきます。

うまくいけば、道が拓かれれば、ハレルヤ!

そうでしょうか?

周りの状況によって「喜び」が変化するのでしょうか。

変わらない喜びは、罪を赦され、永遠の命を持っているという喜びです。

 

「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」黙示録 3:3~5

 

日本人は、日本の戸籍に名が記されています。

先日私は日立市の市役所に行ってきました。

亡くなった母の通帳が出てきたので、手続きをするために「除籍謄本」が必要だと言われたからです。

役所には、死んで除籍された人の記録も残っているのです。

 

天に国籍を持つのに必要な物は何でしょうか。

日本の国籍を持つには、日本人の親の元に生まれることだけでなく、役所に登録することも必要です。

無届けに人には戸籍はありません。

信仰によって、神によって生まれた私たちは、バプテスマを受け、天の戸籍が与えられます。

戸籍を得るためには、優秀である必要はありません。

犯罪を犯しても除籍されることはありません。

 

いのちの書に名が記されていることを喜ぶようにと主は言われました。

成功しても、失敗しても、平安でも、苦しくても、主は信じる者を御国に招いて下さいます。

その記録を取り消せる人はだれもいません。

これが、毎日の喜びです。

その喜びをもって、福音宣教に励むのです。

成功したら褒められて、失敗したらさげすまれるのはこの世界です。

白い衣を着て、主と共に歩む人には、イエスが全てを負ってくださいます。

喜びも、苦しみも、キリストと共にすることは、恵みを実感するために大事なことです。

恵みを体感するためには、キリストが言われたようにすること、つまりキリストと共に歩むことが必要です。

本気でやってみましょう。

必ず喜びの経験をします。

イエスが、苦しみを共に担って下さるという経験をします。

私たちはいのちの書に名が記されています。

祝福を約束してくださっています。

結果はもう決まっています。

だから、ちゃんと大胆に喜んで神のために生きることができるのです。

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5月15日 聖日礼拝

ルカの福音書 10章 1~10節
「収穫のために働きなさい」

「裁き」という言葉を聞くと怖いと感じる人も多いでしょう。
最近は活動していませんが、西教会には「EFCクラブ」という集まりがあります。
なんだか分かりますか?
“Enjoy Fishing Club”。
釣りを楽しもう、というクラブです。
釣った魚は自分たちでさばく、というのが基本方針でした。
魚をさばく、ということは、「食べられる身と、食べられない骨に分ける」ことです。
二つにわける。
よいものと、そうでないもの。
受け入れる物と、捨てる物をさばくのです。
白と黒をはっきりさせること。
世の終わりには、神の裁きがあります。
そのとき、神の前に罪があらわにされます。
でも、信じる者には怖いものではありません。
神に全てを認めて頂けるからです。
イエスが私たちを弁護し、受け入れて下さいます。
だから、私たちは、将来に向かって希望を持って生きています。

「こんなにやっているのに認めてもらえない。
 受け入れられない」
そんなフラストレーションを感じることがあるかもしれません。
主は全てをご存じです。
人の前にではなく、主の前に忠実に生きることが大切です。

「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」10:1

5章で、イエスは12弟子を呼び集めて権威を与えて村々に遣わされました。
第1弾は「使徒」でした。
それとは別に、さらに70人を定められた、とあります。
数字を見るとき、イエスの元に選ばれ、派遣された人が、12+70=82人いたことに目が留まります。
さらっと読んではいけません。
イエスに先だって遣わされた人は70人。
私たちがそこにいたとしたら、遣わされる弟子に入っているでしょうか?
人は、「神の祝福が欲しい」「恵まれたい」と思います。
そして、じっと恵みを待っています。
でも、私たちは主に遣わされているのです。
主の働きに携わることが期待されています。

今回も主は二人一組で送り出したと考えられます。
そうすると、35チーム。
決して少なくはありません。
神の国の働きのためには、「チーム」が派遣される必要があります。
イエスは、35チームを、ご自分が行くつもりの全ての町や村へと遣わしました。
ということは、イエスは「全ての町や村」を把握していたということです。
イエスは、伝道プランを明確に持っておられました。
少なくとも35の町や村に行こうとしていた、ということです。
そして、それぞれのチームが互いにバッティングしないように、予定を立てられたのです。
決して行き当たりばったりではありませんでした。

ウィクリフでは聖書翻訳の働きをしています。
その目標は、聖書を全ての言語に翻訳する、ということです。
では、「全ての言語」とはいくつあるのでしょう?
そのうち、すでに翻訳が完了している言語はいくつでしょう?
言語は2万語あるといわれています。
不可能とも思える数字です。
全ての人に福音を伝えるために・・・このままのペースでは無理だと思えます。

hi-b.a.は全国展開を目標としています。
47都道府県。
今hi-b.a.があるのはどの地域でしょうか?
東海地区には丸山兄が来られました。
愛知・岐阜・三重・静岡の4県にhi-b.a.を作ることは、丸山兄一家だけではむずかしいでしょう。
だから、同労者が起こされるように祈るのです。
今のスタッフではどうしても足りない。
「今の自分には力が足りない」ということに気付くこともあるでしょう。
働き人、財政基盤、拠点となる場所が足りないことにも。
そのことに、気付くことが大切です。
使命に応答しようとするとき、自分の力のなさを感じます。
「なんとかなる」と思うとしたら、自分の力の範囲内でしようとしているからです。
もし私たちが、新たな教会を産み出さなければ働きは終わってしまいます。
自分の代で終わってしまったらどうなるでしょう?
アブラハムは、「子どもが与えられなければどんなに祝福を受けても誰に受け継がせるのか?」と考えました。
次世代が育つことが私たちの希望です。

「そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」10:2

誰が誰に対して語っているかに注目しましょう。
イエスが、35チームに言われました。
「祈りなさい」と。
私たちが、働きに携わろうと思ったとき、足りないことに気付きます。
どんなに頑張ってもできることはほんのわずかです。
神の召しに応答しなければ、必要さえも見えてきません。
もし、働きを担おうと思ったら、何かが変わります。

ある宣教師が言いました。
「一人が救われると、その人の半径500m以内が祝福される」と。
救われた一人の人の、人間関係に影響が及ぼされる、ということです。

「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」ヨハネ20:21

石巻教会は、会堂が建っても住む人がいませんでした。
教会が建っても夜は真っ暗です。
これでは証になりません。
今は、高橋先生が遣わされて、近くの人々はほっとしています。

「できたらいいのに」と思うことはたくさんあります。
理想を実現するには、人、場所、お金が必要です。
働き手がいても、場所がなければ、財源がなければ長続きしません。
だから、「働き手を送って下さい」と祈るのです。
自分はここにいて、「だれかを遣わして下さい」というのではなく、真っ先に「私を使わして下さい」と祈る。

私は「海外」には召されていないので、自分自身が出て行くという意味では海外への関心はありません。
自分は出て行かなくても、出て行く人、その地域への関心はあります。
いつでも主の使命に答える準備はあります。
各々に役割があります。
皆が宣教師になるわけではありません。
皆が宣教師になったら、だれがサポートするのでしょう?
皆が宣教師になるわけではありませんが、皆が使命に応えていくのです。
無関心になるのではなく、それにふさわしい人の為に、祈り支え捧げていくことが必要です。

全ての人が全てのことをできるのではありません。
送り出し、支えることも必要です。
その心構えはあるでしょうか?
何かを使用とするとき、「誰がやるのか」が一番の問題です。
どんな素晴らしいヴィジョンでも、応答する人がいなければ、絵に描いた餅です。
働きにふさわしい人を祈り求めていくことが必要なのです。

70人の人は、どう両者を探し求めました。
その町で、協力者を捜しました。

「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」10:5

出会いがあればそこにとどまり、宣教の働きをするのです。
その家の人は同労者です。
そのような人がいなければ、働きは前進しません。
協力者、同労者、祈りの友、サポーターを祈り求めましょう。

5月8日 母の日感謝礼拝

箴言 1章 7~9節
「あなたの母の教えを保ちなさい」

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。
それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。
わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。」


箴言は「知恵の書」と呼ばれています。
イスラエル第3代の王ソロモンは、歴史上たぐいまれな知恵を主から頂きました。
その知恵を、箴言と伝道者の書に記して、私たちに残してくれました。
子育て、人間関係、この世の様々な課題に対処するヒントがそこには書かれています。
知恵とは、人生をどのように生き抜くかの手がかりです。
その知恵の最初について、ここに記されています。

「おぎゃあ」と産み落とされて、人生の営みが始まります。
それが誕生日です。
では、人はいつ人間になるのか、という議論があります。
受精卵の段階でしょうか?
120日目でしょうか。
私たちは、母の胎に宿ったときに命が宿ったと考えます。
地上に生まれたとき、私たちは言葉を聞けても話すことはできません。
不思議なことですが、赤ちゃんでも、周りの音を聞き分ける力はあります。
表現力も語彙力もありません。

「どこで育つか」「何を聞き、何を食べ、何を見るか」が、その人の人格に大きな影響を与えます。
日本人の父母から生まれても、アメリカで育てば、アメリカの文化に触れることによって、肉体的な特性は日本人でも、中身はアメリカ人になります。
他の国でもそうです。
生まれてから獲得する能力は、育つ場所で決まります。
赤ちゃんは聞くこと、体験することから始めます。
信仰は何から始まりますか?
ローマ人への手紙に書かれています。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17

「私には信仰はありません」と言われる方がいます。
「聞いていない」なら当然です。
人生経験が長く、スレた人はなかなか新しいことを聞くことができません。
素直に聞くことから信仰は始まります。
何を聞くのでしょうか?
赤ちゃんは生まれてから、聞くものによってその国の人になります。
聖書の言葉を素直に聞いて受け入れるなら、信じることができるようになります。

「知識の始めに」最も大切なのは、主を恐れることだと書かれています。
天地を造られた主がおられることを、心を開いて受け入れること。
それが全ての知恵の出発点です。
それを土台に置かないと、この世の処世訓で人生が成り立つことになります。
まず土台として、創造主を受け止めることが、あらゆる知識を学ぶ土台となります。

愚か者は、神が与えようとしておられる知恵をさげすみ、軽んじます。
主の教え、戒めを。
神は祝福するために、知恵を与えたいと願っておられます。
同時に訓誡を与えようとしておられます。
神は私たちの導き手です。
つまり、ガイドです。
低い山ならハイキングのように登れるでしょう。
でも、ヒマラヤに登ろうと思うなら、単独では行くことができません。
ガイドが一緒に登ってくれます。
その山の天候や危険を熟知した人が導くのです。
グループを組んで行くのであって、山頂にも一人では登りません。
人生の中で、私を取り囲むように主が守って下さいます。
人生のパーティは家族で、父、母がガイドです。
もちろん、人生を生きるのは自分です。
他の人が生きてくれるわけではありません。
が、単独で生きていくのではありません。
主は家族を与えてくださっています。
与えて下さった家族を受け入れることが大切です。

私の土台は、父と母であり、先祖達です。
私は、教えられた教訓や知恵を引き継いでいます。
だから、危険を避け、よりよい道を歩むことができます。

神は両親を通して祝福して下さいます。
父母を軽んじるということは、神の祝福を拒むことになります。
「あなたの母の教えを捨ててはならない。」と言われているということは、捨てようとしているからです。
「もう必要ない」と思うから、捨て去ろうとするのです。
父母の愛と教えを軽んじて「もう必要ない」と捨てようとしてしまう。
なぜでしょう?
「よい母親なら大事にする」
「そのとおりだ」と思えることなら受け入れられる。
そう思うかもしれません。

母親は、時間と労力のかなりの部分を子どもに注いでいます。
いつも子どものことを気に掛けています。
学校の準備、弁当の準備、持ち物に名前を書いたり、縫い物をしたり。
我が子のことを心配します。
世話をするという使命があるからです。
時には絆が強すぎて分離できず、子どもをコントロールしようとするということも起こります。
それほどの労力と時間を割いて、心配してくれるという事実を忘れてはいけまえん。
反抗期は「しがらみ」を断ち切るものであって、「関係」を切るものではありません。
反抗期はだれにでもあります。
でも、必ず戻ってきます。
押しつけると逃げていきます。
そっと送り出すと、成長して母のもとに戻ってきます。
ある時期が来たら、背中を押してやることが大事です。

母の教えを捨ててはなりません。
母の言うことすることが、何でも全部正しいわけではありません。
でも、我が子を思う真心を捨てては生けません。
言葉よりも態度です。
子を愛し、仕えている母の姿を通して、神が教えていることを受け入れることが、祝福につながります。

子育ては、子が結婚して家を出て行ったら終わり、ではありません。
この世に命がある限り、子育ては続きます。
親は、子どもの人生の先を歩んでいます。
それは、20年後の自分が経験する姿です。
自分が今見ている母親は、20年後の自分です。
母の姿を見続けていく時、これから自分が経験するであろうことを先取りして見せてくれているのです。

子は母親に似てきます。
ずっと母親の姿を見ているからです。
でも「母と同じ」は最悪です。
コピーを繰り返すと劣化するように、ただまねるだけではよくありません。
よいものを引き受け、課題は横によけていくことが大切です。
母の教えをコピーし、愛ある姿を受け止めること。
母の背後にある神ご自身を見ていき、よいものをしっかり受け止めていきましょう。

行ってきました

このところなりを潜めておりましたが、実は活動しています。

5月11日。
109での試写会に行ってきました。

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大方の予想通り登壇はありませんでしたが、やっと映画をみることができました。
今回はできるだけネタバレを避けようと、予告編にも目をつぶり、買った雑誌もほとんど目を通していない状態。
これで安心してあれこれ見られます^^

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劇場には、去年のバクマン。の時のサインが!
この試写会の前だか後だかに、公式さんから突然の告知が!!!!!
なんと、大須商店街に佐藤さんと宮崎産が来られると!!!!!
つれの女性は休暇を取るといいます。
私は午後は確実に休めるんですが、御前は・・・・・・
迷った末に、やっぱりここは勝負所。
やりくりして一日休暇を取りました\(^o^)/

そして、昨日、5月14日。
大須でのイベントに参加してきました\(^o^)/

朝は8:15ごろに現地到着。

2016-05-13 08.19.01 HDR-2

地元でも、こんな招き猫がいるなんて知りませんでした。
この日は劇中のキャベツにちなんで「キャベツ巻き」をしてもらっていましたよw

この時点で16,7人集まっていました。
「順番に並んでますから」
と言われ、最後尾につきました。
幸い石のベンチみたいな所があって、座って待つことができました。

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8時半をすぎた頃からステージの設営が始まりました。
気の枠組みを組み立てて、釘で固定して、両面テープでカーペット(?)を固定し、体裁を整え、目隠しの白い布を垂らし、放送機材を設置し・・・
1時間半以上かかったのではないでしょうか。

2016-05-13 13.23.30

10時半ごろに、スタッフさんが来て、並んだ順に6人ずつ、観覧位置に誘導してくれました。
みなさん、実にお行儀が良くて、押し合ったりもめたりすることなく待機すること3時間以上。
途中、トイレに行ったり食料を調達しにいったり、出入りもありました。
私も、つれの女性もポータブルチェアを用意してたので、ほんとに助かりました。

定刻が近づくと、こちら向かって車が走ってくる度に会場にざわめきがw
そしてとうとう、大形の名鉄タクシー2台が到着!
お二人が登場したのです。

ここからは、ツイッターで拾った画像です。

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今回は全くメモを取ってないので、レポは不能です。
覚えているのは・・・

MC: 初めての饗宴でお互いへの印象は?
佐藤: 未だにつかめない。
    まるで猫みたい。
    今日は心を開いてくれたかな~って思うと、次の日はよそよそしかったり。
宮崎: 猫っぽいといわれたことはないけど、そうかもしれません。
佐藤: 機嫌がいいときとそうじゃないときの差が激しい。
    機嫌がいいと、スキップするからすぐにわかる。
    今時スキップする人はそうそういないです。
    分かりやすい人。
宮崎: たしかに。しますね、スキップ。
MC: 宮崎さんからは?
宮崎: よく人を見てる。
MC: 目力が強いとよくいわれますよね。
宮崎: じっと見てて、見透かされている感じがして。
佐藤: よくいわれるんですけど、別にじーっとそっちばっかり見てるわけじゃないですよ。
    ていうか、僕が見ているってことに気付くということは、そっちも僕を見てるわけでしょ?
宮崎: なんか気配を感じて振り向くと、こっちを見てるっていう感じ。
    で、「なにかいいことあったの?」って見透かされてる。
佐藤: はっはっは!そりゃわかるでしょ!
    スキップしてたら、何かいいことあったのかな~ってことぐらい。
宮崎: たしかに。

あと、こんなのも。

佐藤:(会場に) 猫飼ってるよーって人!?(会場挙手)
    (会場に) じゃ、犬飼ってる人!?(会場挙手)
    互角ですね。
    猫飼ってる人は分かると思うんですけど、猫ってあまり感情を表さないじゃないですか。
    犬はわかりやすけど。
    今回猫と一緒の仕事ってことで、撮影に時間がかかるだろうなと思ってたんですが。
    全然。
    パンプ君は一度もNG出してないですから。
    「待て」ができる猫なんです。

佐藤さんちの猫の話もありましたね。

佐藤: 家族が猫の写真を送ってくれて。
    キャベツ巻きにしたのを。
    すっごいいやそうな顔して写ってましたw

MC: 名古屋といえば!どうですか?佐藤さん。
佐藤: それはもうひつまぶしでしょう。
    名古屋に来たら必ず食べることにしているんですが、今日は食べれてませんね。
MC: 宮崎さんは?
宮崎: 私もひつまぶしです。
MC: 今回は食べられてないそうですが、ぜひおうちでも作って…
佐藤: いやいや。それは違うでしょう。名古屋だからこそ。
宮崎: 名古屋だから食べたいんですよね。

その後のLINEで、無事ひつまぶしを食べたというご報告がありましたねw

最後のご挨拶はこちらで聞くことができますよ!
宮崎さんの挨拶はこちら

実はこのイベント中に
「インドネシアから来ました!」と叫んだ方がいらっしゃって。
この方が、Tumblrでのフォロワーさんのお友だちで!
なんと、イベントの後で一緒にお茶をして帰ってきました。
交換留学生で去年の秋から日本に来ていて、日本語もぺらぺら。
世界は狭い!
まさにクローバル!

昨夜のAStudioでも大友監督がメッセージで言っておられましたが、海を越える日は近いのか。
まだまだこれからが楽しみな俳優さんです。

今日はセカネコ公開初日。
私は地元の映画館で朝一で観てきました。
ネタバレはしませんが。
試写会よりも深く考えさせられました。
明日は3回目を見ます。
お友だちのおかげで参加できることになりました。
楽しみです。
大阪、待っててね~~~!

ツバメ便り2016

最近よくツバメが飛んできては、下見をしていきましたが、とうとう今日あたりから腰を落ち着けたようです。
朝、巣の下に糞が落ちていることに気付き、段ボール箱と新聞紙でトイレを作りました^^
雛が孵るのが楽しみです♪

5月1日 聖日礼拝

ルカの福音書 9章 51~62節
「私について来なさい」

明日から石巻を訪問してきます。
そこではふたつの会合が行われることになっています。
「石巻宣教ミニストリー委員会」と「石巻クリスチャンセンター理事会評議員会」です。
クリスチャンセンターの建物を建てる決断をする会合になります。
月報をご覧下さい。
また、リーチグローバルのアメリカ代表とも会う予定です。

さて、今日はイエスの公生涯の大きな転換点を学びます。
イエスは今まで主にガリラヤという地方都市で働いておられました。
イスラエルの北方にあり、「辺境」とは言わないまでも、中心地エルサレムからは離れた土地でした。

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、
ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。」
9:51,52

これは単なるエルサレム訪問ではありませんでした。
「天に上げられる日」。
つまり、「捕らえられ、十字架で死に、よみがえり、天に帰られる時」。
十字架の受難のタイミングが近づいたということです。
イエスは、あがないの死を遂げる覚悟を決められました。
「顔をそむける」のは、それを見たくないからです。
逆に「顔をまっすぐに向ける」とは、心をそちらに向け、決意を持って受け入れると言うことを示しています。
十字架の死に向かう決意をして、イエスはエルサレムに向かいました。

そこに同行した弟子たちはどうだったでしょうか?
イエスは弟子たちを前もって派遣しました。
どれを弟子たちはどう見ていたのでしょう?
「いよいよエルサレムで注目を集めて表舞台に出るのだ。
 自分たちも各々立場が与えられるだろう」
という期待があったことでしょう。
よもや十字架が待っていて、自分たちが逃げることになるとはつゆだに思っていません。

そんな彼らがサマリヤを通りました。
イスラエルという国を、串に刺さった3つのおだんごにたとえると、一番上がガリラヤ一番下がエルサレム。
間にはさまれた地区がサマリヤでした。
まっすぐにサマリヤを通るのが、エルサレムへの最短コースです。
しかし、多くのユダヤ人は、ヨルダン川沿いを迂回して進むのが普通でした。
なぜなら、ユダヤ人とサマリヤ人の間には敵対関係があったからです。

サマリヤ人は、ユダヤ人と他民族との混血でした。
ユダヤ人同士の結婚を大事にしていたユダヤ教徒は、「サマリヤ人は神の祝福から除外された人々である」と見なしていました。
しかし、イエスはサマリヤを通られました。
イエスの一行は大勢の旅団だったので、宿や食事の準備が必要でした。
でも、サマリヤ人はイエスを受け入れようとはしませんでした。
それは、イエスがエルサレムに向かっていたからです。
「結局エルサレムで名を上げることが目的なのか。」
と、彼らはがっかりしたのでしょう。

「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。
弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」
9:53,54

ヤコブもヨハネもエルサレムに向かう目的を知りませんでした。
サマリヤ人達も。
それなのに、弟子たちはサマリヤ人に対して
「自分たちはわかっている。あの人は分かっていない駄目な人だ。」
と思いました。
イエスはそんな彼らをいさめられました。

このできごとは、次の話につながっています。
イエス・キリストに従おうとする3人の人々に対するイエスの勧めです。
この3人は、すでに従っている人、あるは従っていこうとする人です。
イエスに会うのは初めてではないが、ある決意を持って一歩踏み出そうとしている3人です。
イエスに従うとはどういうことなのかを、ここで教えておられます。
従う人には何が問われるのでしょうか?

「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』
すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』」
9:57,58

「どこにでもついて行きます」
この言葉を聞いて、弟子たちは「何をいまさら」と思ったことでしょう。
12弟子はすでについてきていました。
そして、どこにでもついて行けると誤解していました。
イエスの答えは、これが何のための旅なのかを考えると分かります。
この先に待っているのは栄光の前に受ける辱めと十字架です。
最も重い犯罪者のひとりとして罰を受けるのです。
心おだやかではいられないはずです。
イエスは何の畏れも不安もなく十字架に向かわれたのではありません。
十字架の「死」というよりも、御父と切り離される不安を感じながら、エルサレムに向かっておられました。
イエスについて行く、とは、イエスが経験する苦しみ、悩み、困難を共有することです。
その覚悟はあるのか?
腹をくくらなければなりません。
うまくいくときはついて行くが、沈みそうな船からは真っ先に逃げるのが人間です。
弟子には、イエスの経験を全て共に引き受ける覚悟が必要です。

「イエス様を信じると、恵みが頂ける」
それは間違いではありませんが、真実ではありません。
クリスチャンになったら、全てうまくいくでしょうか?
病気もせず、成功し…
むしろ、軋轢やプレッシャーも経験するのではないでしょうか。
よいことも悪いことも人生にはありますが、それはクリスチャンにも同じようにあります。
神が全てを働かせて、意味ある者に変えて下さることが恵みなのです。

「イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』
すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』」
9:59,60

二人目の人は、イエスから「ついてきなさい」という招きを受けます。
従う気持ちはあるのですが、まず行って父を葬った上で従うと言います。
イエスはたまたま父親を亡くしたばかりの人に声を掛けられたのでしょうか?
おそらくそうではないでしょう。
父親の背をして、天に送って、自分が自由の身になったらついていく。
息子としての使命を果たさせて下さいというこtでしょう。
今やるべき事を済ませて、自由になってから従いたい。
「自分の責任を果たした上で」という背後には、社旗的な責任を優先するという姿勢があります。
イエスの答えの意味はこうです。
「死を乗り越える祝福をいただいてるのに、なぜ従わないのか?
 神の国を伝えるなら、死は絶望に終わらない。
 それこそが真の親孝行であり、死の畏れと不安を取り除くことが先決だ。
 それは福音によってもたらされるものだ」

「 別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』
するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」
9:61,62

3人目の人は、いとまごいをさせて下さいと申し出ます。
家族を大事にするのはたいせつなことです。
でも、招きよりも家族を優先することとは違います。

私の結婚披露宴の時、親戚の人にこう言われました。
「牧師になるなんて、食っていけるのか?
 公務員になれば安泰なのに」
それは批判ではなく、本当に私たちを思いやっての言葉でした。
しかし、イエスは「手を鋤に付けてからうしろを見る者は、神の国にふさわしくない」と言われます。
まず自分が決断することなく、家族の了解を得ようとする態度はよくないと言うのです。
主イエスに従うということは、イエスと共に旅立つということです。
それは、アブラハムから学ぶことができます。
彼は、主の命じるまま、慣れ親しんだ場所から旅立ちました。
私たちがイエスと共に生きるという決断をするのと同じ事です。
アブラハムは、旅立ってから葛藤や困難に直面しながら、神への信頼を深めていきました。

家族のことを気に掛けることは必要です。
その一方で、礼拝を第一にすることも大事です。
礼拝を第一にするチャンスはいくらでもあります。
その気になれば。
午後の大治の礼拝もあります。
礼拝時間の前に、早朝礼拝をすることもできます。
現実では葛藤を経験します。
イエスにしたがうことお第一にしながら、家族・社会・仕事のことを考えるのです。
そうしないと、イエスに従うことが二の次三の次になってしまいます。
優先順位を間違えないことが大切です。

「どこにでもついていきます」と言っても、現実は甘くありません。
でも、あえてそれを選び取っていくこと。
畏れ、不安、困難が見えてくるとき、イエスが共に旅をして下さることを思い出しましょう。
自分の努力やがんばりではなく、共におられる主によって、強められる経験をすることができます。
そこに恵みがあります。
困難に遭うことは、問題ではありません。
主と共に乗り越え、祝福に変えられる経験を重ねていきましょう。

GWまとめ

4/29 半日お仕事。
4/30 POLOとお別れ。新車引き取りに。もっくんの部屋&納戸大掃除開始。書籍処分。大型本棚移動。ベッド下見。
5/ 1 礼拝→買い物。そして掃除の続き。ベッド購入決定。搬入は5/18!
5/ 2 普通にお仕事。
5/ 3 学習机組み替え&移動。本棚移動。
5/ 4 お友だちの家へ遊びに♪
5/ 5 もっくんの部屋用洋服タンスを購入。搬入予定は5/25!リビングのタンス整理。クローゼット整理。
5/ 6 普通にお仕事。
5/ 7 午前中は新車の慣らし運転を兼ねて長浜へドライブ。午後はりーちゃんと栄へ。

なんとまあ活動的な一週間だったことか!
お休みらしかったのは4日ぐらいですかね。

この日は、いつものようにイタリアンで昼食を済ませて、そのあとは瀬戸の陶磁資料館で陶芸を楽しんできました^^
思い思いに作品作りをして、楽しい2時間でした。
ちょっと時間が足りなかったけど・・・
1ヶ月後に焼き上がった作品が届くのが楽しみです♪

そして、今日、栄に行った目的は、セカネコの衣装展示♡
4日にダンナがLACHICで衣装展示をしてたよって教えてくれたんです。
さらに、8日からは三越でパネル展があるという情報をtwitterで知っていたので、見に行ってきました。

2016-05-07 15.16.42

2016-05-07 15.18.24

こちらが三越の1階。
入ってすぐの所でした。

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2016-05-07 15.50.21

2016-05-07 15.50.38

こちらがLACHICの。
ここではプレゼントの応募もできました。
賞品は映画鑑賞券またはプレスシートとキャベツのシール。
もちろん応募してきました!

実はLACHICの入り口には人だかりができていて、「何だろう?」って背伸びしてみたら、ZIP FMの公開放送をしていて、何と、ゲストが→Pia-no-jaC←のおふたりでした!
ヨーロッパ公演のお話をしているところでしたよ♪

衣装を見た後はショッピング。
傘と、ピアスとを買って、名古屋に移動。
ビレバンでリーちゃんのリュックを買って帰ってきました。
今日も一日充実していました。

たくさんあると思っていたお休みもあすで終了。
明日もよい一日でありますように。

GW!

転勤して早1ヶ月。
でも長かった。
どんなささいなことでも、リズムができるまでが大変。

たとえば、まず職場に着く。
駐車場の空きスペースを探す。
これが、7:30を境に、玄関直近のスペースが取れなくなることが1週間ほどで判明。

部屋に入る。
トイレに行く。
帰り道にPC棚のカギを手に取る。
カギを開ける。
PCとマウスを出してデスクに持って行く。
カギを返す。
起動する。

バッグから水筒とタオルを出す。
席に座る。
To Doリストをチェックする。

これらを流れるようにこなせるようになったのがつい最近です。
これだけのことでも、リズムができていないと、あっちにうろうろこっちにうろうろでタイムロスが。
で、あっという間に時間が過ぎてしまいます。

仕事自体の流れはまだ手探り。
GWでちょっと休憩です。

そう。
きのう。
GW初日。
やっと完全フリーの休日だったんです!

おかげで、それまで懸案事項だったもっくんの勉強部屋計画が進捗しました。
「中学になったら、自分の部屋で寝起きできるようにしよう」
と考えてはいたのですが、ベッドをどう置くか、部屋の大部分を占める本棚をどうするか、考える余裕がないまま1年すぎてしまっていたのです(^^;
完全休養日にたどり着いて、やっとこさエネルギーがわいてきました。
あちこち寸法を測り、蔵書を大幅に処分し、amazonさんでベッドについて研究し、家具屋へ下見をしに行き、だいたい見通しが立ちました。
今まで川の字になって寝ていたのですが、今月中には独立できそうです。
あとひとふんばり。
もっくん、もう少し待っててね~!

4月24日 聖日礼拝

ルカの福音書 9章 46~50節
「主イエスの御名のゆえに」

私たちは日常の恵みを「あたりまえのこと」「いつまでも続く」と思い込んでしまいます。
ところが、災害に遭うと、その日常のあたりまえは「恵み」だったのだと分かります。
福島では、5年経ってもまだ自分の土地に戻ることができない方がいます。
今の日本に、自分の土地なのに立ち入れない地域があるのです。
「あたりまえ」を神に感謝し、困難の直面している方々に心を配りたいと思います。

さて、今日の箇所です。
イエスに従う弟子たちの中に、ひそかに、つまり公にではなく、議論されていることがありました。
それは
「誰が一番偉いか」
でした。
このことはイエスの前で議論していたわけではありませんが、イエスは心の中を知っておられました。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、」
9:46,47

彼が偉いか。
誰が福音のために貢献しているか、の議論です。
直接聞いていなくても、そのような議論は耳に入ってくるし、感じ取れるものです。
イエスは、そのなりゆきを知ったとき、議論そのものよりも、「なぜそのような議論が生まれるか」その考えと価値観を知っておられました。
これはひとごとではありません。
教会の中で誰が一番熱心か?
「誰が一番か」という考えは、人間社会の中にはいつもあります。
なぜそのようなことが起こってくるのか、心の深い所に問題があることを、イエスは知っておられました。

一つの見本を通してイエスは教えようとされました。

「 彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。』」9:48

一番は、「一番小さい者」である、とイエスは言われました。
序列を付けられたのではありません。
弟子が一番低く見ていた人こそが、一番だとおっしゃったのです。
「だれが一番偉いか」という議論は、裏を返せば「誰が一番低いか」と同じ事です。
弟子の中に、序列を作ろうとしていたことが問題でした。
「いじめ」は、序列の一番下の者へと向かいます。
私たちは、無意識に自分の価値を守ろうとします。
「あの人よりはやっている」と。

子どもは当時の社会の中でどう見られていたでしょうか?
現代とは違います。
イエスの時代、子どもはものの数には入りません。
女性もです。
ですから、5,000人の給食では「男だけで」と書かれています。
聖書がそのような考え方を支持しているということではなく、それが当時の社会的背景だったのです。
子どもは「まだ価値がない」存在でした。
社会に貢献していない。
手間ばかりかかって役に立たない。
13歳で成人するのは、そのころになると「役に立つ」からです。
それが当時の人の価値観です。
イエスの言葉は、それを前提にして言われたことです。

「受け入れる」とは「認める」「頼りにする」ということです。
子どもを受け入れる=イエスを受け入れる=父なる神を受け入れる、とイエスは言われました。
弟子が、「価値がない。役に立たない」と軽んじている者を受け入れるように、とイエスは言っているのです。

「さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
それでイエスは言われた。『わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。』」
ルカ21:1~4

この世に生きる私たちは、目に見えること、世の中の価値観に影響を受けます。
イエスは、神の国の価値観を弟子に教えようとされました。
最も小さい、弱い者を受け入れるということは、聖書が教える揺るがない価値観です。
この世の価値観は、
「若く、力があり、影響力があり、貢献する人がすばらしい」
と言います。
では、若さや力がなくなると、自分の価値が次第になくなっていくのでしょうか?
そうではありません。
イエスは弟子たちに、最も小さいことにっころを留め、それを支えることを学ぶべきだと、それこそが父なる神のみこころだと教えられたのです。

イエスが十字架で私たちのために命を捨てたのは、私たちが「役に立つ」からでしょうか?
主の目から見たら、価値がない小さな者なのに、そこに価値を見いだし、ひとり子さえ惜しまずに与えて下さったのです。
私たちが何か素晴らしいものを持っているからではありません。
だから、恵みなのです。
世の中で価値がないと考えられている人に価値を見いだし、その人を受け入れること。
そのような考え方を身につけることが大切です。
主は価値観を変えるようにと、弟子たちに求められました。
私たちの教会の内側はどうでしょう?
弱さ、足りなさがあるかもしれません。
「教会のために役立っていない」と思われている人がいるとしたら、私たちはおsの人の為に仕えていくことが大事です。

今日の箇所にはもうひとつの出来事が記されています。

「ヨハネが答えて言った。『先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。』」9:49

「先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見た」という発言の裏には、「自分たちの働き以外は価値がない」という考えがあります。
イエスの福音を聞いて、悔い改めた人々は、全員がイエスに漬いてきたわけではありません。
自分の町に残って、主に仕えていた人もいたはずです。
しかし、弟子たちの中にあったのは、「自分とつながりがある働きはよいが、そうでない働きは否定する」という考えです。
どういう働きが優先されるべき働きなのでしょう。
イエスは「優劣はない」と「彼らも仲間だ」と言われました。

私たちは、全ての働きをサポートできるわけではありません。
私たちの教会が直接サポートしていなくても、主の為の働きはたくさんあります。
「自分の働きを理解してくれない人は悪い人」なのでしょうか?
今、教会には多様性が求められています。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」ヤコブ 2:1

ここには警告が書かれています。
主の御名のゆえに、受け入れることが大切なのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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