4月17日 聖日礼拝

ルカの福音書 9章 37~45節
「隠された御言葉の意味」

今日は宋サムエル兄に特別讃美をしていただきました。
ご本人は知らないと思いますが、実はサムエル兄とはつながりがあります。
23年前、関東地区で草加教会で副牧師をしていたころ、開拓伝道委員会で宋先生のことを知っていました。
丁度宋先生の開拓が始まる頃に西教会に赴任したため、その後のことはわからないのですが。
交わりの中での協力の技が教会の力であると思います。

熊本で大きな地震がありました。
2011年の東日本大震災以来、局所的に大きな災害が起こっています。
今まで以上に、教会の真価が問われているのではないかと感じています。
海外でも日本の救いのために、祈り、宣教師を送ってくれています。
教団教派を越えて、地域社会に福音を伝えるためにどう仕えていくか。
「違い」を「多様性」と受け止めて進めていきたいと考えています。
このような大災害時の規定が福音自由教会にはあります。
その規定では福音自由教会がその地にないと動けないのですが、今、福岡教会の先生が支援のために動こうとしています。
また、熊本の東バプテスト教会には拝高先生の弟さんがいらっしゃいます。
以前から「西教会のMさんと協力して熊本に教会を作りたい」と、その方から聞いていました。
これから、熊本のために、支援金を募っていきたいと思っています。

さて、主イエスに用いて頂くためには、大切な原則があります。
力ある技をお粉言うための原則を確認したいと思います。

イエスは3人の弟子を連れて山に登り、栄光の姿になられました。
イエスと共に、モーセとエリヤが現れ、イエスの最期について語り合っていました。
その現場に弟子は立ち会いました。
ペテロは「3つの幕屋を作ります」と叫びましたが、モーセとエリヤは雲に隠されてしました。
そこに「これはわたしの愛する子…」という声が響いたのです。

人は、素晴らしい出来事、感動的な奇跡に重きを置きやすいものです。
でもそれは、人生でひんぱんに起こることではありません。
一方、変わり映えのしない日々の生活があります。
たとえば、バイブルキャンプに参加すると、同世代のクリスチャンの仲間と出会い、世から離れて素晴らしい経験ができます。
帰ってくると、また日常が始まり、そのギャップにとまどいます。
「私の生活に本当に主は触れて下さるのだろうか?」というギャップはだれにでもあります。
その中で、主の技を行い続けるために必要なことがあります。
そこには非日常と日常のコントラストがあります。

イエスと弟子たちが山を下ると、群衆がいました。
12弟子のうち、残りの9人は、山の麓でイエスに代わって福音を伝え、愛の技をしようとしていました。
イエスの代わりに、です。
そこで何が起きたでしょうか?
「一人息子を癒して欲しい」という人の為に、弟子たちは一生懸命に解決しようと取り組みましたが、結局解決できませんでした。

「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」9:40

私たちは、13番目の弟子として、ふたてに分かれた弟子の身になってみましょう。
山から下りてきた3人から見ると、「何をやっているんだ!」という気持ちになるでしょう。
せっかくのすばらしい体験に水を差されたような気分です。
残された9人はどうでしょう。
「自分なりに努力したのに解決できない。
 どうしたらいいかわからない。
 手におえない。何とかしてください!」
という気持ちではないでしょうか。
どちらも大事です。

「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。
それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」
9:1,2

この箇所を見ると、イエスは弟子たちに権威と力をおさずけになったはずです。
弟子たちは出かけていって、福音を伝え、病気を直しました。
彼らは喜んで帰ってきて、報告しました。
イエスと弟子たちは、さびしいところに行きましたが、群衆が追ってきました。
5,000人の給食を通して、弟子たちは「自分にはできません」と言うことを学びました。
イエスは、人にはできないが、神=キリストにはできることを示されました。
私たちに何かができるのは、イエスがともにいてくださるからです。
「私が何者かである」からなのではありません。

山から下りてきた3人の弟子は、「私たちは特別な存在だ」という思い違いをしています。
「神が彼とともにおられたので」あって、その人自身がすばらしいからではありません。
成功すると、いつの間にか、自分を召し、力を与え、派遣してくださった主の力を忘れてしまいます。
共観福音書を読むと、マタイの福音書では

「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』」マタイ17:19

と弟子たちが質問しています。
なぜ今までできたことができなくなったのか。
それに対してイエスは、

「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。 」マタイ17:20

と答えられました。
「信仰の薄い人たち」
そう聞くとショックです。
でも、若いころ、これは感謝だと気づきました。
「信仰がない」とは言われていないからです。
「薄い」のです。
信仰があることは認めてくだったのだと。
信仰が働き切っていない。
何が足りないのでしょう?

「熱心」が足りないのではありません。
「熱心な祈り」でしょうか?
祈りはだれにするのでしょう。
神ご自身が課題に触れてくださるように。
イエスの力によって課題に迎えるように祈ることです。

「信仰」は、主が私を用いて御業をしてくださると信頼することです。
神様抜きで、祈らずにことを進めようとすること。
自分の知恵と力により頼むこと。
それが「信仰が薄い」ということです。
では「信仰が濃い」とはどういうことでしょう?
いつも、どんな状況でも、主がともおられると信じてことに当たることです。

弟子たちも、最初はイエスの支えを信じて出て行きました。
今、自分が不思議な力を持っていると勘違いしていました。
自分の中に権威を見つけ、物事を解決しようとしたことが、「薄い信仰」だったのです。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ5:5

変わり映えのしない日常の中にも、イエスがともにおられるなら、主の技が行われ、変化が生まれてきます。
「私たちにできることはどんなことか?」
祈るなら、そのことを通して、主が働いてくださいます。
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4月10日 聖日礼拝

ルカの福音書 9章 28~36節
「こらはわたしの愛する子」

今日の宣教報告ではhi-b.aの働きを紹介して頂きました。
「種まき」の前には「耕す」時代も必要です。
40年以上前に始まり、途絶していた働きが再開されています。
あらいえりやスタッフと高橋先生が、「全国展開を目指す」と言われたとき、本気を感じました。
hi-b.a.は教派を越えてチームで協力する働きです。

「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」伝道4:12

このみことばは、よく結婚式で引用されますが、日常的にも言えることです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ18:19,20

ふたりでも、共に集まるなら、キリストがそこにおられるということを共有することで、使命を果たしていくことができます。
実際協力者が起こされてきています。
現在4つの地区と福岡で集会が開かれていますが、「全国」を視野に入れると、都道府県はいくつありますか?
48です。
48都道府県にスタッフが必要です。
「収穫は多いが働き手が少ない」(マタイ9:37)のです。
現役高校生が救われ、献身し、スタッフとして養成されることを祈っていきましょう。

さて、今日の聖句の始まりはこうです。

「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」9:28

「八日ほどして」ということは、この前に書かれている記事と、八日後の出来事には何らかのつながりがあるということです。
先週学んだことはこうです。

イエスキリストの招きに応じて従った弟子に対して、イエスは「人々は私を誰と言っているか」と問われました。
弟子たちは、様々な評価を報告しました。
その後、「あなたがたは誰だと言いますか?」と問われました。
イエスキリストを、救い主、主と信じる私たちにとって、最も大事な問いがあります。
「あなたは私をだれといいますか?」
です。
ペテロは、網も船も捨てて従いました。
彼は、イエスの言葉を聞き、癒しの技を見ました。
嵐をしずめる権威を見ました。
その経験の中で、イエスに従おうと思った「初期」と「今」とでは、イエスに対する味方が変わっていきます。

私たちも、信じてバプテスマを受けたときと、今と、どれぐらい見方が変わったでしょうか?
理解が深まったでしょうか?
イエスは弟子と多くの時間をすごし、公の姿も、私的な姿も全て見せた上で、「私を誰だというか?」と問われたのです。
ペテロは「あなたは神のキリストです」と答えました。
これは、この上なく危険な言葉でした。
イエスが十字架に架けられた原因は、この言葉でした。
弟子は「イエスこそが旧約において、律法t預言者に予告されていた救い主だ」とはっきり思い至ったのです。
御業に感動し、はっきりと分かりました。
そのときに、イエスはご自身の地上での最後の使命が「十字架の死」であると明らかにされました。
その、八日後です。

聖書を読んでいると、イエスは12弟子を選ばれましたが、中でも3人だけ他の9人とは区別されていることがわかります。
私は不思議に思っていました。
イエスは3対9に分けている。
最も重要な場面には3人しかいません。
ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登られました。
他の9人はどうしたのでしょう。
イエスの栄光を見たのは3にんだけでした。

聖書の他の箇所も見てみましょう。

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』
それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」
マタイ26:36,37

ゲツセマネの園にいたのもこの3人です。

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。『恐れないで、ただ信じていなさい。』
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。」
マルコ5:36,37

会堂管理者の娘を生き返らせた場面にいたのもこの3人です。
なぜでしょうか?

「リーダーシップ」です。
12人横並びではなく、チームとして働くためには「リーダーの中でのリーダー」が必要でした。
ペテロは、イエスが十字架に架かられる前に、3度イエスを否みました。
彼は、「最後までイエスについていく」という強い意志と決意があったにもかかわらず、それができない肉の弱さを認めざるを得ませんでした。
真のリーダーは最も人間の肉の弱さを知っている必要があります。
人の弱さを徹底的に知っているから、人に優しくなれるのです。

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

ペテロは山の上で、イエスが栄光に輝く姿を見ました。
モーセとエリヤとイエスは何を話していたのでしょう?

「しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」
9:30,31

イエスの最期について、でした。
モーセは「律法」をもたらした人物であり、エリヤは「預言者」を代表する人物です。
ここで、旧約と、新約が結びついたのです。
イエスは、信仰告白への応答として、彼らにそれを見せました。
「神のキリスト」という答えは正しいものでした。
イエスは、十字架で、その救いを成し遂げることになります。

「それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。」9:33

栄光のキリストを見て、ペテロは口走りました。
「幕屋を作ります!」と。
そのすばらしさを後世に伝えたいと思ったのでしょう。
そのとき、雲が覆いました。
ペテロは栄光だけを見ていました。
話の内容、十字架の死については心を留めていませんでした。
イエスは信仰告白の後、ご自分の使命を話されました。
神の栄光は、苦難の中で現されます。
私たちは、「困難がなくなるように」と願います。
しかし、苦しみと悩みの中で信仰は輝くのです。

「すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい』と言う声がした。」9:35

私たちは、聞いているけれど、聞いていません。
自分のフィルターで聞いています。
栄光は受け入れられるが、十字架は受け入れられない弟子のように。
自分に受け入れられないことは、聞こうとしません。
信仰とは、「彼の言うことを聞くこと」です。

なぜこの12人が選ばれたのでしょうか。
彼らには「素直さ」がありました。
イエスの言葉通り、沖に出て、網を下ろしました。
ありえないと思っても、やってみました。
おことばの通りにやってみることで、栄光を見ることができるのです。

4月3日 聖日礼拝

ルカの福音書 9章 18~27節
「主イエスはどのような方か」

今年の年間指標聖句は週報の右上に書かれています。

「そこで、わが子よ。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
多くの証人の前で私から聞いたことを、
他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
第二テモテ 2章 1~2節

私たちは自らの走路を走るランナーです。
でも、ゴールで終わるのではありません。
自分のレースが終わるときに、次の走者にバトンやたすきを渡す使命があります。
一代限りなら人生はむなしいものです。
ソロモンが言ったように、財産や名声を得たとしても、死んだら誰のものになるのでしょう?

「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」9:25

とイエスも言っています。
歴史的に偉大な業績を残した皇帝や王も、人生の命が尽きたとき、王座を手放さなければなりません。
自分の人生を精一杯走りながら、信仰・希望・愛をバトンとして次の世代に受け渡していく。
そのためには自ら走ることも大事であると同時に、次の世代のことを考えて準備していくことも大事なのです。

西教会は昨年40周年を迎えました。
聖書において「40年」は大事な数字です。
モーセによって出エジプトを果たしたイスラエルの民。
彼らは苦しみが去ると、現実に惑わされて「エジプトは良かった」と言い出しました。
人間の弱さ愚かさのゆえに、彼らは40年間荒野をさまよいました。
その経験の中で、新しい、エジプトを知らない世代が育ちました。
彼らは、何もない荒れ地で、マナを降らせ、うずらを送り、昼は雲夜は火の柱で神に導かれる経験をしました。
そして、ヨルダン川を踏み越えました。
第二世代が新しい段階に入っていったのです。
第一世代は、約束の地に入ることができませんでした。
モーセも、その地を遠目で観ることしかできませんでした。
しかし、次の世代を生むために、彼は用いられました。
神は私たちをお用いになります。

さて、イエスはいったい誰だったのか?
みなさんはイエスを知っていますか?
知ってはいるでしょうが、十分に知っているかというと、十分かどうかは分かりません。
1994年に、私はこの地に赴任しました。
20年来ずっと共に主に仕えている兄弟姉妹を、ある意味ではよく知っていますが、知らないこともあります。
逆に、みなさんは私が牧師だということは知っています。
しかし、日頃どんな風に生きているかを知っているでしょうか?
個人的に、どんな課題を持ち、祈り、使命を感じているかを。
「知っている」といえる面もありますが、実は知らないことの方が多いものです。

イエスが12弟子を選んだとき、彼らがイエスと共に歩いた理由は、「ご自身を知らせるため」でした。
群衆は、自分の必要に迫られてイエスに近づいて行く人々です。
彼らは必要がなくなると去っていきます。
弟子はついて行きます。
いつも。
用事があろうとなかろうと。
イエスの公の姿も、活動的でないときの姿も、彼らは見ています。

「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。」9:18

「イエスがひとりで祈っておられたとき」にも、「弟子たち」は「いっしょにいた」と書かれています。
決して個室には行って祈っておられたわけではありません。
祈りの内容は分かりませんが、彼らはイエスが祈る姿を見ていました。
一緒に生きていないと祈りの姿を見ることはできません。
教会の兄弟姉妹が、公の場で皆と一緒にいるときの祈りは見られますが、一人静まって祈る姿を見たことがあるでしょうか?
弟子たちは、イエスの公と私の両方を見ることができました。

神学校に入り、牧師になるように召された人の中に、ちょっと気の毒な方もいます。
献身の志があっても、牧師のそばで過ごしたことのない人です。
牧師と共に過ごすと、普段何を考え、何を心に留め、どんな活動をしているかを見ることができます。
牧師が日頃何をしているのか、多くの人は知りません。
だから、若い牧師は、
「日頃何をしたらよいかわからない」
と言います。
それは、平日の牧師を見ていたら分かることなのです。
石巻に遣わされた高橋先生は、3ヶ月西教会で一緒にいました。
先生は、
「聞くと見るとは大違い!」
と言っておられました。
ありのままの姿を見たからです。

イエスはどのようなお方か。
共に生きないとそれは分かりません。
信じて、受け入れて、「救い主」だとは分かっています。
しかし、人生の具体的な課題に直面して下さり、必要を満たして下さる方だという敬啓をしているでしょうか?
それが、「イエスを知る」ということです。

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」
9:23,24

「みなの者」とは、弟子たちです。
彼らはすでに「ついて来て」いる人たちです。
漁師の仕事、収税人の仕事を捨てて、イエスについて来ました。
「ついて来る」ときの大事なポイントがここに書かれています。
「自分を捨て」「自分の十字架を負い」とはどういうことでしょうか。
分かるようでいて、しっくりこない言葉です。
十字架とは?
刑罰の道具。
それも極刑の道具です。
自分が持っている罪のゆえに、本来私たちは十字架に架けられなければならないほどの者です。
「自分だけで生きている」という考えを捨てること。
「我」を捨てること。
弟子たちはその段階はクリアしていました。
「十字架を負う」とは、罪深さ、弱さを自分のこととして背負うということです。
弱さから逃げない。
誰かのせいにしないこと。
「自分の弱さがなくなったらついていく」のではないのです。
「弱さを持った上で、」ついていく。
自分の弱さや足りなさを自覚した上で、ついていく。
弱さや課題を自覚している人が用いられるのです。
「こんな風ではだめだ」と思っていながらもついていく。
自分ではどうにもできない課題、重荷を負って。
なぜでしょうか?
イエスについていく中で、乗り越える力が与えられるからです。

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」テモテⅡ 2:1

赦し、慰め、励ましを主から受ける。
その恵みによって、私たちは強くなれます。
初めから強いのではありません。
主によって強められるのです。
もし強い人がいるとしたら、立ち上がる力を主から頂いた人です。
どんなに弱くても、足りなくても、主は私たちを強め、栄光のために用いて下さいます。
「私はダメだ」と思っているなら、そんな私を強めて下さいと、求める祈りをするようになります。
「弱さのままでいたい」という、変化を望まない人ではなく、重荷を負ってついて行くのです。
イエスと一緒に生きることで、解決していく。
それが恵みです。
恵の経験によって、私たちは強められます。

「イエスは彼らに尋ねて言われた。『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。』」9:18

私たちは「みんな」の意見に左右されやすいものです。
「みんなが言っている」というのは、「その人が思っている」ことです。

「イエスは、彼らに言われた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」9:20

人のうわさではなく、「私」はイエスをどう見ているのか。
人々はイエスを「バプテスマのヨハネ」とか「エリヤ」とか「昔の預言者が生き返った」とか言っていました。
弟子は、「神のキリスト」だと答えました。
この言葉は、ユダヤ人が絶対に口にしてはいけない言葉でした。
「神のキリスト」とは「神ご自身」という意味だからです。
それは、律法学者達が最も恐れている言葉でした。
ソロモン王は多くの妃を持ちましたが、彼女たちは異教の神々を持ち込み、ソロモンはそれを受け入れていきました。
そのためにイスラエルはバビロンに滅ぼされたのです。
だから「神以外のものを神とすることは絶対に許せない」と、律法学者達は考えました。
イエスは人間ではありますが、私たちと同じではありません。
湖を渡ったとき、嵐をおしかりになったイエスを見て、弟子たちは「どういう方なのだろう?」と言い合いました。
弟子たちはこのような経験を数限りなくしてきました。
死者が生き返るのも見ました。
そして、彼らは「この方は神だ。預言されていたキリストだ」とはっきり思ったのです。

人生の中で、イエスこそ神のキリストだという経験をしていますか?
困難にもかかわらず、キリストが乗り越えさせて下さった経験がありますか?
このような経験をすることが、「恵みによって強くなる」ということです。
日常の生活で負う十字架を、イエスは負って十字架に架かって下さいました。
イエスは、痛みを祝福に変えることができるお方です。

「あなたは私をだれというか?」
「神のキリストです。」
と言える生き方を目指していきましょう。

3月27日 聖日礼拝

ガラテヤ人への手紙 5章 1~6節
「あなたは解放された」
            村井義信伝道師

ここに立つ度に包帯をしていた思い出があります。
先週もちょっとケガをしましたが、安心して下さい。大丈夫です。
ケガをしても治るので、ケガをするとなぜか嬉しくなります。
過去に鬱で10年間、何ともならない状況を経験したことがあります。
ケガは目で見て分かるので、「どうしたのですか?」と皆が心配してくれるから嬉しいのです。

クリスチャンにとって、イースターは年の始め。
イースターが「いいスタート」です。
イエス様はよみがえられました。
礼拝は、毎週イエス様の復活のお祝いをしているようなものです。
クリスチャンにとっては毎日が主の日です。
毎日新しくなることができます。
イースターを機に、わくわくしながら新しいスタートを切れるといいと思います。
私も還暦を迎え、60を機にいろんなことを再スタートしたいと考えています。
長年この教会にお世話になってきましたが、新しい歩みをしたいと思います。

クリスチャンの信仰は、「復活」が前提です。
私たちは御霊によって新しく生まれました。
福音自由教会の信仰箇条の6条・・・覚えておられる方は・・・いないでしょうね。
私も覚えていません。
そこにはこう書かれています。
「6.イエス・キリストの流された血と復活がすべて信じる者の義認と救いのための唯一の基盤であり、イエス・キリストを受け入れる者のみが聖霊により新生して神の子となることを信じる。」
まさに「復活信仰」です。
この信仰さえあれば、何の心配もないはずです。
それがあってこそ、他のことも分かるようになります。
信仰がなければ、いくら聖書を読んでもためになりません。

しかし、ガラテヤの人々は残念ながら、揺らいでいました。
パウロはガラテヤの人々に手紙を書きました。

「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」
ガラテヤ4:8,9

なぜ逆戻りするのか。
キリストの十字架と復活がむだになるではないか!と。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」5:1

彼らが揺らいでいたのは、割礼の問題でした。
「信仰だけではダメだ。割礼も受けなければ救われない」
という教えに、不安になっている人を励ますために、パウロは手紙を書きました。
私たちもその信仰を持っているのに、時々同じようになります。
ストレス社会の中で、いろいろな者に束縛されています。

私は長年住宅ローンを払い続けています。
家賃だと思えばいいのですが、やはり心の負担です。
4人の子どもがいます。
もう成人していても、病気をすると心配になります。
幸い長男が結婚することになりました。
子どもが4人いると、よい知らせもありますが、不安も4倍あります。
時間にも縛られています。
私は18歳で田舎を出て、こちらに就職しました。
愛知県立芸大に赴任しました。
山の中の寮にひとりぐらし。
9時までに行かなければならないのに、毎日遅刻しました。
体が起きないんですね。
1ヶ月、上司に呼びに来られました。
私はずっと田舎育ちで時間に縛られない生活をしていました。
残業に縛られ、お金に縛られる生活。
職場では上司に叱られ、家出は奥さんに叱られ。
私たちは束縛され、支配されて生きています。
教会に来ればのんびりできると思っていましたが、礼拝中に寝ていたら叱られました。

原因は創世記に書いてあります。

「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』
また、人に仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」
創世記3:16~19

人が人を支配する社会になりました。
罪のせいです。

ニュースでびっくりしたことがあります。
オックスファムというNPO団体が、1月に報告書を出したそうです。
世界の総資産をだれが持っているかという調査報告です。
それによると、70億人のうちの1%の人々が、総資産のうち99%を持っているというのです。
私たちのような人間は、働いて資産を蓄えても、その1%を分け合っているにすぎません。
さらに、その1%のうち、62人が世界の資産の半分を持っているということでした。
働く気をなくしますか?
クリスチャンにとっては、主の為、人の為に働いているので、がっかりしなくてもいいのです。
世がたとえそうだとしても。
改めて主の為、人の為に働くことの大切さを感じました。
それが、田舎に帰る動機の一つです。

世界は変えられなくても、意識は変えることができます。
人間にとって、信仰が大事です。
クリスチャンにとってはあたりまえのことです。
それを、パウロはもう一度確認させたかったのです。
私たちもイースターを機に、復活の信仰を確認してスタートしたいです。

「信仰か、個人の信念か」
30年の信仰歴の中で、私にわかったことはこうです。
「信仰は人を解放するが、信念は人を縛る」。
人間にとって最も大きな束縛は「死」です。
死は支配の象徴です。
イエスはそれを打ち破るためによみがえられました。
解放されたクリスチャンライフを楽しもうと、イエスは教えられます。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」5:16

自由に生きたいと思うなら、御霊に満たされなさい、とパウロは言います。
「御霊に満たされる」とは、どういうことでしょうか?
それは、祈りの生活です。
神の国と神の義を第一にすること。
神の支配の中で生きることを求めること。
祈り求めることです。
そうすれば、御霊が与えられます。

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカ11:13

祈る心。
いつでも、どこでも「主よ!」という思いで生活すること。
歩きながらでも、運転しながらでも祈ることはできます。
祈りは、だれでもできます。
能力も体力もなくたって祈れます。
ある人が言いました。
「少なくとも、祈っている時に罪を犯す人はいない」
と。
聖霊によって祈りましょう。
信仰を持つのも御霊の助けによるものです。

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」コリントⅠ 12:3

聖霊は取りなして下さいます。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」
ローマ8:26,27

ローマの8章は、ぜひ全体を読んで頂きたいと思います。

鬱に苦しんだ10年間、聖書は読めませんでした。
祈りも、ひざまずいて祈るようなことはできませんでした。
墓に行って、叫んでいました。
「助けて下さい!」と。
ひとつ思い出した御言葉はこれでした。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1

このひとつを握りしめていました。
そして、神学校の入学式に、「癒された」と感じました。
病気の間、自分が自分ではない感じがしていました。
入学式の時、ちょうどテレビのスイッチが入ったような感じがしました。
さっといろんなものが明るくなっていきました。
「使用前、使用後」のように、別人のようになりました。
それは「聖霊の働き」としか言えません。
証明しろ、と言われても言えません。
本当に切羽詰まったときにできるのは、祈りしかありません。
「主の祈り」しか出てこないのです。
だから、「主の祈り」は大事です。
イエス様は、祈り方がわからないという弟子たちに教えたかったのです。
もしも今、束縛されてどうにもならないと思う人がおられるなら、できるのは「祈ること」です。

「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
テサロニケⅠ 5:16~18

喜び、祈り、感謝。
「祈り」が真ん中にあって、喜びと感謝をつないでいます。
復活のお祝いは、「お祭り」というよりは、祈りの日です。
一人で祈ることは大事です。
もっと大事なのは、一緒に祈ることです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」マタイ18:19

心を合わせて祈るなら、それは2倍、3倍、4倍になっていきます。
祈り会は教会の原点です。
教会の祈りは無限です。
ぜひ祈り会にも出て欲しいと思います。

最後に私の好きな詩篇をお読みします。

「主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。
私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。『私は決してゆるがされない。』
主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。
主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。
私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。
聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」
詩篇 30編
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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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