12月24日 聖日礼拝

ルカの福音書 8章 16~18節
「聞き方に注意しなさい」

「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。
だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」
ルカ8:16~18

教の箇所は、一節一節は難しくありません。
内容は想像できるし、理解できます。

16節。
たとえば、懐中電灯をつけてから、鍋の中に入れて蓋をしたら、灯りの意味がありません。
ベッドの下に置いたら、部屋は明るくなりません。
灯りは照らすべきものを照らすためにあるのですから。
部屋全体を明るくする場所に置くでしょう。

17節。
いくら隠していても、いつかはばれる・・・という意味でしょうか?
良いことも悪いことも、人の目はごまかせても、神の目はごまかせない・・・という意味でしょうか?
隠されているものはいつか白日の下に明らかにされます。
最近稲沢市の廃棄物処理業者の不正が明るみに出ました。
実は、教会がいつもお弁当を注文しているところも関係していたんですね。
「今日はあそこに注文していないだろう」と思われますか?
いえ、そこに注文しました!
危ないと思われますか?
逆です。
これだけ公になった今こそ、一番安全です。
その会社も、こんな日が来るとは思わなかったことでしょう。
それも確かにそのとおりです。
この1節だけを見ていると、難しい話ではありません。

18節。
何となく分かります。
いわゆる「格差社会」のことでしょうか?
金持ちはどんどん豊かになり、貧しい人はどんどん貧しくなる。
そういうことでしょうか?

聖書の言葉は、部分部分を読んで理解できるし、うなずけるのですが、切り離して読んではいけません。
今日は16~18節を読みました。
16節は最初の一文字下がっています。
ここから一つの段落になっているということです。
聖書の原点にはだんらくはありません。
日本語の文体には段落があるので、段落がつけてあります。
この3つの説がひとつのまとまりだからです。
では、各節はどうつながっているのでしょうか?
それはわかりにくいです。
部分を取り出すと、「良い教えだ」となりますが、全体を読むとわかりにくいのです。

カギになる言葉を探しましょう。
16節と17節に出てくる言葉、「隠す」「隠されている」です。
何が隠れているのでしょう?
隠しているものはなんでしょうか?
これはたとえです。
何をたとえているのでしょう?
それをきちんと受け止めることが大事です。

「灯り」とは?
「隠す器」とは?
文脈の中で読みましょう。
つながりが大事です。
このたとえは、その前の話とつながっています。
15節より前に書いてあったのは?
そうです。
「種蒔く人」のたとえでした。
その話とつながっているのです。
種蒔く人=神ご自身
種=神のみことば
地=私たちの心
でした。
そして、このたとえで言われていることは、
「神のことばはある条件が整うと成長し、豊かな実を実らせるが、成長を妨げる3つの要素がある」ということでした。

神のみことばには、成長し、実を結ばせる力があります。
恵泉ファームでは、黒豆を販売しました。
一粒の実から、100粒以上のマメが録れるとは想像もできません。

「神のみことば」がカギです。
「隠している」のはみことばです。
神のことばは本来隠されるべきものではありません。
人々の前にはっきりと示されるべきものです。
神のことばが、そんなに実を結ぶとは想像できないときがあります。
だから、聞き方に注意する必要があります。
同じように聞いても、聞き手の違いがあります。
注意して聞く、ということは、しっかいと見る、ということです。
注目し、しっかり見届けるということです。
そのみことばがどのように成長し、実を結ぶかに注目して聞くことが大切です。
しっかり聞くということは、「なるほど、そうなのか」と理解することではありません。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
イザヤ55:9~11

みことばは必ず実現する、ということは、聖書が一貫して約束していることです。
では、「聞く態度によって結果が変わる」ということでしょうか?
行いが大事なのでしょうか?
そう聞くと、18節の後半が分からなくなります。
神への信頼をする心が、みことばを聞く上で大切です。
「信じ切る」ことが大切なのです。
みことばがどのように生活の中に実現するかを忍耐強く待ち続けること。
実践することではなく、信じて見届けることです。

持っている人とは、金持ちではありません。
神への信頼を持っている人です。
その人は、豊かにみことばによって与えられる恵みと祝福の経験がより増します。
「がんばらなくちゃ」「~ねばならない」という人は、自分の信念を行っているだけです。
肉の力で実現しようと思ってはいけません。
みことば自体に実を結ばせる力があります。
みことばに立って、信頼することが大切です。
がんばって、自分を打ち叩いて行おうとすると、自分を責め、他人を責めることになります。
やがて感謝と平安がなくなります。
「神のためにやっている」とおもっていたことまでも失ってしまいます。
神のみことばへの信頼を持たず、肉の力でやろうと思う人は、持っていると考えてきたもの、その信念さえも失います。
聖書は最初から最後まで祝福は神によって与えられると言っています。
神が人生に触れてくださることを信じて、受け入れることが大事です。

種まきのたとえのイメージで、4つの地は人の心を表していました。
神は尊場の種をまきます。
色んな所に落ちます。
実を結ばせない地があります。
その後、後日談があるんです。
種蒔く人は、「なぜ実が実らないのか?」と考えます。
次にどうするか?
固くなった地は耕すでしょう。
石をとりのぞき、イバラを抜いて良い地にします。
自分の土地を、作り替えようとするでしょう。

主は実を結ばない地を、実を結ぶように作り替えてくださいます。
みことばを聞いて、信頼して、実を結べるようにとひとり子をお与えくださいました。

「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
エレミヤ31:31~34

ここは、旧約から新約への転換点だと言われています。
旧約は律法の戒めを守るなら祝福するという約束でした。
新約は、救いの技(神のことば)を信頼して受け止め、そのおとりに聞いて信じた人には聖霊の証印を押してくださるという約束です。
主は、内側から私たちを変えてくださいます。
私の心の中に、「固い地」が、「石」が、「イバラ」があっても、良い地もあります。
神を信じる信仰、それによって心に触れてくださいます。
心を新しい、良い地に作り替えてくださるのです。
それが聖霊の働きです。

「自分のがんばり」でみことばを聞いてはいけません。
主は、イエスを信じて、受け入れる信仰により、心に触れてくださいます。
石を取り除き、イバラを取りのけ、柔らかくしてくださいます。
素直に受け入れるなら、実を結ぶようにしてくださいます。
それが約束されています。
そのみわざに注目して生きるのが、クリスチャンの祝福です。

私を決して離れず、捨てないと言ってくださる神が、私の人生に関わってくださいます。
最も大切なのは、みことばを信頼を持って聞くことなのです。
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1月17日 合同礼拝

ルカの福音書 8章 4~15節
「正しい良い心でみことばを聞く」

今日はJIFHhttp://www.jifh.org/の宣教報告がありました。
その中で「私から始める」という言葉がありました。
神の全体の「世界」を見て働きを進めることが大切です。
広い世界に目を向けると、身近な問題に気付きます。

海外の人の為に漠然と祈るのは難しくありません。
「世界平和」「世界の飢餓がなくなるように」と祈ることはできても、家庭内の問題の為に祈れるでしょうか?
いっぽうで、世界の平和を祈ることによって、同じ問題が日本、愛知県、あま市の中にあるということに目が泊まっていくはずです。
聖書にもこう書かれています。

「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」ガラテヤ6:10

「すべての人に」ですが、まず「信仰の家族の人たち」に善を行うようにと進めています。
また、イエスも

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8

と、身近なところから世界へと、プロセスを追って宣教を進めるように命じています。
ビジョンは世界です。

さて、きょうのたとえ話は誰でも聞いたことがあるでしょう。
これは、全てのたとえを正しく理解するための基礎となるたとえです。
このたとえは、3つの部分からできています。
5~8節:たとえ
11~15節:弟子の質問への答えとして、たとえの意味と説明
9~10節:イエスがたとえを話す目的について

たとえを話す目的を読むと以外に感じます。
普通たとえは難しい心理を分かりやすくするために、日常の出来事にたとえるものです。
イエスは真逆です。
普通の感覚、思考で読んだら全くわからないと言うのです。
「聞く耳のあるものは聞きなさい」と、イエスは叫ばれます。

「行う」ことではなく、「神の言葉を聞く」ことが最も大切なことです。
耳は音声を聞きます。
私たちの耳は、聞きたくない音は遮断できるように作られています。
西教会に来る方は最初電車の音が気になるはずです。
私も引っ越してきたばかりの頃は気になりました。
1時間に4本の列車が上りと下りで合わせて8本。
通る度に気になりました。
でも、今はいつ通ったか全然わかりません。
必要な音は増幅して聞こえ、雑音は意識から遠のけることができるのです。
補聴器は雑音も拾うので、なかなかなじまないという話も聞きます。
逆に言えば、私たちの耳は、聞きたくないことは利かないようにすることができるとも言えます。
聞きたくない言葉は聞き流せるのです。

神学校で、人と話すときの心得を教えられました。
「人は感心のあることだけを聞く」ということです。
関心のあることはメモしますが、そうでないことはメモしない。
だから、語り手が一番伝えたいことではないところで感激されることがある、と。

イエスはたとえの目的を9~10節で語られます。

「そこでイエスは言われた。『あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。』」4:9

このたとえ話は、弟子たちも一緒に聞いています。
ですから、全ての人にたとえで話しておられます。
弟子と他の人の違いは、
「弟子には奥義を知ることができるが、他の人には理解できない」
という点です。
話の内容はわかるし、ストーリーとしては理解できても、たとえだけでは奥義は分かりません。
弟子たちは意味を尋ねました。
彼らは頭が悪かったのでしょうか?
表面的には分かっても、「ある真理を話している」ということは分かっても、意味が分からないので、彼らはイエスに聞きました。
聞かない人は、分かった気になってそこに置き去りにされます。

イエスが言われたとおりに語ることはできるでしょう。
「先生、それで?」と聞かれたら、答えられるでしょうか。
私は聖書の話はよく知っていました。
小さい頃から教会で聞かされてきましたから。
ダビデの話も、ゴリアテの話も知っていました。
では、その話を通して神はどんなメッセージを伝えようとしていたのか?
今日のメッセージはあなたにどんなチャレンジをしているのか?
あなたはそれをどう受け止めたのか?
弟子と群衆の違いはここにあります。

聖書を100回読んでも、分かるものではありません。
聖書通読することはよいことです。
しかし、割り当てられたところを読んで、「はい、終わり」ではないでしょう。
ここから何を語ってくださっているのか、求める祈りが必要です。
これがディボーションです。
黙想、静思の時です。
今日主が私にお語りになっているのは何なのかを知ろうとすること。
そのとき「分からない」ということが起こります。
では、どうしますか?
わかったことだけでよかったと流すこともできます。
でもそれでは、何度読んでも分からないことは分からないままです。

高校生の時、担任の先生に聞かれて、私は
「国立大学にでも行きます。」
と答えました。
すると先生に
「10位以内にいないと無理だぞ」
と言われ、野球部を辞めました。
そして毎日5時間勉強しました。
でも成績は上がりません。
私には5人の友人がいて、みな10位以内に入るような生徒でした。
彼らに、
「お前のは勉強じゃない」
と言われました。
「勉強には二つある。
 分かっていることと分からないことを区別すること。
 分からないことが分かるようになって、できるようになること。
この二つだ。
服部がやっているのは、できることをもっと早くやろうとすることだ。
それは自己満足にすぎない。
分からないことをできるようにする取り組みをしていない。
問題集を最初からやって、できなかった問題をチェックする。
それがなぜそうなるのか、解答を読んでじっくり取り組む。
類似問題を解け。」
それから私の勉強法が変わりました。

大事なことは、聞いて分からないと思ったときにどうするか、です。
「弟子には奥義を知ることが許されている」のはなぜでしょうか?
群衆は帰っていきますが、弟子はいつもイエスと共にいます。
すなおに「どういう意味ですか?」と聞くことができます。
信仰は聞くことから始まります。
イエスの言葉を聞くことです。

私たちはどうでしょう。
神がいつも私たちと共にいてくださいます。
いつも祈り求めることができます。
私たちは、実を結ぶ為に救われました。
「神様、どうして?」
「分かりません!」
と、聞くことができます。
実を結ばない3つのケースがたとえに語られています。
それらは、私たちにも部分的に当てはまります。
しかし、私たちは救われています。
実を結ぶようにと、救われたのです。
実を結ばない部分が残されているのも事実です。
だから、どうしたら豊かな実を結ぶのかを求めることが大切です。
「実を結ぶ」ことに目を留めるのです。

種が大切です。
恵泉ファームでにんじんの種をまく時期になりました。
にんじんの種をまいたら、何ができますか?
にんじんですね。
ピーマンはできません。
み言葉の種をまいたらどうなるでしょうか。
み言葉は人生の祝福につながります。
種がまかれたら実を結びます。
種そのものに力があって、御霊の実を結びます。
種には力がありますが、どこにまかれるかで、力が十分に発揮されるときもありますが、どうでない場合もあります。
それが最初の3つの場合です。
「良い地」とはクリスチャンのことです。
正しい心でみ言葉を聞く人々です。
イエスが言ったその通りを聞く人々です。
多くの人は、自分の関心のあることだけを聞きます。
これは正しくありません。
文字通り聞いて、理解しようとすることが大切です。
そうしているでしょうか?

だれかに「○○をしてくれませんか?」と言われたとします。
「できません。興味がないから。」と答えるのは、正しい良い心でしょうか。
神の導きを、正しい良い心で聞くこと。
自分に不都合でも。
十分聞く前に「もう分かっている」と、自分流に納得して受け止め損ねることも起こります。
課題に直面したとき、「なぜ私だけ?」と思う時、人のせいにしますか?
神の許しがなければ雀の一羽も落ちることはないのです。
底には必ず意味があります。
それを知っている人は身をむずびます。

・みことばしっかりと聞く
・みことばを手放さずに持ち続ける。→座右の銘とする。
・忍耐してそのときを待つ。

私たちは実を結ぶことができます。
信仰は聞くことから始まります。
しっかり聞き、守り、実を結び、主の栄光を現しましょう。

キタ-!!!

たける便が届きました!
来週の木曜日!
生放送!
やった~~~\(^o^)/
ああ、楽しみだ、楽しみだ!

スタレポも更新されていましたが・・・
何でしょうねぇ。
スタッフさん変わってから、ちょっとテンション低め。
もうひとこと!
もうひとことください!

かつてTVガイドのスタッフさんが変わったときも「ロス」を体験しましたけど。
それ以上の落差ですよ~><
「料理番」の時の「撮影日誌」がすごくよかっただけに、物足りない~。

動き出した

セカネコが動き出したようですね。
明日の朝はエンタメニュースチェックです!

いやしかし、できるだけネタバレ回避したいという矛盾する気持ち。
日本にいて、動いてしゃべってる佐藤さんは見たい!!!

そいうえば、りゅうくんの映画は公開延期だそうで。
バス事故のせい。
きっと早く見て欲しいと思っているだろうけれど、しかたないのかな。

日本アカデミー賞とスマスマ

バクマン。が、監督賞、美術賞、音楽賞、編集賞、録音賞、助演男優賞で優秀賞GのET!
おめでとうございます\(^o^)/
え?
で?
主演は???
作品賞は???
ほんと謎だわ。
ま、佐藤さんは世界に羽ばたくから!

今日のもうひとつの謎。
SMAPのスマスマ一部生放送。
ファンでもないのに、やはり動向が気になってTV見てました。
全然
「解散しなくてよかったね~\(^o^)/」
っていう雰囲気じゃなかった。
だれも心から出てくる言葉をしゃべってなかった。
なんで謝ってるのか謎だった。

日本の(?)芸能界、何か変だよ。

1月 10日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 2章 4~10節
「私たち皆が祭司なのです」
     サバン・カート宣教師

服部牧師から、3年半で学んだことを分かち合うように言われました。
今日は、聖書の教えることを「大きな絵」として見てみましょう。
小さな木の枝ばかり見るのではなく、森を見るように。
この手紙は、使徒ペテロからユダヤ人と、トルコや小アジアの異邦人に書かれたものです。
イエスが復活の後天に昇られた30年後、AD62~63年頃とされています。
当時クリスチャンは、ユダヤ人やローマ皇帝ネロの迫害に苦しんでいました。
日本人にあてて書かれた手紙ではありませんが、現代の日本人のためにも書かれています。
日本のクリスチャンは、迫害を受けます。
職場で、近所で、家庭の中でさえ、信仰を持つことに反対されるからです。

今日のテーマは、
① キリストは、私たちクリスチャンにとってだれか?
② キリストは、キリストを拒否する人にとってだれか?
③ キリストにおいて、私たちはだれか?
④ 私たちは、キリストにあって何をすべきか?

です。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」2:4

① キリストは、私たちクリスチャンにとってだれか?

・生ける石
「主のもとに来なさい」とよびかけられているのは、手紙の宛先の人々であり、私たちも含んでいます。
キリストは、生ける石であり、生ける水でもあります。
生けるパン、生ける言葉、生きる道、生ける神の子。
死んだものの神ではなく生きているものの神です。

② キリストは、キリストを拒否する人にとってだれか?

・人に捨てられた石
群衆はイエスに「除け。除け。十字架に付けろ!」と叫び、イエスは同胞に捨てられました。
神はひとり子を愛しておられましたが、神の救いの御業の中心にされました。
私たちも信仰のゆえに迫害を受けることがあるかもしれません。
でも、それは予想外のことではありません。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」2:5

③ キリストにおいて、私たちはだれか?

・霊の家
霊の家、とは神の神殿という意味です。
ひとりひとりが神殿であり、共同して神の神殿です。
それは「建物」ではありません。
建物は「住むための場所」にすぎません。
私たちは「教会」です。
主は、建物ではなくて、個人の中に住んでくださいます。
そして、全体として築き上げられるのです。
私たちは「共同体」として成長します。

その目的は何でしょうか?
「聖なる祭司として霊のいけにえをささげるため」です。
私たちクリスチャンが祭司です。
ひとりひとりが祭司であり、一緒になって祭司の働きをします。
私たちはキリストにあって宣教師です。
聖霊の働きを、牧師だけに頼ってはいけません。
先週の「サンデークリスチャン」の話を覚えていますか?

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」
ヤコブ1:22~25

スポーツ選手は、競技場から出たら、自分がアスリートであることを忘れるでしょうか?
兵士は戦場から離れたら、自分が兵士であることを忘れるでしょうか?
同じように、私たちは、職場でも、近所でも、家庭の中でも、祭司なのです。

④ 私たちは、キリストにあって何をすべきか?


「そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
これがたいせつな第一の戒めです。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」
マタイ22:38~40

この二つの戒めに従うことは、神を讃美し、キリストにあって生きた供え物として自分自身を捧げることです。
職場で同僚を、近所の人を、家族を、愛すること。
聖霊のバプテスマによって、力を受けたのは、共同体の中で神の証人となるためです。
戦場へ、職場へ、家庭へ、服部先生を毎日連れて行くことはできません。
私たちが、聖霊によって強められなければいけません。
服部先生によってトレーニングを受けるのです。
年配の人、先輩から学ぶのです。

キリストは「礎石」になりました。
私たちはキリストなしでは何もすることができません。
キリストは、私たちの礎の石。
私たちがする全てのことの基礎はキリストです。

「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」2:6

私の家族は建築の仕事をしています。
人生のほとんどの間、それをしてきました。
ですから、「礎」がどれほど大切か知っています。
技術は変わり、文化によっても違います。
日本では、家にはひとつの大黒柱があって、その下に基礎の石があります。
その石を完璧に置くことが一番大切ということです。
そこから全てが始まります。
礎石も同じです。
建物全体の構造の安定につながります。
私たちのする全てが、イエスに頼っています。

「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった』のであって、
『つまずきの石、妨げの岩』なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
2:7~9

私たちは、クリスチャンになる前は神の民ではありませんでした。
それが、今は神の民とされている。
これはすごいことです。
ユダヤ人さえイエスには価値がないと言っている。
キリストを信じない者には、イエスは価値がありませんでした。
私たちはあわれみによってクリスチャンになりました。

キリストは、生ける石、隅の石、人生の、教会の目的です。
イエスを信じる者は恥を見ることがありません。
迫害を受けるかも知れませんが、失望することはありません。
信じない者はつまづきます。

神は、宣教の仕事を終えないままにしておられます。
私たちに、「出て行って全ての人々に伝えるように」と命じられました。
私たちに、バプテスマを授け、神の祭司とされました。
全てのクリスチャンがキリストにあって宣教師です。
一つの建物として、またひとりひとりが成熟します。
年配のものが若者を導きます。
イエスへの愛によってする、それが、神への讃美であり、捧げ物なのです。

その後

おかげさまでダンナさま、きのうから仕事に行っとります。
痛み止めのおかげもあるのでしょうが、少しずつよくなっていると思います。
鍼が効くとは聞いているのですが、評判もわからないし、そもそも近所にあるのかどうかもわからないです。
もしよい鍼灸師さんが見つかれば、私も行きたいところです。

ちまたではいろんな出来事が起きています。
某スキャンダルや、SMAPの解散報道や、昼間の北海道方面の地震やら。
年が明けて、まだ15日なのに。

一方、佐藤さんの頼りは「仕事始めがペルー」以外に何も入ってこないという。。。」
何でも遺跡で撮影しているのを目撃されてるみたいですよ。
おーい!どこにいるの~?
おりこうにお留守番してるから、おみやげ待ってるよ~\(^o^)/

連休とぎっくり腰

成人の日。
お休みってうれしい。

午前中はりーちゃんとケーキを焼きました。
くるみがたっぷり入ったバウンドケーキ。
全粒粉ときび砂糖が使ってあるヘルシーなお菓子です。
おいしかった^^

午後はのんびり漫画を読んでダラダラ過ごしました。
というのも、りーちゃんがTSUTAYAでハイキューを借りてきたから。
3巻までなんですが、面白くって、続きはよ!という気分w

一方、腰を痛めているのはダンナさま。
朝のジョギングの途中で何か腰が痛くなって、壁を伝いながら歩いています
今も湿布しておふとんで寝ていて。
せっかくの連休なのに、かわいそうに。
明日お仕事行けるのかしら。。。

1月3日 聖日礼拝

コリント人への第1の手紙 10章 31節~11章 1節
「神の栄光を現すためにしなさい」

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」
10:31

ここでは、神の栄光を現すために、人生の営みをするようにと勧められています。

キリスト教の教理をわかりやすく教えるために、「教理問答集」というものがあります。
そのひとつが「ウェストミンスター大教理問答集」です。
問1は「人間のおもな、最高の目的は、何であるか。」です。
その答えには、聖書はどのような答えをしているか、簡潔にまとめられています。
もし、「ぼくは何のために生きているの?」と、子どもに尋ねられたらどう答えますか?
聖書はどのような答えを与えているでしょうか?
教理問答の答えはこうです。

答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(1)、永遠に神を全く喜ぶことである(2)。
    1 ロマ11:36、Ⅰコリント10:31
    2 詩73:24-28、ヨハネ17:21-23

「神のために生きる」と言われると、「では、自分のために生きてはいけないのか?」という反応があるかもしれません。
そういうことではありません。
キリストと教会は、よく花婿と花嫁、夫と妻にたとえられます。
二人は深い絆で結ばれています。
神は私たちを「高価で尊い(イザヤ43:4)」と言われ、キリストは「インマヌエル(マタイ1:23)」としていつも共におられ、「いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と約束して下さいました。
神と私たちは、信仰によって絆を回復し、結ばれています。
「決して離れず、捨てない(ヘブル13:5)」「天にあるすべての霊的祝福を与えて下さる(エペソ1:3)」方のために生きることは、最高の人生です。
ちょうど、愛する夫、妻の為に生きることが最高の人生であるのと同じです。
夫婦は人生共同体です。
二人三脚です。
自分のペースで生きたら歩調が合いません。
もし妻が付いてこられなければ、ふたりとも倒れてしまいます。
お互いに相手のペースに合わせてこそ、よりよい人生が生きらます。
神のために生きる、ということが、結局自分のためにもなるのです。

「食べるにも、飲むにも、何をするにも」10:31

これは「普段の生活」を表しています。
私が若い頃「サンデークリスチャン」という言葉がありました。
日曜日だけクリスチャンらしくなる、という意味です。
礼拝堂を出たとたんに、ただの人になるような人。
「信仰」と「生活」が二分されている人です。
神を褒め称える生活と、社会の中での生活が分かれている。
そうであってはいけません。
何気ない日常、生きるためにする全てのことの中で、神と共に生きるという意識が大切です。
神のすばらしさを、自分に与えて下さったすばらしい恵みを、褒め称えて証をすることです。
しかし、そうでないケースも多いのです。

「奥さんの(ご主人の、教会の)すばらしいとこはどこですか?」
と聞かれて、「○○がすばらしい」と他の人に伝えることはできるしでょうか?
逆の言葉の方が出てきやすいものです。
人からどんなにひどいことをされたか、どんな問題があるのか、のほうが話しやすいのです。
人生には、光と闇、成功と失敗があります。
どちらに強調点を置くか、どちらを最後に持ってくるかで、受け止め方は全く違ってきます。

たとえば、
「○○さんは、仕事は器用にできないけれど、誠実な人です。」
というのと、
「○○さんは、誠実な人だけど、仕事はできないんですよね。」
というのと、どちらがよい印象でしょうか?
辛いこととよいこと、同時にふたつのことがあっても、
「それでも、神様は私を愛して、守って下さいました。」
と締めくくれるのがクリスチャンです。
どちらにスポットを当てるか。
幸せそうな人でも、必ず困難や課題はあります。
キリストの視点に立って見るなら、そういう味方ができるということなのです。
「もし主が、私の人生に触れて下さらなかったら、こうはできなかっただろう」と。

では、主の栄光を現す具体的な方法は何があるでしょうか。

① 礼拝

讃美、祈りを通し、「使徒信条」のような信仰告白、奉仕を通して、神のすばらしさを表すことができます。
讃美の持つ力はすごいものです。
歌詞の言葉をそのまま口に出して言うのは気恥ずかしいですが、歌うならすらっと言えます。
歌いながら歌詞の内容を他の人たちと共有し、「本当にそうだ」と教えられます。
讃美しながら、自分が教えられる経験をするのです。
神を称える讃美、礼拝を大切にしたいです。

クリスチャンでない人は不思議に思うようです。
なぜ毎週毎週教会に行くのか?と。
ある方の両親は「毎週行かなくてもいいんじゃないの?家族とでかけても?」
ところが、ある朝寝坊して礼拝に遅刻しそうになったとき、
「今日は教会に行かなくていいのか?」
と逆に父親に言われた、といいます。
それぐらい「礼拝」を大切にしているのだということは、周りの人も認識してくれるのです。

② 日常生活で

いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝をささげる事を通して。
どうすればそんなことができるのでしょうか?
喜びという感情は、自分によいことが起きたときに発生します。
期待以上だったときに、私たちは嬉しいと思います。
たとえば、お正月、お年玉をもらうと嬉しいですね。
中を見て、思った以上に入っていたら、もっと嬉しいでしょう。
人生にはよいことではないことも起きます。
「だからいつも喜んでいるなんて無理。時々ならできるけど。」
と思うのではないでしょうか。
それは、「救いによって得た喜び」を「困難」と同列に置いているからです。
「神の国とその義とをまず第一に求める(マタイ6:33)」ようにと聖書は言います。
これは「優先順位」を言っているのではありません。
「神の国とその義」は、人生の土台となる価値観です。
それをもって、優先順位を決める、土台です。
「信仰」を取るか「仕事」を取るか。
「部活」を取るか「礼拝」を取るか。
そういう選択ではないのです。
私たちは人に、「何かを取って信仰を捨てる」という選択を迫ってはいけません。
信仰はいつも人生の基盤にあります。
事情があって礼拝に来られなくても、それでも主はそこにおられることを教える方が大切です。

「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。」
詩篇139:7~10

主は私を知っておられます。
いつも、どんな時でも、神が私を愛しておられ、私から離れず、私を捨てることはない。
そのことを喜ぶのです。
困難はないわけではありません。
でも、変わることのない永遠の救いをいただいています。
だから、最後は喜びで締めくくることができるのです。
神が共に歩んで下さっていることを覚えて歩むことが、証になります。

主は、私たちを子どものように愛し、鍛えて下さいます。
神の民にふさわしく成長できるように、養って下さいます。
成功するというような、順調なときには、神に感謝を捧げる・・・でしょうか?
うまくいくと、神を忘れて、自分がやったかのように思うのが人間です。
神が共にいて下さるから祝福があるのに、感謝できないのです。
道が拓かれたとき「感謝します!」ということで証することができます。

逆境に遭うとき、「神は私を愛していないのではないか?と考えて、逆境を避けようとするのも間違いです。
私はずっとスポーツをしてきましたが、指導者は期待している人には負荷を与えます。
負荷をかけないと力を発揮できません。
自分の力の範囲内でしかやらないからです。
「火事場の馬鹿力」ということわざがあります。
いざとなると、人間はすごい力が出るものです。
神は、祈り、助けを求めることを通して、内なる力を引き出して下さいます。
困難な時に神に信頼して御足のあとに従いたいと思うとき、忍耐強さが養われます。
スポーツで必要なのは忍耐力です。
才能も必要ですが、その才能のひとつが「忍耐」「あきらめないこと」です。

困難に遭うとき、「神は私に期待しておられるからだ」と、きちんと課題に向き合い、取り組むなら、成長できます。
逃げてしまわず、そこにも意味があるのだと取り組むなら、そこにも神の御業があることを見いだすことができます。
「この試みは、このときのためだったのか」、と後になって分かります。
一度それを経験すると予測できるようになります。

私は3人の尊敬する先生方に同じ事を教えられました。「祝福の前には試みがある」と。
たぶんその理由は「高ぶらないように」ということでしょう。
今、少しだけその意味がわかってきたように思います。
人生で成功することが大事なのではありません。
困難に出会うのはいけないことではありません。
いつも変わらぬ愛が注がれていることを自覚して生きることが大切です。
それが神の栄光を現すことです。

2016年、信仰の原点に立ち返って、礼拝に行き、神に役立ちたいと思います。
「高価で尊い」
「世の終わりまで共にいる」
「決して離れず捨てない」
これらは私に、あなたに、語られた言葉です。
どう応答しますか?
「私もあなたから離れません」と。
今年、どのように主がみわざを表してくださるか、期待して進んでいきましょう。

レビュー展

行ってきました。
レビュー展です。
ちょっと出かけるのが遅くなったので、1年生の分しか見られませんでした。

ところどころ「空席」があって、その数がふーみんの頃よりも増えているのがちょっと気になりましたが・・・

これがりーちゃんのブース。

2016-01-09 21.37.12

この一年間取り組んできた課題の集大成です。
レビュー展でも各クラス2名ずつ選抜があるのですが、りーちゃん、見事選ばれました。
よく頑張りました!

もちろん、他にも見応えのある作品がたくさんありました。

4月に入ってから、各学年、コースの選抜作品を展示する「レビュー選抜展」が開かれます。
それまで作品を保管しておかなければならないのが、悩みの種(^^;

ちょうどここ2週間ほどが、2年生からのコース選択の期間になっています。
このレビュー展も判断材料になるらしい。
希望のコースに進めるといいね♪
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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