もう7月が終わる

早いなあ。
つい最近、「一年の半分が過ぎたなぁ」と思ったばっかりなのに。

今年はことのほか忙しくなりました。
うれしいことで。
9日まで仕事があって、それまでに休日が一日しかないんですけど、がんばります。

お盆休みの宿は取りました。
今回は若者(?)だけで失礼しますm(_ _)m
旅程は全く白紙に近いですが(^^;
一番忙しくなさそうな大学生に考えてもらいましょう。

なんでも、「釣り球」や「ピンポン」のロケ地だそうですよ。
たけるカレンダー2010のロケ地でもある!
うむ。
やっぱり綿密な計画建てなくちゃね。
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7月19日 聖日礼拝

ルカの福音書 6章20~26節
「幸いな者と哀れな者の違い」

「それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。」6:17

祈るために山に行き、夜を明かし、イエスは12使徒を選び、山を下って平地に立たれました。
それで、「山上の説教」に対して「平地の説教」と呼ばれることもあります。

マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書は共通のあうトライン持っています。
中でもマタイとルカは共通点が多いのですが、それぞれ想定している読者が違います。
マタイの読者はユダヤ人であり、旧約の背景を織り交ぜて記述しています。
ルカは異邦人に向かって書いています。
そのため、読者には旧約のバックグラウンドがありません。
そこに視点の違いがあります。
マタイとルカには、5つの説教のまとまりがあります。
ただ、その語り口、切り口が違っています。
それに対して、マルコは5つの説教がありません。
マルコの視点は、神であるイエスがそのあり方を捨てて、地上に来て下さった、その歩みです。
行動に焦点を当てているのです。
そのため、他の福音書よりも短くなっています。

さて、その場には、多くの弟子以外に群衆もいました。
イエスはその両方に向かって語っています。
教会も同じです。
長く来ている方も、最近来始めた方もいます。
イエスは2種類の人々に語っているのです。
ですから、だれに語っているかに気をつけなければなりません。

「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。』」6:20

イエスはここで、じっと弟子たちの目をみつめて語られました。
4つの幸いと、4つの哀れな者の姿の対比です。
ちなみに、マタイでは8つの祝福が書かれています。

①貧しい人<>富んでいる人
②飢えている人<>満腹している人
③涙を流している人<>笑っている人
④憎まれている人<>褒められている人


幸せな人、というとどのような人を思い浮かべますか?
豊かで、おなかがいっぱいで、笑いながら過ごし、褒められる人ではないのでしょうか?
戦後の荒廃の中、食べ物のない時代に取られた制作は、「所得倍増計画」でした。
戦後の復興。
私たちが追い求める幸せはそのようなものなのでしょうか?

今、日本は岐路に立っています。
戦後日本人は、一心不乱に幸せを求めて働き、世界第2の経済大国になりました。
エコノミックアニマルとさえ呼ばれました。
今は中国がそうです。
かつての日本人が海外ツアーに出かけ、「カメラを首から提げて、ベルトをしているのは日本人だ」と言われたものです。
それを手に入れれば、幸せになると思っていました。
では、今日本人は本当に幸せでしょうか?
本当の豊かさ、本当の幸せは何でしょうか?
今は、それを再検討している時代でしょう。

福音を語るとき、「何を目指すか」は大切です。
イエスの弟子が追い求めていくべき価値観を、ここで教えておられます。
なぜ富んでいる人、満腹している人、笑っている人、褒められている人は哀れなのでしょうか?
幸せではないのでしょうか?
地上では、確かに幸せでしょう。
これらは地上の一時的な豊かさです。
未来永劫続くわけではありません。
何を見ているか、が問題です。
「今」というとき、地上にしか視点がないとしたら、それは哀れなことです。
今は若くても、50年経てばどうでしょう?
今はお金を稼げても、退職したら?

富んでいる、貧しい、ということを今の世界のことだけで論じてはいけません。
今それを持っている人は、それ以上のものが必要だとは思いません。
なぜ日本は福音に対して閉ざされているのでしょうか?
クリスチャンは人口の1%、いや0.5%とも言われています。
日本人が「富」を求めて「全て」を得たからです。
救いなんて必要ないと思っているのです。
自信にあふれているからです。
一方で貧しく、涙を流している人がいるとしたらどうでしょうか?

この地上の後に来る幸せを知っている高齢者は幸せです。
目の前のことだけでなく、永遠に目が開かれているからです。
苦難であっても、それで私の価値は失われないということを知っているからです。

暑くて忙しい

料理番も終わってしまって、すっかりご無沙汰してます。

忙しい日々に、とりあえず明日一区切りつく予定です。
人事を尽くして天命を待つです。

まあ、一つ終わればまた次の波がやってくるわけですけどね(^^;

読了

小説版「天皇の料理番」読み終えました。

なるほどね~。
キャラクターをまとめて登場人物を減らすのは、実写化の常套手段ですよね。
エピソードの順番を変えたりとか。

全体的に、割と淡々とできごとを述べている感じで、サクサク読めて面白かったです。
現実には、ドラマ以上に多くの人のおかげで篤蔵さんは夢を叶えたのだなぁと思いました。
日本にいる間にどうやってフランス語を学んだかもわかりました。

皇太子(若き日の昭和天皇)のイギリス行きの話は、ドラマではちょっとだけしか触れられていませんでしたが、このあたりはドラマで見てみたかったな~。

GHQとのからみは、ドラマほどの悲壮感を感じませんでした。

うん。
これは読んでよかった!

実は「とんび」がまだ読めてないんですよね~(^^;

天皇の料理番 第12話(最終話)

今日やっと編集しました。
すでに1週間以上経ってしまいました。
色んな意味で感想が書きづらいのです。

心待ちにしていた日曜日が、平凡な日曜日になっちゃったこともあり。
あまりにも重い題材だったこともあり。
今の政治的な動きに対する危機感もあり。
「御上」に対する、私の個人的な思想信条による微妙な立ち位置もあり。

編集していたら、もっくんが
「この回はやめて~!」
と言うのです。
卑屈なまでにGHQの顔色をうかがう篤蔵に耐えられないようで。
そこには全く同感で。

「そこまで」してしまう篤蔵が、「天皇のためならなんでもするのが日本人か。」という不安感を彼らに抱かせてしまっていることになんともいえないやりきれなさを感じてしまい。
私の思いは、黒川さんの心情に、より近いのかもしれない。
あるいは、篤蔵の暴走を心配する新太郎さんやお梅さんの気持ち。
実際の所、敗戦直後の日本人にとって「御上」はどのような存在だったんだろう。

少なくとも、篤蔵にとっては「いい人」で「堅」くて、「優しい人」であることは、とりはずすのを忘れたたこ糸や、国民と同じ食事を所望されたというエピソードを通してよくわかる。
食事を作ることで、食べる人の健康や心の悩みまで推し量る、料理番としての心遣いも。

兄やんの臨終をしたためた父の手紙を読んで、自分は「天皇」の料理番であって、「お国のため」に働いていて、それが兄やんの誇りであったと、その兄やんがいたからこそ夢が叶ったことを確認して、様々な行動にでていくのだけれど。
大膳長におしかりを受けて、演説をする篤蔵が、「みなさんもそうやなかったですか?」と、宮中でお仕えすることが家族の誇りであることを思い起こさせるシーン。
そして、最終的には「御上」が裁判を免れて、皇室の存続が決まったとき、「これからも陛下のお料理番」であることを天に、(兄やんに)誇らしく報告するのを見て。。。
俊子の言っていた、「陛下のお料理番だから偉いんじゃなくって、真心を込めて料理をするから偉い」っていう解釈を離れてしまっている気がしちゃったのです。

もちろん鴨トリオの友情には涙し、俊子の鈴に心救われたのですが。
もし彼らが「日本を救った」とするなら、ぶっちゃけ宇佐美さんの「味噌理論」あってこそですよね。
「味噌」のためなら道化を演じることをも厭わない奴らから「味噌」を奪ったらどんなことになるか、想像したら恐ろしかったでしょうから。
やっぱり最後まで宇佐美さんは師匠でした。

何とも煮え切らない感想を、ここまで読んでくださった方がもしいらっしゃったら、ほんとにすみません&ありがとうございます。

あと、気になるのは、私のアジアのお友だちは、この最終回をどうとらえるのかな。。。というところです。
たしかインドネシアだかどこだかで、すでに放送が始まってるはず。
感想を聞いてみたいなあ。

7月12日 聖日礼拝

ルカの福音書 6章12~19節
「12使徒の選任」

ペテロをはじめとする弟子の中から、イエスは12人をお選びになり、使徒という名を付けられました。
イエスの心の内、表面には見えてこないことに目をとめながら、今日の箇所を見ていきたいと思います。

イエスには、福音のメッセージを聞き、神を信じ、病気やこんなんを解決していただいて、ついてきた弟子たちが大勢いました。
彼らは「群衆」とは違いました。
群衆は、自分の要求があるときだけ、イエスに近づく人々です。
弟子は、いつでもイエスについていく人々です。
用が済んだら離れていく人々とは違います。
私たちは日毎にイエスと共に生きる者です。

12、という数はイスラエルの12部族を象徴しています。
イエスを信じる信仰によって新しく生まれ変わる、新しいイスラエル、すなわち神の民を象徴するのが教会です。
神はかつてイスラエルを選びましたが、彼らはこの世の富に目を奪われました。
そこで主は、イエスへの信仰によって、新しいイスラエルを作ろうとされた、それが協会です。

イエスにはふたつの使命がありました。
①命を贖うための代価としてご自身を捧げて、新しい神の民を集めること。
②12使徒を選び、訓練し、彼らを中心に教会を作ること。それによって、全世界に福音がのべ伝えられるようにすること。
つまり、教会の土台を築くことでした。


13節の前の節に注目してください。

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」6:12

この順序がとても大切です。
徹夜の祈りをしたあとで、12使徒をお選びになったのです。
なぜイエスは祈らねばならなかったのでしょうか。
「誰を選ぼうか?」と人選で悩んでいたのでしょうか?
違います。
イエスが夜を徹して祈られたのは、聖書に2箇所あります。
ここと、ゲツセマネの園での祈りです。
そこには共通点があります。
このあと、イエスが向かっていくための、心の準備が必要だったのです。

12使徒の一人ひとりがどんな人生を歩んだかは、ここには書かれていません。
ただ一人だけ、気になる記述があります。

「ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」6:16

イエスを裏切り、十字架のきっかけを作ったユダを、使徒の一人にお選びになったのです。
イエスは人選を間違えたのでしょうか?
予想していなかったのでしょうか?

イエスはご存知でした。
だから祈ったのです。
私たちは、イエスをスーパーマンのように考えがちです。
しかし、イエスの第1の使命の、決定的なきっかけを作ったのはユダだったのです。

なぜユダを12使徒のひとりに選んだのか、その理由は

①ユダ裏切り者になることを知りつつ、ユダを受け入れること

私たちは「はじめから選ばなければよかったのに」と考えます。
イエスは知りながら、受け入れました。
ペテロは十字架の予告を聞いたときに、「覚悟はできています」と啖呵を切りました。
そのペテロに、イエスは忠告されました。

「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ルカ22:34

イエスはペテロのつまずきを知りながら、受け入れ、祈られました。
知っていても、困難な課題でも、引き受けるべきものなら受け入れる覚悟が必要です。
人生には避けられないことがあるのです。
それは簡単なことではありません。
だから、祈りが必要です。
受け入れるための心の準備が、必要なのです。

裏切りを知りながら受け入れたもうひとつの意味、それは

②十字架を受け入れるため

ユダを受け入れることは、十字架を受け入れることです。
イエスは、頭では使命をわかっておられたでしょう。
しかし、知っていても、葛藤が生じます。
だから、祈りが必要です。
十字架に向かって大きく舵を取るための祈りです。
最後の決断をする前には「できることなら・・・」と祈られたでしょう。
イエスの祈りは祈りのあり方を教えてくれます。
「~してください」という要望が、私たちの祈りです。
いえすは、一歩進むための決断の祈りをしておられます。
思い通りにならない現実に直面したとき、引き受けたくないことを引き受けるとき、病気、事故、できるなら避けたいことに直面するとき。
でも、それが降りかかってくることがしばしば起きます。
その時に、それを自分のこととして引き受けていく祈りが必要になります。
引き受けて、一歩踏み出す祈りです。

「みことばはわかっている」
けれど現実には緊張関係が生じてくる。
「愛し合いなさい」というのは簡単です。
しかし、愛し難い人を愛することは困難です。
避けられないことを受け入れ、神の栄光を表せうようにと祈りましょう。
裏切るとわかっているユダを、懐の中に受け入れ、十字架に向かって一歩踏み出したイエスのように。

祈りにおいて大切なことは、「決断すること」です。
「治してください」「解決してください」という祈りもよいでしょう。
では、「私は何をするのか」が大切です。

用いられ、祝福されるために大切なことは、神に願うだけでなく、避けられない現実を受け入れ、決断をするために祈り、踏み出すことなのです

7月5日 聖日礼拝

ルカの福音書 6章 6~11節
「安息日の意義」

ユダヤ人をユダヤ人たらしめている律法、「安息日」。
その考え方において、パリサイ人とイエスの違いが際立っていきます。
その律法を与えられた神の意志、その祈りと願いを見ていきたいと思います。

エジプトで奴隷であったときに叫び求めた祈りに答えて、主はモーセを遣わし、彼らをエジプトから導き出されました。
エジプト人の奴隷ではなく、神の民の民族となるために、主は律法を与えて新しい国家を形成するようにされました。

「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も――そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」
申命記5:12~15

この戒めは「あなた」と単数形で命じられています。
すなわち、家長、リーダーが聞いていると考えられます。
「あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も」という表現からそれがわかります。
しかし、それは個人的な戒めではなく、新しい国家の土台になっていくための戒めでした。
かつて奴隷であったことを、そこから救い出されたことを、覚えていなければならない、と律法は言います。
それを忘れないためにこの律法があるのです。
現代においては、家庭で、会社で、休みを提供せよと言っています。
人々に心配りをするようにと。

最近男性の育児休業が話題になっています。
しかし、リーダーが休まないと他の人は休みにくいものです。
聖書では、家畜に至るまで休むようにと命じています。
積極的に働き、積極的に休む。
それは神のめぐみを味わい、再スタートするためです。

さて、安息日に人々は礼拝堂に集まります。
シナゴーグは教会の原型です。
そこに右手のなえた人を見つけます。

「別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。」6:6

パリサイ人は礼拝するためにそこにいたのではありませんでした。

「そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」6:7

彼らはイエスを監視していました。
ミスを探し、非難する口実を見つけるためでした。
本来は神の恵みを思い出して、感謝するための日であるのに。
パリサイ人は熱心に主に従おうとしていました。
熱心さは「自分の義」を立てようとします。
パウロはかつて、

「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
ピリピ 3:5、6

と、書きました。
しかしその熱心は知識に基づくものではなかったと認めています。

「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」
ローマ10:1~3

彼は、ダマスコに向かう途上でイエスの声を聞きます。

「彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」
使徒6:5、6、18~20

パウロは良かれと思って精一杯主のために尽くしていましたが、それが御心にかなっていなかったということを知った衝撃はどれほどのものだったでしょうか。

私たちは1週間の歩みを終えたら、思い返し、み前で心を整え直します。
それが最も大切な安息日の意味です。
イエスは人々に問いかけました。

「イエスは人々に言われた。『あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。』」6:9

パリサイ人の関心は「してはいけないこと」でした。
イエスの問いは「してよいことはどちらか?」を問うていました。
真面目すぎる人は足りないことを指摘します。
すばらしいところを見ていますか?
すばらしいところは意識しないと見えません。
足りないところは目立ちます。
「引き算」の生き方ではなく、律法は積極的に生きることを求めています。

羊が水路に落ちていたとすると、助けるべきか否か。
例えば、パリサイ人の解釈はこうでした。
「死にそうならば、助けてもよい。死なないようなら翌日助けるべきだ」
そんなバカな!と思いますか?
彼らはそこまで徹底していたのです。
安息日の本来の目的は何か?
奴隷状態から救い出してくださった主の恵みを忘れずに心に刻み付けるべき日です。
積極的に人を支えるべきではないでしょうか?
「仕事をするな」というよりも「安息を与えよ」と、ゆとりを提供することではないでしょうか?

20代の頃、先輩の先生が言われたことがあります。
「今日の教会は忙しすぎる」と。
奉仕をすることはすばらしいことですが、たくさんしすぎてはダメだと、「休息」が大事だと言われました。
力を養うことを優先して、奉仕はできるだけ短く、本当に必要なことだけをするようにしなければなりません。
主のために熱心に取り組むあまり、忙しさでゆとりがなくなると、交わりが損なわれます。
「なぜ自分ばかり忙しくて、あの人はやらないの?」
という方向に行ってしまう危険があります。
責任転嫁が起きます。
イエスは律法を成就するためにこられました。
すなわち、罪から解放し、自由にしてくださるためです。
イエスが与える新しい戒めは、律法の再定義です。

「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ22:37~40

イエスは、人を大切にし、愛していくことを求めておられます。
しかし、真剣にそうしようと思うと、失敗します。
失敗しないためには、人とかかわらなければいい・・・そうして引きこもってしまいます。
そうしていれば平和を保てるからです。
しかしその傷を乗り越えなければ達成できません。
子育ての中でそれが学べます。
語り続け、関係を保ち続けることが愛です。
愛は多くの罪を覆うものです。
「べき」によってではなく、自ら進んで労苦していけるように。
相手が自ら喜びを持ってそうできるように、働きかけることも必要なのです。

天皇の料理番 第11話

今までで一番泣きました。
終わってからもしばらく泣いていました。
翌日になっても、あの夫婦を思い出しては涙が出てきました。
何なら今でも、泣けますよ。

まだ1度しか見られてないし、書き出したらきりがないので。
とにかく、私の涙腺が崩壊した瞬間。
それは、テレビ画面にカタツムリが映った時です。

「あ」
という俊子さんの声。
あじさいの葉に、カタツムリが1匹這っている。
ただそれだけ。
それだけで、泣けるってどういうこと?
自分でも訳が分からなくて、その後は最後までずっと泣いていました。

鯖江連隊で田辺さんに教えてもらったカタツムリの味。
そんな料理があるんだって、川縁を歩きながら興奮しながら語る篤蔵さん。
その夜、篤蔵さんは俊子を捨てて、料理を追い始めたのでした。

さずかった命が、月満ちることなく消えていったあの頃。

やがて流産を知った篤蔵が、遅ればせながら駆けつけたとき、俊子は篤蔵を拒絶して縁を切る。
殻を背負っていては、カタツムリは早く進めないから。
殻を脱ぎ捨てて、邁進して欲しいから。

空っぽのカタツムリは俊子の象徴でした。

月日が流れ、日にち薬に癒されて、妹がカタツムリの殻に「からだ」を入れてあげたいと言う。
動けないから。
そうやね、と言って、俊子は立ち上がる。
餅つきの手返しを手伝うために。
それはいつの年かの正月でした。

カタツムリは這って行ってしまう。
篤蔵は、それを連れ戻してくる。
「ほら、もどってきたぞ」

ふたりで眺めている後ろ姿が、もうたまらなくて・・・



病状が悪化していく背景には季節季節の風景があって、子どもたちがおかあさんにお遊戯を見せてくれたりする。
病気の兄やんが住む離れの庭で、弟たちが相撲を取る姿を見せていたのを思い出す。
病床にやってくる子どもたちは、相談したり、甘えたり、おかあさんを頼りにしている。
病気であっても、家族を支えている俊子さん、偉い。



ふすまを開ける。
苦しげにもがいている俊子。
抱き起こす。
息が詰まる。

その瞬間。

まよわず口を吸い、痰を吸い出す篤蔵。
その深い愛情。
思い出すだけで、今も泣いています。



お正月。
医者から「年を越すのは無理でしょう」と言われていたことがわかる。
家長自ら打ったそばを、俊子を囲んで食べる。
除夜の鐘が鳴り始める。
箸が止まる。
年を越した。
無事に。
一家そろって、正月が開けた。
「あけまして、おめでとう。今年もよろしくお願いします。」
この言葉にこれほどの重みを感じたことがあっただろうか。

篤蔵と、俊子と、ふたりだけで特製のそばがきを食す。
ひとつひとつの色と形が、すべて篤蔵の愛の形。

「ジュテームってなんですか?」

それは、食うこと。
あなたより長生きしますということ。

俊子はその言葉を口にした時の自分を思い出しただろう。
兄を失って悲嘆に暮れる篤蔵が、一緒にいてくれと求めたときに返した言葉。
あの時の思いを表したのが「ジュテーム」という言葉。
それこそが、愛。



早く立ち直れるのは、子どもは今を生きているから。
子どもは未来に進んでいかなければいけないから。
そのために必要なエネルギーはもう母から受け取った。
変顔も含めて。
婚礼の夜、二人を近づけてくれた、あの、変顔を、受け継いだのは一番幼い周二郎。
またまた号泣。


この家族を支えてくれた大勢の人たちも暖かかった。
宇佐美さん、辰吉さん、新太郎さん、お梅さん、宮前さん、皇太后。
ほんとに、幸せな子やね。
これからは子どもを支えていかんと、ね。



他にも書きたいことは一杯あるんだけれどね。

もう次は最終回。。。。。まさかこれ以上は泣かされないだろう。。。きっと。。。。。。

6月28日 聖日礼拝

ルカの福音書 6章 1~5節
「人の子は安息日の主です」

「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
すると、あるパリサイ人たちが言った。『なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。』
イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。』
そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です。』」
ルカ 6:1~5

ユダヤ教徒にとって、最も大切な戒めをめぐって、イエスとパリサイ人は対立していきます。
表面的にはおもしろいドラマの用ですが、背後には学ぶべきメッセージがあります。

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」
出エジプト 20:8~11

これは、モーセを通して与えられた律法です。
この律法がどのような時期に与えられたものかが大事です。
ヤコブの12人の息子のうち、父に溺愛されていたヨセフは兄たちの恨みを買い、エジプトに売られてしまいます。
その後、様々な体験をしながら、不思議な導きによって、エジプトの総理大臣に登用されました。
それを知らないまま、ヤコブと一族は大飢饉をのがれてエジプトに助けを求めていきます。
彼らは飢饉の後もなお滞在して、やがて200万人にも増えていきました。
主は、その子孫、イスラエルの民を、約束の地カナンへ向かわせようとして、苦難をおm用いてエジプトから導き出されました。
当時イスラエル人はエジプトの言葉を話し、エジプトの文化の仲で生きていました。
神の民に成るためには、神のルールが必要でした。
それが「十戒」であり、イスラエル国家の土台となりました。
荒野から約束の地に入ってイスラエルという国を作っていくための土台です。
それは、荒野で与えられた最も基本的な教えです。
エジプトでは奴隷でしたが、今は神の民として、このように生きるように、と示された指針でした。

イエスの言葉と行動を見ていて、パリサイ人は無視できませんでした。
イスラエルが捕囚から解放されたとき、二度とこのようなことが起きないようにと、律法を教えるために建てられたシナゴーグ毎にパリサイ人がいて指導していました。
彼らはイエスに対して、
「罪を許せるお方は神ひとりだけだ」
「レビの催した宴会に、罪人と席を共にするなんておかしいではないか」
と、批判的な目で見ていました。

ある日、麦畑の近くを通りながら、弟子たちは穂を摘んでいました。
それをパリサイ人は見逃しませんでした。
まるで探偵のようです。
彼らは、イエス一行の行いが律法にかなうか、かなわないのかを見ていました。
それは、自分の生活に直接関わり合うことだったからです。
かかわりがなければ関心もありません。

「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」6:2

と、彼らは問いかけました。
パリサイ人たちは、弟子がした行為のどこに目を留めて、関心を示したのでしょうか?
「安息日にしてはならないこと」をしたと言っています。
彼らは、弟子たちが他人の畑から麦を摘み取ったことを責めているわけではありません。
これは申命記で認められている行為でした。

「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」
申命記 23:24,25

これは当時の「社会福祉制度」でした。
貧しい人や旅人は、人の畑から作物を取ってもよかったのです。
ただし、今日の「ブドウ狩り」「イチゴ狩り」と同じように、ルールがありました。
手で取るのはかまわないが、カゴを用いてはいけない。
手で摘むのはいいが、鎌を使ってはいけない。
自分の必要のために用いるのはいいが、それで商売をしてはいけないのです。
では、何がいけなかったのか?
それを「安息日」にしたのがいけなかったのです。
なぜなら、安息日にはどのような仕事もしてはならないからです。

パリサイ人たちは「安息日にしてはならない仕事」を具体的に適応するために39のリストを作りました。
さらん、それぞれに6個ずつ細目を作りました。
何が仕事なのか、という定義です。
細かい規則を作り、徹底しました。
例を挙げると:
 種まき、収穫、脱穀、パンを焼くこと、煮炊き・・・
パリサイ人たちはそれを会堂で教えていました。
それなのに、イエスは弟子たちと共に、堂々とやっていたのです。
これは許せない。
人々の注目を集め、みながその教えに心を開いているのに、そのイエスが平気で律法を破っているのですから。

なぜ人は腹を立てるのでしょうか。
自分が大事にしているもの、守っているものを、けなされたり「どうでもいい」と言われるときです。
彼らはカチンときました。
彼らにとって安息日は最優先事項でした。

世界の3大宗教といわれているユダヤ教、イスラム教、キリスト教。
この3つを簡単に見分ける方法があります。
「いつ休むか」を見ればわかります。
イスラム教徒は金曜日、ユダヤ教徒は土曜日、キリスト教徒は日曜日に休んで礼拝します。
では、一日も休まないのは?・・・日本人。というジョークがあります。

安息日を守ることで「神の民である」ということを保証しているのです。
彼らの基準ではその律法に違反しているのに、イエスと弟子たちは神の教えを説いている。
それが許せかった。
「安息日をどう守るか」が論争の的です。
そこで、イエスはダビデの例を挙げました。

「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
6:3,4

神に捧げられたもので、神しか津会えないものが取り分けられていました。
しかし、一部は祭司とその家族のものになって、市場にまわされるものもありました。
そして、ダビデは「祭司以外は食べてはならないもの」を食べた(正確に言うと祭司がダビデに与えた)のです。
なぜでしょうか?
ルールを守ることは大切です。
ルールは守るためにあります。
ただ、それよりも大事なのは、何のためのルールか、ということです。
主は人の為に安息日を定められました。
人を真の意味で生かすために。
その心を忘れて、形だけを守っているとしたら、それは主に喜ばれません。

イエスの一行は、形式上は律法を破ったことになります。
パリサイ人に作った細則に違反したのは確かです。
パリサイ人の解釈基準には違反しましたが、本来の目的からは違反ではありません。
「人の子は、安息日の主です」というイエスの言葉は、「安息日を定めたのは私だ」という宣言でした。

イエスは、もっと根本的な問題、律法の主旨を大事にされました。
「ねばならない」から守るのではなく、縛るのではなく、離法から解放するために主は来られました。
エジプトでは休むことなく働かされていたイスラエル人に、これからは神の民として、6日は働くが、奴隷ではないのだから1日は働かずに神と家族との交わりのために用いるように、と定められたのです。
そうしないと、仕事の奴隷になってしまいます。
6日間で全ての働きをせよ、と。
7日目には休むためにやりくりして、1日は休むように。
この、本来の意図を知っておくことが大事です。

では、今日学ぶべき事はなんでしょうか。
ルールはたくさんあります。
「そんなものは破ってもいい」と言ってはいけません。
律法を与えられた神の心を理解することが大事です。
その妨げになるのは「私の心」「私のこだわり」「私の経験」です。
パリサイ人は、「これが神の律法を守ることだ」と信じた細目にこだわって、手放すことができませんでした。
私たちにもそういう危険はあります。

たとえば礼拝の仲での讃美について、世代間で考え方の違いがあります。
伝統的な荘厳な曲が礼拝にふさわしい、と考える方もあるでしょう。
一方で、そのような曲では讃美の心を表現できない、わかりやすい言葉とリズムで表現したい方もいます。
しかし、大事なのは楽器やメロディではありません。
心を広げ、柔らかくできるように祈っていきましょう。
新しいぶどう酒を入れられる、新しい皮袋になりましょう。

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続けて3部作を堪能できる一日です^^

といっても、リアルタイムだとどうしても、家事の都合で途中で途切れてしまうんですけれど。
美しいなぁ。剣心!
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プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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