5月24日 合同礼拝

ルカの福音書 5章17~26節
「罪の赦し」

「罪が赦される」とは、「神との交わりを回復し、永遠の命を得ることができる」とは、どういうことでしょうか?

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた」5:17

イエスは町々を巡っていきました。
その癒しという愛のわざを見聞きした人々は、イエスのもとにやってきました。
課題を抱えた人だけでなく、教会の指導者たちも群衆にまぎれてイエスの話を聞いていました。
彼らはあらゆるところから来ていました。
イスラエル人は成人男性10人ぐらいを単位として町内会、あるいは家庭礼拝のようなものを持っていました。
それがシナゴーグです。
これを指導していたのがパリサイ人と呼ばれている人々で、町々村々にたくさんいました。
彼らはイエスのうわさを人々から聞いて、正しい教えなのか、どう指導すべきかを確認する必要があったのです。

「するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。」
5:18,19

ある日、多くの人々が神の国の言葉を聞いていると、男たちが、おそらく4人以上で、中風を患っている人を床のまま運んできました。
男たちはイエスの所に病人を届けようとしていました。
その背景は書かれていません。
可能性を想像してみましょう。
・中風の人が「ぜひ行きたい」と頼んだ。
 自分では行けないから、家族か友人が運んだのだろう。
・彼の友人が「一緒に行かないか。君の課題が解決するかもしれない。」と誘った。
どちらにせよ、担ぐ人も、担がれる人も、イエスのところに生きたいと思い、そしt栄光と決めました。
彼らは病人を寝たまま連れて行きました。
男の人を、床に乗せたままふたりで運ぶのは大変な事です。
なので、4人で行った可能性が高いと思われます。
しかも屋根をはがして吊り下ろすには、おそらく4人以上必要でしょう。

イエスが近くに来られると言うことを聞いた人々は、力を合わせてイエスの前に出ようとしました。
しかしどうにも方法が見つかりませんでした。
そこで屋根を引きはがしたのです。
普通はしないでしょう。
自分の家の屋根でもしないでしょう。
前代未聞のできごとだったと思われます。
なぜそこまでしたのでしょうか。
なぜイエスの前に連れて行ったのでしょうか?

「連れて行ったら、イエスが解決してくださる。」
と信じていたからです。
そうでなければそこまでのことはしないでしょう。
私たちの日常生活についても同じ事が言えます。
「なぜここまでやるのか」
「なぜそこまではやらないか」
それは、そこまで強く思っているかどうか、強く願っているかどうか、です。
「そこに行けば解決する」と信じているかどうか。
強い願いがなければ、信じられなければ、ここまでのことはしなかったでしょう。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7:7

求めれば与えられます。
探せば見つかります。
たたけば開かれます。
多くの場合、「こうだといいな」という願望はあっても、「難しい」「ダメかもしれない」と思ってしまいます。
そういう人は熱心に求めることをしません。
病人を運んだ人々は「何とかしたい」と強く願いました。
困難な状況が起こっても、乗り越えて、イエスの前に病人を連れて行きたいと願い、力を尽くしました。
知恵を尽くし、力を尽くして、イエスの前に出ようという思いはありますか?

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:5

全力でそうしたいと思っていますか?
人生を諦めていませんか?
もし本気で課題を解決していただきたいと思うなら、まずその解決のために踏み出すことです。
どこに解決の道があるのかを探すことです。
共に行ってくださる人々を探すことです。

人々がイエスと話していたとき、上からミシミシと音がして、見上げると屋根がぽっかりと開いて、人が降りてきました。
言ってみれば、礼拝中に、この講壇の前に降りてくるようなものです。
もしもそんなことが起きたらどうでしょう?
「不謹慎だ」と思う人もいるかもしれません。

「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」5:20

イエスの反応は、「何をしているんだ!」という叱責ではありませんでした。
その状況を見られました。
病人と目が合います。
そのときイエスは「彼ら」の信仰を見られました。

ここに私たちの考える「信仰」との違いがあります。
私たちは信仰を、「心の中で信じること」と考えています。
間違ってはいませんが、それは静的な解釈です。
内面を強調しがちです。
イエスは、彼らの熱心な、行き過ぎだと思えるほどの行動の中に「信仰」を見ました。
それは、「イエスの前に行けば、必ず解決して下さる力を持っておられる」という信仰です。
どんな困難があっても成し遂げよう、と決意して向かって行った信仰です。

イエスは、「友よ」と呼びかけられました。
そして、病気が治るために来たのに、彼に「罪は赦されました」と言われました。
聖書が言う「罪」は、犯罪や過ちのことを指すのではありません。
創造主とのつながり、絆が失われている状態を言っています。

恵泉会ではリサイクル事業もしています。
昨日「電子レンジを持って来ました」という方がありました。
まだ使えるけれど、不要になったので、ということでした。
さて、みなさん、考えてください。
この電子レンジの中に何かを入れて、ボタンを押すと、何が起こりますか?
・・・
何も起こりませんよね?
コンセントに差してなければ、どんな機会でも動かない、ただの箱です。
私たち人間も、どんなすばらしい可能性を持っていても、命の源である神とつながっていないと、可能性は表れてきません。
「死んでいる」のです。
つながるときに初めて「生きる」のです。
「罪人」という言葉は、私たちの心が黒いとか、私たちは悪者だ、というのではありません。
私たちだけでは可能性を引き出すことができないということなのです。
神との命のつながりが回復する必要があります。

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」マタイ4:17

イエスはそのように招かれました。
しかし、全員がイエスのもとに来たわけではありません。
中風の人の信仰は、
「イエスの前に言って、自分に関わって頂くことが解決につながる」
というものでした。
招きに応じて、最大限の努力をして、イエスとつながろうとしました。
イエスは、伸ばした手を掴まれました。
病人は、病の癒しを願ってきましたが、イエスにはその信仰が見えました。

先週間なんだツァラアトの人の、
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
というのと、全く同じ信仰です。
「ふれて欲しい、関わって欲しい。」という願いがそこにあります。

神は、人生の闇や苦しみ、悩み、困難にふれてくださいます。
そう願わなければ、そうなりません。
逃げ回っていてはいけません。
イエスには課題を解決する力があると信じて、ふれて頂くことを祈り求めること。
そこから行動を起こすこと。
初めてイエスの元に来るには勇気が要ります。
多くの人は友人に紹介してもらって来るでしょう。
信仰を持つにはだれかの助けが必要です。
人生がよりよくなるためには、自分だけが努力してもダメです。
私たちは交わりの中で生きているからです。
つながりの中で、生きているからです。
身近な人が友となり、共に神を求める信仰を持っていることが大切です。

この病人たちも初めから信じていたわけではないでしょう。
イエスの言葉を聞き、みわざを見ながら、少しずつ「信頼できるかもしれない」という信仰が芽生えていきます。

だから、私は新しく来られた方に信仰を迫ることはしません。
私は、スーパーで店員が近づいてくると出口に向かうタイプです。
自分でじっくり品定めをして考えたいからです。
病人と、その仲間たちは、自分なりに考えて、その積み重ねの中で、チャンスを逃すまいと大胆に近づきました。
信頼が増したら一歩進めばいいのです。
強引に引っ張っても、それは信仰ではありません。
彼らは命のつながりを回復しました。
その後で、病を癒されました。
病の回復が重要なのではないからです。

私は牧師の息子として教会で育ち、色んな人の人生を見てきました。
病は治っても、いずれまた病になります。
問題が解決しても、また別の問題が起こります。
では救いって何でしょうか?
「立ち向かう知恵と力を与えてくださる方とのつながりがある」ということです。
共に立ち向かって下さる方がいてくださることです。
地上から、人生から、問題がなくなることはありません。
しかし、問題を乗り越える力を、イエスは与えて下さいます。
また、中風の人の場合と同じように、仲間が与えられます。
そうして人生はよい方向に向かって行くのです。
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+act

2015-05-29 22.03.48

+act。
絶対買いましょう!
表紙はもちろんのこと。
写真がもう!!!
坊主頭であの色香。
あのジュテ蔵と同一人物とは到底信じられません。

しかも!
インタビューが最高です
聞き手の方、佐藤さんの言葉を引き出すのが上手!
その言葉がいちいち深いんだ、これが。
俳優という仕事が、心身を削る作業だと言うことが伝わってくる。
あと3日でクランクアップらしいけど、ぜひここでゆっくり休ませてあげてください。

ていうか、6月3日たけてれだし
重大発表ってなんだろか?

想定外

エアコンの取り付けに備えて、私、朝から頑張りました!!!

ふとんをたたんで!
部屋のいろいろなものを、子ども部屋にうつしたりクローゼットに押し込んだり、押し入れに詰め込んだり!
二部屋掃除機掛けて!
最小限のトイレ掃除して!

やればできるじゃんか、私!!!

そして帰宅したらエアコンは変わっていなかった。。。

やはり非常に取り付けにくい位置なので、根本的にいろいろ考え直さねば成らず。
いろんな可能性で見積もりを作って置いて行かれました。

さて、どうしましょうか???
本格的に暑くなる前になんとかせねば

真夏~~~

なんやっちゃーこりゃ~~~!
な暑さですね

おまけに何の花粉だか、鼻がグズグズ・・・

2階の居間と、ふーみんの部屋のエアコンが調子悪いので、思い切って買いました。
明日取り付け工事。
うちのエアコン、室外機が微妙な位置に置かれてるので、業者さんやりにくいだろうなぁ。。。
ほんと申し訳ないけど、早く取り付けて欲しいわ^^;

春の小旅行^^

もう1週間ほど前になりますが、春のデート♡
今回は、まず京都に行きました。
法然院。
拝観料は無料ですw

まずは、お庭。

2015-05-20 10.06.07

中にはいるとすぐに砂盛があります。

2015-05-20 10.21.08

ここには谷崎潤一郎のお墓があるんですよ。
「寂」と「空」という文字が刻んであります。

2015-05-20 10.24.10 HDR

さらに、河上肇のお墓も。

ここからお昼を食べに行きました。
その名も「グリル生研会館」!
あまりそそられるネーミングではないですよね。
ところがどっこい、ここのシチューが絶品なんですよ^^
しかし、、、写メるの忘れましたw

実は開店時間の1時間も前に着いてしまって。
すぐ裏手にある下鴨神社を散歩。

2015-05-20 11.31.59 HDR

2015-05-20 11.32.48

御手洗社。
ここがみたらしだんごの発祥の地らしいですよw

2015-05-20 13.51.50

午後は滋賀県に入って、大池寺へ。

2015-05-20 14.00.31

さつきのお庭で有名だそうです。
ちょっとまだ早かったみたい。
ちょうど今日あたりが見頃かもしれません。
ま、ちらほらとは咲いていましたから、よしとしましょう。

いつも旅のナビゲーターはダンナさま。
ほんとによく調べてて、いろんなことを知っています。
尊敬!

天皇の料理番 第5話

ううううぅぅう。
切なくて辛くて悔しくて。。。

流産して寝込んで、でも夫からはなんの音沙汰もない・・・
これは辛すぎるわ。
俊子が篤蔵を責める言葉は、本心だから、真に迫っている。
あふれ出しそうな「愛」を押し殺して、きっぱりと別れを宣言する俊子。
でもそれは、「篤蔵が町の定食屋で終わるわけがない。」「宇佐美さんのようなコックになるんじゃなかったの!?」という思いから出たもので。
篤造さんの足かせになるぐらいなら身を引こうという。

その愛に気付かず、怒りに打ち震えて傘をたたきつける篤蔵。
さらに、二百円よこせという要求。
もうむちゃくちゃ。
でもそんな篤蔵を追って外へ駆け出す兄やん(TT)

しかもバンザイ軒のおかみさん!!!!!


華族会館も寂しげ。
荒木がやめちゃったから、辰吉さん、チャンス!
ペテ公の穴を埋める新人はやくざものばかり。
ペテちゃん、希有な存在だったんだなぁ。
宇佐美さん、辛い。

ああ、早く続きが見たい!
次はほっこりするお話だといいなぁ。

5月17日 聖日礼拝

ルカの福音書 5章12~16節
「わたしの心だ。きよくなれ。」

今日の中心聖句は、イエスが病の人に言われた言葉です。
父なる神が御子キリストをお遣わしになり、みこころを語り、みわざをなして下さいました。
私たちは「みこころ」「導き」ということをよく言います。
聖書の中にイエスの心が語られている箇所がいくつかあります。
ここで語られているのは、私たちが「きよくなる」ことです。

今日の箇所を理解するために、旧約聖書を開きたいと思います。

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。
『イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。』」
レビ19:1,2

これは、十戒の冒頭です。
神の律法の根底に流れているもの、それは「聖となる」ことです。
神ご自身が持つ聖なるものを、私たちも受け継ぐものになることです。
新約時代の私たちは、
「律法の時代は終わった」
と考えやすいのですが、イエスは、
「律法廃棄されたのではなく、成就された」
のです。
「わたしの心だ。きよくなれ。」という言葉には、父が律法を与えたのと同じ心があります。
神の心は、私たちがきよくなることだからです。

先程讃美した歌詞に「十字架の血にてきよめたまえ」とありました。
では、十字架への信仰によってきよめられるとは、どういうことでしょうか?
今日学ぶひとりひとりの出来事を見ながら、心を留めていきましょう。

「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』」5:12

ツァラアト、という訳語は、聖書翻訳の中で議論のあった部分です。
古い翻訳では「らい病」と訳されていました。
「重い皮膚病」と訳された時期もあります。
それは、日本でも強烈な差別が行われてきた病ですが、聖書に描かれているこの病と完全に一致するかどうかも不明でした。
その病にかかった人々は、空気感染や接触感染するという誤った恐れから、隔離されていました。
イエスの時代もそうでした。
なぜ今は「ツァラアト」と記されているのでしょう。
この言葉は、聖書のことばそのものの音声を写し取ったものです。
にほんごにぴったり合う言葉が見つからないので、誤解を避けるために音声表記をすることにしたのです。
しかし、ツァラアトと言われても、私たちは何も連想できません。

当時ツァラアト患者は「罪深い者」とされていました。
病気が治るまで、一般社会の中での生活が禁止されました。
完治したなら、祭司の元に行き、「きよめ」を宣言してもらうことになっていました。
病気なら医者に行くはずです。
当時、ツァラアトが単なる病気ではなく、罪の結果だと理解されていたことが、このことからもわかります。
だから、罪が解決したことを判断するのは祭司だったのです。
また、ツァラアト患者と接触することによって、罪に染まると考えられていました。

さて、イエスは全身ツァラアトの人に出会いました。
彼はひれ伏してお願いしました。
「お心ひとつで、私をきよくしていただけます」と。
イエスは手を伸ばして、彼に触りました。
周囲には衝撃が走ったことでしょう。
もし触ったら、自分も汚れるのに!
イエスは、遠く彼彼に近づいて行きました。
普通は離れていくはずなのに。
イエスが進んでいくと、弟子たちもついていかざるを得ません。
心の中はドキドキだったことでしょう。
さらに、イエスは、こともあろうに彼に触ったのです!
「わたしの心だ。きよくなれ。」といいながら。

「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」5:12

これは、彼の信仰告白です。
私たちはそう言えますか?
きよくできるのは神のみです。
私たちがきよくなるには、神にかかわっていただかなくてはなりません。
彼は、イエスのうわさを聞いていたのでしょう。
でも、自分から近づくことはできません。
それでも、「イエスは預言されていた救い主に違いない!」と思って叫んだのです。
彼は、
「自分には罪がある。この病はその結果だ。
 人は自分を汚れた者と呼ぶ。」
ということを知っていました。
イエスは、それをきよめることのできる方だと信じていました。

イエスは彼に近づき、ふれて、

「わたしの心だ。きよくなれ」5:13

と言われました。
信仰は「つながり」です。

「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ヨハネ15:3~5

木が幹につながっていないと、成長することはできません。
罪や汚れは、命の源である神とのつながりが断ち切られているということです。
清められる、とは、生命の源である神と、イエスを通してつながり、結びあわされることです。
「純粋無垢」とか「雑念がない」ことではありません。
神から離れて生きていることそのものが罪であり、汚れです。
幹とつながることが大切です。
ツァラアトが癒されたことは、その象徴です。

罪ある者にふれることで、自分も汚れる。
これは、イエスが私たちの罪を背負ってくださったことを示しています。
イエスの側から私たちにつながってくださるのです。
同時に、「きよくなれ」ということばは、イエスの身代わりによってきよめられることを示しています。

幸いとは、イエスを通して私の人生にふれてくださったこと。
イエスは、よいことも悪いことも、全てを引き受けて下さいました。
聖なる者、神の民。
キリストとつながることによって、私たちは神の民とされました。
イエスの心を知っているから、主のみこころが実現する為に私を用いてくださいと願う。
これがクリスチャン生活の根底に流れる命の源です。
イエスへの信仰によってきよくされたから、キリストの言葉を信じ、キリストの言葉のように生きていくのです。

「だれかがそれをしてくれる」のではありあません。
取り組む人は祝福されます。
それぞれ遣わされた場所で祈り、労苦するとき、神の驚くべきみわざを経験することができます。
福音を実際に伝えることは簡単ではありません。
恐れの心が生じます。
真剣に主のみこころを行おうとするなら、様々な怖れや葛藤が生じます。
そのとき、
「自分お力ではない。
 神がその力を表してくださっている」
ということがわかります。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」歴代Ⅱ16:9

「心が全く一つになっている人々」、それは、「きよくあれ」という神の思いと同じ思いを持つことです。
罪の根本原因は、神とのつながりを失っていることです。
それを回復することが宣教であり、証です。
望むなら、主はかかわってくださいます。
信仰の応答が必要です。

ここで強調されていることはこうです。
キリストは私たちがきよくなることを願っておられる。
「治して欲しい」と願ったから叶えられた、のではなく、彼の心がイエスの心と一致していたからいやされた。
神が「召したい」という意志が先にあった。
それがなければ受けることはできない。
招きがあるから応答できる。
神はきよくしようと待っておられる。
すでにきよめられている者の使命。=キリストの心とぴったり合わせていく。

【速報】

もっくんが中学初のテスト結果を持ち帰ってきました。

な な なんと!

もうこれ以上は上がないというとんでもなくよい結果で・・・

ほんとによくがんばりました!!!

しかし・・・

これは維持するのが大変ですよ

そろそろ?

今日は早めに仕事を終えて帰宅。
玄関先のツバメの巣を見たら・・・
ちょこんと座っていました!
昨日は留守だったんですよね。。。
ひょっとしてひょっとすると?

暖かく見守りま~す^^

天皇の料理番 第4話 書き足しました(^^;

なんだろう。
見終わって、辛い気持ちが残る。
登場する人物すべての心に、無念や後悔がある。
いや、荒木だけはスカッとしているのだろうか。

志半ばで病に伏す兄やん。
ようやく学んできたことを実践に活かせる場を与えられたのに。
篤蔵への、篤蔵の持つ自由と情熱への、憧れに、涙。

蹴られた瞬間、
「あぁぁぁ。。。3度目だ!」
と思いました。
宇佐美さんの心の内を思うとやりきれない。
篤蔵の内に燃える料理への情熱と実力を感じ取り、フランス語の辞書を譲り、、、
早すぎると言われても譲らず、野菜係シェフに推したほどだったのに。
たばこをくゆらせながら、背後に篤蔵の気配を察していただろう。

辰吉は自分を責め続けるだろう。
客観的に見たら、辰吉がしたことは全然悪くない。
知ってしまったことを告げ口したくないから、もう行くな、と伝えたのに、篤蔵は行ってしまったのだから。
倒れているはずの兄やんから預かった手紙を上司に渡す。
「あいつ、どこに行ってるんだ?」
となる。
いつまでも隠しおおせるものでもなかったろう。
それでも、自分を責めるだろう。

俊子。
ようやく、軌道に乗り出した、と安心しかけたところへ、この知らせが届くのか。
というより、早産ですか?
赤ちゃんは大丈夫なの?

篤蔵を華族会館に紹介した先生も、いずれこのことを知るんだろうなぁ。
息子を呼び行かせた五百木さんは、ねえ、どんな気持ち?

そして、だれよりも篤造さん。
元はといえば、家族を養うために、嘘をついてまでして出世を急ぎ、仁義を欠くかけもちを始めたのが原因で。
料理を覚えることの楽しさが、「まごころ」に勝ってしまった。
たぶん、単なる嫌がらせなんかには屈しない「俺正義」的なものを、篤造さんは持っていると思う。
でも嘘が、身を滅ぼすんだな。
しかも、苦し紛れについた嘘が事実となり愕然。
兄やんが調子悪いのは薄々感じていたはず。
だからこそつらつらと「兄が病気で」という言葉が出たんだと思う。
だけど、篤蔵は自分のことで精一杯。
兄やんの体を心配することよりも、自分の相談にのってもらうことしか考えていなかった。
そんな諸々が一気に胸に迫ってきて、どやっじゃ~~~(TT)

荒木さんだって、まあ、性格は悪そうだけど、「不正を見抜いて暴露した」ことは「悪いこと」とは言い切れない。

このようなことが頭の中をぐるぐるして、きのうからずーっと考えてばかりいる。
こんな気持ちでドラマを見るのは久しぶりだわ。
えっと、、、次が第5回?
12話の半分近くまでいっちゃうじゃないか!!!
篤やん、がんばって~~~~!

~追記~
ふと思ったんだけど。

篤蔵の偉いところをひとつあげると、恨みを抱かないところだと思う。
荒木さんに対しても、嫌がらせに対して言いたいことは言うけど、華族会館を追い出されたことに関しては何も言ってない。
辰吉に対しても、責める言葉は言わない。
五百木さんにも、職探しを助けて欲しいとは言っても、恨み言は言っていない。
そこは育ちの良さからくるのかもしれないけど、だから憎めないのかな。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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