4月19日 聖日礼拝

ルカの福音書 4章 31~37節
「みことばの権威と力」

丸山スタッフの働きが4月から始まっています。
住み慣れた所を離れて、新しいことにチャレンジするのはストレスです。
新しい人間関係を構築するのにはエネルギーが要ります。
次世代の育成のために、私たちの教会だけでなく、地域の若い世代に仕えるために、私たちは丸山スタッフを迎え入れました。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」マルコ 16:15

このみことばを目指して、hi.b.aは1951年にスタートしました。

石巻を訪問したとき、吉田先生、栗原先生とお会いしました。
石巻クリスチャンセンターの評議委員会には4人の若いスタッフが同席していました。
「なぜ若い人がこの石巻の常駐スタッフとして働いているのですか?」
と私は尋ねました。
それぞれの方に背景は違いますが、共通するキーワードがありました。

①招き、召し

ビデオや、スタッフの報告や、ニュースレターを通して、招きのみことばを聞いた、と言われました。
そして、心を動かされたと。
4人ともです。
形は違っても、神からの招きを受けて、心の中に
「もしかしたら自分がかかわるべきだろうか?」
という思いを持ったというのです。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」ローマ10:14

と言われているとおりです。
このことからも、ニーズを伝えることの必要性を感じます。

②励まし

「もしかしたら自分がやるべきなのだろうか?」
という思いがあっても、迷いもあります。
中には会社をやめて来た人もいました。
心が揺れたときに、チャレンジする思い。
踏ん切りが付かない時に、身近な人が、
「君、一緒にやらないか?」
と、ある人は5回もチャレンジを受けたといいます。
そして決心したと。
主のための働きを訴えることが必要です。
志を持った人に働きかけ、チャレンジし、一緒にやろうと励ますこと。

この訪問では、3日間で24時間バスに乗り、疲れましたが、励まされました。
「収穫は多いが、働き手が少ない。」マタイ9:37
というみことばに応えて、チャレンジしていきたいと思いました。

さて、イエスがガリラヤのカペナウムに下られた後、安息日ごとにシナゴーグで教えられました。

「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。
人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」
4:32、33

イエスの教えにはひとつ違いがありました。
権威があったのです。
では、それまでの教えには権威がなかったということなのでしょうか?
そうかもしれません。
みことばの権威に一尾tが気付くかどうか、です。
では、権威とは何でしょうか?
威圧すること、押さえつけること、ではありません。
その人が語るだけで、その言葉の重みを知る、ということです。
権威のない言葉も、知識の伝達として受け取ることはできます。
それを蓄えることもできますが、
「そうはいっても…」
と、反論や疑いが起きてきます。
権威は、その疑いや迷いを起こさせません。
「その人が言うなら、そうなるに違いない」
と思うのです。
一役人の言葉と、首相の言葉では重みが違います。
首相が約束したなら、それは実行されると受け止められるでしょう。
最終決定権のある人が言った言葉なら信頼できます。
イエスは「聖書のお話」をしたのではなく、神の子の権威を持って語られました。

「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」ヨハネ4:34

イエスは自分の考えることを述べたのではなく、遣わした方のみことばを語り、みこころを行いました。
また、イエスはピリポに、

「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」ヨハネ14:9

と言われました。
イエスはそのような使命感を持ち、生きていました。
だから他の人とは違っていたのです。
父の尊場を語り、みこころを実行する。
そこに権威がありました。

「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
『ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」
4:33,34

聖書で言う「汚れた」とは、「神から離れている」という意味であり、「清い」とは、「神の下にあり、神のそばにいる」という意味です。
その汚れた霊は、じっとしていられませんでした。
聖い人の前に立つと、私たちは自分の中にあるものを見通されるので、自分の内にふたつのものがあることに気付きます。
イエスがこの地上に来られたのは何のためでしょうか?
罪人を救うためです。
救うためには、その罪が表される必要があります。
イエスによって、私たちの自分の内のシミや汚れや矛盾が明らかになります。
イエスの前に出ると、責められる思いが生じるのはそのためです。

うちではモモという名前の犬を飼っています。
いつもはちぎれんばかりに尻尾を振るモモですが、悪さをすると私の前に立てません。
目を合わせようとしないのです。
犬でさえ。
私たちも神の前に立つとき、心の内に課題があると、目を伏せたくなります。

みことばを聞いて、多くの人は驚きましたが、悪霊につかれていた人は心が騒ぎました。
イエスは罪人を救うために来られたのに、彼は「滅ぼしに来た」と考えました。
正しく権威に向き合わないと、それを「裁く者」ととらえてしまいます。
神の権威は両刃の剣です。
心に責められる思いが起こるとき、サタンはそれを利用して神の愛から引き離そうとします。
しかし、罪責感は回復するために必要です。
それは体の痛みと同じです。
痛むから、私たちはそこをいたわろうとします。
もし痛みを感じなかったとしたら、私たちはそれを放置してしまうでしょう。
痛み、ストレス、不安は、死と滅びから免れるために与えられたものです。
そこから救うために、御子は私たちの前に立っておられるのです。

「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」
ヘブル12:5~7

神のみこころは、「愛しているからこそ、そのような経験をさせる」のであり、そこから立ち上がることを願っておられます。

「イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け』と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。」4:35

「叱った」というのは、「権威を示した」ということです。
私たちも、聖書のみ言葉を聞くとき、「そうなりたい」という気持ちはあります。
しかし、長年この世で生きてきたため、「そうは言っても…」となってしまいます。
人生経験は大事ですが、もっと大事なのは、みことばの権威に従うという経験です。

hi.b.aの「全ての高校生に福音を」という目標を聞くと、「本当にできるの?」「夢じゃないの?」と思えますか。
それでも私たちは「できる」と信じます。
それは難しい、と知った上で信じるのです。
みことばの権威に従って、自分のできることをするのです。
「無理だ」というのは、そのみことばを否定することです。
「私一人ではできません。
 でも、私の持っているもので仕えさせて下さい」
と、世代を超えて受け継ぐビジョンを持って。
陸上協議のほとんどは個人種目ですが、大会の最後を締めくくるのはリレーです。
リレーは一人では勝てません。
あるとき、圧倒的に強いアメリカチームがバトンミスをして、金メダルを逃し、日本が銅メダルを取ったことがあります。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」伝道者の書3:11

大学の時に言われた平野先生の言葉、
「一代目には一代目の、2代目には2代目の、3代目には3代目の役割がある。」
これは私の腑に落ちました。
それはスポーツをやっていたからです。
バトンを受け継ぐこと、次に渡すこと。
そのバトンとは、福音のみことばです。
私たちはそれをしっかり握って走り抜かなければ成りません。

イエスの言葉には権威がありました。
「救われたい」「かかわらないでほしい」
汚れた霊に憑かれた人の心にはふたつの思いがありました。
そして、イエスは悪霊を追い出されました。
今日権威を持つものは、聖書のみことばです。
マリヤは御使いから自分に与えられたつとめを語れたとき、

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ルカ1;38

と、決断しました。
エリサベツはマリヤに、

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1;45

と言いました。
これが、「みことばの権威を信じて、できることをさせていただく」生き方です。
人には不可能と思えても、実現させて下さるのは神です。

みことばを前にしたとき、自分の内にあるふたつの思いが戦います。
私が20代のころは、何を語っても「まだ青い」と言われ、50代になっても「まだまだ」と言われます。
「人生の経験」に関してならそうでしょう。
しかし、神が私たちに語られたみことばに権威の源を置き、必ず実現すると信じていただきたいのです。
福音自由教会の信仰箇条は12箇条にまとめられています。
それは、「聖書を究極の権威、信仰の土台」であるとしています。
自分の知識や経験で神の言葉を選別していないでしょうか。
「主よ、あなたは祝福して下さるのですね?
 私を救うために来て下さったのですから」
と、しっかり救いのみことばを握るとき、人生は変えられます。
主の大宣教命令も、不可能と思わず、信じて歩んでいきましょう。
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お休みだ~\(^o^)/

ご無沙汰です。
もう4月が終わろうとしているのに、まだ新年度の忙しさが続いています。
まあ、その一因は番宣でもありますけどね。
録画して、見て、編集して・・・
HDDの残量とにらめっこです(^^;

そんな土曜日。
久しぶりにお仕事のない土曜日!
サワコの朝でたっぷりと佐藤さんを味わい、採りだめた「まれ」を一気見^^
今週もおもしろかった~!
泣いて笑った1時間半でした。

もっくんは今校外学習で二泊三日の旅に出ています。
お天気にも恵まれて、きっと楽しめていると思います。
小学校の校外学習の時は熱を出して参加できなかったからね。

さあ、午後はのんびり昼寝するかな~

4月12日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 15~23節
「私たちに働く神の優れた力」
              尾張旭福音自由教会 野口恭一師

現在西教会と尾張旭教会はパートナーシップを結んでいます。
その一環として、第5週の日曜日には講壇交換をすることになっています。
月曜日と火曜日には恵泉会にも関わっています。

さて、この手紙はパウロが書いたもので、小アジア(西アジア)にある諸教会へのメッセージです。
教会に宛てられたものであると同時に、神への祈りの形を取っています。

「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」
1:15~17

それは、神への感謝と願いの祈りです。
与えられている霊的な祝福を十分理解できるように、霊の目が開かれるようにという祈りです。

私たちには見えていないところがたくさんあります。
もしもっと見えたら、もっと多くの祝福を受け取り、気付くことができます。
私たちには、古い性質が依然として残っているところがあります。
曇った目が晴れて、見えるように。
罪によって曇った目が、見えるように。
偏見が取り除かれるように。
思い込みが取り除かれるように。
啓示の御霊が与えられるように。
パウロは祈ります。

ここには3つの恵みが書かれています。

「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、…」1:18

各々、「召し」が与えられています。
それに気付けば、祝福になります。

「…、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」1:18

神の子になることで、私たちは霊的な相続を受けます。
それは「栄化」です。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」1:19

神の「優れた力」がどれほどすばらしいものか、知って欲しいとパウロは言います。
それは、内に働く力です。

「神からの召し」、それは、生まれたときから与えられているものです。
それに対して、「栄化」は人生の終わりに与えられるものです。
「優れた力」は、私たちが生きている間の祝福です。

それがなければ救いは完成できません。
その力で、私たちは強く生きることができます。
パウロは、「神の力は十分で完全である」と説得しているのです。
その例として上げられているのが、イエス・キリストの復活と、天に昇り、神の右に座し、全ての権力を従わせるイエスの臨在です。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」
1:20,21

人間社会での圧倒的力は、悪の力、死の力であるように思えます。
これらの力に対して、人はなすすべがありません。
罪に翻弄され、惑わされている人間、問題、犯罪、権力の悪用。
これらをもたらしているのは、この世の悪い力です。
しかし、キリストは死を打ち破られ、やがて悪の力をその足の下に従わせる時が来ます。
その力が、私たちの内に働いているというのです。
私たちは、特別な力に預かっています。
それは、「救い」です。
私たちは、その力を受けています。
イエスの復活の力を味わうチャンスが与えられています。
イエスが、全ての権力を従わせ、最高位に立つ時がきます。
イエスは、日常生活で悩みを引き起こす悪の力を従わせることができます。
時が来たら、絶大な力が実行されるのです。
そのとき、全てが解決します。
現代においては、その力は教会に表されています。
イエスの力に最も近いのは教会だからです。

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
1:22,23

「でも、現実を見ると、クリスチャンにそんな力があるとは思えない。」
「教会の存在感が薄い。」
「無力だと感じる。」
そんなふうに、悪の勢力が圧倒的に強く感じられます。
罪深い人の姿は変わらず、テレビでは相変わらず悪を報道しています。
どこに神の力があるのか?
イエスの絶大な力と権力と、現実とはかけ離れているではないか?
「信仰はこの世の中に通用しない。」
「神の力は当てにならない。役に立たない。」
そうでしょうか?

パウロは

「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」1:19

と願っています。
まだ祝福が十分に分かっていない、受け取っていないのだ、と。
今一度イエスの復活の力、父の右に座している神の力、この世の終わりに全てを従わせる力を覚えたいと思います。
どんな悪の勢力も、キリストには勝てません。
どんなに罪がはびころうと、イエスはそこから人を救い出します。
主は王の王となる時が来る、ということを信じて歩みたいと思います。

世の終わりだけでなく、この世をいきるクリスチャンの内に働いている力はこの世に打ち勝つ力です。
各々に課題が、悩みがあります。
しかし、その課題に対して、イエスの力は必ず打ち勝つことができます。
内に働く力が大きく、強く成っていきます。
もし、その力を体験したら、大きな感謝と希望と自信を持つことができます。
だから、それを知ることができるようにとパウロは祈るのです。
私たちがその力を表せるようにと、主は願っておられます。

その力を表すのに障害となるもの、力に気付かない理由が4つあります。

① 言葉を信じない

人の言葉を信じていますか?
つい、言葉の裏を考えてしまうことはありませんか?
日本にはもともと褒め言葉を受け止められない文化があります。
「そんなことはありません。」
「私にはとてもできません。」
と答えてしまいます。
そして、イエスが「神の力が働いている」と言っているのに、「そうでしょうか?」と反応してしまうのです。
否定すると、その言葉は入ってきません。
そのまま信じていないと。
まず、信じ直すことからスタートしましょう。

② 決めつけ、思い込み

尾張旭は小さな教会です。
「うちは小さい教会だから何もできない」
「がんばってもできるはずがない」
そんな風に思いがちです。
「世界宣教への思いはあってもなかなか…」
でも、一人ではできなくても、助け合い、協力すればできないこともできるようになるかもしれません。

昨年こんなことがありました。
「先生、ヨーロッパで、『キリスト者の集い』があるから、もし世界宣教への思いがあるなら、行ってください。」という申し出があったのです。
私は、飛行機に乗ってヨーロッパに向かいました。
世界各地のクリスチャンとの交わりを持ち、イギリスの方から「もし呼ばれたら行きますよ」と行って頂きました。
「ぜひ来て下さい!」とお願いしたら、本当にすぐに来てくれたのです。
私自身、「小さな教会だから、世界宣教なんて…」と思っていましたが、世界各地の宣教師と知り合って、さらに教会に来て下さることで、「こういう形で世界宣教にかかわることができるのだ」ということが分かりました。
初めから「できない」と閉ざしていると、世界は広がりません。
もしあの時、行かなかったら、このようなかかわりはできなかったでしょう。
今年の秋にも、ドイツから宣教師が来て下さることが決まっています。

③ 行動を起こさない

神が働いて祝福の結果に導いてくださると信じて行動を起こすことが大切です。
うまくいくか、いかないか、は分からないことが多いのです。
「神が望んでいることだ」と信じて行動できるかどうか、がポイントです。

④ 信仰の器が小さい

器が小さいと、受け取ることができません。
入り口で拒んでしまいます。
受け取ろう、考えてみよう、とする器が必要です。

この秋、アジア青年大会が日本で開かれます。
その際、ホームステイを行おうと考えています。
1年前は、中部で受け入れる人数を20人と思っていました。
それが、30人の予定になり、先日56人と言われました。
「何人まで受け入れられますか?」と問われたとき、委員会は「40人」と答えました。
それが56人です!
5日前、プリスコ先生からメールが来ました。
そこには、
「みんなチケットをもう買っています」
と書かれていました。
フィリピンの方はビザがないと日本に来れません。
でもビザはなかなか取れないので、それを待っていては間に合いません。
だから、ビザが取れていないのにもうチケットを買っているというのです。
これが信仰です。
今も動揺していますが、これは主から与えられているチャレンジだと考えています。
まだ何も調整は付いていませんが、56人を中部で受け入れようと考えています。

神は少しずつ私の器を大きくしようとして下さっています。
神の働きに合わせて、器を大きくすることで、大きな祝福が与えられるのではないでしょうか?
西教会が与えられている祝福にふさわしく、用いられていきますように。

よかった~

先日、りーちゃんが玄関のドアを開けて入ってくるや、
「おかあさん。ケータイなくした。。。」
と。
「朝からない。
 車の中かもしれん。」
と。
朝、雨だったので駅まで送りました。
そのときに車内に置き忘れたのかも、と。

さっそく車の中を探索するも、ない。

「これ、やばいやつかもしれん。
 車降りるときに落としたのかも。。。。。」
「え?車の中で出してた?」
「調べてて、『あ、降りる前にポケットにいれなかん。』
 って思ったのは覚えてるけど、ポケットにはなかったよね。」
「誰か拾ってくれてるかも。」
「駅に届けてるかな・・・」
「電話してみよう!」

となって、駅へ電話。
「あの、もしかしてケータイの落とし物が届いていないでしょうか?」
「機種は何ですか?」
「iPhoneです。」
「携帯の会社は?」
「auです。」
「色とかは?」
「えーと、木のケースで、黒くて、黄色いラインが入ってます。」
「あー、じゃ、これかもしれません。
 改札の外で拾われたものですが。」
「そうです!改札の外で落としました!」

いやいや、改札の外どころか、駅の一つ前の信号の手前でりーちゃんを下ろしましたから!
拾った方が駅に届けて下さっていたのが奇跡です!
前にふーみんが駅のロータリーで落としたときには警察に届けられていましたから。

すぐに駅に取りに行ってみると、さすがにケースがちょっとへこみ、本体も縁がゆがんでいました。
でも液晶画面が割れていなかったのは幸い。
ただひとつ心配なのは、雨だったこと。
トイレに落とした私に比べればましでしょうが、ひょっとしてこれから不具合が出てくるかも。
とりあえずバックアップはとりました。
何事もないといいのですが・・・

が、りーちゃんは
「いっそ壊れてれば・・・・・・」
ヲイ!

よかった~

先日、りーちゃんが玄関のドアを開けて入ってくるや、
「おかあさん。ケータイなくした。。。」
と。
「朝からない。
 車の中かもしれん。」
と。
朝、雨だったので駅まで送りました。
そのときに車内に置き忘れたのかも、と。

さっそく車の中を探索するも、ない。

「これ、やばいやつかもしれん。
 車降りるときに落としたのかも。。。。。」
「え?車の中で出してた?」
「調べてて、『あ、降りる前にポケットにいれなかん。』
 って思ったのは覚えてるけど、ポケットにはなかったよね。」
「誰か拾ってくれてるかも。」
「駅に届けてるかな・・・」
「電話してみよう!」

となって、駅へ電話。
「あの、もしかしてケータイの落とし物が届いていないでしょうか?」
「機種は何ですか?」
「iPhoneです。」
「携帯の会社は?」
「auです。」
「色とかは?」
「えーと、木のケースで、黒くて、黄色いラインが入ってます。」
「あー、じゃ、これかもしれません。
 改札の外で拾われたものですが。」
「そうです!改札の外で落としました!」

いやいや、改札の外どころか、駅の一つ前の信号の手前でりーちゃんを下ろしましたから!
拾った方が駅に届けて下さっていたのが奇跡です!
前にふーみんが駅のロータリーで落としたときには警察に届けられていましたから。

すぐに駅に取りに行ってみると、さすがにケースがちょっとへこみ、本体も縁がゆがんでいました。
でも液晶画面が割れていなかったのは幸い。
ただひとつ心配なのは、雨だったこと。
トイレに落とした私に比べればましでしょうが、ひょっとしてこれから不具合が出てくるかも。
とりあえずバックアップはとりました。
何事もないといいのですが・・・

が、りーちゃんは
「いっそ壊れてれば・・・・・・」
をい!

iPhoneケース♪

たけてれのイベントで買ったケースが割れてきて、そろそろ買い換えたいなと思っていたのです。
そしたらちょうど話題になったので、これは買うしかない!
ってことで

2015-04-14 21.46.28

Shibaful。
代々木公園の芝生…?
人工芝ですw

2015-04-11 20.11.06

まあ、こういうことなんですけどね(〃▽〃)
微妙に色が違う?
あ、佐藤さんはiPhone6だからか?

朝ドラ

珍しく見ています。
NHKの朝ドラ。
もちろん出勤前には見られないので、録画してまで。
というのは、操ちゃんと翁が出ているから←違

録画を再生する時は、りーちゃんも一緒。
「音楽の人、うち好きな人だよ」
から始まって、楽しく見ています。
りーちゃんによれば、まっさんに比べれば絶対おもしろくなるって言ってますよw

来週からいよいよパティシエへの道に進んでいくのかな?
恋の行方も気になるしね^^

4月5日 イースター礼拝

ルカの福音書 23章50節~24章12節
「イエスのみことばを思い出した」

イエスが救いを成し遂げてくださった…それが福音です。
イエスは、ご自分が遣わされた使命を自覚しておられました。
今日はバーミツバ式が行われましたが、成長・前進するために大切なのは「自覚」です。
果たすべき使命を自覚すること。
今日、バーミツバ式を経たお二人も、教会も、それを確認したいと思います。

私たちの教会は、福音自由教会の25周年の記念として建てられました。
国内宣教委員会によって建てられた教会は、その地域の拠点となるように祈られていました。
旧海部郡には教会がほとんどありませんでした。
そこで、名古屋の西部地域に福音が広まるようにと、ここに建てられたのです。
福音自由教会は多くがその土地の名前を付けられています。
浦和教会、京都教会、蕨教会。
では、なぜここは「七宝教会」としなかったのでしょうか?
七宝だけでなく、名古屋の西部、海部郡一帯に宣教するという祈りから名付けられて多のです。
当時西本先生は、「未伝地帯、海部郡一帯に…」と祈りを捧げてくださいました。
その使命を再確認したいと思います。

「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。』」ヨハネ4:34

教会には、一年の中で特別な礼拝がふたつあります。
クリスマスとイースターです。
クリスマスは救い主の誕生を記念する日。
イースターは、救い主の死と蘇りの象徴です。

神のあり方を捨てて、人として生き、神のみこころを語り、行う。
イエスは、そのようにして、手本をお示しになりました。
そのために地上に来て下さったのがクリスマスです。

人の罪の身代わりとなって、十字架で死ぬこと。
全ての罪が赦され、神との交わりを再開できるようにして下さった。
それが受け入れられたしるしとして、イエスは復活されました。
それは「初穂」であり、イエスを信じる者全てが「一度死んでよみがえる」というあがないの完成を示しています。
それがイースターです。

ルカの福音書の23章24章から、ポイントを絞って学んでいきましょう。
イエスの墓に言った女性たちは「空の墓」を見ましたが、その事実をどう受け止めるかで二種類の人がいたということに注目しましょう。

人を罪人として十字架刑に処することは、ユダヤ教会の承認がなければできませんでした。
その承認の場で、公然と反対した人物がいました。
それが、アリマタヤのヨセフでした。
そのような人がいた、ということを聖書は書き留めています。

「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。」
23:50,51

「りっぱな、正しい人」とは、神のみこころを知り、実現するように取り組んでいる人のことです。
いつも成功し実を結ぶ、とは限りません。
それも聖書は記録しています。
何とかイエスを救い出さそうとしたが、できなかった…という失望。
無力感が襲ってきたことでしょう。
しかし、ヨセフは「自分にできることはないか?」を考えました。
そして、議員生命をかけて、ピラトに直談判に行ったのです。

通常罪人は、十字架上でそのままさらしものにされます。
ヨセフはイエスの尊厳を守るために交渉し、遺体の下げ渡しを求めました。
自分の願い通り進まなくても、最善を尽くしてみこころを行おうとする姿勢がそこにあります。
これが、「使命感」であり、「志」です。

安息日が近づいていました。
安息日には仕事をしてはいけません。
もう時間がありませんでした。
十分な埋葬の支度もしないまま、イエスの遺体は墓に納められました。

その間、弟子たちは何をしていたのでしょうか?
女性はイエスに関心がありました。
男性は、「これからのこと」に関心がありました。
女性たちはイエスの墓までついて行きました。
どこに納められるかを確認するためです。
彼女たちは、安息日が終わったら、きちんと埋葬したいと思っていました。
目の前の出来事のために準備し、共感して、心を動かしました。

男性は「この事態をどう収集するか?自分たちにまで累が及ぶのではないか?」
と、対策会議を開いていました。
興味深い対照です。
が、それは、それぞれに与えられた賜物です。

復活を最初に知ったのは女性たちでした。
3人の女性たち…と、他の多くの女性たちです。

「この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。」24:10

名前を挙げられている三人は、リーダー的存在でした。
名を記録されていない人々も、神様は覚えておられます。

「入って見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。』」
24:3~5

最初女性たちはなんのことかさっぱりわかりませんでした。
私たちも、聖書を学びますが、現実の出来事の中で聖書の言葉が思い浮かびません。
そこに働く神のみこころが分からなくなってしまうのが、私たちの日常です。
それを自覚することが大事です。

御使いたちは女性に

「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
24:6,7

と語りました。
「思い出しなさい!聞いたはずだ!」と。

マルコの福音書によると、イエスはご自分が十字架に架かるということを少なくとも3℃示しておられます。
また、マタイによると、ペテロはこのことに関して特別な経験をしています。

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
マタイ16:21~23

これはペテロだけの経験で、後にペテロに行動を起こさせるきっかけになったと思われます。

「女たちはイエスのみことばを思い出した。」24:8

女性たちは思い出しました。
エルサレムに入場したときにはシュロの葉を手に、「ホサナ」と叫んぶ人々に迎えられましたが、その先には十字架があることをイエスは知っていたのです。
女たちは一部始終を報告しました。
「イエス様はよみがえられた!」と訴えました。
それを聞いた弟子たちは
「よかった!そういえばそうだった!希望が生まれた」
とは言いませんでした。

「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。」24:11

聞いても聞いていない。
これは男性によくある傾向です。
女性は一から説明しました。
しかし、男性たちは土台の情報が間違ったまま対策を立てようとしていました。
ちゃんと聞くことが大切です。

しかし、一人だけ、「ちょっと待て!」と思った人がいます。

「[しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。]」24:12

なぜでしょうか?
イエスがガリラヤで話した時に、「そんなことはあってはならない!」と言って叱られたことを思い出したのでしょう。
確かめてみよう、と思ったのです。
ここに信仰があります。
「信じられない。受け入れられない」と思ったとしても、試してみよう、やってみようという姿勢。
本当は分かっていないのに、「分かってます」と言うと、わかっていないということを表せなくなります。
「分かった気」になってはいけません。
牧師にも分からないことはいっぱいあります。
むしろ、分からないことの方が多いのです。
だからこそ、学びつつ教えられたことを分かち合うのです。
「分からない」ということを認められないこと、それを恥じるべきです。
分からないこと、理解できないことに向き合うことが信仰です。
それに取り組むなら、神のみこころが分かるようになります。
アリマタヤのヨセフのように、最善を尽くし、無力さに嘆くだけでなく、今できることに取り組みましょう。

女性たちもそうでした。
イエスを丁重に葬りたい、というだけの思いで墓に向かい、そこで二人の御使いに出会いました。
御使いによって、イエスのみことばを思い起こさせられました。
それは今日の聖霊の働きです。
直面する現実の中で、主が生きて働いておられることを思い起こすことが大切です。
主は目を注いでおられます。
その主から、みことばによって力と勇気を得て、立ち向かうことができます。
これこそ、最も大きな祝福です。

やっと土曜日

新しい年度が始まって、この一週間は怒濤のごとく過ぎ去りました。
長かった。
そして、今日も午前仕事。
まあ、ついでの仕事がはかどるからいいけれども。

来週は出張はあるし、もっくんの授業参観はあるしで、これまた忙しいこと確定。
はぁ。
しんどいです。
午後は昼寝しましたw

働き始めたふーみん、大学生活のりーちゃん。
二人は節約のため、お弁当を持って行っていますが、なんと先週は一日も欠かさず自分たちで作って持って行きました!
偉いっ!!!
残業して8時頃に返ってくるふーみんですが、今日はお友だちと遊びに行くぐらいの元気さですから大丈夫です。
りーちゃんはおねえちゃんと同じ大学なので、いろいろ授業内容や先生たちの情報を得て、うまいことやってるようです。

もっくんはそろそろ体験入部。
姉たちに、「運動部に入れ!」と言われ、本人、困っております。
まだ授業は本格的に始まってない感じで、宿題もありませんw
でも自分なりに「勉強しなきゃ」という思いがあるようで、ゲームも控えめにしてるようです。
うまく波に乗れるといいなあ。

入学式

もっくんの中学入学式でした。
一人ずつ名前を呼ばれるんですよ。
卒業式みたいに。
お姉ちゃんたちの時もそうだったかなぁ?

2015-04-07 09.05.17

この春、卒業やら入学やら、仕事も含めてフォーマル系の服を8回も着ました!
今日は寒さが大変でした><

今日一日で、入学式と始業式を終えて、明日からは本格的な学校生活が始まります。
うちの中学は、生徒が3つの小学校から集まってくるんですよ。
うまくなじめるといいな、と思います。
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ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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