4月22日 聖日礼拝

マタイの福音書 18章 21〜25節
「赦され歩む幸い」
                      村井義信伝道師



 
 
何度も質問されるので、先に説明したいと思います。
指の包帯ですが、先日仕事中に手を切りました。
カッターで紙を切っていて、
「堅いな」
と思ったら、自分の指を切っていました。
「かみを恐れなければならない」
と思った次第です。



 
 
さて、PHPの本を何気なく読んでいたら、蒲田実先生の手記が載っていました。
それは次のような話でした。



 
 
先生はある時新聞記事を読みました。
パレスチナの12歳の少年が、イスラエルの狙撃兵にライフルで撃たれたという記事です。
30mの至近距離から、腹部を打たれ、さらに眉間を打つ抜かれました。
この少年、アハメド君は、イスラエルの病院へ運ばれましたが、脳死状態でした。
実はアハメド君のお父さんであるイスマエルさんは、我が子だけでなく、父親もイスラエル人に殺されていたのです。
さて、脳死状態のアハメド君の臓器提供をしないかと、お父さんは 尋ねられました。
もしかすると、アハメド君の臓器はイスラエル人に移植される可能性もあるかもしれないと告げられました。
お父さんは臓器移植に同意したそうです。
我が子も、父親もイスラエル人に殺されたというのにです。
  
蒲田先生は本人に会いに行きました。
なぜ、そのような行為ができるのかと問うために。
お父さんはこう答えました。
「もし、目の前におぼれている人がいたとして、あなたは助ける前に国籍や宗教を尋ねますか?」
と。
 
アハメド君の心臓は、心筋症を患っていた同じ年の少女サマハさんに移植されました。
サマハさんは16歳でした。
彼女は医学部を目指しました。
「平和のために働きたい。」
と。
「移植を受けてよかったですね。」
という言葉に、サマハさんは
「まだ半分です。
パレスチナの子どもたちが安全に外で遊べる日が来るまでは。」
と答えました。



 
 
この話は、父と子を殺した兵士たちへの「許せない思い」を超えて赦すという大切な心を教えています。



 
 
イエス様は神の国での赦しを丁寧に解説しています。
「主の祈り」の中の一節に



 
 
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」マタイ6:12



 
 
とあります。



 
 
さて、今日の箇所です。
 
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』
イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』」
18:21,22



 
 
兄弟が罪を犯したらどうするのか?
何度まで赦すのか?
という問いです。
ペテロは「七度までですか?」と聞いていますが、これはペテロが



 
 
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
ルカ17:3,4



 
 
というイエスの言葉を覚えていたからでしょう。 
ここで言う「七度」とは、「何度でも。永遠に赦しなさい。」という意味で言われています。
1回ずつ数えて491回目には赦さない・・・ということではありません。



 
 
ここでイエスはたとえ話をされます。



 
あるしもべが王から1万タラントの借金をしていました。
1タラントは6000デナリ。
1デナリは一日分の給料と言われていますので、現代に換算すると、6,000億円にもなります!
1国の年間予算ほどの金額です。
とうていひとりの人間に払えるような額ではありません。
王はかわいそうに思い、しもべの借金の返済を赦してやりました。
 
しもべは、帰り道、しもべ仲間に出くわします。
仲間は彼に100デナリの借金をしていました。
仲間は猶予してほしいと願います。
しかし、彼は赦さず、仲間を牢に放り込んでしまいます。
自分自身は、猶予してもらってもとうてい返せないほどの借金を見逃してもらったのに、なんと理不尽なことでしょうか。



 
 
「ゆるす」という言葉に、二通りの漢字が使われます。
「許す」と「赦す」です。
「赦す」とは、「全くなかったことにする」ということです。
私たちは、神に対して返しきれない負債を負っています。
私たちはそれを赦されました。
だから、同じように人にもするのです。



 
 
ささいなことも赦せないのが人間です。
6000億を赦してもらっても100万を赦せないのです。
どんなにわずかなことでも、信仰がなければ赦せません。
 
イエスは十字架上で
「父よ彼らをお赦しください。」と、赦しを請うてくださいました。私たちはイエスを通して赦しを受けています。
神は私たちを愛しておられるからです。



 
赦すとは忘れることです。
免除する、取り去る、ぬぐう、なかったことにすること。
二度と思い出さないことです。



 
 
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」
イザヤ43:25



 
 
「そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」エレミヤ31:34



 
 
岩倉で牧師をしておられる渡辺先生に聞いた話です。



 
 
小学校低学年の頃、生活は貧しく食事は1品だけ。
あるとき、自分の嫌いなものが出されて「食べれない!」と言ってひっくり返してしまいました。
すると、お父さんは幼い先生を橋のたもとに連れて行き、ムチを振り上げました。
「たたかれる!」
と思ったのに、痛くない。
お父さんは自分自身の手をムチ打っていたのです。
先生は
「ごめんなさい!」
とあやまりました。
牧師になってから、その話をお父さんにしたそうです。
すると、お父さんは
「そんなことあったっけ?」
と言いました。
そのとき、
「父は本当に赦していたのだ」
とわかったそうです。



 
 
赦すとは、すっかり忘れて思い出さないことです。



 
 
マタイの福音書21章は十戒の解説をしています。
「人を殺してはいけない」
という戒めについて、兄弟に腹を立てて能なしというのは殺したのと同じことだと言われています。
だからまず、仲直りしてから神の前に供え物をするようにと。



 
 
赦されることは深刻で重要なことです。
赦すこと以上に大切ではないでしょうか。
人は傷つけられたことをいつまでも覚えています。
赦しを請うこと、和解することは大切です。
人に対しても、神に対してと同様赦される必要があります。
赦されることを知って、人を赦すことができるようになります。
神が望まれる生き方をするためには、こんなに大きな罪を許されていることを感謝することが不可欠です。
自分の罪を許してもらったから、人も赦せるのです。
 
赦される人生を送りましょう。
それが神を愛することにつながります。
 



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電話

かなり前からFAX電話の調子が悪くなっていました。
 
・親機で通話中、突然回線が切れる。
・切れてないのに、画面に「ダイヤルしてください」という表示が出る。
という症状から始まって、最近では親機からかけようとすると、番号を押している間にも回線が途絶えてまったくダイヤルできず。
 
子機はというと、かけたり受けたりはできるけど、2台のうち1台が、激しい雑音。
さらに相手の声がほとんど聞こえず、相手方にも聞こえていないこともあるらしい。
ということで、残った子機1台だけが、少々雑音はあるもののまあまあ使えるという状態でした。
 
だから、どこかから電話がかかっても、誰も出ようとしない
一番調子のよい子機は、おじいちゃんの近くに置いてあるんだけど、おじいちゃんは
「どうせオレに用事がある電話はかかってこん。」
と言って、取ってくれないんですよ〜
 
思い返すとひかり回線にしてから、特におかしい気がするんだけど・・・。
ともかく、みんな電話がかかるたびにストレスがたまって限界でした
 
GW初日の今日、やっと新しいFAX電話機を買ってきました
ちょっと前から、ネットであれこれ調べてはいたのですが、なかなか暇がなくて。
購入したのはPanasonicの「おたっくす」KX-PD701DW。
 
ダンナの要望→FAXはついててほしい。
おばあちゃんの要望→子機は壁掛けができるのがいい。
おじいちゃんの要望→子機の液晶画面は大きい文字がいい。
私の要望→「見てから印刷」にしたい。ついでにドアフォンをカメラ付きに替えたい。
 
これらすべてを満たす機種ということで。
 
電話を買い換えて、一番大変だったのは「電話帳」の登録
前の電話機の「電話帳」をプリントアウトして、1件ずつ入れ直しました
ただ、この機種はタッチペンで文字認識してくれるので、もっくんにも手伝ってもらったりして、そこそこ楽しみながらやりましたけどね^^
 
さっそく電話をかけたり受けたり実験してみましたが、すこぶる快調
もっと早く買えばよかった〜。
 

参観日

今日はもっくんの参観日でした。
本当はちょっと仕事がきつかったんんだけど、無理して見てきました。
午前の仕事を終えてから、ダッシュで退社。
車内でサンドイッチ類をパクつきながら小学校へ向かいました。
 
授業開始後5分ぐらいでどうにか到着。
道徳の時間でした。
題材は「泣いた赤鬼」。
 
担任の先生は、3月まで中学校で教えていたという若い男性です。
中学生とのギャップはかなりのものだと思うのですが、なかなかいい感じでしたよ。
 
久しぶりに会ったママ友が赤ちゃんを抱いていてびっくり
間にはお子さんがいないので、10歳離れてることになります。
5ヶ月とか言ってました。
確か去年の運動会でも見かけたはずなんだけど、おなかに赤ちゃんがいたなんて気づかなかったぁ〜
 
明日はりーちゃんが参観日。
でもさすがに続けては休めないし、パスで〜す
 

本日の雑誌

Dsc_0336
 
アルバイトニュースを買うつもりだったんです。
で、ガイドを立ち読みして、エンタメ系のコーナーに回ったのが敗因です。
 
FLIXが表紙
「ま、立ち読みで・・・」
と思ったのに、ちょこっと拾い読みしたら、やっぱり買うしかなくなり
「JUNONは買わぬぞ!」
と思ったのに、パラパラめくったら、綴じ込みの写写写真が
射貫かれましたorz
 
置く場所がないよお
 


もうすぐGW

なのだが・・・
予定は何もありません。
 
最初の3日はダンナが仕事。
後半は私が4日に仕事がはいってます。
 
あ!
あったあった
夜のお出かけ
5月5日はりーちゃんと→Pia-no-jaC←ライブだった〜
 
そして、その翌週は・・・
そこを目指して何とか毎日しのごう。
 
ところで明日のお弁当。
決まってるのは今日の残りのがんもどきだけだ〜><
 


あわただしい

1ヶ月ほど前には想像もつかなかった毎日。
怒濤のように日々が過ぎていきます。
常にTo Doリストを作って、終わったことから消していってますが、次から次へとすべきことがわいてきます。
 
「今」すべきことは、明日のお弁当のおかずを考えること
一番やりたくなくて、やらなければやらないでも過ぎていくことは永遠に先延ばしです。
たとえば・・・・・・掃除。
 
寝てるうちにこびとさんが来て、やっておいてくれるといいのに

4月15日 聖日礼拝

創世記 3章 8〜13節
「探し求められる神」



 
 
聖書に向かうとき、いつも意識しておきたい姿勢があります。
たとえば、人と向かい合うときのことを考えてみましょう。
Aさんから何かを言われると
「なるほど。やってみよう!」
と思えるのに、同じことをBさんから言うと、その気になれない・・・ということがありますね。
相手によって、聞く態度が変わるのです。
尊敬する人の言葉、年上の人の言葉なら素直に聞けるけれど、ライバルや年下の人の言葉はイヤミにに聞こえてしまいます。



 
 
聖書は、ただ読むだけではわかりません。
それを与えてくださった創造主が、自分にとって「大切な方」になっていないと、語り手である神の心を受け取ることができないからです。



 
みなさんに、最初に問いかけたいと思います。
「創造主はあなたにとってどういうお方ですか?」
と。
 
多くの人は
「神は怖い」
といいます。
「失敗すると罰を与える。」
と考えます。
なぜそんな印象を持つのでしょうか?
私たち日本人は幼い頃から「バチが当たる」という考え方を植え付けられています。
そのイメージを持ったまま聖書に向かっていくと、うまく神のメッセージを受け取れません。
「私にとって、神はどのような方か」
をよく考えて読むことです。



 
 
私のために、一人子さえおしまずに犠牲にしてもよいほどに、私を愛してくださっている。
それを、まともに、真剣に受け止めていますか?
聖書から力を得られないのは、自分の関心で聖書を読むからです。
相手(神)がどのような気持ちで言ったのかを考えずに、自分の思いだけで判断してしまう。
「世界の中心に自分がいる」と思っている。
そうではなく、私に命を与えてくださった方が私をどう見ているか、に心を開いて、その方の言葉を理解しようとしなければ、聖書のみ言葉は心に届きません。



 
 
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ10:17



 
 
聖書を読んでどう感じたか、どう思うか、が大事なのではありません。
神がどう思い、どう語られるかが大事なのです。
自分が苦しいときこそ、そのような理解が助けとなり、私たちを強めてくれます。



 
 
さて、エデンの園で人は自由でした。
有り余るほどのものがそこにはありました。
ある人は言います。
「食べてはいけない木を神が置いたからいけないんだ。
隠しておけばよかったのに。
食べられないようにしておけばよかったのに。」
と。
「食べるなと言うから、食べたくなるじゃないか。」
と。
つまり、「そこに木を置いた神が悪い」と言いたいのです。
こうした考え方こそが罪です。
たとえ自分が過ちを犯しても、「神が悪い」と考える考え方です。



 
 
アダムとエバは神の声を聞きました。
現代の私たちに置き換えると、「聖書のみ言葉を読んだ」と考えればよいでしょう。
あるいは、何かをしていて、聖書の言葉が心に浮かんだ・・・と。
そのときの、心の中の反応、応答が大事です。
アダムとエバは身を隠しました。



 
 
時々スーパーで買い物をしていて、教会の方と出くわすことがあります。
私を見かけた方には、二つの反応があります。
?気づかなかったかのように、遠ざかっていく方
?「ああ、先生!」と声をかけてくださる方
いつも背伸びしていると、普段の姿を見せるのは恥ずかしいと思うのかもしれません。



 
神の前で、そういう生き方をしていませんか?
自分の中にやましいところがあると、
「神に合わせる顔がない」
と思います。
そういう状況が「罪」です。
 
過ちを犯したり、間違ったことをするのが問題なのではありません。
その問題から目をそらし、神から隠れようとすることこそが問題です。



 
木の実を食べたことを、神が気づかないでいたのでしょうか?
我が子が悪さをすると、親にはわかるものです。
うちには犬がいますが、その犬でさえ後ろめたいことがあると、目を合わそうとしません。
態度に表れるのです。
 
神は何も気づかずにアダムとエバを捜していたのでしょうか?

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」3:9



 
 
知っていながら「どこにいるのか?」と言っておられるのです。



 
 
「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』」3:10



 
 
アダムは、善悪の知恵の実を食べて、自分が裸だと知り、イチジクの葉を綴り合わせて身にまといました。
人は自分の目で善悪を判断するようになったのです。
同時に人は、自分が何者か、どこにいるべきか、居場所を失いました。
御顔を避けて隠れるしかなくなってしまいました。
この状態は「的外れ」です。
神は何もかもご存じだからです。



 
 
神は、本来いるべき場所に戻れるように呼びかけてくださいます。
失敗そのものが問題なのではありません。
律法をひとつでも破ったら、それは罪です。
罪に陥るような弱さを経験しても、神の御前に出ることが求められています。
隠れようとせず、
「こんな私を哀れんで、助け、強めてください!この経験から立ち上がれるように!
不安に打ち勝つ力を与えてください!」
と求めること。
それが「ふさわしいこと」です。
神は何もかもご存じだからです。



 
「ここにいます。」
と御前に出ましょう。
神はその経験を通して学ばせてくださいます。
 
神ご自身が探し求めている。
そのことを知ったとき、自由になります。



 
 
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネの福音書8:32



 
 
なぜイエスが来られたのか、十字架の意味を知ったら、自由になります。
神の言葉を聞かず、去っていくなら、それは罪です。裸なのを知ったなら、神の御前に出て、衣を着せてもらえばよかったのです。
神が覆ってくださったことでしょう。



 
私たちが陥りがちな傾向を、アダムとエバは演じています。



 
 
「すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』
人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」
3:11、12



 
 
このとき、「食べました」と答えればよかったのに、アダムは理由を弁明しています。
自分の過ちを認めず、人のせいにしました。
それはアダムからエバへ、エバから蛇へとむかいます。
では、
「蛇がいたからいけなかった」
のでしょうか?
誘惑の元になるような蛇を、最初から置かなければよかったのでしょうか?



 
 
たとえば、親は我が子が危険な目に遭わないように、子のすることすべてを管理すべきでしょうか?
神は人を管理して思い通りに動かすのではなく、自由を与えられました。



 
 
「どこにいるのか?」という言葉は私に問いかけられています。
自分のすべての課題を持ちながら、
「ここにいます。今このような課題があります。」
と、ありのままの姿で御前に立つことが求められています。
そのとき、神が私に触れて、み力を表してくださいます。
立ち上がり、神の祝福の中に入るために。
 



部活

先週はりーちゃんの部活本登録でした。
 
仮登録中は、弓道部に行っていました。
中学校にはない部活ですから、人気があって、たくさん集まっていたそうです。
 
「剣道はさあ、道具は持ってるけど、女子少ないみたいだし。
経験者って言っても2級だしね・・・。
逆に弓道は新入部員が多すぎて、練習になるかって話なんだよね〜。
テニスは硬式だから、みんな初心者で始めれるのはいいんだけど、やったことないからできるかどうかわかんないし。
バドミントンがあれば入ったのになぁ。
土曜練習とかいやだし。
ってなると、文化部だがぁ。
写真部も気になるけど。。。」
 
まあとにかく色々迷った末に、決めてきたのは結局「美術部」。
金曜日は石膏デッサンをしてきたそうです。
 
「うち、鉛筆持ってってなくてさあ。
隣の男子に貸してって言ったら、すんごいたくさんの種類の鉛筆持っててびびびった。」
りーちゃんも一時期画塾に行っていたので、ひととおりの用具は持っていますが、すでにそんなに鉛筆揃えてるって、気合入ってるなぁ。
活動は毎日でもなさそうだし、当然朝練もないし、気楽な高校生活になりそうです。
 
私自身、高校時代は一応「英語部」でしたが幽霊部員。
いわゆる帰宅部でしたからね。
部活に燃える青春もいいけど、無理強いはしません(^^;

応援する!

Dsc_0348
 
チェルノブイリをずっと追い続けていた「通販生活」。
当然ながら反原発です。
 
その中に「あなたの住む街の首長は、今後の原発をどう考えているのか。」というアンケートがあります。
が、我が街の首長は回答すらしていないらしいorz
大半は「寿命40年の間で廃炉にすべき。」という意見。
 
一方「今後も原発は存続。新規の増設も認めるべき。」という意見の方は9名。
六ヶ所村、東海村、美浜町。
これは原発関連の施設がすでにある自治体。
ここの首長が賛成というのは、まあわからなくもない。
しかし、他に岐阜県安八町長、和歌山県御坊市長、広島県大竹市長、広島県大崎上島町長、福岡県大川市長。福岡県宮若市長も賛成という。
安八町、なぜ???
広島もなぜ???
 
5月1日以降、通販生活のサイトで「自由記述」が公開されるらしいので、ぜひ読みたいと思います。

キリンの首

待つこと6年。
やっと!やっと届きました
 
Dsc_0347
 
シリーズものの、確か5巻目。
もうすぐ発売されるというので予約したのが約6年前。
amazonさんからも
「入荷見込みが立たないから予約取り消しますか〜」
って何度もメールが入っていました。
著者がご高齢なので、このまま未完なんてことにならないでよ〜><と祈る気持ちで待っていました。
 
よくよく見ると、ハードカバーは去年の7月に出ていたんですね。
どちらにしても、1184ページというこの分厚さ。
そりゃ時間もかかるはずだわ。
 
これ、最終刊という話だったはずだけど・・・
まだ続くみたい。
Martinさん、がんばって完結させてね〜
 
いや、その前に、これを読み切る時間があるのか?私。。。

プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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