暑い暑い暑い><
もう「暑い」という言葉では物足りない。
こんな状態で明日は小中学校の始業式。
今まで家の中でクーラー漬けの生活をしてきたのに、学校でちゃんと授業になるのかしらね。
高校生のふーみんは、昨日が始業式。
今日は7時間、実力テストでした。
高校は教室にエアコンついてるんですが、途中で2回ほど切れて、脳ミソが働かなかったそうです(^^;
来週には体育祭もあるんですけど、大丈夫かなぁ・・・
早く涼しくなってほしいものです。
ヨハネの福音書 12章12〜19節
「 」
聖書の言葉は、わかろうとしないとわかりません。
「何を教えようとしておられるのか」を考えながら読まなければなりません。
同じものを聞いても、学ぶ人と学ばない人がいます。
同じ空を見ても、同じ風を感じても、そこから天気を読み取れる人もいれば、できない人もいます。
情報をとらえていくことが大切です。
神の御業を見て、理解するのも一つの力です。
なんとなく生きていたらわからないけれど、祈りながら努力するとき、神の御業が働いていることがわかります。
さて、今までイエスは極力目立たないようにしておられました。
「しるし」を行われても、だれにも言わないようにと口止めされ、退いて熱狂的な歓迎を受けようとはされませんでした。
人前を避けるように行動しておられたのです。
しかし、ラザロのことを契機に、イエスは公然とエルサレムに向かわれました。
熱狂的な人々は棕櫚の葉を手にイエスを出迎えます。
これは、王が戦いから凱旋するときの迎え方でした。
あえて、イエスは「王」としての出迎えを受け入れられました。
これは劇的な変化です。
時は「過ぎ越しの祭り」。
エジプトで抑圧に苦しむ民を救い出すために、主がエジプトに下した最後の災いは、長子を殺すという裁きでした。
ただ、かもいに犠牲の子羊の血を塗られた家だけがその裁きを逃れることができました。
それを祝うのが「過ぎ越しの祭り」です。
その祭りの時期には人々の関心がエルサレムに集まり、活気があふれていました。
「そこで、パリサイ人たちは互いに言った。『どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。』」12:19
人々が、熱狂的にイエスをメシアとして迎えたのが日曜日。
そして、十字架にかけらたのは、同じ週の金曜日です。
イエスはそうなることを承知の上で、自発的にエルサレムに来られたのです。
それまで身を隠しておられたのは、タイミングを測っていたからです。
御子イエスの血によって感気の裁きが過ぎ越されるという、新しい過ぎ越しのために。
救いを与えるために、自ら進んで命をお捧げになったのです。
そのイエスは、私たちにも、「使命として自ら選び取り、自発的にすることを求めておられます。
「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
『恐れるな。シオンの娘。
見よ。あなたの王が来られる。
ろばの子に乗って。』」12:15
王の入場は普通軍馬に乗って行われます。
しかし、イエスはろばに乗ってこられました。
弟子たちは後になって意味がわかりました。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤ9:9
メシアがろばに乗って来られることは、預言されていました。
ろばに乗る姿は、ある意味で滑稽です。
だからこそ「しるし」の意味をなしているのです。
平和の象徴であるろば。
戦いではなく、平和をもたらす王。
それがいエスでした。
ぼーっと見ているだけでは意味はわかりません。
しるしの持つ意味を悟るには、理解しようとする姿勢が大切です。
マタイの福音書 6章 9〜13節
「主の祈り」
創造主を信じているかどうかにかかわらず、私たち人間は祈ります。
「助けて!」
と、自分以外の力ある方に思わず叫びます。
世界中にある様々な宗教に共通するもの、それは祈りです。
今日学ぶのは、イエスが示された祈りのひな型、「主の祈り」です。
「だから、こう祈りなさい。・・・」9:9
「だから」とはどういうことか、5節を見るとわかります。
「また、祈るときには偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」9:5
偽善者たちは、神に祈っているように見えて、実は心は人々に向いています。
いわばパフォーマンスとしての祈りをイエスは戒められました。
しかし、「人によく見られたい」という彼らの内心の祈りはすでにかなえられていると、イエスは言われています。
「また、祈るとき、異邦人のように同じ言葉を、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」9:7
お題目のように、同じ言葉を繰り返し祈ることもよくないといわれています。
私たちも、毎日の食前の祈りなど、ただ同じ言葉の繰り返しになっていないでしょうか?
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」9:8
知っているんだったら祈らなくてもいいじゃないか?と思いますか?
私たちはなぜ祈るのでしょう?
祈りを聞いてくださる方は私たちの父でです。
それも、最善のことをしようとしてくださる父です。
いじわるして、しつこくせがまなくては聞いてくれないような方ではありません。
主は、遠い存在ではなく、いつも共にいてくださる方です。
「主の祈り」がお題目になってはいけません。
「必要なものは知っておられる」からこそ、祈りなさいとおっしゃっています。
求めた者のために、自ら労苦を払うことが大切です。
もし目の前に、願っていることとは正反対の現実があるとき、自らが御名をあがめるような生き方をすることです。
祈っている私から、まず行っていくのです。
御心が行われるように、心を、手を、動かしていきましょう。
「主の祈り」の前半は、その使命を自覚するための祈りです。
「御名が」「御国が」「みこころが」と、自分のためというよりは、社会全体の必要のための祈りです。
幼いころ私は思いました。
「明日、運動会だから晴れにしてください。」
と祈る人もいるけれど、同時に
「農作物が育つように雨を降らせてください。」
と祈る人もいるはずだ、と。
自分の願いが全て叶ったとしたら、果たして世の中は良くなるでしょうか?
個人的な祈りをすることも悪くはありません。
しかし、個人の必要を祈ることよりも、社会・地域が変えられることを祈る方がまず先でしょう。
神の御業がこの世に行われるように、自分がなすべきことを自覚するために祈るのです。
「今私にできることは何だろう?」ということが祈りによって明確になるからです。
「主の祈り」の後半は「私たちの」という言葉で始まっています。
個人的な祈りです。
「日ごとの糧」を求めるようにとイエスは言われました。
「衣食足りて礼節を知る」ということわざがあります。
生活の安定は大事なことです。
私たちは恵泉ファームで農作業をしています。
ある時、トマトが実ってきて、いよいよ収穫・・・という直前に雨に打たれました。
トマトの皮は破れ、とても出荷できるものではありませんでした。
その時、私たちは、自分の力ではどうにもできないことがあるということを教えられました。
自分の力ではどうにもできないから、私たちの力を超えた方に祈ります。
「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」9:12
赦す心は大切です。
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」9:13
試みには二つの意味があります。
?強くし、立上げるためのチャレンジとして、選ばれた故の試練。
学生時代、野球部に入っていましたが、最初は球拾いばかり。
はやくそこから抜け出したいと思いましたが、そこには激しいノックが待ち受けていました。
それでも、選ばれた者として、喜んで試練に耐えたものです。
?悪に誘惑するもの。
テレビのCMを見ていると、ついつい欲しくなることがありませんか?
特別価格。今日限り!
そんな文句に踊らされて、買ってしまうことはないでしょうか?
サタンからの誘惑は巧みです。
「まさか・・・」と思うようなことを、してしまう可能性が自分にもあるということを自覚する必要があります。
主の祈りを通して、なすべき使命を自覚し、祈りの実現のために労苦を払っていきましょう。
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