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2月25日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 4章24節
ヘブル人への手紙 8章1〜2節
「神中心の礼拝」



今日は内田和彦師からメッセージをいただきました。



私たちはなぜ礼拝を捧げるのでしょうか。



賛美するため。
信仰の友と挨拶を交わし語り合うため。
説教を聴くため。
祈るため。



なぜそれらのことをするのでしょうか。



習慣になっているから?
牧師や教会員ににさそわれるから?



実は、私たちが神を礼拝するのは、
「神が神であられるから」
なのです。
私たちは「神はまことに神である」と再認識するとき、ひれ伏して神を礼拝するのです。
そこには4つの面があります。



?神は創造主であられる
この世界とそのメカニズムを見るときに、これが偶然にできたとはとても言えません。
かつて「宇宙からの帰還」という本に書かれていたことですが、宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士は、みなその美しさに打たれ、「神」とは呼ばないとしても、この背後に何か大きな存在があることを認めたといいます。
神がこの世界をお造りになった。
そして、もしその気になれば世界をなくすこともおできになる。
そのことを悟るとき、私たちは御前にひれ伏すほかありません。



ローマ人への手紙 1章25節
「作り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」



?神は生きておられる
創造主としての神を認めるとしても、「神は今の世界に介入しない」という考え方があります。
しかしこれは間違っています。
何気ない小さなことにまで、「ああ、神様のご計画だったのだ」と感じさせられることが誰にでもあるのではないでしょうか。
神は近くにおられます。
不思議な出会いを用意し、ひとりひとりの人生を導いてくださいます。
神を信じるということは、自分の生活のために神を利用することではありません。
クリスチャンになったからといって何もかもうまくいくわけではない。
むしろその中に「私の智恵、私の計画」を越えた「神の御業」を見ることができるのです。



神が共ににいてくださる、と知るときに、私たちは神を礼拝するのです。



?神は主である
神が主なのです。
人間が主なのではなく。



「なぜこんなことが起こるのをお許しになるのか?」
と思いたくなるような出来事が、実際日常に起こります。
どんなに熱心なクリスチャンであっても、病に倒れ、家族が取り残されることだってあります。
それでも、主導権を持っておられるのは神なのです。



どれほどの苦難に遭っても神を仰ぎ続けた人物といえばヨブがいます。
神に忠実であることを、神御自身が保証されたほどのヨブ。
ところが、家族を殺され、家畜も全て失ってしまいます。



ヨブ記 1章20〜22節
「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。
『わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。』
このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。」



「与え、奪う」主権者である神の前に、ヨブはひれ伏したのです。



?神は救い主である
ノアが洪水から救い出されて、最初にしたことは何だったでしょうか。



創世記8章20節
「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。」



私たちは、キリストによって罪から救われました。
それゆえ、私たちは礼拝するのです。





聖地を訪れ、シナイ山に登ったことがあります。
旧約の時代、モーセがこの山で十戒を授けられたとき、他の民は決して登ってはいけないと言われました。
それは神が聖いお方だからです。
私たち罪人が決して御前に立ちおおせることができないほどに。



そんな私たちが、礼拝することを許されているとは、どういうことでしょうか。
ここでようやく今日の箇所に進むことができます。
ヨハネ4章24節には
「神は霊ですから、神を礼拝する物は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
と書かれています。



?まことによって
まず「まこと」とはなんでしょうか。
これは「真理」という意味の言葉です。
キリストは御自身を、
「私が道であり、真理であり、命なのです。」
と言われました。
私たちが礼拝できるのは、「真理」なるキリストを通してなのです。



例えば礼拝中、賛美していて、1番を歌い始め、ふと気づくといつの間にか4番になっていたりしませんか。
特に、礼拝の中で奉仕にあたる者は、自分の役目のこと、会衆のことに心が奪われることもありがちです。
全身全霊で礼拝に集中することはなかなかできることではありません。
大祭司であるイエスの取りなしがなければ、私たちの欠けだらけの礼拝はとても神に受け入れていただける物ではないでしょう。



ヘブル8章1,2節
「私たちの大祭司(=キリスト)は天におられる大能者の美座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」



?霊によって
「霊」とは、クリスチャンに内在される聖霊です。
聖霊の助けによって、礼拝ができるのです。



よく、
「今日の礼拝は恵まれた。」
という会話がありますね。
恵まれることは良いことでしょう。
恵まれないという声が聞かれたら教職者は考えなければならない面があるかもしれません。
しかし、私たちが礼拝するのは「恵まれるため」ではありません。
「恵まれる」というのは「自己」が中心になっている考え方です。
そうではなく、まず、神を中心にして礼拝するところから結果として恵まれる…。
それが本来の礼拝なのです。



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2月18日 聖日礼拝

創世記 6章8〜12節
「主の心にかなった歩み」



ノアは主の心にかなっていました。
どのように、でしょうか。



?「その時代にあっても」
マタイの福音書24章37,38節に当時の様子が書かれています。
「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」
人々の思いはこの地上のことだけ。
全く主を見ようとも考えようともしていませんでした。
自分の欲求を満たすことを追い求め、邪魔な物は取り除き、暴虐に満ちていったのです。



?「ノアは正しい人、全き人であった」
完全無欠、という意味ではありません。
だれでも弱さを持っています。
しかし、現実を見据えながら、神を仰いでいた人。
自分の弱さを悟って、助けを求める人だったのです。



イエスは
「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」
と言われました。
ノアは、これらの物よりもまず「神」を求める人であったということでしょう。



もっくんのはまりもの

もっくんのはまりもの
こいのぼりに奴さん、犬さん象さんサイさん。
風船、キャンディボックス。
ハートのしおり。
ここには写っていませんが、船やカブトも作りました。

もっくんは、折り紙のふろくでついてきた「折り方例」や本を見ながらどんどん折ります。
もちろん私も手伝いましたが、すぐに
「あ、ぼくやる!」
かと思うと
「うまくできない〜」
その繰り返し。
でも、だんだん丁寧にできるようになってきたと思うのは親バカ?



梅花

梅花
北野天満宮に来ています。
暖冬のせいか梅が見頃です。
ぽかぽかとよい日和で、甘い匂いが心地よいです。



生活発表会♪

生活発表会♪
昨日は保育園の生活発表会でした。
もっくんたち年少ちゅうりっぷ組の出し物は劇と歌。
「てぶくろ」というお話をアレンジしたものを演じてくれました。
もっくんは手袋を落としてしまった「いぬさん」。
森の中に落ちている手袋に、いろんな動物たちが入り込んでぬくぬく暖まります。
ぎゅうぎゅう詰めになって押し合う動物たち。
そこにいぬさんが戻ってきて、動物たちはぞろぞろ出てきます。
みんなで楽しく踊って幕を閉じます。

その時の帽子をかぶって粘土遊びをしているもっくん。
この「こむぎねんど」は発表会のごほうびとして保育園からもらってきたものです。



2月11日 聖日礼拝

創世記 6章 1〜8節
「主は悔やみ、心を痛められた」



天地創造の締めくくりには
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」
と書かれています。
しかし今日学ぶ6章6節は、こうです。
「主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」



6章の1〜4節に書かれていることは理解しにくい所です。
「神の子ら」と「人」…。
ここは創世記の1章から5章に書かれていることから読みとる必要があります。
「神の子ら」とは、エノクのように神と共に歩む人々を指しています。
新約聖書でもヨハネの福音書1章12節で、キリストを信じる者は「神の子」とされると書かれています。
そして「人」とは、生まれながらの神と共に歩まない人々のことです。
神と共に歩む「神の子ら」でさえ、人の娘達のいかにも美しいのを見て惹かれていきます。
内面にではなく、外見的魅力に引き寄せられてしまうのです。
その様子を見られた神はひとつの決断をされました。
人間の寿命を120年に定めようと。



医学が進歩した現在でさえ100歳を越えれば超長寿です。
120歳をこえることはまずないでしょう。
それでもこれ以前の数百年に及んでいた寿命に比べれば、非常に短命になってしまったのです。



されど120年。
この期間を神様は「猶予期間」として与えてくださったのです。
人が、軌道修正して善に立ち返るための猶予期間。
人の心は100%善にはなれないかもしれません。
人の心には良心がありますが、それでも悪に傾いていきます。
でも100%悪…というわけでないのであれば望みがあります。



みなさんご存じのように、私はちょっとした農園をやっています。
以前、植えようと思って苗を買ってきました。
買ったときには実りを思い描いて期待しています。
ところが忙しくて何日も過ぎてしまい、いざ植えようと思ったときには枯れてしまっていました。
しおれていたのなら、まだ望みがあります。
水をやり、世話をしてやればなんとか少しは育ったことでしょう。
でも完全に枯れてしまったら、いくら水を注いでも、もう手遅れです。
残念でしたが捨てました。



さて、神が地上を見られたとき
「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」
いつも、悪いことだけ。
神は悔やまれました。
人に期待していたからこそいっそう悔やまれたのです。
それでもひとつ、希望が残っていました。
「しかし、ノアは主の心にかなっていた。」からです。



今、良心のかけらさえ感じられないような事件が頻発しています。
イエス様は、
「世の終わりが近づくと不法がはびこるので、人々の愛は冷えます。」
と言われました。
うっかりしているとこのような世の流れに引きずられてしまいます。
「神の目にかなう」のではなく「人の目にかなう」生き方。
「自分」を優先し「自分さえよければ」という生き方。
「神に従う」ことを「束縛」ととらえる見方。
そちらのほうが魅力的に見えるとき、本当はそうではないことに気づくことが大切です。
この世は時代と共に変わっていきます。
「戦前」と「戦後」を経験された方はそれをよく知っておられるでしょう。
「変わらない神」と共に歩む生き方を保ち続けましょう。



バレンタイン

バレンタイン
比較的日持ちして、簡単で、失敗しないチョコレート菓子…。
そんな条件にぴったりなのが、チョコレートブラウニーです。
基本的には天板で焼いたものをカットしていただきます。
今回はアルミのボート型で焼きました。

…と言っても、ラッピング後に写真撮ったので見えませんネ(^^ゞ

ふーみんとりーちゃんと、合わせて20個。
昨年は箱代がめちゃくちゃかかったので、反省して、今年はビニール袋中心です。
みんな「友チョコ」だと言っていますが、ビミョーに手の込んだラッピングのがあったりして。
( ̄m ̄)ほんとはどうなのかな?



今回使ったレシピはCookie Houseさんのものです。
とっても簡単なので是非おためしください♪



ひな飾り

ひな飾り
三連休。
ちょうどお天気もいいし、おひな様を飾りました。
たった二段プラスαなんですが、これでも出すには気合いが要ります。

でも、今年はりーちゃんともっくんが大活躍。
二階からせっせせっせと運びます。
階段を何往復したことでしょう。
運んでしまえばあとは並べるだけ。
期末テストが近いから、と手伝いから逃げていたふーみんも
「え、もうできたの?」
と驚くほど。

外は例年になく暖かいし、春はもうすぐですね。



昨日はふーみん(BlogPet)

2月、広い雑誌と、広い雑誌をBLOGしたかった?
2月は、ネットで本屋など買いに
昨日はふーみん.


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「Joy」が書きました。


2月4日 聖日礼拝

創世記 5章21〜24節
「神とともに歩んだ人」



ここには系図が書かれています。
誰が誰を生み、何年生きたか。
つまりここに出てくる全ての人が「死んだ」ということを伝えています。
『禁断の実を食べたとき、必ず死ぬ』という神の言葉を疑ったその結果を表す系図なのです。



この罪の連鎖のなかにエノクが生まれました。
エノクは65歳でメトセラを生み、その後300年生きたと書かれています。
逆に言えば65歳までは神とともに歩んでいなかったのです。
人生の途上で神と出会ったのです。



生まれながらの人間は、『自分の目に良いと見える物』に偏っていきます。
クローゼットにたくさん衣服がぶら下がっていても、手に取るのは右端の数着だったりしませんか?
物に対する好みだけでなく、見方・考え方においてもそうです。
善悪の判断が『自分の目に良いと見えること』になっているのが、的はずれな『罪』の性質なのです。
エノクはそんな罪の状態を離れ、『神に喜ばれる』生き方をするようになりました。



「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
と聖書は言っています。
文字通り死を経験しなかったということかもしれません。
あるいは、絶望のない死、「終わり」ではない死だったという意味かもしれません。
祖父が召されたとき、そのようなことを感じました。
この世では会えないけれど、神のみもとに行ったのだと。
私も祖父が行ったそこに導かれるのだと。
お墓に行っても「ここには祖父はいない」と思います。
ちょうどキリストを探した女たちに
「あの方はもうここにはおられません」
と御使いが語ったように、お墓に行くと復活のメッセージを受け取るのです。



ヘブル人への手紙11章5,6節
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。
神に移されて、見えなくなりました。
移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」
誰かに喜ばれている…というのはどんな状態でしょうか。
いつまでも一緒にいたい。
時間を共有するのが楽しい。
そんな気持ちになれる時ではないかと思います。
神様の立場に立ったとして、自分をそのように感じられるかどうか考えてみましょう。
「うちに(教会に?)来てくれるのはうれしいけど、『あれがほしい』とか『こうしてくれ』とか、やたら要求が多くて…。
いいかげんにしてほしいなあ。」
なんて感じるかもしれませんよ。
もちろん神様は私たちとは違いますから、そんなふうにはおっしゃらないでしょう。
神様は
「さあ、来なさい。
いっしょに交わりを築こう!」
と招くお方ですから。
招いておられますが、「強いる」方ではありません。
神様に「求める」ことも決して悪いことではありません。
しかし、信仰が成長するにつれて、”神に求める”ところから”神を求める”ほうに変化していくはずです。
”神を求める”生き方こそが「神とともに歩む」と言う意味なのです。



私たちは、自分の心の状態に左右されて、神様を近く感じたり、遠く感じたりすることがあります。
でも、主はいつも共にいてくださるのです。
良いときも悪いときも、いつもそばにいてくださるのです。



プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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