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12月2日 聖日礼拝

マタイの福音書 22章 34~40節
「大切なふたつの戒め」
               大治福音自由教会 服部真光師

イスラエル人の「律法」は、エジプトから約束の地カナンへ導かれていく途上でモーセを通して与えられたものです。

神はまずアブラハムに命じて「約束の地」に彼を導き、アブラハムの子孫を神の民として、地上の全ての民を祝福する基にしようとされました。
アブラハムの孫、ヤコブの時代に大きな飢饉が起こりました。
7年の豊作の後、7年の飢饉が襲ったのです。
ヤコブと子どもたちは、食べ物がたくさんあると聞いて、エジプトに助けを求めます。
エジプトでは、奴隷として兄たちに売られたヤコブの子ヨセフが、神の不思議な導きによって大臣となり、大飢饉に備えていたからです。
ヨセフと兄たちは再会し、和解し、70人の一家がエジプトで新たな生活を始めました。
それから長い年月が経ち、ヤコブの子孫は200万を超える民となりました。
豊かな文明と、豊富な食料を享受した彼らですが、やがてヨセフを知らない王によって苦役に就かされます。
苦難を通して、彼らはエジプトを離れて、かつて約束されたカナンの地に戻ることになるのです。
イスラエルというひとつの民族として。
その時に用いられたのがモーセでした。
当時イスラエルの民は「神の民」ではありましたが、エジプト人と変わらない生活をしていました。
偶像礼拝などの習慣に染まっていたのです。
彼らは神の民としてもう一度整えられる必要がありました。
荒野の40年はその訓練の期間でした。
これは新約聖書のひな形です。

人は全て神の子でした。
神に似せて作られた尊い存在でした。
それなのに、それが分からなくなってしまいました。
主は、御子イエスを遣わしてもう一度神の国に導いて下さいます。
神の国に入る準備を、救われた後にしていく必要があります。
モーセを通して律法を与えられたように、イエスを通して新しい律法が与えられました。

若い頃によく同じ質問を受けました。
「キリストを信じ、天国に行けるんですよね。
 それなら今すぐ行きたい!」
と。
それはダメです。
まだ天に入るのにふさわしい者を身につけていないからです。
それにふさわしくなるべく、整えられる必要があります。
クリスチャンになるということは、ゴールではなくスタートなのです。

イスラエル人は、荒野で過ごした40年の間、パンを求めるとマナを与えられ、肉を求めるとうずらが飛来し、水を求めると岩から水が流れ出すという経験をしました。
私たちはクリスチャンになった後、生涯を掛けて、主は見放さず必要を備えて導いて下さるという経験をするのです。
私自身、自分を振り返ると「まだまだだな」と思います。
もっと深く主を経験したいと、もっと主の役に立ちたいと思います。

「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』」
22:34~36

ここに書かれている「パリサイ人」「サドカイ人」とは、民族ではありません。
当時神の律法に仕えるふたつのグループがありました。
神殿を中心にして神に仕える働きをする人々が「サドカイ派」、町々のシナゴーグで一般人に律法を教え、守るように指導する人々が「パリサイ派」と呼ばれていました。
どちらも律法の専門家です。
彼らは「もっとも大切な教え」は何かと尋ねました。
私たちもきちんと受け止めなければなりません。
イエスの答えは申命記の引用でした。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:5

あなたは心から「神を愛している」と言えますか?
目に見えない神を、どうやって愛するのでしょうか?
「愛する」とはどういうことでしょうか?
実際に生活の中で「愛している」という証はどういうことなのでしょうか?
言葉で「愛している」とは言えますが、その証拠は?

「愛する」ということは、感情的な者ではなく「意志」です。
最初に聖書を翻訳しようとした人が、「アガペー」にあたる日本語がないので、「愛」と訳しました。
そのため、一部は理解できても、他の部分を失ってしまいました。
ある人は「アガペー」を「大切にする」と訳しました。
「愛する」とは「大切に思う」ということです。
たとえば大人が子どもに「物を愛しなさい」とはいわないと思います。
「物を大切にしなさい」というでしょう。
愛の中心はむしろそちらにあります。
「神を愛せ」とは「神を大切な方として生きなさい」ということです。
では、どのように?

クリスチャンは5つのことをします。
①礼拝する
②聖書を読む:大切な人の言葉は真剣にきくでしょう。
③祈る:私の思いを主に知って欲しいから。
 大切な存在だから話したい、聞きたい、分かち合いたいと思うのです。
④献金する
⑤奉仕する:大切な方の役に立ちたいから。
これらを日常生活の中でしていきます。

神を愛するといいながら、それらをしていないということがあるでしょうか?

愛されていると思うのはどんなときでしょう?
相手が近づいてきてくれる。
話に耳を傾けてくれる。
語りかけてくれる。
私のために骨折ってくれる。
愛するとはそういうことです。

「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
22:39,40

次のステップとして、神が大事にする物を共有するということがあります。
神が、イエスを通して私を愛して下さるということを知ったなら、私自身を愛するはずです。
それは「ナルシスト」とは違います。
神が私を愛してくださっているということを受け取るのです。
神がそうして下さったから。
「自分は完璧で、品行方正であるから愛する」のではありません。
完璧でなくても、品行方正でなくても、かけがえのない大切な存在だと、神は言って下さいます。
それは「同じように他人を愛しなさい」という意味です。
他人の過ちや失敗は目について仕方がないのに、自分のことは気付かない。
自分の中にも様々な課題があるけれど、イエスは私を神の子として受け入れて下さった。
それを学んだ人は他の人も大切な存在として受け入れよう、祈ろう、労しようと思うはずです。

エリコの町で、イエスはザアカイの家に泊まろうとされました。
ザアカイはイエスに何かを言われたわけでもないのに、ただ一緒にいただけで自分の間違いに気付き、自ら

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」ルカ19:8

と言いました。
お金さえあれば人は自分に屈服すると思っていたザアカイが。
イエスが自分を大切にしてくれたという経験をして、施そうと思ったのです。

目に見えない神を愛するとは、
・礼拝と学びと祈りによって神との関係を築き
・奉仕と捧げ物によって人に仕える

ということです。
献金は「会費」ではありません。
会費なら、教会員の娯楽のために使えばいいでしょう。
献金は私たちのために使うのではありません。
神の働きのためにどう用いるかを考えなければなりません。

「隣人を愛しなさい」という戒めは,神の子にふさわしくなるために大事なことです。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」ヨハネⅠ4:20

大切な存在がいるなら、すべきことがあります。
距離を近づける。
話を聞く。
聞くときに、表面しか聞いていないことがあります。
特に男性は「解決策」を答えてがっかりされることがあります。
話す人は、解決が欲しいのではなく、今の状況を共有してほしいのです。
主を愛するのと同じ熱意で、大切な人との関係を築いていくのが律法の中心です。
「いつも共にいる:インマヌエル」が、クリスマスの中心メッセージなのです。
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11月25日 聖日礼拝

マタイの福音書 6章5~9節
「父である神の御名が崇められますように」
           東海聖書神学塾 後藤喜良師

3月まであと5回のご奉仕となりました。
今日はマタイの「主の祈り」を学びたいと思います。
ある教会では50回かけて学びました。
それを5回で…。
中心的なことだけを押さえていきます。

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
マタイ6:5,6

祈るときには「ひとりで」祈るようにと勧められています。
わが家は奥まった部屋に行くと外に出てしまうような家ですが。
私たちは、どこでもいいので1対1で父成る神と交わることが許されています。
「父は、あなたと話したい、交わりたいと思っておられる」という愛の招きです。

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」6:9

祈る内容は「わたしたち」です。
「私」ではありません。
「わたしたち」とは、家族、教会の兄弟姉妹、全世界の人々を指しています。
自分のことだけでなく、大切な人のことのために祈りましょう。

では、だれに祈るのでしょうか。
「天にいるわたしたちの父」です。
聖書で言う「天」が指す場所は3箇所あります。
・大空
・星の世界=宇宙
・パラダイス
第2コリント12章には「第三の天」という言葉が出てきます。
それが「パラダイス」で、「花園」という意味を持つペルシャ語です。
今、私たちは「幅、奥行き、高さ」を持つ3Dに「時間」を加えた4次元の「時空間」に住んでいます。
では天は「5次元」にあるのでしょうか?
科学的に考えると、5次元も物質世界であり、ニュートリノが消えていく先だと考えられています。
主がおられるのは物質世界ではありません。
至高の天です。
「いと高きところ」におられる父に祈るのです。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」6:6

① 隠れたところで見ておられる

父は、「聞いている」のではなく、「見ておられ」ます。
言葉ではなく、言葉にならない思いを知って下さいます。
見て、理解して下さいます。
慈しみ深いまなざしで見ていて下さいます。
父に向かって祈るとき、どこにいても見ていて下さいます。
仕事をしていても、涙を流していても、見ていて下さいます。
まどろむことも眠ることもなく見守っておられる方です。

② 報いて下さいます

これは5節の「報い」と同じ言葉が使われています。
偽善者たちが受け取っている「報い」は「人から認められること」です。
父からの「報い」は「神の子であるということを人々が知ることができるようにして下さる」ということです。
自分自身が「神の子なんだ」と喜び感謝できる。
周囲の人もそれを認めざるを得なくなる。
そうなることです。

私は心臓のバイパス手術を5箇所してもらいました。
神を知らない人からまで
「あなたは神に愛されているんですね」
と言われるほどの手術でした。
自分は愛されている神の子なのだと感じます。

③ 父よ

イエスも「父よ」と祈っています。
アラム語で「アバ」という言葉です。
初代教会で、世界中の教会で、100年以上にわたって「アバ・ホ・パテール」と呼びかけていました。
ホ・パテールはギリシャ語で「父」を意味します。
全てを作った神、支配している神を「お父さん」と呼べるのは素晴らしいことです。
子どもが呼ぶように、「お父さん」と。

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」6:9

④ 第一の願い

最初の願いは「あなたの御名があがめられますように」というものです。
イエスは父が崇められるように地上に生まれて下さいました。
イエスは全てのことを父が崇められるようになさいました。
伝道し、身代わりになって下さいました。
父の名が崇められるために生き、死なれました。

これは賛美の祈りです。
私たちは、どれほど賛美しても足りない方を「神」「父」として与えられているのです。
日本人の祈りは「お願い」ばかりです。
申し訳ないと思います。
まず賛美の実をささげましょう。
全てがこの祈りにつながっています。

これは悲しい祈りです。
こんなにすばらしい御名が、天ではいつも褒め称えられているのに地上では、日本では、褒め称えられていない。
私は悔しくて涙を流しながら祈ります。
なぜ褒め称えられないのか。
私たちが伝道しないからです。
こうして、悔い改めに導かれます。

イエスも涙を流しながら祈られました。
祈りながら働いていく必要があります。
「御名のとりであることが明らかにされて、あがめられますように」と。
御名はたくさんあります
羊飼い、岩、光、避けどころ、教師、救い主、癒し主、命のパン、道、真理、命。
イエスは50ぐらいの言葉で表現されています。
詩篇の中にもたくさん出てきます。
ヨハネの福音書もです。
アルファ、オメガ、始め、終わり。
それぐらい偉大であり、そのとおりのお方です。
私にとってはインマヌエル=いつも共におられる神です。
どれぐらい生活の中で神の御名を経験しているでしょうか。

「あがめられますように」は、不定過去命令形で書かれています。
「絶対にそうなる」という命令形です。
ハリストス教会の主の祈りではそのように命令形で訳されています。
「そうだといいなあ」という願望ではないのです。

11月18日 聖日礼拝

ヨブ記 14章14節、19章25,26節
「人がもし死ねば、また生きるでしょうか?」
      フィリピン福音自由教会 プリスコ・アルコット師

今日は、死への期待、死後に神と共にいることができるということを確認しましょう。

「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」ヨブ14:14

これは死にかけていたヨブの質問です。
それに対する肯定的な答えがこれです。

「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」
19:26,27

「私の代わりの者が来るまで」という言葉は、肉的な死後の、新しい生命の宣言です。
「神を見る」という言葉に注目してください。
死後の人生の保証ではなく、神と共にいられるという保証です。
ヨブは肉的にも精神的にも苦しかったのですが、死後、神と共にいると確信していました。

多くの人は、死を恐れ、仕事は何かを知りません。
みなさんに質問です。
・困難な世の中で、人生を楽しんでいますか?
・死を意識して生きていますか?
・死後、天国で神と共にいられる確信がありますか?

死と、死後の世界には4つの真実があります。

① 神は人の心に永遠への思いを与えられた(伝道者の書 3:11)

ヨブは「私の肉から神を見る」と言いました。
人間は死んですぐに滅びるとは信じていません。
神が形作られた人は死後も存在します。
肉体はチリとなっても魂は生き続けます。
私たちは「生まれ変わり」を信じません。
「来世」「転生」を信じません。
二度目のチャンスはないのです。

② 死は罪の結果である

「こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」
ローマ5:18,19

罪が死をもたらします。
だから、全ての人は死ぬのです。
死ななければならないのです。
罪とは、「的外れ」「神の基準に満たない」ことです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
ローマ3:23

神が善悪の基準です。
道徳や法律、裁判の基準ではありません。
道徳的によい人はいても、神の基準には満たないのです。
みな、神の前には平等です。
貧富も、人種も、美醜も関係ありません。
人生に不平等はあります。
預金の残高、服、食べ物、家。
決してみな同じではありません。
しかし、いのちに関して言えば、一人につき命はひとつしかありません。
そして、みな死にます。

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」ペテロⅠ 3:18

キリストも一度死なれました。
私たちには支払えない負債を、代わりに払ってくださいました。
キリストの死は神の義を満たしました。
罪は罰されなければならないから、罪のために、誰かが罰を受けなければなりませんでした。
イエスが、罰を受けて下さったのです。

③ 死の終わりには裁きがある(ヘブル9:27)

私たちの霊的な地位は死ぬ前に決まっています。
裁きの時にそれが公表されるのです。
神の裁きの基準は、「キリストと福音に対する態度」です。

「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」ヨハネ12:48

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」テサロニケⅡ 1:8

教訓はこうです。
「この世で決断することが、永遠の未来を支配する」
何を持っているか、何をするか、ではなく、キリストと福音をどうするかにかかっています。

④ 死後の復活の時、善人も悪人も復活する

新しい肉体を与えられ、みな裁きに直面します。
そこで別々の運命が待っています。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」ダニエル 12:2

正しい人は永遠の命に。
悪い人はそしりと永遠の忌みに。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
ヨハネ5:28,29

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」テサロニケⅠ 4:17

クリスチャンは再会して、キリストと共に永遠に生きます。
信じない者は、永遠に神から分離されます。

「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」黙示 21:27

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」黙示20:15

神を拒んだ人々を罰するのは当然の結果です。

結論です。
神と共にいる確信はありますか?

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」ヨハネ14:6

イエスは道です。
キリストなしでは父のもとに行けません。
イエスは真理です。
キリストなしに、知ることはできません。
イエスはいのちです。
キリストなしに生きることはできません。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16:26

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」マタイ10:28

イエスとの関係についてもっと真剣にならなければなりません。
他に何もなくても、キリストがあれば十分です。
キリストがあれば無限の希望があるのです。

11月11日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 3章 1~16節
「新しい人生」
            浜松福音自由教会 吉井寛昌師

久しぶりに西教会に来ました。
電車の音が懐かしいです。
浜松にも「音」がありますが、それは救急車の音です。
聖隷病院が近くにあるのでよく救急車が亨のです。

さて、私たちは人間です。
人間はいつも心理を求めています。
もっとよい人生を歩みたいと思っています。
そのゆえに否定的に考えたり、絶望したりする人もいるのです。
真理を見つけられないので、命を絶とうという人もいるかも知れません。

青木ヶ原という自殺の名所があります。
近くの茶店で働くおばあちゃんは「お助けばあさん」と呼ばれていました。
20年間で50人の人を救ったと言われています。
大嶋の三原山へ自殺をしにくる人をミナトで見張っている人もいます。
だれが自殺を企てているか、すぐにわかるそうです。
・じっと下を向いている。
・地面の一点を見つめながら歩いている。
・まっすぐ山に向かって登っていく。

そのような人たちは、本当は生きたいのに生きる場所が見つからないのです。
その証拠に、運良く途中の木にひっかかった人は
「助けてくれ!」と叫ぶのです。
ふと我に返ると、やはり生きたい。
生きたいからこその絶望なのです。

フランスのある公園で清掃員が急いで掃除をして帰ろうとしていました。
公園のベンチに一人の人が座っていました。
その人が帰らないと、清掃員も帰れません。
「あなたはだれですか?」と声を掛けると
「自分がだれか分からずに考えている」と答え、
「どこから来たんですか?」と聞くと、
「それも分からずに考えている」。
「どこへ行くんですか?」と尋ねると
「それが分かっていたら去っていることだろう」と答えたそうです。
それはフランスの哲学者デカルトだったそうです。
人がどこから来て、どこへいくのか。
どう答えたらよいでしょうか。

今日の箇所には、新しい人生を求める人、ニコデモが登場します。
彼は尊敬を集める人でしたが、ひとつ悩みがありました。
「死んだらどこに行くのか」です。
彼は永遠の命を求めていました。
彼はナザレのイエスのうわさを聞きました。
預言者で、不思議な業を行う、命と力に満ちあふれている方だと。
この前の章でイエスは奇跡を行っています。
カナの婚礼の時に、水を葡萄酒に変えるという奇跡です。
そのうわさが広がっていました。

私自身が初めて教会に行ったときのことを思い出します。
蕨教会のトラクトと教会案内が郵便受けに入っていました。
それも3回目でした。
3回も訪問してもらって不在だったので、御礼を言いに行こうと思いました。
夜に。
当時私は信仰者をバカにしていました。
宗教は弱い人間がすることで、女、子どものすることだと思っていました。
教会の前まで来たとき、向こうから知っている人が歩いてきたので、入るのを辞めて教会の周りを1周しました。
するとまた、人が来たので、もう1周。
結局教会の周りを7周していました。
時刻は10時頃。
教会の電気が消えかけたので、あわてて中に入りました。
すると牧師が
「吉井君ですか?
 どうしてくる気になったのですか?」
と聞きました。
「日本から世界に出ていく時に、キリスト教を知らないと不便だと思って」

私は答えました。
「キリスト教を勉強してもダメですよ。
 キリストを知って下さい」
と牧師は言いました。

この方に興味を持ったというだけでも、聖隷が働いておられます。
ニコデモはイエスに会いたいと思いました。
夜に。
世間体をきにしていたのでしょうか。
自分よりも若い人に相談することに抵抗があったのでしょうか。
イエスに
「真理とは何ですか。
 永遠とは?
 天国にはどうすれば行けるのですか?」
そう聞けば良かったのに、彼の口から出のは

「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」3:2

という言葉でした。
しかし、イエスの答えは、彼の本音への返答でした。
語られていない言葉を聞き、イエスは答えました。

「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』
ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』
イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」
3:3

「水と御霊によって生まれる」とはどういうことでしょうか。
水は「水のバプテスマ=見える教会に属すること」を表し、御霊は「生まれ変わり=見えない教会に属すること」という解釈が一般的です。
また、「水=羊水=肉の誕生」「御霊=霊の誕生」という解釈もあります。
イエスは生まれ変わる必要を何度も語っておられます。
人は罪人として生まれ、イエスによって神のことされるのです。
だから、人には2回誕生日があります。
私の場合は1つは昭和21年1月19日。
もうひとつは1968年5月5日です。
神の御子が犠牲になって、私たちを新しく生まれさせて下さいました。

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。13、14節は旧約聖書から来ています。」
3:13,14

ここは旧約聖書から来ています。

「彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。』
そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
民はモーセのところに来て言った。『私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。』モーセは民のために祈った。
すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』
モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」
民数機21:4~9

旗ざおに上げられた青銅のヘビを仰ぎ見た民が罪を赦されたように、十字架に架けられたイエスを仰ぎ見る者は救われるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒4:12

天国へのパスポートをイエスが命を賭けて与えて下さいました。
大切にしてほしいと思います。
イエスこそが天に導いてくださる方です。
ニコデモは信仰を公にするのに3年掛かりました。
ニコデモは3年後に、イエスが十字架で死んだあと、アリマタヤのヨセフと共にイエスの体を引き取り、葬ったのです。

11月4日 聖日礼拝

ヤコブの手紙 1章 5~8節
「信仰をもって願い求めなさい」
            大治福音自由教会 服部真光師

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
ヤコブ1:5~8

多くの人がたくさんのものを求めます。
「求める心」は持っています。
しかし、聖書は「信仰を持って」「信仰に立って」求める心が大事だと言います。
そのことを考えていきたいと思います。

今日の箇所には「欠けた人」という言葉が2回出てきます。
5節では「知恵の欠けた人」、8節では「安定を欠いた人」です。
どちらが幸せでしょうか。

人生において安定を欠いている人は、ジェットコースターのような人生を送ります。
正月に久しぶりに家族5人でUSJに行ってきました。
十数年ぶりです。
ジェットコースターにも乗りました。
だんだんと坂を登っていき、頂上から一気に下っていきます。
アップダウンが激しい人生。
人生の中には大きな波があり、嵐のようなときもあります。
その中でも、しっかりとした人生を送ることができます。
その秘訣について、ヤコブは書いています。

「知恵の欠けている人がいるなら」
子どもはたくさんのことを学んで身につけていきます。
生まれてすぐに「1+1=2」と言う子はいません。
知恵も経験も技術も何も持たずに生まれてきます。
大人が知恵や技術を教えます。
生活習慣、勉強、たくさんの知恵を身につけて成長していきます。
欠けているものを身につけることが,成長です。
「知恵の欠けている人がいるなら」という言葉の背後には「知恵が欠けていることは問題ではない」という前提があります。
ダメだと思う必要はないのです。
もともと人間は欠けだらけです。
大事なのは「欠け」に気付くことです。

大学時代に家庭教師をしていました。
一番大事なのは、その子がどの分野において欠けているかを見つけ出してあげることでした。
本人がそれに気付くことです。
どこが苦手かを分かるのが最初のステップです。
気付いてそこが埋められていくのです。
気付けたなら、それが恵みへの最初のステップです。
がっかりして「ダメだ」と思ってしまうのは間違いです。
祝福への第一歩なのですから。
だれでもどこかが欠けています。
気付いたら、「神さま欠けている部分を強めてください」と祈り求めていきたいものです。
神はそれを求めておられます。

そこから次のステップに進みます。
「神に願いなさい」と。
信仰を持って、祈り願い求めなさい。
きっと必ず与えられます。
誰に祈るのでしょうか。
神に、祈るのです。
神はどのような方でしょうか。
「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」です。
だれにでも…ですが、条件があります。
「神に願い求める人なら」だれにでも、なのです。

①だれにでも:例外なく
②惜しげもなく:ひとり子さえも惜しまぬほどに
③とがめることなく


神がそのような方であることを、信仰を持って受け止めるのです。

では、どれぐらい祈っているでしょうか。
「どうしたら教えたことができるようになるか」を教師でさえ考え、研究します。
ましてや主はきっと、必ずできるようにしてくださいます。
神から与えられた経験が、信仰をより強くします。
「祈ったのに与えられない」と言って、信仰が弱くなる人がいます。
期待して祈っているのに裏切られた、と。
このような人は「安定を欠いた信仰生活」になります。
何が問題なのでしょうか。

「少しも疑わずに信じて」1:6

神への信頼が大事です。
自分が納得のいくアドバイスを探している人は、本当によくなろうとは思っていない人です。
自分が願う道をすでに持っている人。
願い通りにならないと不満な人。
神に信頼せず、自分の中の計画や確信に沿う答えでないと「神は答えてくれない」と言うのです。
だから不安定なのです。
神は、信じ、願う時に与えて下さいます。

どのように与えて下さるのでしょうか。
「知恵が欠けている人」に「知恵」を与え、物事を理解できるようにして下さいます。
それによって成長できます。
また、別の場合もあります。
欠けているところは補われませんが、「助け手を与える」ことで満たされる場合です。
協議会の会長をしていた頃、主の使命を果たすために、主は知識や経験を与えて下さいました。
それでも欠けはあります。
あるときは、PCに送られたメールをチェックする時間もなく、連絡が滞っていました。
ひとりではどうしようもなく、苦しんでいるときに、共に役員をしていた仲間が、PCから携帯にメールを自動送信する設定をしてくれました。
おかげでメールへの応答が早くできるようになりました。
それでも時間が足りなくなったとき、
「決裁さえしてくれれば、あとは私たちでやる」とまで言ってくれました。
どうしてよいか分からないとき、主は助け手を与えて下さったのです。
「アダムが一人でいるのは良くない」と、エバを創って下さった主です。
人間の本質は「完璧に自分のことを自分でできるのではない」ということです。
弱さを互いにカバーし合うことで、共同体ができるように作られているのです。
「自分が成長して終わり」ではありません。
人には生まれ持った特性があります。
NPOの働きでいつも感じることです。

神がいつも一緒にいて下さることに気付きます。
世の終わりまで。
良いときだけでなく、悪いときも。
主は心配し、賭を補い、安定をもたらそうとして下さっていることを、知識ではなくじっかんできるようになります。

大学生の頃、母が
「わが子に残す財産は何もない。
 でも、残したものがある。
 それは神を信頼し、神の前に生きる信仰だ。
 親はいつかいなくなる。
 だからいつも助けてもらえる信仰を与えた」
と言いました。
人生の困難に出会うときに、
「もうダメだ」ではなく、神に祈り求めることができるということを教えることが、親にできることです。
それが、幼い頃から子どもたちと共有していくべき事です。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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