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12月30日 聖日礼拝

詩篇 103篇 1~22節
「振り返りほえたたえる民」
      栄聖書教会 相山暁伝道師

2018年が終わろうとしています。
どんな年だったでしょうか。
この1年に起きた出来事を振り返るキーワードを挙げてみましょう。
 日大アメフト
 安室奈美恵
 大坂なおみ
 カモンベイビー
 築地
 半端ない
 ゴーン元会長
 北海道地震
 金足農業
 貴ノ岩
 羽生結弦
 大谷
 あおり運転
 そだねー
今年、大きな決断をした人もいるでしょう。
定年を迎えた方も、家族が増えた方もいるかもしれません。
1年の最後に振り替えるのはあると思います。
これは大事なことです。
この世の人でもできることです。
しかし、振り返って神を賛美することは、この世の人にはできないことです。
すべてを感謝するのは、神の民に与えられた特権です。
私たちは、救いの技を筆頭に、能動的に、種がなさったことを振り返り、ほめたたえることに招かれています。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」103:1

「…わがたましいよ。主をほめたたえよ。」103:22

103篇の始まりの言葉と、最後の言葉は同じ言葉です。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。」104:1

「…わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」104:35

これに続く104篇も同様です。
この2篇は対になっています。
どちらも主をほめたたえることがテーマになっていまが、真ん中に何が来るかが違っています。
103篇は「救いのみわざ」104篇は「創造のみわざ」をほめたたえています。

今日注目するのは二つの命令と、神をほめたたえる理由です。

①  「ほめたたえよ」という命令

「主をほめたたえよ」とはどういうことでしょうか。
ヘブル語では「祝福する」という意味がある単語です。
例えば、

「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」創世記2:3

「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」創世記1:28

ここで使われている「祝福された」と同じ言葉です。
詩篇では、「ほめたたえよ」と、私たちに命じられています。
「神を祝福せよ」とはどういうことでしょうか?
神は祝福される必要のない方です。
神以外がこの動詞の主語になるとき、「神をその祝福の源と認めて、感謝し、礼拝する」という意味になります。
「この祝福は、主よ、あなたから来ました」と。

では、だれがほめたたえるのでしょうか?
「わがたましい」です。
全身全霊をもって、全存在をもって、ほめたたえるのです。
み使いも、すべての作られたものも。

② 「忘れるな」という命令

旧約聖書には「忘れるな」「覚えておきなさい」という言葉が何度も出てきます。
記憶を能動的に振り返って味わうということです。
申命記は、約束日に入る直前に与えられた二つ目の立法です。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」申命記4:9

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」申命記8:2

神が何をされたか、ひとつひとつのみわざが何だったかを忘れないで考える。
全行程を思い起こすのです。
「なんとなく」ではなく。

③ ほめたたえる理由

「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」103:3~5

主はすべての咎を赦してくださいます。
その救いのみわざのゆえにほめたたえます。

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」103:8

これは、出エジプト記の次のみ言葉と同じです。

「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、』」出エジプト34:6

出エジプト記では、この直前、シナイ山からモーセがもどってこないのにしびれをきらし、イスラエルの民は金の子牛の像を作って拝み始めていました。
偶像礼拝です。
神でないものに心を向けた民を、主はお許しになりました。

「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」103:10

もしも神が私たちの罪に従ってかかわられたとしたら、どうなるでしょうか?
私たちは滅びても仕方がない存在です。
神は罪を赦してくださいます。
怒るのに遅く、恵み深いからです。
日常で私たちが受ける扱いに対して、私たちはすぐに不平不満を言います。
しかし、罪を犯したのに、恵みを与えてくださるのが神です。
神の憐れみを考えるかどうかで感謝の気持ちが変わります。
神は待っておられます。
私たちが立ち直るのを。

「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」
103:11,12

「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」
103:13,14

神の恵みがどれほど大きいか。
それは空よりも大きい。
神はどれほど遠くまで罪を遠ざけるか。
東と西のはてまで。
神のあわれみはどれほどのものか。
父の子に対するあわれみのようだ。
私たちはチリに過ぎず、神に立ち返ることすらできない。
と、詩篇は歌います。
私たちは「罪があります。赦してください」というしかありません。
何もできないことを、神は知っておられます。
神の命令を守ることもできないことを、ご存じだから、私たちの心を変え、愛を与え、罪を認める力を与え、救ってくださったのです。

神をほめたたえる理由。
それは、救いのみわざゆえ。
いかに許し、憐れんでくださっているかがわかったから。
私たちは福音を受け入れ、罪を認め、イエスによって許されていることを、日々自ら語っていきます。
救われた瞬間を押し入れに入れてしまっていませんか?
まだ神との関係は完全ではありません。
周りの人々との関係もそうです。
家庭、職場、友人との関係を見ればわかります。
私たちは神と人を愛するために作られたのに。

罪を認めるのはステップの半分です。
イエスが十字架にかかって、その罪を赦してくださった。
ここまでが1サイクルです。
1日、1週間、1月、1年を振り返り、自分の罪深さを認め、救いに感謝しましょう。
半分で止まると、疲れ果てたクリスチャン。
後半だけなら何の証もしない世の人と同じになってしまいます。

まとめましょう。

この1年、7何があったのか、2018年を振り返る時間を持ってほしいと思います。
月ごとに、振り返ってみてください。
それに神がどう関与されたかを味わい、感謝し、ほめたたえましょう。
神の家族として、この1年がどんな年だったか、ともに振り返り、感謝をささげる時を持てたら幸いです。
感謝するのがつらい時こそ、恵みを数え、感謝しましょう。
「救われている喜び」は変わらないはずです。
つらい時には、「意味が分からない」と思います。
何年か後にたって、神のみわざだったとわかることがあります。

最後にトリニティの教授リチャード・アバーベックの言葉を引用します。

「賛美とは神を見出す――つまり神がどんなお方で、どのような事をされたのかで自分の人生を直視する中に見出す――ことです。賛美とは日常からの逃避の手段ではなく、個人的であれ、共有されているものであれ、私たち自らの歩みのすべてを神に差し出す行為です。私たちが賛美をもって自らの歩みを神に差し出すとき、私たちは神の観点から物事をみる機会を与えられるのす。」
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12月23日 クリスマス礼拝

ペテロの手紙第1 4章 1~6節
「主イエスに倣って武装せよ」
            柳橋宏祐神学生

イエスは父の御心を行うために乙女マリヤから生まれてくだいました。
父が求めていることは御霊と真理によって神を礼拝することです。
神が求める礼拝とは、日欧に集まってささげる礼拝というより、残り6日間神の御心を行って生きることです。
毎日神だけを愛して、神に従ってささげていく礼拝です。

この世にはそれを妨げる誘惑があります。
世と違った生き方をしようとすると、中傷されたり迫害にあったりします。
それでも世と違う生き方をすることが、私たちの生き方です。
私自身戦いに敗れ、挫折し続けてきました。
神の御心よりも人の欲望に従って生きてしまいました。
神に従うには、神の助け、イエスの愛、聖霊の力が必要です。
励ましあい、祈りあう交わりがいつも必要です。
ともに神に聖められていきたいと思います。

今日のポイントは、「世からの誘惑がある中で、地上で残された時を神の御心に従って生きるために武装しなさい」ということです。
つまり、イエスと同じ心構えで自分自身を武装しなさいということです。

「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」4:1

なぜイエスは肉において苦しみを受けられたのでしょうか?
キリストの苦しみとはどれほどのものだったのでしょうか。
ののしられ、唾をはかれ、平手打ちされ、いばらの冠をかぶせられ、侮辱され、木の棒で殴られ、十字架を背負わされ、極悪人として辱められて死んでいきました。
なぜ、人を救うために来られた方が、こんな死に方をしなければならなかったのでしょうか。

「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。」ヨハネ7:7

「世」とは何でしょう?
神に背いて人の欲望を中心に生きている世界です。
「人生とは人間の欲望を満たすこと」であり、「幸せとは欲望を最大限に満たすこと」であると、世は言います。
中心は人間の欲望です。
世は私たちを支配して「神はいない」「自力で幸せになれる」「人は文明を築き、病も死も解決できる」「心も満たすことができる」と言うのです。
こうして、世は欲望を神として歩んでいます。

イエスは、それは間違っていると指摘しました。
そして、世はそのキリストを氏化につけて殺しました。なぜイエスは人となって、イエスを憎む世に来てくださったのでしょうか。
私たちが求めたからではありません。
私たちが何かふさわしいことをしたからではありません。
私たちは、滅びに値する、絶望的な存在でした。
イエスは、そんな世を愛してくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

世を、私たちを、愛してくださったからです。
だれが救いを手に入れることができるのでしょう。
福音を聞いても信じる人と信じない人がいます。
信じる信じないは、私たちにかかってるのでしょうか?
私たちの能力や努力によるのでしょうか。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:1

光から逃げず、そこに向かっていき、イエスの光の中に入れられたのは、神が私たちを愛し、召して選んでくださったからです。
神が先に働いてくださったからです。
「救われた」ことで何も誇ることはできません。
ペテロが冒頭で、

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」ペテロ第一1:2

と書いているとおりです。
ペテロは、召しに応えて生きる人に、「武装しなさい」と語っています。
武装とは、武器を身に着けることです。
ぶっそうな言葉かもしれません。
この世は戦場だということです。
常に戦いの中に置かれているときに、武装を解いたら簡単に敗れてしまうでしょう。

人間の欲望によらず、御心に従って生きるとはどういうことでしょうか。
欲望は「〇〇を得たい」という心です。
それ自体は良くも悪くもなりうるものです。
神が欲望を作られたのですから。
罪によって堕落したときに、人の欲望も堕落しました。
そして、「欲望」という言葉がネガティブな意味合いを持つようになりました。
神に敵対する思い:「神に従いたくない」「神に従うよりこれをしたい」「神よりもこれを信じたい」という欲望です。
しかし、私たちは信じたときに聖霊を受けました。
聖霊が、欲望に打ち勝って神の御心を選べるように力を与えてくださいます。
御霊と欲望にには葛藤があります。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」
ガラテヤ5:16,17

新しく生まれた私たちは、常に葛藤を経験します。
心が裂かれそうになるとき、欲望に任せて生きられたら他の惜しいだろうと思うかもしれません。
それは人を例的に殺します。
打ち勝って、御霊に歩むなら命と平安があります。

御心に従って生きるようになるためにはどうしたらいいでしょうか。
肉において苦しみを受ける心構えを持つことです。
罪との関係を断ち、神とともに歩み、世の間違いをただすときに受ける苦しみです。
苦しみをも恵みとして賜っているのです。
苦しみを避けて生きることはできません。

具体的にはどうしたらいいのでしょうか。
西暦1世紀のクリスチャンたちはどんな経験をしていたのでしょう。

「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。」
4:3,4

「異邦人たちがしたいと思っていること」の本質は現代と変わっていません。
それは「あるものを過剰に欲すること」です。
今の時代はもっと欲望を満たす機会が増えています。
私たちは誘惑にさらされています。
何が欲望なのか、判断も難しくなっています。
しかし、「それは過ぎ去った時でもう十分」です。
イエスにより新しい命を与えられているからです。
主なる神を父と呼んでいるのですから、神を恐れながら歩むのです。
目の前の欲望を見るのではなく。
さばきと永遠の命と、目の前にはいつもふたつの選択肢があります。
命を懸けた戦いです。

励ましあい、祈りあって生きていくことが必要です。
イエスはすべての点で渡し地と同じようになられました。
種が守ってくださいます。

12月16日 聖日礼拝

ルカの福音書 2章 1~14節
「あなたがたのために救い主がお生まれになりました」
                インマヌエル教会 プリスコ師

今月、世界中でイエスの誕生を祝っています。

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」2:11

天使によってこう語られたイエスの誕生は、神の主権と神の神秘的な方法で、目的を達成するための方法でした。
キリストの誕生は普通のことではありませんでした。
驚異と偉大な謎に満ちていました。

①男子を産んだのは処女だった

②神が人となられた

 人が魚を生んだり、ゴキブリが牛を生んだりすることが理解できないように、人が神の子を産むのは理解を超えています。

神は、命と世界のできごとにどのように関連しているのでしょうか。
神の偉大さと、神が非日常の中でどう働かれるかを明らかにする5つのことがあります。

●イエスの誕生は超自然的なものでした

(1) キリストは処女から聖霊の力で身ごもった

「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。』」
ルカ1:30,31

「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」ルカ1:34

神は目的達成のために、自然の道をも変えることができます。
魂の主であるだけでなく、自然の主でもあります。

(2) 自然界における神の御業の他の例

サラ、エリサベツは閉経期を過ぎていましたが子を授かりました。
モーセは紅海を渡りました。
イエスは水上を歩き、風と波を叱りました。
周りで起こっていることに圧倒されてはいけません。
主は自然界も御手の中に治めておられます。

(3) 聖霊によって身ごもった(ルカ1:35、マタイ1:18,20)

・マリアの罪深い性質を継承しなかった=救い主として適していることを示しています。
・キリストが唯一の方であることを強調しています。特別な存在なのです。
・母の偉大さではなく、息子の偉大さを際だたせています。
サタンは母マリヤを中心に移すことでキリストの価値を下げようと企んでいます。
たとえばフィリピンなどカトリックの国ではキリストよりマリヤに重きを置いています。
・救いは超自然的であり、人間の努力によってもたらされる物ではないことを示します。
イエスの誕生に際して、マリヤは何も貢献していません。

●マリヤがヨセフと結婚すると約束されたとき、神はマリヤを用いられた

(1) 神は個人的なことに介入していないのか

神は創造主であり、人生の主です。
全てのことに権威を持っています。
私たちは神のために存在しています。

(2) 神のタイミングは間違っていないのか

なぜ結婚準備の段階で、この神の計画を入れたのでしょうか?
神にとってはいつも正しいタイミングです。
主は、あらゆる瞬間の主です。

(3) 神は喜びを奪う方なのか

なぜ一番喜ばしい時にこの計画を入れたのでしょうか?
人生最大の喜ばしいイベントの時に。
人生の真の満足は「神が求めることを行うこと」だからです。

(4) 神は私たちの社会的地位を気に掛けていないのか

結婚前に妊娠が発覚すると、マリヤが公然と恥をかくのに。
隣人、友人、親戚は何と言うでしょう?
今、私たちは歪んだ価値観の世界に住んでいます。
結婚前の同棲や未婚の母は普通のことになっています。
マリヤの時代は違っていました。
神の意志を行っているときに、誤解されることがあります。
そんな時も主は私たちを気に掛けて下さいます。
間違ったことを行って人に認められるよりも、神の意志を行って誤解される方がよいのです。
神に認められることが大事です。

● ローマ帝国時代の国民登録の時期を選んだ

妊娠にとって大事な時期に皇帝は命令を出ししました。
神の計画≦世界・・・ではありませんでした。
主は政治的状況も、統括しておられます。
皇帝の力は神の目的達成の道具でした。
ここにチャレンジがあります。
「私たちは政治をどう見るか?」
神は神の目的の中で最善を尽くし、最悪の政治状況も用いられました。

● 最も不都合な場所、状況でイエスは生まれました

マリヤとヨセフは旅をしていました。
ラクダで4日間。
JALもJRもありません。
安全に寝る場所、食べる場所もありません。
ローソンやファミマやセブンイレブンもありません。
宿には泊まれず、家畜小屋でイエスは生まれました。
社会的、経済的に最悪の状況で生まれたのです。
主は、快適さ、物質の豊かさに基づいて人を判断しません。
神は最善の時と場所を、目的の中で最も有効に使われます。

●キリストの誕生の時、天の軍勢が現れて賛美しました(ルカ15:20、2:14)

【結論】
あなたはクリスマスをどう祝いますか?
買い物や、よい食事よりよいことがあります。
神は主権者で、神秘的な方法で働いておられるのです

12月9日 聖日礼拝

マタイの福音書 6章 10節
「神の国である教会を建て上げましょう」
                東海聖書神学塾 後藤喜良師

天のお父さんに愛されている神の子であるという喜びを味わって生きましょう。
子どもは成長することしかできません。
日ごとに、月ごとに、毎年成長していきます。
「お父さん」と呼びかけた後、すぐ祈るのは「御名があがめられますように」という祈りでした。
私たちは神の栄光を現すために生きています。
その後で、イエスは教えられました。

「(あなたの)御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」6:10

日本語の聖書ではなぜか「あなたの」が削られていますが、「あなたの御国」です。
「国」と訳されると、たとえば「日本」という地域があります。
この「御国」は地域ではなく、ギリシャ語では「支配」という意味です。
どこかに「国」があるという、地理的な意味ではありません。
神が、愛をもって支配している世界です。
その意味では、私たちの家族も、神の国と言えます。
2人でも3人でも神の子がいれば、そこは神の国だからです。

なぜ「支配」なのでしょうか。
イエスは「神の国」を立てるために来られました。
そのとき、地理的な国ではなく神の支配を表していました。
それは誤解を避けるためでした。
当時イスラエルはローマの植民地でした。
人々は、ダビデやソロモンのような、ローマ帝国から解放してくれる救い主を待っていました。
しかし、イエスは地理的な「神の国」を再建しようとしていたのではありません。
イエスが作ろうとしていたのは、神の愛が支配する国でした。
すなわち、神の法律が支配する国です。

「主の祈り」は山上の説教の中の一部です。
旧約で与えられた律法を、もう一度教え直しているのです。
日本語では「律法」と訳されている言葉は、ヘブル語では「法律」ギリシヤ語でも「法律」です。
これを「律法」と訳しているのです。
なぜこう訳したのか、分かりません。
日本の社会では使われない言葉です。

十戒は神のみことばです。
ヘブル語では「10の言葉」としか出てきません。
法律には民法、刑法、衛生法などが多くのものがあります。
全てを集約して簡単にまとめたのが「十戒」です。
旧約の法律は全て、神を愛することと、人を愛することを命じています。
しかし、人々は従いませんでした。
自分中心の王が、自分のために作った法律が支配している国が広がっていました。
たとえば「ローマ法」は愛の法律ではありません。

「すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。』」ルカ22:25

今も、2,000年前も変わりません。
私たちは、神の愛の法律に従う国を作らなければなりません。

私たちを支配するのは、人間の王だけではありません。
悪魔、サタンもそうです。
イエスはそこから私たちを解放されました。
なぜ神のみこころに従わないで悪に負けてしまうのでしょうか。
自分の力で欲望を抑えることができないからです。
もともと与えられている「欲求」は生きていくのに必要な物です。
しかし、人は自分中心の欲望を持つようになり、悪魔が誘惑してくるのです。
神の聖霊によってしか、欲望をかわして神と人のために励もう、とはならないのです。
生まれながらの人は、自分の幸せのためにだけ一生懸命行きるようになりました。
そんな私たちを、イエスが悪魔の支配から解放して下さいました。

私たちは、病気や死にも支配されています。
永遠の命の木から、実を取って食べても良かったのに、アダムとエバはそうしませんでした。
善悪の知識の木から取って食べました。
ふたりは最初は神の言われたように生き、園を耕していました。
やがて、自分たちだけでやっていけるのではないかと思うようになりました。
それは間違いでした。
日を昇らせ、雨を降らせる神に助けられて生きているのに。
そして、人は病気を死、死ぬようになりました。

「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。」創世記6:3

どんなに仲良く、家族を築き上げても、死が訪れます。
イエスはなぜ病を癒し、死人をよみがえらせたのでしょうか。
それは、神の国が来たことを知らせるためでした。
それでも私たちは120年以上は生きられません。
イエスが十字架で死なれたのは、永遠の愛の神の国を築き上げるためでした。
個人の救いのためではありません。
神の愛の支配のためです。
イエスと共に十字架にかけられた強盗の一人が言いました。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」ルカ23:42

彼はイエスが支配の座につかれることを知っていました。
イエスは王になるために、十字架で死に、復活されました。

自分の国の王に、だれになってほしいと思いますか?
イエス様に、王になって欲しいと思うことでしょう。
神の愛の法律に喜んで従っていく国の王にふさわしいのは、イエスだけです。
だからこそ、王の王、主の主と呼ばれるのです。
神の法律が支配する場所、それは教会です。
不完全ではありますが、
「どうか私たちが神の国になりますように」という祈りです。

神学校で「救済史」という学問を学びました。
が、それは個人を救う意味での救済の歴史というアプローチでした。
本来それは、「主が、神の国を作ろうとしておられる歴史」のはずです。
そこには、世界が、自然が含まれています。
自分の生活と人生は何のためにあるのでしょうか。
私たちには、神の国を建て上げ、広げていく責任が与えられています。
個人的に主に従うということではなく。
「個人的に、人が救われればいい」のではありません。
教会を、神の国のモデル都市、地域を愛する民になるよう、励んでいかなければなりません。
イエスのたとえ話の多くは「神の国は」で始められています。
どこまでも、神の国を建て上げていくためです。
今は小さいけれども、やがて大きくなると言う預言。
人の作る国は一時的な物です。
ローマ帝国も、ナポレオンの帝国も滅びました。
神の国だけが日ごとに大きく広がっています。
未完成で途上にありますが、それでも神の国です。
永遠に続く国の民の一員であるという喜びと誇りをもって生きていきましょう。
日本では数パーセントですが、世界的に見ると3分の1は神の民です。
差別はありません。
豊かな多様性に満ちた神の国です。
国連加盟国よりも、世界伝道会議に集う国の方が多いのです。
「私たち」がどう実行していくのかを考えましょう。
家庭、地域、国、世界で、神の法律を実行していく必要があります。
閉じこもらないで、神の国を広げていきていくのに励んで欲しいと思います。
この祈りも命令形。
「絶対に、そうなる」という祈りです。
必ず完成します。
病も苦しみも死もなく、永遠に神の愛が存在する国。
その日は近づいていることを私たちは知っています。

12月2日 聖日礼拝

マタイの福音書 22章 34~40節
「大切なふたつの戒め」
               大治福音自由教会 服部真光師

イスラエル人の「律法」は、エジプトから約束の地カナンへ導かれていく途上でモーセを通して与えられたものです。

神はまずアブラハムに命じて「約束の地」に彼を導き、アブラハムの子孫を神の民として、地上の全ての民を祝福する基にしようとされました。
アブラハムの孫、ヤコブの時代に大きな飢饉が起こりました。
7年の豊作の後、7年の飢饉が襲ったのです。
ヤコブと子どもたちは、食べ物がたくさんあると聞いて、エジプトに助けを求めます。
エジプトでは、奴隷として兄たちに売られたヤコブの子ヨセフが、神の不思議な導きによって大臣となり、大飢饉に備えていたからです。
ヨセフと兄たちは再会し、和解し、70人の一家がエジプトで新たな生活を始めました。
それから長い年月が経ち、ヤコブの子孫は200万を超える民となりました。
豊かな文明と、豊富な食料を享受した彼らですが、やがてヨセフを知らない王によって苦役に就かされます。
苦難を通して、彼らはエジプトを離れて、かつて約束されたカナンの地に戻ることになるのです。
イスラエルというひとつの民族として。
その時に用いられたのがモーセでした。
当時イスラエルの民は「神の民」ではありましたが、エジプト人と変わらない生活をしていました。
偶像礼拝などの習慣に染まっていたのです。
彼らは神の民としてもう一度整えられる必要がありました。
荒野の40年はその訓練の期間でした。
これは新約聖書のひな形です。

人は全て神の子でした。
神に似せて作られた尊い存在でした。
それなのに、それが分からなくなってしまいました。
主は、御子イエスを遣わしてもう一度神の国に導いて下さいます。
神の国に入る準備を、救われた後にしていく必要があります。
モーセを通して律法を与えられたように、イエスを通して新しい律法が与えられました。

若い頃によく同じ質問を受けました。
「キリストを信じ、天国に行けるんですよね。
 それなら今すぐ行きたい!」
と。
それはダメです。
まだ天に入るのにふさわしい者を身につけていないからです。
それにふさわしくなるべく、整えられる必要があります。
クリスチャンになるということは、ゴールではなくスタートなのです。

イスラエル人は、荒野で過ごした40年の間、パンを求めるとマナを与えられ、肉を求めるとうずらが飛来し、水を求めると岩から水が流れ出すという経験をしました。
私たちはクリスチャンになった後、生涯を掛けて、主は見放さず必要を備えて導いて下さるという経験をするのです。
私自身、自分を振り返ると「まだまだだな」と思います。
もっと深く主を経験したいと、もっと主の役に立ちたいと思います。

「しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』」
22:34~36

ここに書かれている「パリサイ人」「サドカイ人」とは、民族ではありません。
当時神の律法に仕えるふたつのグループがありました。
神殿を中心にして神に仕える働きをする人々が「サドカイ派」、町々のシナゴーグで一般人に律法を教え、守るように指導する人々が「パリサイ派」と呼ばれていました。
どちらも律法の専門家です。
彼らは「もっとも大切な教え」は何かと尋ねました。
私たちもきちんと受け止めなければなりません。
イエスの答えは申命記の引用でした。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」申命記6:5

あなたは心から「神を愛している」と言えますか?
目に見えない神を、どうやって愛するのでしょうか?
「愛する」とはどういうことでしょうか?
実際に生活の中で「愛している」という証はどういうことなのでしょうか?
言葉で「愛している」とは言えますが、その証拠は?

「愛する」ということは、感情的な者ではなく「意志」です。
最初に聖書を翻訳しようとした人が、「アガペー」にあたる日本語がないので、「愛」と訳しました。
そのため、一部は理解できても、他の部分を失ってしまいました。
ある人は「アガペー」を「大切にする」と訳しました。
「愛する」とは「大切に思う」ということです。
たとえば大人が子どもに「物を愛しなさい」とはいわないと思います。
「物を大切にしなさい」というでしょう。
愛の中心はむしろそちらにあります。
「神を愛せ」とは「神を大切な方として生きなさい」ということです。
では、どのように?

クリスチャンは5つのことをします。
①礼拝する
②聖書を読む:大切な人の言葉は真剣にきくでしょう。
③祈る:私の思いを主に知って欲しいから。
 大切な存在だから話したい、聞きたい、分かち合いたいと思うのです。
④献金する
⑤奉仕する:大切な方の役に立ちたいから。
これらを日常生活の中でしていきます。

神を愛するといいながら、それらをしていないということがあるでしょうか?

愛されていると思うのはどんなときでしょう?
相手が近づいてきてくれる。
話に耳を傾けてくれる。
語りかけてくれる。
私のために骨折ってくれる。
愛するとはそういうことです。

「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
22:39,40

次のステップとして、神が大事にする物を共有するということがあります。
神が、イエスを通して私を愛して下さるということを知ったなら、私自身を愛するはずです。
それは「ナルシスト」とは違います。
神が私を愛してくださっているということを受け取るのです。
神がそうして下さったから。
「自分は完璧で、品行方正であるから愛する」のではありません。
完璧でなくても、品行方正でなくても、かけがえのない大切な存在だと、神は言って下さいます。
それは「同じように他人を愛しなさい」という意味です。
他人の過ちや失敗は目について仕方がないのに、自分のことは気付かない。
自分の中にも様々な課題があるけれど、イエスは私を神の子として受け入れて下さった。
それを学んだ人は他の人も大切な存在として受け入れよう、祈ろう、労しようと思うはずです。

エリコの町で、イエスはザアカイの家に泊まろうとされました。
ザアカイはイエスに何かを言われたわけでもないのに、ただ一緒にいただけで自分の間違いに気付き、自ら

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」ルカ19:8

と言いました。
お金さえあれば人は自分に屈服すると思っていたザアカイが。
イエスが自分を大切にしてくれたという経験をして、施そうと思ったのです。

目に見えない神を愛するとは、
・礼拝と学びと祈りによって神との関係を築き
・奉仕と捧げ物によって人に仕える

ということです。
献金は「会費」ではありません。
会費なら、教会員の娯楽のために使えばいいでしょう。
献金は私たちのために使うのではありません。
神の働きのためにどう用いるかを考えなければなりません。

「隣人を愛しなさい」という戒めは,神の子にふさわしくなるために大事なことです。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」ヨハネⅠ4:20

大切な存在がいるなら、すべきことがあります。
距離を近づける。
話を聞く。
聞くときに、表面しか聞いていないことがあります。
特に男性は「解決策」を答えてがっかりされることがあります。
話す人は、解決が欲しいのではなく、今の状況を共有してほしいのです。
主を愛するのと同じ熱意で、大切な人との関係を築いていくのが律法の中心です。
「いつも共にいる:インマヌエル」が、クリスマスの中心メッセージなのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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