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8月12日 聖日礼拝

マタイの福音書 11章 25~30節
「主イエスと共に喜んで重荷を負いましょう!」
          東海聖書神学塾 後藤喜良師

今日のみことばは、日本で一番多くの人が聞いて「教会に行こう」と思った言葉です。
このなかにもそういう方がいるのではないでしょうか。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
11:28~30

私にとってもとても大きな喜びを与えられ続けているみことばです。
私にとってのイエスの姿は、羊飼いも素晴らしいですが、一緒にいてくびきを負って下さる姿は一番です。
本当に喜びと平安が与えられる姿です。
みなさんは、どの姿が一番すばらしくて喜びと平安を与えられるでしょうか。
よく知られているみことばですが、もう一度喜びを手に入れて頂きたいと思います。

「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。』」11:25

イエスは私たちを「幼子」とよんでくださいます。
この前の20,21節で、イエスは悔い改めなかった町を責められています。

「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。』」
11:21、21

子どものように素直でしたが、みことばをなかなか理解せず、行うこともできなかったからです。
イエスは、父なる神に助けられてみわざを行っておられました。
アダムとエバは神に創られた時、何も知りませんでした。
知識の実を食べた時、逆らうようになりました。
いつまでも幼子のようであってほしいと思います。
「知るべきこともまだ知っていない」というへりくだった心で。
弟子たちは自分たちで何でもできると考えていました。
「自分たちは知っている」と。
「自分は一人前ではない」と思っているなら、それはよいことです。
イエスの前ではそうだからです。
イエスはすべてを知っておられます。
何でもできる方なのに、へりくだっておられました。

イエスは招いています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」11:28

イエスはいろんな招きをされます。
あるところでは、

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」ヨハネ7:37

また「くびきを負いなさい」と言われます。
今は「くびき」はほとんど使われていません。
私が以前奉仕していた岐阜の教会には、くびきが飾ってありました。
農家の方が使っていたものをもってきてくださったのです。
経験のある牛と、経験の浅い牛をくびきでつないで畑を耕させるために使います。
そうのようにして、だんだん経験を積めるようにします。
イエスは私たちをくびきを一緒に負ってくださいます。
この招きを喜んでいますか?

イエスは「私についてきなさい」とも言われますが、これは後に従っていく関係です。
「くびきを負う」のは、繋がれて一心同体になり、離れない関係です。
いつもいてくださる。
絶対に離れることがない関係。
「イエスはぶどうの木で、私たちは枝」ともたとえられます。
これも離れない姿です。
「イエスは頭で、私たちは体」というたとえもあります。
これは、イエスと教会が一心同体であることを示します。
イエスは、あなたとつながっています。
歩けなくなっても、絶対に離れることはありません。
疲れている時は一緒に休んでくださいます。
マタイの福音書が「インマヌエル(神はともにおられる)」の福音書と言われる所以です。
共におられる神を描いているからです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

イエスは、くびきを負い、先に立ち、手をつなぎ、隣にいて歩んでくださいます。

「重荷」とはなんでしょう。
重荷には二つの種類があります。
ひとつは「罪の重荷」です。
私たちの邪魔をするものです。
取り去られていない重荷はありませんか?
「こんな私でも許されるのか?」と言われる方もいるかもしれません。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24

心が病んでいる人がたくさんいます。
喜んで生きるのを妨げるのが罪です。
十字架の許しを受け入れ、心からの「赦されました」という告白をしてほしいと思います。
罪の重荷は、全てイエスが取り除いてくださいます。
悩む必要はありません。
全く新しい生活を始めればよいのです。
罪によって人を苦しめたのであれば、謝罪した方がよいでしょう。

ふたつめの重荷は、船の荷物のようなものです。
船は適当な重さの荷を積んでいないと転覆することがあります。
石油タンカーは、水を入れていきます。
水を抜いて、原油を入れて帰ってきます。
これは、神から与えられた責任、課題、奉仕です。
それがないと、間違った生き方をしてしまいます。
働かない人はよくないことをします。
人生を無駄にします。
孔子も「小人閑居して不善をなす」と言っています。
子どもには家の中の仕事をさせるべきです。
一緒に役割を果たさないと、家庭は成り立って行きません。
ですから、私は「手伝い」といわずに「仕事」といいます。
勉強は大切なことで、神と人に仕えるために必要です。
人間関係も大切です。
教会でいろんな世代の人と共に活動することはよいことです。
それらはできて当たり前のこと。
本当は、それは重荷ではありません。
私たちを幸せにする課題であり、奉仕です。
でも、私たちは子どもなので、本当の愛が分からないし、実行もできないのです。
だから、疲れてしまっているのです。
全て、疲れ果てている人はイエスのところに行ってください。
結婚生活も、育児も、どうしていいのかわからない。
本当なら喜んで果たせる責任なのに、放り出してしまっていることはありませんか。
奉仕で疲れていませんか?
牧師だって疲れてしまうことがあります。
牧師の「燃え尽き」が話題になったことがあります。
本当に幸せになるために、成長するために、適当な課題が与えられているのに、疲れ果てている。
そういう人々は私のところに来なさい、とイエスは招いてくださっています。

イエスは言われます。

「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」11:28

魂の安らぎです。
十分な安息、平安です。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
詩篇23:1~3

義の道に導かれます。
緑の牧場で生き返らせてくださいます。
十分な安息と平安を受け取るべきです。
既に与えられている平安と希望を受け止めるべきです。
「私は神の子」という喜びから一日を始めましょう。
イエスの腕の中に、幼子のように抱かれて、休ませていただきましょう。
不安は希望に変わります。
まず、主の前に休みましょう。

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」11:30

「荷を負わなくてよい」とは言われません。
私がしなければならない「荷」があります。
でもそれは、私にフィットしている、ふさわしい重荷です。
最もふさわしいくびきです。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」Ⅱコリント3:6

私の荷は「聖書を学び、人に教えること」です。
それは軽いほうの荷です。
イエスが負っておられるのは「みことばが理解できるように聖霊を与えてくださる」ことです。
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8月5日 聖日礼拝

マタイの福音書 8章 5~13節
「あなたの信じたとおりになるように」
         大治福音自由教会 服部真光師

まず近況をご報告します。
NPOの働きですが、稲沢市役所の方が訪れ、市役所で恵泉会の野菜を販売してパンフレットを配布してくださることになりました。
金曜日にプリスコ師が来日されました。
2年の予定で、大治教会の2階に住みながらフィリピン教会のために働かれます。
フィリピン教会の方たちは「本当にこんな日が来るなんて!」と感動しています。
金曜日から日曜日にかけて石巻を訪問しました。
35名の高齢者が集まってメッセージをしました。
10月にはパート2を行う予定です。

「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」8:13

さて、今日の聖句は何を教えているのでしょうか。
私たちはここから、何を受け取ることが必要でしょうか。

日本語には「信心」という言葉があります。
もうひとつ「信仰」という言葉もあります。
多くの日本人が持っている宗教観は「信心」です。
ヒイラギの葉を結びつけて、そこにイワシの頭を刺して門に置いておくと、悪霊から守ってくれると言われています。
そこから「イワシの頭も信心から」ということわざが生まれたのですが、あまり価値のない「イワシの頭」でも、一心に信じる心があれば価値のあるものになると考えるのです。
どんなものでも信じる心がすばらしい。
それが日本人の宗教観です。
自然の中に神が宿るとも考えられています。

一方、聖書が語るのは「信仰」です。
信じて仰ぐ。
何を信じるか、何を仰ぐのか。
「何を」が大事です。
天地を造り、命を与え、必要な物全てを備えて下さった方を仰ぎ、そのゆるがない愛を信じるのが「信仰」です。
行いに寄らず信仰による。
それは、神のみわざを受け取り、まっすぐに信じることです。

「イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
言った。『主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。』」
8:5,6

イエスは町々、村々を巡り歩き、多くの人の患いを治しておられました。
その働きはうわさになっていました。
当時イスラエルにはローマの兵士が駐屯していました。
彼らはローマの警察的な役割をしていました。
その百人の兵の長が「百人隊長」です。
彼らも、大衆に影響を及ぼしているイエスの行動に興味を持っていました。
自分の仕事の中で調査し、イエスのことを知っていたと思われます。
百人隊長は、部下の病気をなんとかしたいと思いました。
共に命を賭けている部下です。
きっと医者を捜したことでしょう。
隊長は「イエスにお願いしたら治るに違いない」と思いました。
そういう思いを明確に持っていました。
彼は、自ら進んでイエスの元に行き、助けてくれるように懇願しました。
隊長は、ユダヤ人から見ると異邦人です。
ユダヤ人が、自分たちにある種の敵意を抱いていることを彼は知っていました。
ユダヤ人が、異邦人と共に食事をしないことも知っていました。
直接話すのも失礼に当たることも知っていたと思われます。

「イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』」8:7

ところが、意外な返答が来ました。
異邦人の女が、自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと求めた時、イエスは最初断りました。
「ご自分が遣わされたのは、まずイスラエル人のためだから」と言われたのです。(マルコ7章)
それなのに、ここでは「行って直してあげよう」と言うのです。
人によって態度が違うのでしょうか?
百人隊長だからなのでしょうか。

イエスは、彼の中に「信仰」を見ました。
その信仰に応答されたのです。
では、百人隊長の信仰とはどのようなものだったのでしょうか。
彼が語らなければ私たちには分からなかったことでしょう。
イエスは、彼からその言葉を引き出しました。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:8,9

「資格はありません」
この言葉によって、彼が「福音のメッセージからすると、自分には罪がある」ということを自覚していたことが分かります。
また、自分はユダヤ人ではない異邦人であり、異邦人である自分がイエスを家に招くと、イエスの評判に傷がつくとも考えていました。
「私は罪人です。来て頂くほど良いものを私は持っていません。
 ただお言葉を下さい。そうすれば治ります。」
と言っているのです。

私はナアマン将軍を思い出します。
彼は皮膚病を治してもらおうとエリシャを訪ねたとき、エリシャ自身が出てきて、自分の患部の上で手を動かして治してくれると期待していました。
ところが、使いの者が出てきてヨルダン川で体を洗うようにとだけ伝えられ、腹を立てたのでした。
これが普通の感覚かもしれません。
しかし、百人隊長は違いました。
「言葉さえあれば治る」と信じていました。

これは現代の私たちへの大きなチャレンジです。
イエスは目に見えません。
物理的に来てはくれません。
私たちの信仰を養うために、このエピソードは書かれています。
「言葉」は「約束」です。
言葉さえあれば、約束さえあれば、必ず実現すると信じるなら、たとえこの場にイエスがいなくても、それは実現する。
そう信じるのが私たちの信仰です。

イエスを身ごもったマリヤが伯母のエリサベツを訪ねたとき、エリサベツは

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45

と言いました。
「熱心さ」が大事なのではありません。
神が求める信仰を、彼は持っていました。
「ことばをください。そうすれば直ります」
みことばこそが究極の権威であり、必ず実を結び、実現するという信仰。
イエスはこれを聞いて驚かれました。

「直ったら信じる」のは信仰ではありません。
「見たら信じる」のも信仰ではありません。
「願いが叶ったら信じてもよい」も違います。

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」ヨハネ20:29

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
ヘブル11:1,2

まだ目の前に何も起こっていない、不可能と思っていることも可能に鳴っていきます。
神の御業の進展に心を留めていきましょう。
「ラッキー!」ではなく、祈っていた人々にとっては、神は御業をなさるという信仰が芽生え、成長していきます。

「信じたとおりになるように」
隊長が「信じたとおり」の内容は「お言葉をいただけば直ります」です。
私たちの中に、そのような信仰が芽生えて養われているでしょうか。
日々の生活の中に、困難や課題があります。
熱心さが足りないのではありません。
主が私たちに求めているのは、主の言葉への信頼なのです。

7月27日 聖日礼拝

ルカの福音書 5章 1~11節
「弟子への召命」
          尾張旭福音自由教会 野口恭一郎師

イエスの生涯の働きはふたつあります。
ひとつは福音を宣べ伝えること。
もうひとつは弟子を育て、訓練することです。

「イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』」5:10

クリスチャンはどのように人間をとる漁師になっていくのでしょうか。
このできごとについて、マタイとマルコの福音書には詳しく書かれていません。
ルカの福音書では、深い意味を教えています。

「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」
5:1~3

岸辺には船が2そうありましたが、イエスはペテロの方の船に入っていきました。
そして、まず「少し」こぎ出すように言われました。

「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』と言われた。」5:4

そして、説教が終わると「深みに」こぎ出して魚を捕りなさいと命じられました。
それは、ペテロがすぐに「はい」と聞けるような言葉ではありませんでした。
魚を捕るプロであるペテロでさえ一晩かけても1匹も捕れなかったのです。
いわば夜勤明けです。
疲れていました。
しかし、ペテロは弟子になる準備ができていました。
弟子となる可能性がありました。
ペテロには葛藤がありましたが、「イエスが言われるのなら」やってみようと考えました。

「するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」
5:5~7

イエスの導きに従うと、こんなことが起こるのです。
ペテロは神が起こした奇跡を目の当たりにして、「イエスは神だ」と悟り、畏敬の念を抱きました。
ペテロは、罪ある人間は神の前に立つことはできないと思いました。

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。」5:8

「自分はふさわしくない。不完全だ。罪深い。」
そう思っている人の方が、主の働きにはふさわしいのです。
ペテロの謙遜な姿勢はたいせつなことでした。

イエスは私たちに「あなたもキリストの弟子になりなさい」と言われています。
ペテロは弟子の、教会の、代表です。
ペテロに言われたことは、クリスチャン全員に言われていると考えていいでしょう。
今までの知識や経験の限界を超えて、イエスに従う…それは弟子の性質の本質です。
信仰を持って従うのです。
全てにおいて、優先順位があります。
その第一が「弟子になること」です。
みなさんは従う準備ができていますか。
弟子になることはマストなのです。

「自分は弟子にふさわしい」と思っている人は、ふさわしくありません。
神の働きは、自分の力ではできない働きです。
信仰、愛、忍耐、憐れみ、聖さ、知恵において、成長していなければなりません。
どんな奉仕でも、「自分ができるからやっている」のではなく、「イエスがしなさいと言っているから」する。
「やりたいからする」のではなく、できないかもしれないけど、「イエスが導いてくださるなら深みにこぎだそう」と、信仰を持ってやってみる。
それが弟子の本質です。
その典型が「牧師」です。
できないと思っている人こそ、ふさわしい仕事です。

まだ行ったことのない所に行く。
主の召しなら、弟子は山をのぼります。
ゴールを目指します。
一心に。
「1回従う」というものではなく、日々、主が示すところに従っていくのです。
小さな1歩でよいのです。
それが献身です。
弟子として歩むのを避けているなら、あながを、主が招いておられます。

7月16日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 2勝13~17節
「人が立てた制度に従う」
             柳橋宏祐神学生

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」


この手紙が書かれた時代、王がいて、ローマの総督がいました。
日本には王はいませんし、植民地でもありませんが、政府があり、法律で制度が定められています。
ここには5つの命令が書かれています。

①制度に従いなさい
②全ての人を敬いなさい
③兄弟を愛しなさい
④神を畏れなさい
⑤王を尊びなさい

まず、「全ての人を」敬うことについて考えたいと思います。
自分を振り返ると、できていないと思います。
人を敬うのが難しいと感じます。
子どもは反抗期になると良心を敬えなくなります。
これは、神の民に対して言われている命令です。
これは福音に基づいています。

このすぐ前の12節では

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」2:12

と書かれています。
それは、神の民とされているからです。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の民でした。
主はモーセに言われました。

「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。』」
出エジプト 34:5~7

イスラエルは何度も主にそむきましたが、そんな民にも主は憐れみを示されました。
それでも反抗を続け、ついにバビロン捕囚が起こります。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」
イザヤ53:3,4

イエスは、不利な証言をされ、私たちの罪を負ってくださいました。
ですから、私たちは聖なる神にこのままでも大胆に近づくことができるのです。
私たちは、聖なる者に変えられるように召されています。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」
ヤコブ4:1~4

私の心にわき上がる怒りの原因は「求めているものを得られない」ことでした。
求めていたものは、人からの栄誉、好意でした。
何度も、その欲望から怒りを感じてきました。
だれもでも同じような経験をしているのではないでしょうか。
本来よいものを求めていても、戦いや争いを産み出してしまいます。

「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」ローマ1:25

その人が礼拝した物が、その人を支配します。
もし神を礼拝していたら、他の物に支配されることなく、怒りに囚われなかったことでしょう。
心の中心の問題は、何を礼拝し、何を求めているかです。
欲望によって感情が産み出されます。
肉の欲を避けて生きるために、いつも神を礼拝することが必要です。
イエスの血は、罪人を救う唯一の道です。
イエスを思うとき、神の栄光に満たされることができます。
神の僕となるところに、本当の自由があります。
私たちはイエスの名を負って世に遣わされています。
主は、私たちを赦し、変わらず愛し続け、変え続けてくださいます。

「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
黙示録4:10,11

7月8日 聖日礼拝

コリント人への第1の手紙 13章 1節~14章 1節
「多くの実を結んで神の栄光を現しましょう!」
         東海聖書神学塾 後藤喜良師

私は神学塾の校長なので、「今日も絶好調!」と言うところですが、私の仕事は「塾生を熟成させるまで」育てることです。
何において熟成したらよいのでしょうか?
知識でしょうか?
私が一番大切に祈り語っていることは、「愛における熟成」です。
「愛」は祈れば与えられるというものではありません。
いろんな人を愛していく中で、少しずつ身につけていくものです。
ぶどうの枝である私たちに実が実ります。
「愛」はいつまでも追い求めていくものです。
「もう身についた!」という日は来ないので、生涯求めていくべきものです。

コリント人への手紙が書かれたとき、コリント教会の状態はどうしようもないものでした。
4つ以上のグループに分裂して、「私パウロにつく」「私はペテロに」「私はイエスに」などといって争っていました。
貧しい人には食べ物がなく、いがみ合っていました。
才能を誇っていました。
「自分の方が優れている」と、いがみあい、妬み合っていました。
何人かは売春婦のもとにいていました。
それでも「悪いことをしていない」と言っていました。
聖書の中にこんなにひどい教会はないというほどの教会でした。

神学校で学ぶのは「理想」であって、神学校の生徒の中には自分の通っている教会のことをこんな風に言います。
「聖書の教会と違って、いろんな問題があって、行くのが辛い」と。
私は「神学生病」と呼んでいますが。
「説教を素直に聞けない」と言う人もいます。

聖書の中の教会は、どの教会にもいろんな問題がありました。
実際の教会には問題があります。
ピリピの教会は「もう完全になった」と誇っている人がいました。
ユウオデアとスントケはいつも争っていました。
問題のない教会はありません。
未完成であり、戦いがあります。
みことばに従っていこうとすれば、必ず問題が起きます。
迫害やサタンとの戦いがあります。
では、問題がある教会はダメなのでしょうか。

「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」
Ⅰコリント1:1,2

パウロはこのように書き出しています。
この教会も「神の教会」なのです。
当時コリントの教会はできて10年ほどでした。
港町で、「コリント人のよう」という言葉は「不品行な人」という意味を表していました。

午後には役員会の学びがありますが、「どういう問題があっか」「聖書はどうするように教えているか」を学んで欲しいと思います。
なぜこうなったのか。
どうしたらいいのか。
牧会学の基本です。
今の教会も、新約時代の教会以上でも以下でもありません。
21世紀の教会でも同じです。
なぜパウロは手紙を書いたのか。
それは、問題があったからです。
だから、パウロは「今どうしたらよいか」を教えています。
一番大切なことを。

「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」Ⅰコリント12:31

「さらにまさる道」とは、「愛すること」です。
教会で、家庭で、互いに愛し合うことです。
どんな問題も「愛すること」を教えてくれます。
愛されていると思っていないので、喜びがないのです。

「子どもの時、親から愛されていなかった」
「寂しい辛い経験をした」
そのような人には「注意する」のではなく、話を聞くことです。
2,3年かけて、神から愛される喜びを伝えます。
赦せないのは自分が幸せでないからです。
愛することで解決します。
「愛なんてない」という人もいます。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
13:5~7

ここには愛について15の項目が書かれています。
そのうち12は赦す愛。
残りの3つは積極的な行いです。
よく「妻を愛せない」「夫を愛せない」という方がいますが、いや、愛してますよと思います。

聖書の翻訳について、私には納得できない部分があります。
たとえば、イスカリオテユダに対するイエスの言葉です。

「『確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか私のことではないでしょう。』イエスは彼に、『いや、そうだ』と言われた。」
マタイ26:24,25

「いや、そうだ」という言葉に違和感を覚えます。
この言葉は「おまえがそうれを言うのか?」とも訳せます。
また、「わざわいです」という言葉は「ああ、かわいそうだ」とも訳せる言葉です。
イエスは愛をもっている方であり、「わざわいだ」とか呪ったりしない方です。
イエスの心は、私たちの良心よりも広いのです。
イエスはもったいないほど親切な方です。
イエスは私たちを人と比べたりしません。
イエスはサマリヤの女に対しても「女の方」と呼びかけられました。
人を軽蔑しない方です。
どんな人でも、「価値ある者」として喜び、誇ってくださいます。
「喜ぶ」ということは「誇る」ということです。

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」ローマ14:4

ローマ14章では、互いを主の弟子だと思って尊敬するように教えています。
イエスは、叱りますが、怒る事はされません。
イエスは、今到達しているところを喜んで下さいます。
今の私たちを喜んでおられます。
ゆっくり、着実に育てて下さいます。

イエスは人の下悪を数えません。
「またやったのか」とは言われません。
昔のことを全て忘れて下さいます。
不正を悲しまれ、真理を共に喜んでくださいます。
「耐える」とは、イエスが私たちを理解し、罪を赦してくださり、諦めないということです。
イエスは待ってくださいます。
失敗しても信頼し続けてくださいます。
だから、3回否んだペテロも受け入れてくださいました。
イエスは期待し続けてくださいます。
だから、愛されているから、少しずつ学んで、身につけて、実を結べるようになるのです。

受け止め、忍耐して、喜んでくださる圧倒的な愛で、愛されていることを知って欲しいと思います。
何度も呼んで思い出して欲しいのです。
大きな広い愛を受けていることを。
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ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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