5月10日 母の日感謝礼拝

マタイの福音書 20章 17~28節
「あなたにひざまずく神」
                           早矢仕宗伯師

おはようございます。
主は、「よく来た」と言ってくださいます。
「この一週間、いろんな経験を積んできただろう。
私を忘れて過ごしてきたのではないか?」と。
私たちは、いつもイエスのことを覚えていられるわけではありません。
ほとんど忘れて生きてきて、ここに帰ってきてハッと思い出したりするのです。
「あ、そうだった。
イエス様に支えてられていたんだなあ」と
なぜ私たちは毎週日曜日に集まるのでしょう。
なぜここに集まるのでしょう。
いとんな理由があるかも知れませんが、イエスが呼んでおられることは確かです。
「いらっしゃい」
「帰っていらっしゃい」
「もう一度思い起こして、新しく始めなさい」と。

今日は「母の日」だとうかがっています。
まあ、世間的にも母の日です。
実家にいるときには母にプレゼントをあげていました。
クリスチャンになってから、悔い改めてプレゼントをあげるようになりました。
毎年同じものを贈ります。
何をプレゼントしていたか、想像つきますか?
答えは、パイナップルです。
「なんで?」と思われるかも知れませんが。
丸ごとのパイナップル。
花はすぐにしおれるし、実もないし。
実のあるものをと思ってそうしました。
たまたまコンビニで見つけたんです。
なかなかもらわないでしょう?
では父の日は何だと思いますか?
わからないと思います。
メロンをあげました。
つるんとしたメロンではないですよ。
シマシマのついたやつです。

母は一生懸命です。
子どものために。
よくやるな、と思います。
私も父親ですが、妻に「もう放っておきなさいよ」と言います。
もっと自分のことをやればいいのに、と思います。
もう大人なんだから、朝起こす必要はない。
「朝ご飯を食べろ」とか、言わなくても…と思います。
一般論として、母親は自分自身のみのように子を見捨てることができないものです。
私の母は健在ですが、実家に変えると3日目までは大人としていられますが、それ以上経つといろいろと言われます。
50歳を越えた大人なのに。
「ちゃんとご飯を食べなさい」と言われるんです。
母というのは子を見捨てることができない。
知らず知らずのうちに子のために、手が動き、足が動きます。
その愛の深さは神がご自分の愛を例えるほどです。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」イザヤ 49:15

神の愛は母の愛に勝ると。
一人の人が生まれ、成長するためにどれだけ多くの犠牲が必要でしょうか。
誰かの犠牲なしに、だれも一人で生きていくことはできません。
今ここに生きていると言うことは、誰かの犠牲があってこそです。
自分でないだれかの犠牲があってこそ、生きられます。
今日あなたを生かしているのは、あなた自身ですか?
あなたは生かされています。
誰かがあなたを生かしてきたのです。
一生懸命身を削って。
いつからでしょうか。「自分で生きている」と思うようになったのは。
だれも一人では生きていけません。

イエスの元に、一人の母が駆け寄ってきました。

「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」
マタイ20:20、21

必死でした。
一生懸命でした。
歳を取ると、体は走らないけれど、心が走ります。
ヤコブとヨハネの母です。
いつもイエスのそばに置いてもらっていた、ペテロ・ヤコブ・ヨハネ。
その中の二人の母親です。
「お願いがあります」と。
この二人はいくつだったのでしょう。
イエスは「どんな願いですか」と聞かれました。
どうしてこんなことを言ったのでしょうか。
場をわきまえない、空気を読めない発言です。
ご自分の十字架と蘇りの話をしていたときです。
十字架に向かって行くことを、弟子たちに話していた時です。
あと数日で十字架に付けられるという大事な場面で割り込んできたのです。
イエスの歩みを止めるかのように。

母は分かっていたのかもしれません。
「今は大事なときだ」と。
「今しかない」と。
この機会を逃してはいけないと思ったのでしょう。
彼女はひざまずき、ひれ伏しました。
土下座です。
簡単にできることではありません。
「主イエスに準ずる地位をこの子たちに与えて下さい」と。
それだけ必死だったのです。
この子たちのためなら、と。
イエスはそれを正面から受け止められました。

「けれども、イエスは答えて言われた。『あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。』彼らは『できます』と言った。
イエスは言われた。『あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。』」
20:22,23

私が歩む道についてこられるか?と問われました。
イエスは母親を叱りませんでした。
弟子も叱りませんでした。
「こんな時に何を言っているんだ!」と叱るか、無視するのが普通ではないでしょうか。
イエスは受け止めました。

想像しましょう。
イエスは母親の姿を見ながら、ご自身の母マリヤを思い浮かべていたのではないでしょうか。
この母親が出てくるのはマタイの福音書だけです。
なぜだろうか、と思います。
イエスのように生きる道を教えられた、一番大事な話をされたこの場面で。
私たちは「弟子たちはなんと愚かなのか」と思います。
もっと見るべきはイエスの姿です。
主はそんなことがあっても、一番大事なことを話そうとされます。
神の愛に生きる道を。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』」
20:25~28

これらはイエスにとって最も大切な言葉です。
「私がそうであるのと同じだ」と。
「私と同じように仕える者になれ」と。
イエスの姿は、母の姿です。
息子のために伏して願う母親の姿と、ご自分を重ねてられました。
「何と空気を読めない」「品のない母だ」とは思っておられません。
ご自分と重ねてみておられるからです。
イエスは全ての人の為に命を捨てようとしておられました。
なりふり構わずに。
全てをなげうって命を捨てようとしているご自分と、その母親の姿は重なりました。
イエスは新しい命を与える為に、命をささげてくださいました。
その命は、人に新しい生き方を生みます。
それは仕える道です。
我が身を捧げる道です。
そのために、イエスは死んでよみがえられたのです。
仕える命を与える為に、イエスは十字架で死に、よみがえってくださいました。
今、主はあなたに新しい命を与えられます。
永遠の命です。
永遠の命とは?
尽きない、なくならない命。
いくら差し出してもなくならない命。
その命を使うために私たちは生きています。
なくさないようにと、箱にしまっておいたら見失ってしまいます。
命は遣う者です。
誰かのために捧げるものです。
この世はそのようには言いません。
「守らなければいけない」「大事にしなさい」と言います。
主は、「命を誰かのために使いなさい。いくら使ってもなくならないから」と言われます。
尽きない命で尽きない愛を与えられています。
あなたの中から湧き出てきます。

イエスは、今日もあなたに仕えていらっしゃいます。
あなたの前にひざまずいておられます。
福音書に書かれているイエスの姿を見て星ほしいと思います。
いつも仕えておられ真s。
いつもひざまずいておられます。
主イエスは、ひざをかがめていらっしゃいます。
全てを捧げ尽くして下さいます。
「私の命を受け取れ」と。
イエスを信じるとは、イエスの命をいただいて生きることです。
イエスの命を受け取ってください。
イエスはあなたの内に生きておられます。
あなたの中で、イエスは仕えるものとなり、ひざまずいておられます。
一生懸命に仕えている時に「なぜこんなことをしなければならないのか」と思う時に、主があなたの内におらることを思い出してください。
お母さんを思い出してください。
あなたの中の主イエスを見てください。
仕えることは愛から生まれます。
イエスは今も仕え、今も生きておられるのです。
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5月6日 聖日礼拝

コリント人への手紙第1 10章31~11章1節
「キリストを見ならって」
            大治福音自由教会 服部真光師

今日の聖句は2017年度大治教会の年間指標聖句でした。
船で航海するにも、飛行機に乗るにも、どこに行くか、目的地はどこかが大切です。
目的地を決めずにぶらぶらする旅もあるでしょうが、多くの場合行くべき場所、目的地を決めて出発します。
神も私たちにそのような目当てを与えて下さっています。
教会として、どこに歩んだらよいかが明確である必要があります。
エジプトの苦しみから助け出されたイスラエルの民は、アブラハムの約束の地へ向かいました。

「抗菌グッズ」というものがあります。
なんでも抗菌がよいと思っている人も多いですが、抗菌グッズは大敵なのです。
子どもはばい菌に触れながら、それに負けない抵抗力を身につけていきます。
戦った経験のない体が菌に出会うと大変な事になります。
だから「動物園へ行こう」という運動があるほどです。
抗菌ではなく、菌に囲まれながら菌に負けない体を作るためです。
私たちは御国への途上で強くされる必要があります。
永遠の命の目的は何でしょうか?
それは御国を受け継ぐことです。

神の国に入る前に心の中に形成されるべきものがあります。
たとえば、普通の人が東大に入れたとしたら幸せでしょうか?
周囲のみんなは天才で、自分だけが凡才。
講義について行けないかも知れません。
肩身が狭いでしょう。
天の国も同じです。
主を崇めていないのに、御国に入ったら?
天国は一日中神の臨在があり、隅々まで主の目が行き届いている場所です。
御父を愛している人でなければ、そこは「天国」ではないでしょう。
子どもの頃、兄は遊園地が嫌いでした。
家族で「ディズニーランドに行こう」となったとき、「俺は楽しくない。行っておいで。」と言いました。

天の御国に入る者は、天にふさわしい者になるよう求められます。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」10:31

「ために」とは目的をあらわす言葉です。
「食べること」「飲むこと」とは、毎日欠かさずしていることです。
毎日欠かさずすることをするときの目当てが「神の栄光を現すこと」だと言うのです。
食べ物を食べるときの基準は何ですか?
好きか、嫌いか。
美味しいか、美味しくないか。
カロリーが高いか、低いか。
健康を考えてバランスがよいか、悪いか。
いろいろあるでしょうが、「神の栄光を現す」基準はどれでしょうか?
自己中心的な基準はどれでしょうか?
罪の本質は「自分のために」という考え方です。
神の栄光を現すのは「みんなのために」という考え方です。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
ピリピ2:3,4

そのためにすべきことが、次に書かれています。

「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。」10:32

「つまずき」とは、神に対するつまずきです。
神を信頼して歩んでいる人に、神への信頼を失わせるようなことをしてはいけないと言っているのです。
つまずきそうな人を支えることも大切です。
これは否定的な勧めですが、積極的な勧めが次に書かれています。

「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」10:33

鄭先生が脳梗塞で倒れたときのことです。
主治医の先生から問われました。
「脳梗塞の治療と、脳出血の治療のどちらを優先しますか?」
と。
脳梗塞を治療するためには、血の流れをよくしなければなりません。
すると、脳出血を止めるのが難しくなります。
逆に脳出血を止めるには、血液を固まりやすくしなければ鳴りません。
すると、脳梗塞が他の場所でも起こるリスクが上がります。
究極の選択です。
私は先生に聞きました。
「どちらのほうが危険が少ないのですか」と。
「脳の3分の2が脳梗塞を起こすと植物状態になる」
という答えでした。
そこで、脳梗塞の治療をお願いしました。
主は、行政、医療帰還を動かし、日本のために身を捧げて下さった鄭先生が老後を過ごせるように守って下さいました。
「神は生きておられる。決して見放さず見捨てない。」
と教えられました。

人生の目的は、自分が褒められ、認められることではありません。
主がそれをして下さったのですから。
「いつも共におられ、最善にしてくださる」と、神を称えることになるのです。
食べるにも、飲むにも、自分の楽しみのためだけでなく、仲間と共に楽しみましょう。

皆さんよくご存じと思いますが、私は「反省会」は嫌いです。
「感謝会」のほうがいい。
神の感謝を捧げることを目当てに、すべてをしていくのです。
それこそが、クリスチャンが取り組むべき事です。
どうやったら困難を感謝に変えられるか。
財産、納涼、何でも欲しいものを主に求めましょう。
神の栄光を現そうとしている人には、何でも与えられます。
知恵も、富も、与えて下さるのです。

4月29日 聖日礼拝

イザヤ書 51章 1~11節
「楽しみと喜びはついてくる」
           名古屋福音自由教会 平井聖歩師

最近購入した本があります。
「縮み志向の日本人」という李御寧(リ・オリョン)が書いた日本文化論です。
「菊と刀」と並ぶと言われています。
その中に書かれていたことですが、世界中に「扇」や「団扇」はあるが「扇子」はないということです。
折りたたみ傘を発明したのも日本人。
折り詰め弁当も。
何でも小さくしていく。
小さい中に美しさを見いだす文化が日本文化だと言うのです。
ものをコンパクトにする傾向があると。
「日本の心も縮む傾向があるのでは?」と続きます。
セルフイメージ、自己評価も小さい。
「神」を思い浮かべるときも地位差kしてしまう。
悔しいけれど、当てはまると思いました。
私たちは解放されなければなりません。
天地創造の神は、今も生きてすべ治めておられます。
これまでの歴史も、これからも治めておられます。
この方から「壮大さ」をいただくことができれば、心が開かれ、少しでもその大きさに近づけるのではないでしょうか。

私たちは天国人です。
神の民です。
そうなれる特権をすでに与えられています。
イザヤの時代の南ユダ王国には、大国アッシリアがすぐそこまで迫っていました。
経済的にも、精神的にも追い込まれていました。
神を信じる者すら「信じても仕方ないのではないか。今までも信じてきたけど、状況は変わらない。もういい」という気分になっていました。
主がイザヤを通して語られた将来は、楽しみと喜びがついてくるものでした
そこを目指すのにどうあるべきでしょうか。

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」
51:1~3

西教会のみなさんに伝えたいことがあります。
第1は、「神が成された御業を覚える」ことです。
昨年私たち夫婦がはまっていたドラマは「陸王」でした。
足袋屋が舞台です。
ドラマの序盤で、主人公は融資を願うために計画書を持って銀行に行くのですが、拒まれます。
なぜでしょうか。
「こはぜ屋さんには実績がない」からです。
「実績がない」それはつまり「信頼できない」ということです。
大学のパンフレットには、卒業生の就職先が載っています。
病院を選ぶときには評判を聞いて決めます。
「これまで」を見て、人や企業判断し、信頼を置けるかどうかを決めるのです。

主は「わたしに聞け」と言われます。
目を向ける場所はここです。
「これまでにわたしがしてきたことを見よ」と。
何でもない岩から切り出された石で、建物ができます。
一方的に選んで。
イスラエルは選ばれて国になりました。
イスラエルの存在そのものが、神の御業の証でした。
神に求める者に約束されているものは、楽しみと喜びの回復です。
つまり、神からの希望をいただく出発点は過去にあります。
これまで私たちのために、神が何をしてくださったか。
そこに神の御業があります。
豊かに生きるために、神が私のためにして下さったことを数えましょう。
ただし、神は「私」だけでなく「教会」の主でもあります。
教会の歴史を知って欲しいと思います。
この教会にこれまで主が何をしてきて下さったか。
どれだけ教会を愛して下さったか。
それは「義務」ではなく、皆さんを支えます。
これまでに歴史の中でして下さった御業を覚えてほしいと思います。
そのためには、聖書に親しむことが大切です。
聖書には神が成したこと、約束の成就に満ちているからです。

「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。
目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。」
51:4~8

第2は「待ち望むこと」です。
心を売るガス子と、心を惑わす声があります。
だから、「私に聞け」と主は言われます。
「教え」は「律法」です。
律法を完成されたのは、約束のメシヤであるキリストです。
世界の全てが崩れ去る日が来ます。
が、崩れないものがあります。
それが「神の救い」です。
救いはすでに成就し、完成に向かっています。
イエスは律法を全うし、十字架に掛かられました。
再び来られるとき、究極的な救いとして、「神の日」がやってきます。
信仰者のあり方は「待ち望み、寄り頼む」ことです。
ある方が、「待ち望むというのは積極的なものなのですね。」と言っておられたのが印象に残っています。
希望に向かって邁進する信仰者の姿がそこにあります。
私にとって「待ち望むこと」は「ラーメン屋の列に並ぶこと」です。
「IKEAの駐車場に入るのに1時間並んだ」という人もいるでしょう。
今は待つのが苦手な時代です。
3分でできるご飯。
指先を動かせばすぐに答えが分かります。
待てるときもあります。
希望があるときです。
私はラーメンのために2時間半並んだことがあります。
待つ時間は私にとっては楽しみです。
メニューを見たりして時を過ごします。
まだ到達していなくても、そこで得られるものを見て待つことができるし、それを楽しむことができます。
忍耐もありますが、希望があるから楽しめるのです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」コリントⅠ 10:13

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

待ち望む者でありたいと思います。

西教会は無牧の2年目に入りました。
待ち望むことのチャレンジです。
これまで名古屋教会は3度、無牧の時を過ごしています。
当時のことを教会の方に尋ねると、
「1年目は自由になった気がして嬉しかったです。
 2年目は息切れがして疲れてきました。
 それで、毎回礼拝の後に隣の人と祈り会ってきました。
 そうして教会の祈りと重いがひとつになりました。」
役員だけでなく、教会の皆が自分自身のこととしてとらえ、祈ることができたのが恵みだったと言います。
主が備えられていることを信じ、主の祝福を味わう者になるのです。

「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。
主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」
51:9~11

先取りして喜ぶ姿がここに描かれています。
神の働きに期待して。
「ラハブ」とはここではエジプトを刺しています。
「竜」はサタンです。
祈りは賛美に変わります。
バビロンからの帰還。
それがすでに叶えられている、と賛美します。
楽しみと喜びは信じて祈った先にありました。
彼らは何もしなかったのではありません。
信じ、期待して祈ったからです。
待ち望む信仰は、神の計画の一部とされました。
聖書の多くは「あなたがた」と複数形呼びかけています。
共同体に向かって。
民の一人として、私たちは導かれています。
教会を与えられている恵みと約束を待ち望み、楽しんでいただきたいと思います。

スペインのサグラダ・ファミリア教会は未完成の内に設計者ガウディは亡くなっています。
建て始めたとき彼は
「神はお急ぎではない。
 時を定めて成して下さる方である」
と言いました。

神からの約束があるのは確かなことです。
神の広さ、高さ、深さを知ることは大切です。
それが私たちの心を解放します。
「私」も「教会」も主の計画の中にあるのです。

4月22日 聖日礼拝

ペテロの手紙第1 1章1~13節
「神を信じて終わりの時を生きる」
          柳橋宏祐神学生

今日は神の民として生きることを学びたいと思います。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」1:13

「ですから」というのは、「福音が告げ知らされて、イエスの復活を知り、神の民とされたのですから」ということです。
私たちも、あるとき福音を知り、信じました。
その時に神の民とされました。
この世にあっては寄留者。
一時的に滞在している外国人です。
父成る神の憐れみによって、与えられた恵み「神の民とされていること」をまず覚えましょう。

ここに4つの命令が書かれています。

①待ち望みなさい
②聖なる者となりなさい
③神を畏れて過ごしなさい
④広い心で熱く互いに愛し合いなさい


私たちは、4つ目の命令のみに強調を置いてしまうことがあります。
先の3つを軽んじて忘れていないでしょうか。
「愛」はそもそも神のご性質です。
イエスが愛して下さったから、互いに愛し合うようにと言う命令を受けているのです。
愛し合うことは宣教の中心にもあります。
神が私たちを愛し、祝福して下さることを世が知ることが宣教だからです。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
ヨハネⅠ4:7~12

愛は土台、目標、動機付けであり、とても重要です。
福音が真実であることを証する根拠でもあります。
けれど、同じように前の3つの命令も重要で宇s。
この3つに従うことなしに、主の召しに生きることはできません。
主の召しは、私たちをひとつの方向、神の方向に向かわせます。

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」ペテロⅠ1:22

ここには、真理に従うことによって愛し合うことができると書かれています。

「不正を喜ばずに真理を喜びます。」コリントⅠ13:6

愛とは、不法と真理を識別する力です。

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」コロサイ1:9

この祈りは、クリスチャンたちのためにパウロが捧げた祈りです。
互いに愛し合うために、御心について理解を深める必要があります。
今の私たちにも、この祈りが必要です。
「神学」より「愛し合うこと」のほうが大切なのではないかと思いがちですが、聖書に向き合って行かなければなりません。
労力が必要であり、識別力を付ける必要があります。

「エキュメニカル運動」というものがあります。
宗教の壁を越えてひとつになろうという考え方です。
それは本当に聖書に基づいているのか。
正しいのか。
真理を求めて理解する必要があります。
倫理的にも、神の前に正しいのか。
考える必要があります。
もし、それが罪なら、その人の幸せを願って愛するなら、何が本当に正しいかを知って愛していく必要があるのではないでしょうか。



では1つめの命令「待ち望みなさい」について考えましょう。
私たちはひたすら待ち望んでいるでしょうか。
イエスが来られるのはまだまだ遠いと思っているなら、ぼんやりすごしているかもしれません。
待ち望んでいるなら違ってくるのではないでしょうか。
中学の時、「夢」を書くときに、他の人が立派な夢を書くのを見て「いいなと思う」という子がいました。
私も夢がある人はかっこよくていいなと思います。
でも、夢が実現して、「すごい」と言われたとしても、イエスが来られたときに与えられる栄誉はそれを越えるものです。
世界よりも価値がある恵みです。
人生の先にある「恵み」を私たちは待ち望んでいます。
その恵みは「タダ」です。
タダで受け取るのです。
つまり、私たちの功績ではなく、神の憐れみによるものです。
イエスが死んで下さったからです。
毎朝起きたら、この恵みを思い起こすことをお勧めしたいと思います。
「身を慎む」とは「酔っぱらっていない」という意味です。
この世のいろいろな者によって、待ち望むべき恵を忘れないようにしましょう。
キリストを待ち望みましょう。
「心を引き締め」とは「心の腰の帯を締める」という意味です。
じっとしているのではなく、いつも働きながら待ち望みましょう。
イエスのための大きな夢を持って欲しいと思います。
御言葉から確信を持って。
実現させて下さると信じて。



「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」
1:14~16

聖なる者になりなさい。
生活の全てにおいて。
聖なる神に召されたのですから。
無知だったときの欲望に背を向けて行きましょう。
神の民とされているのですから。
命令であると同時に、これは特権です。
「聖なる」とは「他の者と区別された」という意味です。
この世の生き方と、全て区別された生き方を身につけるようにと命じられています。
何が聖なることか。
神はどういう聖なる方かを知らなければなりません。
そのためには、聖書から教えられる必要があります。
自分自身葛藤を感じます。
自分が誠実に向き合ってこなかったと思わされます。
御心が分からないと不安になり、欲望が襲ってきます。
仮面をかぶって聖なる者であるかのように見せてしまうことがあります。
しかし、御心が何であるかを知るなら、悔い改め、従うことができます。
欲望と対峙し続けなければならないのです。

学生の頃いかに欲望に支配されているか気付かされました。
「世間体よりも欲望に従う方が幸せかも知れない」と開き直ったこともあります。
その中で、欲望によってもたらされる腐敗から立ち返るように、主は十字架を示して下さいました。
腹が立ったときには叩く。
欲しいから奪う。
そんないろんな欲望を経験します。
妥協して生きると、神の聖さを世に示すことができません。
私たちは、日々戦うようにと召されているのです。



「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」
1:17~19

神を畏れつつ過ごす。
神は公平に裁かれます。
私たちはその方を父と呼んでいます。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」ローマ2:16

人目に隠れていても、神には見られています。
いずれ、裁かれます。
昔奴隷を買い取るには金銀が必要でした。
主は、イエスの血をもって、私たちを買い取って下さいました。

「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」
1:20,21

今、終わりの時に私たちは生かされています。



「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」1:22

召しに従って生きていく兄弟として、互いに愛し合って生きていきましょう。

4月15日 聖日礼拝

使徒の働き 3章 11~16節
「かけよってきた人たちへ」
              hi-b.a. 丸山告スタッフ

4月4日から9日まで北陸に出張してきました。
金沢、富山、新潟、高岡。
東海中部地区と呼ばれる地域ですが、日本海側は名古屋とは違う魅力があります。
教会の雰囲気も違います。
昨日は沼津で初のhi-b.a.を開催しました。
静岡、豊橋に続く新しい集会です。

さて、目先の問題解決ではない、抜本的な解決が与えられた男の話を学んでいます。
彼は足の病から回復し、歩いて神殿、すなわち礼拝の場へ向かって行きました。
身体的な改善と共に、霊的な回復を得たからです。
キリストの名を知ることが、問題の解決の土台にありました。
その姿を見た人々は「驚きあきれ」ました。
新しい訳では「者も言えないほど驚いた」となっています。
このほうが適切でしょう。
驚きを隠せない人々が、一斉に駆け寄ってきました。
このあとに続く箇所は3つに分けることができます。

①12~16節「奇跡の原因、真因」
②17~21節「悔い改めの説明」
③22~26節「選民の持つ特権と責任」


今日は①「奇跡の原因、真因」を学びます。
使徒の2章では、ペンテコステのメッセージが語られました。
みわざを完全には理解できない人々へのメッセージでした。
不思議な業を経験するだけでは、正しく十字架にたどりつくことはできません。
自己流の解釈をしないように、聖書の御言葉と結びつけて初めて、奇跡は意味を持ちます。
世界中に「説明できない」ことはたくさんあります。
それが本当に神から来る者かどうかが問題です。

高校生の頃、倫理の授業がありました。
先生はいろんなテーマで質問を投げかけました。
「神はいるかいないか、考えなさい。
 いると思う人は、なぜですか?
 いないと思う人は、なぜですか?」
不思議なことに、ほとんどのクラスメートは「いる」と答えました。
不思議な体験をしたり、そういう話を聞いたりしたことがあるという理由でした。
今、自分がいることを説明できないけれど、何か大きな存在を感じているという人もいました。
自然の大きさから何かを感じるとも。
けれど、それが「自分と救い主」の信仰に結びつくわけではありません。
仲介者キリストについては、御言葉からしか知ることはできないのです。

「変わってしまった人」に興味を持った人々。
ソロモンの回廊に、自分の足では来れないはずの人が来ていました。
しかも、飛び跳ねて賛美をしている姿を見て、驚き、一斉に駆け寄りました。
この人たちに、ペテロは説教しています。
以前は足が動かず、信仰もなかった男性。
周りからの目は、「この人の人生は行き詰まっている」と見えたことでしょう。
それが、大きな変化をしました。
次第に、ではなく、突然に。
短期間に変えられた人が存在する。
それに驚いた人々に、ペテロは語りました。

路上生活者が、ある日、こぎれいな格好で礼拝にきていたらどうでしょうか。
みなさんはどういう反応をするでしょうか。
本人よりも、周りに事情を聞く方が早いかも知れません。
今まではその男性に近づかなかった人々も、彼に駆け寄ってきています。
それは、「喜びを共有したいから」ではなさそうです。
「よかったね」
「ハレルヤ!」
とは書かれていません。
これに続く4章で、ペテロとヨハネは捕らえられてしまいます。
イエスは処刑したのに、その残党が活動しているのを恐れたからです。
それも、歩けるようになった人のことを喜んでいないことの現れです。

「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。『イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。』」3:12

ペテロは「信じられない」人に驚いています。
高校生が、キャンプで目に見える形で変わったことに驚きを隠せないクリスチャンホームの母親のように。
驚きのポイントはふたつあります。

①アブラハム、イサク、ヤコブの子孫でしょう?
②渡井sたちが自分の力で歩かせたと思っているのですか?


異邦人ならともかく、旧約を知っているでしょう?
暗誦しているでしょう?
神が人を歩かせることができるのは当然のことではないか?
ペテロは、彼らをしっかりと御言葉に戻そうとしています。
自分の栄光にしてしまうのではなく。
救い主、イエスにつながっていることを説明しました。
それも、旧約からの流れの中で。

「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」3:16

私たちはどう受け止めるべきでしょうか。
現代でも同じ事を望むのは正しいのかどうか分かりません。
聖書以前には、奇跡というしるしが必要でした。
しかし、今は聖書が与えられています。

私たちは本当の意味で、生きているでしょうか?歩いているでしょうか?
罪人は的外れ、霊的に足が不自由で、癒されるためにはイエスによるしかありません。
この方に出会うしかないのです。
霊的に立ち止まらせるものがあります。
この方に触れる必要があります。
ペテロは、半信半疑で駆け寄った人々にこう語ったのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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