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12月31日 年末感謝礼拝

ヨハネの福音書 4章 16~26節
「今時の礼拝」
               KGK副総主事 吉澤慎也師

私は中学生の頃から礼拝に主席し始めました。
よく寝ていました。
高校の頃、ノートを取るようにすれば眠くなくなると聞いて、なるほどと思い試してみました。
残念ながら私にはあまり効果がありませんでした。
ノートはいつも途中から意味不明な文と、大小様々な曲線で彩られていました。
何とか眠くならないようにするために、頭の中で他のことを考えるという技術を身につけました。
前を向き、聴いている風で、全く違うことを考えていました。
読んでいる漫画の続き、デートの妄想。
顔だけは真剣にうなずきながら、さも聴いているように。
こざかしいテクニックを身につけました。
真面目に「礼拝とは何か」を考えるようになったのは十代後半です。
自分は何のために礼拝に出ているのか。
礼拝のプログラムにはどんな意味があるのか。
今日は、2017年最後の主日礼拝です。
クリスチャンにとって最も大切と言われる礼拝について学びたいと思います。

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
ヨハネ4:4

当時イスラエルは3つの地方に分かれていました。
北から「ガリラヤ」「サマリヤ」「ユダヤ」です。
イエスはユダヤにいました。そこから北のガリラヤへ向かおうとしていたようです。
最短ルートはサマリヤを抜けるルートです。
そうすれが3日で歩いて行くことができました。
が、当時のユダヤ人は遠回りをしていました。
サマリヤを避けて、迂回していったのです。

「そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである――」4:9

ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかった。
だから避けていた。
では、なぜでしょうか。
宗教的、民族的な理由がありました。
サマリヤ人も元々はユダヤ民族でした。
しかし、長い歴史の中で他の民族の血が混じってしまいました。
いわば混血の民族です。
ユダヤ人は「サマリヤ人は純粋なユダヤ民族とは言えない」と考え、彼らを大変きらっていました。
そこに緊張関係が生じ、敵意ともなっていきました。
旅をするとき「サマリヤに足を踏み入れるぐらいなら遠回りした方がましだ」と思うほどに。

しかし、イエスはサマリヤを通って行かれました。
これは異例なことです。
急いでいたのでしょうか?

「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。
ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。」
4:6,7

イエスは水を飲もうとされました。
ここから15節までは「水」の話が続きます。

「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』
イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」
4:15,16

ところがイエスは、水のはなしとは打って変わっていきなり「夫婦」の話を振ってきました。
この女性の私生活、結婚生活について話を向けたのです。

「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』」
4:19,20

今度は、女性がいきなり礼拝の話をし始めます。
次々と話題が変わっていきます。
夫婦の問題は、女性にとって楽しい話題ではなかったに違いありません。
だから話題を変えようとしたのでしょう。
プライドやわがままを持ち込みやすい部分が「男女関係」です。
この女性にとっても、そこは急所でした。
しかも、イエスはえぐい突っ込みかたをしてきました。

「女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」
4:17,18

女性は罪を指摘されました。
5人の男性と結婚し、すべてうまくいかなかったこと。
当時は男性の側から離縁を申し渡すのが慣例でした。
今は正式に結婚はしておらず、同棲していました。
イエスは唐突に彼女の罪を指摘されたのです。
女性は心の中で慌てたかも知れません。
そこで急に礼拝の話を始めました。
それにしても、ただ話題を変えるだけなら「あなたはこれからどこに行くのですか」と問いかけてもよかったはずです。
なぜ礼拝の話なのか。
礼拝する場所も、ユダヤ人とサマリヤ人が敵対する原因のひとつでした。
サマリヤ人はゲリジム山で礼拝していました。
一方ユダヤ人はエルサレムで礼拝していました。
一見何の脈絡もないようですが、重要な意味があります。
礼拝者のあり方について、この女性の態度に隠されています。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」4:23

今こそ真の礼拝者が父を礼拝すべき時です。
男癖が悪く、不道徳な女性。
人目を避けて、人の来ない時間帯に水をくみに来る女性。
この女性にこそ真の礼拝者の姿があると、聖書は言っています。
罪を指摘されたときに、礼拝の話をした。
つまり、心が神に向き始めたということです。
罪を自覚させられて、神を求め始めたのです。
罪に気付き、自覚し、それゆえ心が神に向き、神を求めていく。
それが真の礼拝者です。
人に知られたくない自分の醜さに気付き、恥じらいを覚える時に、神を求めていく。
ここに礼拝者のあり方が示されているのではないでしょうか。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」4:24

ここに大切なメッセージがあります。
教会が捧げている礼拝のメッセージです。
「霊とまことによって」とはどういうことでしょうか。
これを、人間側の応答と考えることが多いかもしれません。
「がんばって、そうしなければならない」と。
「どうすれば真の礼拝者になれるのか?」と考え込むかも知れません。
その舞えん、まず覚えたいことは、神は私たちを招いて下さっているということです。
神は私たちを真の礼拝者として招いておられます。
あの女性は、聖く正しい人ではなく、罪深くて弱い人間でしたが、イエスは彼女を招かれました。

「喉が渇くと水を飲みたくなる」というのはすべての人の問題です。
人間の不完全さ、不安定さを表しています。
男女関係もすべての人に共通の問題でしょう。
人は、支配とあやつり、罪の中でもがいて生きています。
そんな中にいたサマリヤの女性に、イエスの方から近づいて行ったのです。
本来つきあわないサマリヤ人に。
まして、イエスは男性です。
イエスはラビのような存在でもありました。
常識では考えられないことでした。
それをくつがえして、イエスは声を掛けられました。
もしかしたら、この女性に会うために、イエスはサマリヤを通ったのかもしれません。
イエスはこの女性を礼拝に招いています。
同じような弱さを抱えている私たちにも、主は声を掛けて下さいます。
私の所にも来て下さいました。
私を招くために。
自らの罪に目を向けさせられるとき、同時に神にも心が向いていきます。
主に触れられたい、赦されたい、礼拝したいと。
今がその時です。

霊とまことは人間の一生懸命の努力によるものではなく、神が人間に与えてくださるものです。
神は聖霊を与えて下さいます。
与えられた霊と、まことによって礼拝するのです。
罪に気付き、告白し、礼拝したいという思いに導かれていきます。
何と大きな恵みでしょうか。
この一年を振り返ってみても、神を悲しませたことがたくさんあったことでしょう。
それでも、なお主は私たちをこの礼拝に招いておられます。
何と大きな恵みでしょうか。
場所や民族を超越していくのです。

「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」4:21

礼拝する場所は関係ありません。
「ここでなければ礼拝できない」というものではありません。
世界中のいたるところで神を礼拝するときが来ます。
いや、もう来ています。
新しい時代の礼拝。
今時の礼拝です。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』
イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
4:25,26

「わたしがそれです」「人は皆私を通して礼拝する」と、イエスは言われました。
イエスが父との仲立ちをして下さいます。
神殿そのものとなってくださるのです。

私たちのすべき応答は?
心からの礼拝をささげましょう。
かつてエルサレムでは動物を捧げたり香を焚いたりしました。
物質的な要素を通して心から礼拝をささげていました。
それは形式主義に陥ってしまいました。
今は、賛美や祈りなど非物質的要素がほとんどです。
しかし、参加するだけで霊とまことによる礼拝をささげているということになるのでしょうか。
今も形式主義に陥る危険は大いにあります。
心が伴っていないとしたら、いるだけで礼拝になるでしょうか?
経験的にそうではないと思わされます。
神の前に出ること、自分を偽らずに正直に見せること。
ありのままに神の前に進み出ていくこと。
そこには喜びがあります。
「喜び」はバロメーターのひとつです。
礼拝には喜びがあります。
時代がどう変わろうと、喜びを持って礼拝したいと思います。
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12月24日 クリスマス礼拝

ヨハネの福音書 1章 1~5節
「もう闇の中を歩まなくていい」
          柳橋宏祐神学生

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」


「この方」とはイエスキリストです。
イエスは闇の中に輝いています。
この方の命に生き続けるとき、私たちも光の中を歩むことができます。

「初めに」とは、世界が創られる前。
本当の初めです。
空間、時間が作られる前。
永遠と呼ばれる次元です。
そこに「ことば」がありました。

ことばは神と共にありました。

「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

天地創造の初めに、神と共に「ことば」がありました。
では、神は二人いるのでしょうか?
「イエスと父はひとつである」と聖書は教えています。
頭で理解しようとしてもよく分からない領域のことです。
ひとつである神が共に存在しておられました。
最初におられたのは、「神」と「ことばと呼ばれる神」でした。
すべての者が「ことば」である神によって創られました。

では、ことばとは?
心の中に何かがあっても、口を開かなければその人がなにを考えているかは分かりません。
神はすでに意志と計画と知恵を持っておられました。
私たちは偶然に生まれて、偶然に生きているのではありません。
神の意志によって創られ、存在しているのです。
この方の目的があります。
目的を持って創られたのに、人は神を知らないまま生まれ、生きています。

この方にいのちがあった。
どんな命でしょうか?
神は「霊」です。
肉体の生命ではありません。
ことばは、初めには肉体を持っておられませんでした。
この方の霊的な命が人の光でした。

人とは何でしょうか?
神は人を神の形に似せて創られました。
霊の意気によって生きる、霊的な存在として創られました。
創られた人に、神は命じられました。

「神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
創世記2:16,17

神は「必ず死ぬ」と言われたのに、誘惑するヘビは「決して死なない」と言いました。
アダムは、初めは怖かったけれど、木の実を手にとって食べてしまいました。
これが罪です。

「薬物依存」。
薬をやめたら幸せになると分かっていてもやめられない。
ダメだと思って、知っているのに抜けられなくなる。
それと同じように、神に従うところに命があると分かっていても、罪を犯し続けてしまうのが人間です。
霊の命が失われているのです。
死と闇の中にいるのです。
光は今も闇のこの世界の中に輝いています。
この方が素晴らしい特別な方法で今も私たちと共にいて下さるからです。
私たちの内に住んで下さるからです。
それをして下さったのがイエスさまです。

この方の命だけが人の光でした。
暗やみの人生の中にいるとき、どこに向かっているか、何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、分からなくさせます。
イエスを見続けていることが大切です。
闇に覆われそうになるとき、この方の知恵を信じて従うのが、光の中を歩む方法です。

光を輝かせるために、イエスはなにをして下さったでしょうか?
それは福音書に書かれていることです。
神が人として肉体を持って生まれて下さいました。
十字架で死んで下さいました。
罪と死から救い出すためには、罪のない方が罪を背負って下さるしか方法がなかったからです。
イエスが来て下さったのは、私たちが光の中を歩き続けるためです。

新しい命が生まれるときに必要なものがあります。
イエスを信じる者には、新しい種が宿ります。
イエスとひとつにされます。
種は生長し続けます。
私たちに食べ物が必要なように、霊の成長にも糧が必要です。
それは、神が与えて下さる神のことばです。
それを味わい、従うときに、糧を得て、より豊かに生き、成長し、輝くのです。

私たちには新しい命の光があります。
イエスは決して見放さず、共にい続けてくださいます。
クリスマスの時に、もう一度、イエスの命が光であることに立ち返って、いつも聖書の御言葉を、毎日味わって生きたいと思います。

12月17日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 26~38節
「御使いが教えてくれたこと」
          東海hi-b.a. 丸山告スタッフ

新版「新改訳聖書」を買いました。
これまでの第三版から全面的に改定されたのですが、人名もかなり変わっています。
今までの「マリヤ」は「マリア」になっています。
マリアという名前は旧約聖書の預言者ミリアムと同じです。
ミリアムはモーセの実姉でした。
クリスマスの降誕劇では、マリアは小学校5,6年生の女の子が演じる大切な役です。
小学生では幼すぎると思うかも知れませんが、当時の結婚適齢期は中学生ぐらいでしたので、それほど離れているわけでもないようです。
カトリック教会ではマリアへの思い入れが強いです。
私たちはイエスは神の子であり、罪がないと考えています。
カトリックでは、母マリアも罪がなかったと考えます。
教会にはマリア像もあります。
でもそれは礼拝の対象というわけではありません。
イエスが昇天された後、弟子たちとマリアがそのそばにいました。
マリアは、「今までイエスに願っていたことを私に言いなさい」と弟子たちに告げたという伝承があって、「マリアはイエスに取り次いでくれる人」と考えられているのです。

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。{あなたはどの女よりも祝福された方です。}」
126~28

御使いはどこから来たのでしょう。
御使いは「おめでとう、恵まれた方」と言いました。
クリスマスと言えばこのセリフだと思います。
他の言葉に置き換えられません。
でも、よく考えてみると違和感があります。
はたしてマリアの人生はおめでたい人生なのでしょうか?
マリアはナザレの小さな村の女の子です。
人口は150人から200人の村。
狭い共同体です。
住民登録先の馬小屋で出産。
お祝いに来たのは三人の占い師と、羊飼い。
宮参りにイエスを連れて行ったら3日間行方不明になる。
イエスが初めて奇跡を行ったときにはイエスから「女の方」と冷たい言葉で呼びかけられる。
エルサレム入城の後には十字架の死。
これは「おめでとう」ではないでしょう。
むしろ「残念!はずれです!」と言った方がこの後のストーリーに会うのではないかと思うほどです。
「おめでとう!」と書いてあるのはルカの福音書1章28節だけです。
原語では「ごあいさつ申し上げます」あるいは「こんにちは」という挨拶です。
他の訳では「恵まれた者、喜びなさい」(フランシスコ会訳)
「喜びあれ、恵まれた女(ひと)、主があなたと共に」(岩波訳)
「慶(めでた)し、恵まれた者よ、主は汝と共に〔おわす〕、汝は婦のうちにて祝せられたる者〔なり〕。」(永井訳)
などとなっており、「喜ぶ」の意味があることがわかります。
これは、ルカの福音書10章で、遣わされた弟子たちが戻ってきたときにイエスが弟子にかけた言葉の中にもある言葉です。

「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』」
ルカ10:18~20

喜びの根拠はどこにあるのでしょうか。
それは、「神からの一方的な好意にあずかった」ということであり、個人的な「おめでとう」ではありません。
結婚前に妊娠するということで、マリアにとって不利なことが起こっています。
①ヨセフの評判が落ちる
②自分は罪深い女と呼ばれる
③石打の刑にされる可能性もある
これらのことは容易に予想できました。

「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」1:34

マリアは御使いの言葉を鵜呑みにはしていません。
しかし、マリアに掛けられた言葉はザカリヤの場合とは違いました。
年老いたザカリヤも御使いから子どもを授かるという知らせを聞いて、半信半疑でした。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』
御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』」
ルカ1:18~20

ザカリヤは口がきけなくなってしまいました。
語っている内容は同じですが、受け止め方は対照的だったからです。

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』」こうして御使いは彼女から去って行った。」1:38

「はしため」とは「奴隷」という意味で、あまり使うのに好ましい言葉ではないのですが、ここはマリア自身が自分を表現して言っている言葉です。
マリアの信仰告白と決断はイエスの祈りに通じるものがあります。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ルカ22:42

もしもマリアの言葉がうわべだけで言っていたのであれば、何らかのペナルティがあったはずです。
ザカリヤのように。
そのまま御使いが去っていったのは、マリアの思いが御心に叶っていたからです。

「 神にとって不可能なことは一つもありません。」1:37

マリアだけではありません。
私のためだけではありません。
すべての人の為に、イエスは人となり、私たちの人生に介入されたのです。

12月10日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 1章 14~18節
「すべてのことを知らせてくださる救い主」
           東海聖書神学塾 後藤喜良師

クリスマスとはなんの日でしょうか。
サンタクロースの誕生日ですか?
昔ニコラウスという名前の牧師がいて、聖人とされ、聖(セント)ニコラウスと呼ばれました。
12月6日が聖ニコラウスの祭日です。
ドイツではこの日によい子にプレゼントをしていました。
実際にはイエス様がいつお生まれになったかはわかりません。
羊飼いが野宿をしていたことから、冬とは考えにくいでしょう。
ではなぜ12月にしたのか。
これはもともと太陽にちなんだ祝いの日でした。
当時から冬至がありました。
太陽が死んでいく冬、冬至が過ぎると生き返ります。
12月25日は太陽の日でした。
義の太陽であるイエスの祝いを、この日にすることに決めたのです。
この日は「アダムの日」でもあります。
リンゴを飾るのもそのためです。
イエスは「最後のアダム」とも呼ばれます。
アダムによってもたらされた「罪」を取り除くためにイエスが来られたからです。

クリスマスはXmasと書いたりします。
このXはギリシャ語Χριστοςのキリストの頭文字です。
キリストは「メシア」とも言います。
メシアとは「油注がれた者」という意味です。
この油はオリーブ油です。
イスラエルで任職の油を注がれて職に就く人がいました。
そのひとつは王です。
王は、国民を幸せにするために立てられました。
人々は王に期待していました。
イエスの時代の人々は、王がローマ帝国から解放し、ダビデのように国を再建してくれると期待していたのです。
イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された時、その期待は大きく、人々は喜んでイエスを迎えました。
が、1週間もたたないうちに、彼らはイエスを見捨てて十字架につけました。

油を注がれたもうひとつの職は、大祭司です。
大祭司の職はアロンにさかのぼります。
大祭司は、私たちのために神に祈ってくれる人です。
いけにえを捧げて、罪が許され祝福を受けられるようにする人です。
いわゆる宮司や祭司は祈る人です。
動物をいけにえにして、赦しを宣言する祭司はほかの宗教にはありません。
賽銭で済むほど罪を軽く考えているのかもしれません。
イエスはご自分をいけにえとして捧げてくださいました。
全ての人を救ってくださいと祈ってくださいました。
今も生きて、父なる神に、私たちのために祈ってくださっています。

預言者もまた油を注がれました。
預言者とは「神の言葉を預かる人」です。
予言者とは違います。
イエスは父の言葉を一つも残さず語ってくださいました。
そして、ご自分が語った言葉を自ら実行されました。
「敵を愛しなさい」というみ言葉を、私は98%受け入れられるようになりました。
イエスは、私たちにもできるようにしてくださいます。
イエスは、共意志であり予言者です。

イエスは救い主です。
日本での「救い」は聖書で言う救いとは違います。
日本で「救い」というと、大きな問題が解決したとか、病気が治ったとか、被害にあわなかったという、日常生活での救いを指します。
確かにそれも救いですが、聖書では二つの意味で使っています。
ひとつは「解放する」もうひとつは「病気を癒す」という意味です。
たとえ病気が治っても、いずれ人は死にます。
問題はまた起こってきます。
十分なものではありません。
一時的で表面的なものです。
聖書はむしろ、「試練は益になる」と教えています。

生きている間だけの救いではなく、根本的な救い、永遠の救い。
それがイエスの救いです。
完全で、永遠の救いです。

クリスマスは世界中でい合われている「誕生日」です。
どれほどの喜びでしょう。
天使は「天では神に栄光が、地では人に平和があるように」と歌いました。
「大きな喜びを伝えましょう」と語りました。
これが、「福音」です。

イエスは私たち自身を救ってくださいます。
体のこと、生活のことだけでなく、私自身が幸せでなければ完全な救いとは言えません。
イエスは私たちを造り替えてくださいます。
「再創造」の救いです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」コリントⅡ5:17

私は18歳のイースターに洗礼を受けました。
でも全然喜びがありませんでした。
「あなたの罪は許されました」と言われても、それほど大それた罪を犯した覚えもなく、嬉しくありませんでした。
「永遠の命が与えられました」と言われた時には、「それだけは勘弁」と思いました。
自分が嫌いだったからです。
でもやがて、自分中心の私を救い、神を愛し人を愛する人に造り替えてくださるのが救いだ、と分かりました。
それはとてつもない喜びでした。
私にとっては、人を愛することが一番難しかったからです。
私たちは、「神を愛する人」として完成されて、永遠に生きるのです。
根本的に造り替えてくださる救いです。
新約聖書で書かれている「救い」の90%はこの救いです。
イエスは、罪を赦し、義としてくださり、永遠の命を与えてくださいます。
必要な全てのことを知らせてくださる救い主です。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」1:14

イエスは言葉によって全てを知らせてくださいます。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」1:18

イエスは、神がどういうお方か、何をしてくださるか、何を望んでおられるのかを全て解き明かしてわかるようにしてくださいました。
イエスは「全てのことを知っておられる救い主」です。
この表現は聖書の中に2回出てきます。

ひとつは、イエスがサマリヤの女と話をした場面です。

「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。
『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』」
ヨハネ4:28,29

この女性は「すべてのことを知らせてくださる救い主」を待ち望んでいました。

「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』
イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
ヨハネ4:26,27

イエスは、ユダヤ人には自分がメシヤであることを言ってはいけないと言われましたが、サマリヤの人には「わたしがそれです」と言われました。
それは、ユダヤ人たちが期待していた「メシヤ」とは違うからです。

人はいろんなことを知りたいと願います。
「どうすれば○○できるのか知りたい」と思っています。
仏教は「本当の知恵を手に入れたい」と追い求める宗教です。
仏とは本当の悟りを得た人で、「正しいことを知ること」を追求します。
しかし、私たちは知らなければならないことを知らず(コリントⅠ8:2)愛するという知恵もありません。
処世術や自己改革ではなく、神と人を愛する知恵はイエスしか教えてくれません。
イエスは世に来て、全てのことを知らせてくださいました。
今は聖霊が聖書を通して全てを教えてくださいます。
知ったことを実行できるようにしてくださいます。

私の最初の奥さんのことを、私は「家内」と言っていますが、家内と結婚した時に三分の一は「計算」でした。
牧師の奥さんとしていろんなことを手助けしてもらえそうだという計算でした。
主は、結婚してから、ひとつひとつ愛する知恵を身につけさせてくださいました。
私は家内に、年に5回プレゼントしていました。
プレゼントボックスがあって、そこに入れておくのです。
家内は8年間闘病して、天に召されました。
その時に文集を作りました。
家内は書道の師範でしたが、最期の絶筆として、こんな言葉を描きました。
「多くの人に愛された。特に夫に」と。
今でもそれを見ると泣けてきます。

イエスは幸せに生きていくために必要なことを教えてくださいます。
実行できるようにしてくださいます。
これがイエスの救いです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」3:16

髪はあなたを愛していらっしゃいます。

「全てをご存知です」と書かれているもうひとつの場面は、ヨハネの福音書の最後にあります。

「イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度『あなたはわたしを愛しますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」ヨハネ21:17

主はすべてをご存知で、私に牧師として必要なものを与えてくださいました。
主はあなたのことも知っておられます。
弱さも、罪深さも、未来の姿も。
何でもイエスに聞いてください。
イエスに教えてもらって、喜ばれる人になってほしいと思います。
幸せな家庭を作って、隣人を愛する仕事を成し遂げてほしいと思います。
必ず成長させてくださると信じて、聴きながら歩んでほしいと思います。
毎日みことばから教えていただいてほしいと思います。

12月3日 聖日礼拝

歴代誌第2 16章7~10節
「主と心をひとつにして」
         大治福音自由教会 服部真光師

待降節です。
主は私たちの訴えに耳を傾けて下さいます。
それならば、私たちも主のいおうとされることに耳を傾ける必要があります。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
ヨハネ1:9~13

この箇所は私たちに聖書の世界観を与えています。
世界は神が造った、神のものであり、すべて神が支配していました。
日本ではほとんどの人が創造主に対して無関心です。
神の国に主が戻ってこようとしているのに、イスラエルの人々は無関心でした。
「ロードオブザリング」という物語があります。
「王の帰還」というタイトルがありますが、しばらく不在だった王が戻ってくる、そのような状況です。

王の王たる役割はなんでしょうか。
民を外敵から守ること。
安心して暮らせる知性を保つとき、民を王を愛し、王を支えます。
聖書が示す世界観によると、降誕は、罪によって失われた世界に、ひとり子イエス(王)を送り、神の国を再建する働きです。
教会は神のみわざの基地です。
みこころを行い、地上で実践していく場です。

福音のメッセージはふたつあります。
多くの教会はひとつしか強調していません。

①神のメッセージを伝えること

「聞く」ことがなければ知ることはできないからです。

②言葉だけでは伝わらないので、見せること。

言葉は目に見えません。
メッセージを伝えても、聞く側に力がないと、理解できません。
メッセージを具体化して、理解を助けるのです。
主は愛の技で示されました。
イエスは人々の痛みや苦しみ、悩みを解決する為に労されました。
こんにちの教会で失って、弱くなっているのは、地に愛のわざを示すことではないでしょうか。

さて、歴代誌、列王記は、神が建てた国の歴史を記しています。
イスラエルはもともと主が王であったのに、「王が欲しい」と訴える民の求めに応じて、主はサウルを王として立てられました。
しかしその後、サウル王を退け、ダビデが王となりました。
その子ソロモンの後に王国は分裂しました。
北イスラエル王国、南ユダ王国。
その北側にはアラムという国がありました。
この分裂した国がどうなったかを示す書が歴代誌です、
今日学ぶのはユダのアサ王についてのできごとです。
アサについて学ぶとき、かみのみこころにかなう資質を学ぶことができます。
どのような時に道が開き、どのような時に閉ざされるのか。
歴史から学ぶためにこの書が書かれました。
教訓としない人は、過ちの歴史を繰り返します。

この頃南ユダと、北イスラエルが争い、北が南を圧迫していました。
その時、南ユダの王はアラムに援助を申し入れました。

「そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。『あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。』」16:7

アサは国を守るために、政治力を遣いました。
が、その行為は「主により拠り頼まない」行為でした。
では、アサは神を信頼していなかったのでしょうか?

「あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。」16:8

アサは過去に、主に拠り頼み、大きな聞きを乗り越えた経験がありました。
主を信頼していないわけではないのです。
助けられた経験があるのです。
それなのに、それが次に生かされていない。
目の前の出来事に目を奪われて現実的な方法に拠り頼んでしまいます。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」16:9

こんにちまで続く大事な原則です。
是非暗誦してほしい聖句です。
全地をくまなく見渡して、心が全くひとつになっている人に、主は力を表してくださる。
主は、ひとつの心になる人を探しておられます。
神と心がひとつになるためには、神がどんな心を持っておられるか、理解しなければなりません。
どんなに優れた人でも、永遠に支配することはできません。
次の代に自分の地位を明け渡さなければなりません。
主から頂いたものを誰に托すか。
後継者として選ぶなら、最も信頼する人でしょう。
自分の心を理解し、ビジョンを理解し、「私もそうしたい」と思ってくれる人でしょう。
私たちは主の祈りで「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈ります。
「私の心が」となっていないでしょうか?

私の尊敬する先生が「教会の会堂は魂のふるさとだから、主の御名を表すものを建てなければいけない」と言われました。
この会堂が建ったとき、その先生が我がことのように喜んでくれました。
御父もそのように見ていてくださいます。
兄弟姉妹の祈り、主の守りがあります。
心と心が主とつながれ、本気で「御心が行われますように」と思うなら、「私には力がない」「手立てがない」ことに気付きます。
そこに祈りが生まれます。
そのような経験ができるように祈って取り組むのです。

クリスチャン生活は二人三脚です。
心と心をつないで生きるのです。
神は高いところにいて「やれ!」と命じるだけの方ではありません。
主はずぐ横にいて、共に歩んでくださいます。
御子も、血と肉を持って地上に来て下さいました。
なぜでしょうか?
主に習ってくびきを負って生きるためです。
心をひとつに合わせなければ二人三脚で走ることはできません。
もし私と妻と二人三脚をしたらどうでしょうか。
私は体育専攻でしたから、私の思い通りに走ったら妻は付いて来れません。
もし妻に合わせていたら、レースには勝てないでしょう。
私は少し速度をゆるめて、妻は少しがんばって、歩み寄ることが必要です。
主は歩み寄って下さいます。
私たちも、主に合わせようとするとき、力が引き出されて用いられていきます。
かつてはできなかったことができるようになります。
与えられたものを通して、さらに用いられるようになります。
秘訣は、主の心とひとつにして、営みを気付き上げていくことなのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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