11月12日 聖日礼拝

ルカの福音書 19章 1~10節
「救ってくださいと言えない人を救われるキリスト」
            東海聖書神学塾 後藤喜良師

「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」
19:1~2

今日は有名な箇所です。
でも、何度読んでもなかなか分からない。
なぜこの人がこんなことをしたのか。
最後に、「ああそうだったのだ」と、驚きと感動を持って喜びを頂きました。
同じ感覚を得て頂きたいと思います。
「あなたもザアカイだ」と。
私は日本にもたくさんのザアカイがいると実感しています。
家にも、友人にも、地域にも。

このザアカイの話はルカの福音書の中心の物語です。
ザアカイはどういう人でしょうか。
彼はエリコに住んでいました。
交通が便利な町で、ここに別荘を構えている人もいました。
世界で一番古い、町ができたところだと言われています。

ザアカイは「取税人のかしらで、金持ちであった」と言われています。
当時ローマ帝国が植民地の住民から税金を取っていました。
税額は所得税で5%でした。
カイザリアには総督がいました。
同胞からローマの税金を取り立てていたのが取税人です。
彼らはずるがしこく、取り立てたお金の半分は自分の者にしていました。
そのため、同胞からは「取税人はイスラエル人ではない」と言われていました。
「必ず神から罰を受ける罪人」とも呼んでいました。
町中の人から嫌われていました。
しかもザアカイはその取税人のかしらです。
特に取り立てがうまい人として、ローマ帝国が任命していたのです。
今で言うと悪徳金融業者の社長のような人です。
あなたなら取税人の仕事を選びますか?
間違いなく恨まれ、嫌われる仕事。
それをあえて選ぶことは普通しないでしょう。
ザアカイはそれを選び、それに打ち込んでかしらになりました。
なぜ間違いなく嫌われることが分かっているのに取税人になったのかが、私にはわかりませんでした。

「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」19:3~4

背が低かった。
それはコンプレックスで、いじめられたかもしれません。
何とか見返してやりたいと思ったことでしょう。
「金持ちになってやる!」
「幸せになる!」
「見下してやる!」
と思ってこの職を選んだのではないでしょうか。
劣等感はとてつもなく大きな力を生み出します。
ザアカイは自分の仕事を喜び楽しんでいたのではないでしょうか。
30歳ぐらいのザアカイは、当時の平均寿命から考えると、自分の死を考える年齢になっていたことでしょう。
死んだらどこに行くのか。
このままではいけない。
という思いがわき上がったのではないでしょうか。
イエスはすでにザアカイを知っていたと思われます。

ルカの福音書には取税人という言葉が何回も出てきます。
弟子の中にも取税人がいます。
ザアカイは自分も救われるのではないかと思ったかも知れません。
パリサイ人たちは取税人は絶対に救われないと考えていました。
イエスだけは救われると言っておられました。
ザアカイはイエスに「救ってください」と言おうと考えました。
でもヤイロのようには言えない。
前に出て行けない。
「自分のような者が救ってくださいと言っていいのか?」
そんな思いから彼の口から出た言葉は

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」19:8

でした。
4倍にして返すというのは殺人に対する償いに値します。

教会の玄関に、10回来ては帰った人を知っています。
そんな人がたくさんいるのではないでしょうか。
たとえばイエスと共に十字架に付けられた人もそうです。
私は「右側の人」と呼んでいます。
彼は

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」ルカ23:42

としか言えませんでした。
「救ってください」とは言えなかったのです。

また、18章には金持ちの永遠のいのちを求めていた青年の話があります。

「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』
すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」
ルカ18:22,23

「ついてきなさい」と言われたとき、「はい」と言えるでしょうか?
イエスしかいないから、イエスのところに行きたい。
でも「はい」と言えない。

「キリスト教はいいなあ。
なれたらいいなあとは思うけど、自分には無理。
お酒が飲めないでしょう?
たばこはダメでしょう?
収入の10分の1献金するなんて無理。」
「聖書に書いてあることをやれと言われても無理」

ザアカイは「救われたい」「イエスしかない」と分かっていましたが、言えない。
だから見ることしかできませんでした。
罪深いから無理・・・と。
クリスチャンでもザアカイはいます。
本当の思いや願いがなんなのか、はっきりと主に申し上げたらどうでしょうか。
申し上げれば与えられているはずです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2:13

自分の思いを隠さないで、イエスの所にいきましょう。
見るだけでも良いから。
祈りにならない思いを持ったままで、主イエスに目を向けてください。
ザアカイは「救ってください」とは言えないまま桑の木に登りました。

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」
19:5,6

「上を」とは「よく、じっと」という意味です。
どういう思いでイエスはザアカイを見ておられたのでしょうか。
ザアカイはどんな思いだったのでしょうか。
本当は救われたい。
あわれんでください、と言いたい。
でも私のような者が救われるわけがない。
そんな思いのザアカイに、イエスは名前を呼ばれました。

「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」イザヤ43:1

ザアカイは急いで降りてきました。
そして、主が言われたとおりに生きる人になりました。
「泊まることにしてある」とは「滞在する、ずっと存在している」という意味です。
なぜイエスからこのように申し出られたのでしょうか。
もしもザアカイが「どうぞ来て下さい」と行っていたら、他の人が押しとどめていたことでしょう。
これが十字架の愛です。
どうしてザアカイなのか?
どうして「私」ではないのか?
一人の人を救うために、そうした非難を受けて下さり、盾となって下さるのです。
多くの人はキリストを非難します。
でも、イエスはそういうお方です。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」19:8

旧約聖書の定めによれば、盗みに対する賠償は損害の20%、強盗は倍返しでした。
そして、人を殺して奪った場合は4倍にして返さなければなりませんでした。
直接手を下していなくても、それに相当することをしてきたという思いがザアカイにはあったのでしょう。

ザアカイはイエスを「主」と告白しています。
心配しすぎてはいけません。
私は牧師になることをずっと主に断っていました。
でも、高3の時に降参しました。
自分が人前で話せるとは思っていませんでした。
だから「語る」「教える」賜物を求め続けました。
そして与えられました。
自分が神に役立つ者にされるためには、願う以上のことができるようにして下さるのです。
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11月5日 成長感謝礼拝

伝道者の書 12章 9~14節
「一番大切なこと」
              大治福音自由教会 服部真光師

毎年子どもの成長を祝えることを感謝します。
今日は献児式もありましたが、神から与えられた子を捧げることによって、「私」から「神」に所有権が移ります。
そして、あらためて神からゆだねられた子どもとして育てていくのです。
神のためにおう用いられるのかを考えながら。

さて、箴言と伝道者の書は「知恵の書」と呼ばれています。
聖書をよく知らない方にも親しみやすいのではないでしょうか。
実践的で、読みやすく、理解しやすいからです。
「伝道者の書」は、イスラエル第三代目の王、ソロモンが生涯を掛けて経験した知恵を、後世に伝えるために書き残したものです。
ソロモンは、たぐいまれな知恵を持った王として、周辺諸国からも一目置かれていました。
ソロモンにとって、もっとも大切なこととして心に留まったことを、締めくくりとしてこう言っています。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。」12:13

これがまとめです。
聖書全体の教えを正しく理解し、祝福を持って歩むためのカギです。
牧師は、自ら学びつつ、人に教え、指導します。
しかし、教えても変わらない現実に直面します。
なぜでしょうか。
ソロモンも同じ事を経験していました。
どんなに人に教えても、この一点を押さえければ実を結ばないことをソロモンは知っていました。
最も大切なことはこのふたつの言葉に集約できるのです。

「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」12:13

①神をおそれること
②神の命令を守ること


イエスは天に帰る前に教会に使命を与えました。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:20

語って終わり、なのではありません。
情報を伝えればよいのではありません。
一回教えたからと言ってできるわけではないのです。
実践できるようになるまでかかわることが、「教える」ということです。
聞き手がしっかり受け止めて、人生に結びつけなければ実を結ぶはずがありません。
①と②がカギであり、定着する必要があります。
その子が神を恐れて生きるように。
神の御言葉に従って生きるように。
そうすれば、あとのことは、その子が自ら学んでいくことができます。

①神をおそれる

「神さまは怖い」ということではありません。
天地を造られた神がしてくださったことを謙虚に受け入れること、「敬う」ことです。
いろんな人がいろんなことを言いますが、言われたことを聞き入れるときとスルーするときがあります。
その違いはどこにあるのでしょうか。
言っている内容ではありません。
誰が語っているか、です。
信頼して尊敬している人の言葉なら聞きます。
神を恐れるとは、きちんと神と向き合って、耳を傾ける姿勢を持つことです。

「聖書はそう言ってるかもしれないけれど…」と、世の中の言葉や価値観の方が上だと思っていると、聖書の言葉をまっすぐきくことができません。
「はい、ここにおります。お語りください」と跪く姿勢を持つことです。

人はどういうときに神をおそれるのでしょうか。
そのひとつは「祈りが聞かれるとき」です。
「道が開かれますように」と祈り、開かれたとき、今も神は生きて働いておられることを知ります。
弟子たちはイエスと旅をしながらたくさんの不思議な経験をしてきました。
そして、彼らの心に恐れる気持ちが起こりました。
「この方はどんなお方なのだろう?」と。
ペテロに到っては、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言っています。(ルカ5:1~11)

自分が汚れている、と感じるのはどんな場面でしょうか。
普通は汚れたものに触れると、自分も汚れると感じます。
あるとき、何かくさいと感じました。
なにがくさいのだろうかと、よく見てみたら、靴がくさいのです。
靴の裏に猫のフンがついていました。
どこかで猫のフンを踏んで汚れていたのです。

ペテロの場合はどうでしょうか。
ペテロは、聖いイエスに触れられたときに、自分の汚れに気付きました。
これが神への恐れです。
子どもたちに、神を恐れ敬う経験をさせる必要があります。
そのためには、一緒に祈ることが大切です。
そして、祈りがかなえられる経験をさせるのです。

②神の命令を守る

神が私たちに「こぷあってほしい」と願っておられることがあります。
神の一番大切な教えは何でしょうか。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

互いを大切な存在として認め合うことです。
ではどのように?
イエスが私たちを愛してくださったように。
イエスに触れられる経験を土台にして、他の人に愛を示すのです。
より広く、深く、イエスの愛をわかるように。
その愛をもって優しくなるのです。

マタイの福音書に、王から借金を赦された人のたとえ話があります。(マタイ18:23~34)
イエスは、多く赦された人は、人を赦して生きるようにと教えています。
マザーテレサは貧しい人々についてこう言っています。
「私はその人の中にいるイエス様に仕えているのです」と。

子育て手もっとも大切なことはなんでしょうか。
神の愛を子どもたちが認めて、神を愛する者になるように導くことです。
その愛で、人を愛する者になるように育てましょう。
そのためには、親自身がそのような者でなければならないのです。

10月29日 聖日礼拝

歴代誌第2 20章14~22節
「信じて賛美を」
        名古屋福音自由教会牧師 平井聖歩師

歴代誌が扱うテーマは「礼拝」です。
一貫して礼拝について、歴史を貫かれたテーマを語っています。
注目される人物はヨシャパテです。
分裂後の南ユダ王国4代目の王。
33歳。
今の私の年齢です。
まだ若造です。
信仰深い人物で、偶像を取り除いていきました。
彼には欠点もありました。
周囲の国との関係です。
18章を読むと、彼が国内では信仰によって篤い歩みをしていたけれども、周囲の国との関係は信仰に生きることができなかったことが分かります。
教会内では信仰を褒められるが、
一歩外へ出ると隠している人のようです。
主に従えば祝福がある事が分かっているけれど、他では妥協する。
「家だから」「学校だから」「職場だから」と。
信じることと生きることの間に矛盾を抱える人でした。

「ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。」20:15

「ときに」と始まっています。
どんな時でしょうか。

「この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。
そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。『海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。』
ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。」
20:1~3

ヨシャパテは自分の無力さを痛感しました。
アモンがヨルダン川を越えて攻め入ってきました。
彼は祈りました。

「私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」20:12

「どうすればよいかわかりません」と、国王が国民の前で祈りました。
彼は国民への影響を知っていたはずです。
しかし彼は追い込まれていました。
自信は粉々に砕かれました。
「そんなとき」です。
祈っていたとき。
ただひたすら主に求めた時。
自信と経験と知恵がはがれたときに残ったのは神への求めでした。
嘆きながら。
主の前で嘆いてもいいのです。
神の前にどんなことでも祈っていいのです。
彼は内にある思いをぶちまけました。
神に期待していたからです。
ヨシャパテは信仰に生きるのを躊躇していた領域で、そこも神の領域だということを認めました。
ヨシャパテは神を認めました。
神はご自分の子を訓練されます。
彼は全てを支配しておられることを分かっていたはずです。
彼は悔い改めて神に目を注ぎました。
無力さを知るのは何ら悪いことではありません。
絶望は神への希望を養うときです。
神は、全領域の神です。
「このままではまずい」と思う時こそ、きちんと嘆き、祈り、神を認めましょう。
信仰を働かせていきたい時です。
彼らは力づけられていきました。
なぜでしょうか。

「それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、
ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。」
20:18,19

礼拝の光景が描かれています。
彼らを力づけたのは、神のことばです。
ヤハジエルは神の御言葉を語りました。
「これは神の戦いだ」と。
「しっかり立って動かずにいるように。
主の扱いを見よ。」と。
「大軍ではなく主の救いを求めよ」と。
「不安にさせるものではなく主を見上げ、立っているように」と。
目新しいことではありません。
主はモーセにも語り、紅海を分けられました。
状況に目を向けるから心配になるのです。
「心配」という言葉は「心を分ける」という意味があります。
主の救いを見るのです。
信仰の目をもって、そこに焦点を当てましょう。
私たちが信じている神は、死んだ神ではありません。
今も生きている私たちの父です。
世界の歴史は救いの歴史です。

「礼拝」は、公同の教会ですべきことです。
使徒20章を読むと、ユテコの話が書かれています。
ユテコは、パウロの話があまりにも長いので、ついうとうとして窓から落ちて死んでしまいます。
主は彼をよみがえらせるのですが、この話は何を教えているのでしょうか。
「皆と一緒に礼拝するのを主は喜ばれるということです。
「礼拝の時は窓辺に座るな」でもないし、「寝るなら家で寝なさい」でもありません。
どんな状況であれ、体を引きずってでも礼拝に来る、その姿勢を、主は喜んでおられるのです。
礼拝者であることが大事です。
以前、私が説教をしているときに寝ている方がいると内心腹立たしく思ったこともあります。
でも、今は違います。
それほど疲れていても、教会に来て礼拝しているのだ、と思います。
もし寝るなら、家ではなく教会で寝ましょう。
弱っているときほど、困難なときほど、礼拝することを選んでください。

人々は礼拝によって励まされました。
私たちは人の顔色一つで心が動かされます。
目を注ぐべきは、人ではなく主の救いです。
私たちの戦いは、しっかり動かずに立つ戦いです。
礼拝者でありつづける戦いです。
礼拝によって、神が戦って下さることを知ることができるからです。
礼拝が私たちを守ってくれます。
御言葉を聞いて彼らがしたことは賛美でした。

「こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。『ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。』
それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』
彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」
20:20~22

状況は変わっていないのに、彼らは賛美したのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」へブル11:1

信仰がそれを可能にしました。
彼らは見えないものを確信しました。
賛美をしたときに勝利がありました。
信仰は聞くことから始まります。
が、聞くことだけでは力になりません。
信頼することによって力を得ることができます。
信仰は状況を変えるわけではありません。
変えるのは神です。
神とその約束を信じるのが信仰です。
信仰は持っているのもではなく、働かせるものです。
どうしようもない状況でも喜ぶことが、人を救います。

ペンシルベニア州で19世紀から20世紀にかけて生きていたエリザ・ヒューイットという人がいます。
彼女は「歌いつつ歩まん」という讃美歌を作った人です。
エリザは教師でした。
障害のある生徒を担当する人が求められ、彼女が担当することになりました。
所がある時、その生徒が暴れてイスを投げつけてきました。
彼女は脊椎を損傷してマヒしてしまいました。
彼女は自分の状況を嘆きました。
毎日病室に掃除に来る黒人の女性はいつも讃美歌を口ずさんでいました。
その女性は
「恐れや嘆きを賛美に変える力を、いつもイエス様が与えてくださる」と語りました。
その時から彼女の生活は変わりました。
そして、この歌が生まれました。

無力感は人を気落ちさせます。
人を小さくし、生きる意欲をなくさせます。
「嘆きは変わりて祈りを生む」
力ある方がともに共にいてくださいます。
この世界は神のせかいです。
私たちは弱いですが、神は強い方です。
神を信じましょう。
神を賛美することがあなたを守ります。
賛美しつつ、主の旅路を歩みましょう。

10月15日 聖日礼拝

使徒の働き2章 14~21節
「満たされた結果」
東海Hi-b.a. 丸山告スタッフ

「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。『ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。』」
2:14、15

これはペテロの最初の説教であり、初代教会としても最初の説教です。
私自身が初めて説教を語ったときのことを思い出しながら、この御言葉によりそってみました。
神学生の時、キャラバン伝道の中高生対象の伝道集会でした。
普通は上級生がメッセージをするものですが、年齢が近い方がいいということで、一年生の私が選ばれました。
参加者は、初めて教会に来た中高生が8人。
もともといなかったのに、新しい人が8人もいるのは喜ばしいことなのですが、彼らは警戒していました。
名前を聞いても教えてくれない。
女子5人、全員バッグを膝に置いて話さない。
いつでも逃げられる体勢を取っていました。
押しても引いても手応えがありませんでした。
御言葉の時間になりました。
どれぐらい伝わっているのか、手応えがありません。
おそらく伝わっていないと確信しながら語っていました。
ペテロはいつ、どんな町で、だれに、どうやって、どのような主旨のことを語ったのでしょうか。

いつ:
「弟子たちがイエスの死体を盗んだ」といううわさを流されていましたが、集まっていた弟子たち。
イエスが天に帰られてから50日が過ぎ、その間に3つのグループが集まって祈っていました。
11人の弟子、婦人たち、イエスの親族です。
ペンテコステで、弟子たちは他国の言葉で話し始めました。
120人ぐらいの人が。
異様な光景です。
復活の証拠を示すなら、別の方法もあったのでは?と思えるほどです。

どこ:
外で。

だれに:
ユダヤ人たちに。
しかし、彼らには理解できませんでした。
「甘い葡萄酒に酔っている」と言う人もいました。
甘い葡萄酒とは、発酵中の葡萄酒です。
ぶどうの中の当分が発酵してアルコールになるのですから、甘いということはまだ発酵仕切っていない葡萄酒ということになります。
つまり、酔えません。
彼らはバカにしているのです。
ジョークとして言っているのです。
彼らは、弟子たちが聖霊に満たされているのを理解できませんでした。
菊川に準備が整っていたわけではなかったことになります。

どのように:
ペテロは声を張り上げました。
誤解を解こうとしました。
朝の9時です。
ユダヤ人には朝から葡萄酒を飲む人はいません。
ペテロが代表して語っていますが、「11人とともに立って」と書かれていますから、他の弟子も同席していました。
彼らの中には、雷の子と呼ばれるほど起こりやすい弟子もいたのに、起こっていません。
マタイは収税人でしたが目して座っていました。
そこには聖霊によって変えられた弟子たちの姿がありました。
新しくされた弟子たちです。

なにを:
ペテロの説教は旧約の引用を重ねた構成です。

「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。」2:16

例話もありません。
パフォーマンスもありません。
理論的に、理性に訴えかけています。
シンプルに、「十字架はあなたがたのためだ」ということを語りました。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
2:17~21

これはヨエル書2:29~32の引用です。
しかし、全く同じというわけではありません。
ペテロが意識的に変えて語っています。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。主が仰せられたように、シオンの山、エルサレムに、のがれる者があるからだ。その生き残った者のうちに、主が呼ばれる者がいる。」
ヨエル2:28~31

「わたし」→「神」
「その後」→「終わりに日に」
「預言する」を繰り返している。
「しもべ」→「わたしのしもべ」
「天と地に」→「上は天、下は地に」

ペテロが伝えようとしているの次の3点です。
・神が旧約の時代のように王や預言者だけでなく、普通の人に語られる。
・黙示的な終末の預言。
・裁きの日。

ヨエル書が実現しているのは17節です。
「息子や娘」とは、未成年者、13歳未満の人です。
小学生以下ということになります。
若者は幻を見る。
神の幻に引き寄せられていく。
老人は夢を見る。
老人も将来への希望を置くことができる。

「主の名を呼ぶ者はみな救われる」

時代を超えて、二人の信仰者の言葉が重なっています。

ペテロは12弟子のリーダーで、イエスの一番近くにいました。
情熱家ですが、肝心なときに「知らない」と言ってしまいました。
3年間、イエスと寝食を共にしていました。
最終試験でペテロは大失敗をしました。
神学校なら落第です。
イエスは怒らず、教えず、優しいまなざしで赦しました。
そのペテロがここで初めてメッセージをしています。

説教の結果はこうです。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」2:37

「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」2:41

ペテロの説教により、3,000人の人が信じて洗礼を受けたのです。

今の日本の牧師は「伝道は成功しない」という確信を持って伝道しています。
「人は救われない」という確信。
自分の最初のメッセージを振り返るとそうでした。
必ず救われるという確信を持ちましょう。
初めてのメッセージは私が18歳の時。
20年前です。
高校生の反応を見て、「失敗したな」と思いました。
招きをするかしないかは私に任されていました。
「無理だ」という手応えがあったので、やめようと思いました。
終わりにさしかかって、
「これが最後のチャンスかも知れない」という思いがよぎりました。
この高校生たちは、もう生涯御言葉を聞かないかも知れない。
選択のチャンスは二度と来ないかも知れない。
心に迫られました。
今ではそれは聖霊の導きだと思います。
「ここで聞かなければいつ聞くのか?」と自問自答し、心と裏腹に私は聞いていました。
信じるという決心をする人はいますかと。
不思議なことに5人が手をあげました。
「何で?」と聞き返したくなるぐらいビックリしました。
「え?信じるんだ!」と。

「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」2:21

このペテロの確信に立たなくてはなりません。
主の御名を呼ぶ、という原点に立たなければ。
「人は信じる」ということを信じなければならないのです。

10月22日 聖日礼拝

コロサイ人への手紙 3章 1~11節
「上にあるものを求めなさい」
              柳橋宏祐神学生
 
今日のサブタイトルは「神の奥義であるキリストに結びあわされた者として」です。
パウロがコロサイの教会に手紙を書いたのには理由があります。
コロサイの教会はパウロが直接宣教したのではなく、若い教会でした。

「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。
それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。」
コロサイ1:3~6

パウロは、彼らの、キリストへの愛と信仰を聞いて神に感謝を捧げています。
この箇所に照らして自己点検をしてみましょう。
日本の、世界の、兄弟姉妹に愛を抱いているでしょうか。
自分を振り返ると、数ヶ月ずっと、私は自分の信仰と愛が全く失われていることに気付かされました。
他の教会、他の国の兄弟姉妹への愛が冷えていき、毎日を生きること、教会に来ることもおっくうになっていきました。
巣は、こんな私にも「変わる」ことを教えて下さいます。
もともと私の内には信仰も愛もひとつもないのです。
天に蓄えられている望みを知るときに、喜びが与えられます。
私は福音を忘れてしまっているか、実際は理解していないのだと気付かされました。
全ては福音の中に語られています。
イエスの福音なしに、神ご自身について知ることはできません。
神のことばを語るとき、賛美するとき、祈るとき、イエスを忘れていないでしょうか。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
ローマ1:1~4

聖書の中心はイエスキリストです。
新約も旧約も中心は福音です。
神はご自身について、福音について、聖書を通して理解するように願っておられます。
コロサイ人への手紙の中心は福音、つまり神の奥義です。
神の奥義は、隠されていたものが、明らかにされた神の真理です。
イエスを信じ、さらに知る。
イエスを通して、神を知るのです。

「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」
1:26~29

奥義を宣べ伝えることがパウロに与えられた使命でした。
キリストを宣べ伝え、人々が成人として立つこと、それが神の願いです。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」3:1

私たちはキリストと共によみがえらされました。
救われたということは、キリストに似たものに変えられていると言うことです。
もしキリストから離れていると必ず失敗します。
人を見下したり、高ぶったりしてしまいます。

人の知恵や、人の力による努力は効き目がありません。
私たちの肉は、神を喜ばせず、私たちを虜にします。
自分の罪によって裁きを受け、滅びるべき存在です。
私はかつて肉の欲に支配されて生きていました。
しかし、福音は全ての人に、神が与えて下さったよい知らせです。
神は私たちの罪のために御子を遣わされました。
主は、私たちを愛する義務も、救う責任も、御子を捧げる義務もなかったのに、一方的な愛とへりくだりによって、御子を遣わして下さいました。
それは永遠の昔から定められていた奥義です。
キリストと私たちはすでに一体です。
キリストの死は私たちのしであり、キリストの復活は私たちの復活です。
これが奥義です。

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」3:3

私たちのいのちは隠されてあるので、奪われたり汚されたりすることがありません。
イエスはよみがえられ、神の右に座しておられます。
私たちもキリストのいるところにいさせるためです。

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
ヨハネ14:2,3

天に住まいが、命が、用意されています。
それらは取り去られることはなく、隠されています。
どれほど罪を犯しても、取り去られることはありません。
キリストと同じように清く、正しく、責められることのない者へ変えられる日が必ず来ます。

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために、神の怒りが{不従順の子らの上に}下るのです。
あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」
3:5~10

福音の真理に基づいて、このように生きるように、私たちは守られています。
罪に対して一切妥協しないこと。

自分の罪の全てを悔い改めることについて、真剣になれない自分がありました。
悔い改めるべき罪を野放しにしていました。
諦める罪がありました。
自分の基準、周りの雰囲気にまかせてしまっていることがありました。

本当に求めていくということは「殺してしまう」ことです。
弱らせるだけでなく、殺していくこと。
祝福を経験していくために。
すでに受け入れられているから、古い自分を殺すのです。

古い人を捨てるために新しい人を着ていくのです。
すでに私たちは着ています。
それは、キリストと結び会わされているということです。
新しい人は作り替えられていき、真の知識に到ります。

「聖くする」のはイエスに掛かっています。
私たちの努力によるのではありません。
キリストが全てです。
キリスト以外のものに頼るとき、一見賢く見えますが、何の効き目もありません。
罪は思っているよりもはるかに重く、神の恵みはそれよりはるかに大きいのです。
本当にそれを理解するときに、赦された罪人として感謝に生きていくように変えられます。

私たちは真の知識に到ります。
今はまだ到っていません。
不安を感じたり、空しく思う時もあります。
不確かだと思う時も。
これからのことをなにも予想できません。
天に到るまでに経験しなくてはいけないものがあります。
まだ真の姿にはならず、まだ真の知識も得ていません。
でも、やがて、必ず用意されています。
望みを持って、忍耐しながら、上にあるものを求めて生きていくようにと、恵みによって導いてくださることを信じます。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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