12月25日 クリスマス礼拝

ピリピ人への手紙 2章 6~11節
「クリスマスありがとう」

罪のあがないのために、私たちが神に愛される子として自分を取り戻して神に感謝を捧げられるようにと、ひとり子を遣わして下さった日がクリスマスです。
「クリスマスおめでとう!」ということも間違ってはいません。
救い主がお生まれになったことは喜ばしいことです。
そこにある、神の揺るがない愛への感謝が生まれることが大切です。
今、世界中でクリスマスは祝われています。
創造主を信じる人々が世界には三分の一、20億人以上います。
今日はクリスマスに込められた、神のメッセージを学びたいと思います。
神のメッセージを聞いた私たちが、どう応答することが求められているかを考えましょう。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、」
2:6,7

イエスがこの世にお生まれになったことを「受肉」と言います。
神が肉体を持って生まれて下さったという意味です。
そして、人として、苦しみと悩みを素のみに負って下さいました。
日本において、天皇は戦前・戦中には人目に触れることのない存在でした。
今は被災地を訪れ、膝をかがめて話をされます。
天皇家にも福音が伝えられていると聞いています。
そのような天皇の姿勢にも、福音の影響が現れていると考えています。

神は、高いところからただ眺めている方ではありません。
飢え、渇き、苦しみ、悩みを、イエスは経験して下さいました。
だから、私たちの苦しみがわかるのです。

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」ヘブル2:17

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」4:15

イエスは「インマヌエル」と呼ばれます。
インマヌエルとは、「神が共におられる」という意味です。
神は私を理解して下さいます。
共にいて下さいます。
それは人生の中で最も大切なことです。
主は私を知って、共に悩み苦しんで下さいます。
私たちを知るために地上に来て、共に歩んで下さいました。

キリストが地上に生まれるのは簡単なことではありませんでした。
エリサベツとその夫ザカリヤは、長年子どもを与えられませんでした。
それは、親戚に当たるマリヤを励ますためでした。
私たちの人生の苦悩には意味があります。
必ず誰かの信仰の助けになります。
信仰を持って受け止めなければ、それは「ただの苦しみ」になってしまいます。
意味のない苦しみはありません。
大切なのは、主語自身からなぐさめをと励ましを受けて、苦しみを乗り越えるという経験です。

キリストの誕生は、ゴールに向かうためのスタートでした。
そのゴールとは、ご自身の命をささげるということでした。
救い主の使命は、私たちのために命をささげることでした。
これは「おめでたい」ことでしょうか。
「おめでたい」中にある主の苦しみを知るとき、そこまでして下さる神への感謝が生まれます。

罪とは、まことの神を知らずあがめもしないことです。
私たちには人生が変えられる必要があります。
私たちの内にある不平不満をも、神は知っていて下さいます。
あなたはだれか他の人のことを理解しているでしょうか。
「だれかにわかってほしい」という心から、「だれかを理解しよう」とする心へ。
誰かを愛し、理解する行動を起こすように。

クリスマスはプレゼントをもらう日ですか?それともあげる日ですか?
普通クリスマスプレゼントは、子どもが受け取ります。
そして、子どもは大人になると、プレゼントをあげる側になります。
お年玉はどうでしょうか。
私たちは、この世の中の恵まれない人の必要に応えていく心を持つべきです。
それが神の国の実現へとつながります。
プレゼントを用意するためには、受け取る人のことを考えなくてはいけません。
それを考えて、準備するところに意味があります。

「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
2:10,11

これが究極のゴールです。
全ての人がイエスを主と告白し、神をほめたたえるようになることです。
人生を暗くするのは不平不満、つぶやきです。
人生を明るくするのは感謝です。
感謝することが見えないと、感謝することはできません。
プレゼントをするには、悩む時間とお金を使います。
主はいやいやながらではなく、ご自身をささげてくださいました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ローマ12:10

全てのことには意味があります。
全ての経験は祝福に変わります。
他の人を支え、生かす経験になるからです。
そのような人生にしたいものです。
人の役に立つように。
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12月18日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章13~14節
「神の栄光をほめたたえるために(4)」

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
1:13,14

クリスマスを待ち望む待降節です。
しかし、今の私たちはもう救い主を待つ必要はありません。
では私たちにとってこの時はどのような意味があるのでしょうか。
イエスは復活の後、天に昇られたとき、再び地上に来ると約束されました。
それを「再臨」と呼んでいます。
私たちは、再臨を待ち望むことを救い主を待ち望んだ人々に重ねながら、救いが完成することを待ち望むのです。

「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」マタイ 24:14

私たちは、宣教的な教会であることが求められています。

さて、13節の「この方」とはだれのことでしょうか。
救いの計画に従って、地上に遣わされたイエス・キリストです。
私たちの前に、キリストにあって救われた人々がたくさんいます。
しかし、多くの人々はこの「救い主」と「私との関わり」を知らずにいます。

クリスマスは何の日だと思われているでしょうか。
「サンタさんの誕生日」
「靴下にプレゼントを入れてもらう日」
そうしたイベントは、もっと大切な真理を目に見えるように行事化したものです。
Merry Christmasは人間中心の見方であって、神の目線から見たらどうでしょうか。
「私が救いにあずかれたから」めでたいことかもしれません。
が、そのために払われた犠牲が目に入っていません。
イエスの使命の中心は、人の悩みと罪を負って死ぬことでした。
「有り難い」とは本来、「実際に起こることは難しい」という意味です。
それをイエスはして下さった。
だから、「ありがとう」と言うべきでしょう。
神が払って下さった犠牲と愛を知ることが、私たちに求められています。
信仰とは、救いのみわざを素直に受け止めて、「ありがとう」の心で受け取ることです。
御子が2千年前に命を捨てて下さった。
それは「私のため」であるということを受け止めて信頼するときに、生涯が変えられます。
人生が変わり、新しい命を持ちます。
「だれかのため」ではなく、「私のため」であることを忘れないでください。
多くの人は、楽しむことやパーティーに心が向いています。
しかし、クリスマスの主役は神ご自身であり、遣わされた御子なのです。
御子がして下さった愛のわざをしっかり受け止めましょう。
そのためにイエスはこの世界に来て下さったのですから。

クリスマスに演じられる「降誕劇」に出てくるのは東方の博士と羊飼いです。
「東方の博士」はユダヤ人ではない外国人です。
「羊飼い」は、ローマ帝国が行った住民登録から漏れた非定住民です。
救い主の誕生を喜び、その場に行き、礼拝したのは外国人と、社会からはじき出された者たちでした。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
ヨハネ1:9~11

「罪」とは、神を神として崇めず感謝もしないことです。
それは、神を知らないからです。
知らないことは罪深いことです。
主が地上に来られたのに、人々はその事実を知りませんでした。
イエスが命を捨てるほど愛しているのに、そのことを知らず、感謝もしない。
私のために御子が遣わされ、ゆるぎない愛が示されているのに。

人が変われない理由は、愛が分からないからです。
愛するということばを言い換えれば「大切にする」ということです。
あなたは大切にされていますか?
あなたの人生は大切にされていますか?
人格を尊重し、大切にしてくれる人がいないと、自分が大切な存在だと言うことを忘れてしまいます。
そして、目の前のことに支配されてしまいます。
「そのときに楽しければいい」と。

人から物を借りたとき、たとえば車を借りて、もしも電柱にぶつけてへこませてしまったら、「走れるから大丈夫」とは言わないでしょう。
貸した人は「元通りにしてほしい」と言うでしょう。
借りた人は弁証することになるはずです。

大切な物をなくされたり、壊されたりしたら、元通りにして欲しいと思うのは当然です。
創造主は私たちに命の息を与えて下さいました。
つまり、命を預けて下さいました。
あずかった命を大切にしないで乱暴に扱うとしたら、預けた方をないがしろにしたことになります。

大好きな人からもらったプレゼントは大切にするでしょう。
物が大切なのではなく、贈ってくれた人が大切だからです。
自分を大切にできないということは罪深い行為です。
私たちがかけがえのない存在だからこそ、主は御子という代価を払って下さったのです。

代金は、手に入れる物と見合うものでなければなりません。
払う代金によって、その人にとっての価値が決まります。
神が私のために払って下さった代価はどれほど大きなものだったことでしょう。
ひとり子を遣わし、その命をささげるほどなのです。
神の愛を理解したら、「私には価値がない」なんて言うことはできません。
それは神への侮辱です。
私たちはその愛を聞きました。

13節の「真理のことば」とは聖書の言葉です。
聖書の言葉、福音の言葉を聞き、それを信じました。
「御子の誕生と十字架が私のためである」ことを認めました。

私がイエスを個人的に救い主と明確に信じたのは中学3年と時です。
私は牧師の家庭に生まれましたから、小さい頃から当たり前のように神を信じ、従い、手伝いをしてきました。
でも、中3までの信仰は「イエスは世界の救い主」だと信じる信仰でした。
それが中3の時に、「私の救い主」として信じるようになったのです。
その年のキャンプで、宇崎先生はヨハネの福音書3章16節を読み、
「この箇所の『この世』というところにあなたの名前を入れてごらんなさい」と言われました。
それまで私は当たり前のように創造主の存在を客観的に信じてきました。
イエスは「私たちの罪」のために死んで下さったと。
私には「私の罪」が分かりませんでいた。
「神を信じないことが罪である」と言われても、私は罪が分かりませんでした。
私は毎週礼拝のためにガリ版を切り、一枚一枚印刷して、玄関を掃除し、椅子を並べていました。
それも喜んでしていました。
神を最優先にしていました。
強いられてではなく、自ら奉仕をしていました。
そんな私には罪は分かりませんでした。

中学で私は陸上部に入りました。
部活よりも礼拝を優先しました。
すると、自分より記録が悪い人が章を取ってくるのです。
大会は大抵日曜日でした。
どんなに練習しても、私の努力は賞に結びつきませんでした。
「あの賞は本当は自分の物だったはずだ」という妬みが心に起きてきました。

クラスでいじめがありました。
一人の女の子を仲間はずれにしていました。
私は「やめろよ。かわいそうだろう。」と言いました。
それが正しいことだと思ったからです。
すると、図工の教科書に落書きされました。
その子が好きだからかばうのだと。
私は間違ったことをしたのではありません。
正義感からしたのです。
でも、「とばっちりを食うのはいやだな」と心の中で思いました。

この二つのことをとおして、私の心に別の自分の願望があることに気付きました。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
ローマ7:18~21

罪の自覚。
願っているけれどもやめられない自分。
正しいことはわかっているのにそれをはばむ思いが私の心の中にあると気付かされました。
そのときに、改めてイエスを私の人生の救い主として信じました。
救いは客観的な事実ではありますが、自分の人生の中に受け入れるとき初めて、人は変えられて力を得ることができます。
それ以外に自分を変える方法はありません。

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」イザヤ1:18

この御言葉も、罪の自覚があってこそ意味があります。
罪責間がなければ救いようがありません。
心に責められるところがあるとしたら、それは神に愛されている証拠です。
人生で大切なのは、金や富や名声ではありません。
自分は大切な存在であると心から思うこと。
大切にしたい存在が身近にいることを知ること。
それが幸せになる条件です。
だから、イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。
真剣に受け止めたら、救いを約束されています。
そして、証印としての聖霊が与えられます。
聖霊は永遠の命への保証です。

この新しい会堂を建てるときに、私と責任役員は「連帯保証人」になりました。
連帯保証人は、もし借り入れた人が借金を返せない場合、代わりに返済しなければなりません。
イエスは、もし私たちが債務を負ったら、あがないをして下さいます。
ただし、イエスを信じて受け入れた人に限ります。
イエスを、私のこととして信じること。
その救いのスタートがクリスマスなのです。

12月11日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 7~12節
「神の栄光をほめたたえるために(3)」

主は、ひとり子イエスをこの世にお遣わしになりました。
神のひとり子が人間として生まれて下さいました。
それを「受肉」と言います。
人間の弱さ、喜び、楽しみ、痛み、苦しみを知って下さるために。
私たちのただ中に住み、知って下さり、大祭司としてとりなしをして下さいました。
御子のあがないによって、私たちは救われました。
主は、私たちの課題を知っておられます。
だから、私たちは大胆に、神の御前に出ることができるのです。
弱さを知った上で、それを担って下さる方を、私たちは知っています。
その方と共に生きることができるから、私たちは強いのです。

主は私たちを愛し、祝福して下さる方であるということを、学んできました。
クリスマスにイエスが誕生したというとき、幼子の時からイエスには使命を与えられていたということを忘れてはいけません。
それは、ご自分の命を十字架上でささげるという使命です。
その事実を知ってなお、「クリスマスおめでとう」と言えるでしょうか。
死ぬために、地上に生まれた幼子。
本当に「めでたい」のでしょうか。
もし言うのなら、深い意味で「おめでとう」と言わなければなりません。
母マリヤにとっても、決して「めでたい」といえることではありませんでした。
でも、それら全てを心に留めながら、マリヤは引き受けて、幼子を生み、育てました。
クリスマスの本当の意味、神の苦悩をほとんどの人は知りません。
「クリスマス、ありがとう」
この地上にひとり子を送ってくださったことに。
神のあり方を捨てて、この世界に来て下さってありがとう
ご自分の命をささげることを承知の上で、来て下さってありがとう。
と、言うべきでしょう。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
ヨハネ1:9~11

イエスが誕生したとき、ヘロデ王はこの幼子の命を付け狙いました。
そして、2歳以下の男子を皆殺しにしました。
イエスと同世代の幼子は殺されたのです。
その中で、救いのみわざが成り立っています。
そのようなことを押して、主は御業を進めて下さいました。
単に「おめでとう」と流すことはできません。

最期には、共に十字架に架けられていた罪人から、「十字架から自分を救ってみろ」と言われ、人々に「救い主として期待していたのに裏切られた」と言われました。
十字架のために来られた意味を分かっていない人がほとんどでした。
その人々に対して「父よ彼らとお赦し下さい」と、主は言われました。
心を刺されます。
人々は、自分がやっていることがどれほど神を傷つけているか気付いていません。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」Ⅰコロサイ10:31

神の栄光を現しているかどうかは結果を見ればわかります。
神への感謝が生まれるか、混乱と苦しみが生まれるか。
自分では正しいと思っていても、多くの点で間違いを犯すのが人間です。
神の御業を妨げていることにも気付きません。
「私がしていることはみこころに叶っていますか?」という問いかけが必要です。

罪とは、自己中心です。
「自分は正しい」とすることです。
間違っていると分かっていてする人はいないでしょう。
自分は正しいと思っているから、主張するのです。
その的をはずしていることが、罪です。

「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」1:10

ついに救いが実現します。
個人の罪がゆえに切断された交わりが回復し、もう一度一つに集められます。
それが御子の使命です。
私たちはちりぢりバラバラでした。
その背景にあるのは、創世記に記されているできごとです。

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。
さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」
創世記11:1~9

人は、罪のゆえにバラバラになり、地の全面に散らされました。
これが聖書の示す世界観、人間観です。
人がそのような状態に置かれていることを理解しなければなりません。
最初、全ての人の言葉が通じていました。
今は何万という言語があります。
フィリピンだけでも、タガログ語の他にワライ語、セグアノ語など10以上の言葉が話されています。
なぜでしょうか。
神が言葉を混乱させたからです。
それは、罪の結果です。
神に逆らう社会を構築しようとした野望を壊したのです。

神は人々を散らし、言葉を通じないようにしました。
それは、言語上通じないということだけでなく、同じ言語でも意志が伝わらないということも含みます。
もしも自分の言ったことが100%通じたら、それはすごいことです。
人は、自分の興味関心で人の話を聞きます。
無意識にスイッチが入ったり切れたりします。
普段の会話でもそうです。
「相手は何を言おうとしているのか?」と思いながら聞くことは難しいのです。
神学生の頃、アヤベ・ヘンリーという宣教師の説教学の講義を受けました。
先生は、
「聞き手がどういう聴衆かを知っておかなければならない。」
「聴衆は自分の関心のあることだけを聴く。」
と言われました。

自分の目の前にいる人は、私に何を伝えようとしているか。
それが分からなければ、「何が言いたいのですか?」と聞くこと。
聞こうとする姿勢がなければ、思い込みに囚われます。
それも罪の結果です。

言葉は通じないようになっています。
バラバラの私たちを、キリストイエスにあって、もう一度ひとつに集めることが救いの目的です。

ジグソーパズルをしていたときのことです。
1枚の絵は、多くのピースで構成されています。
ピースがバラバラになると、絵は失われます。
「あ、罪はこういうことだ!」と思いました。
バラバラになったパズルの元の絵はなくても、一度見た人は想像できます。
イエスがもう一度つなぎあわせて、もとの世界を作り出すことが、救いです。
教会は、イエスと通してもう一度世界をひとつにする神の働きの最前線にいます。

どうやって神は私たちをひとつにするのでしょうか。
神は、私たちを神の子として、神の民としてくださいます。
同じ主に従っていく神の民に群れを形成して管います。
今も世界中にその群れが広がっています。
バラバラになった神の言葉を、聖書によってひとつにしてくださいます。
言語は違っても、同じ聖書を学ぶことで同じ価値観を養われます。
イエスを中心として神のことばを持ち、一つに集められています。
これが福音の全体像です。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

私たちは絵を完成させるべく、世界に福音を伝えます。
救いは、私たちの結びつきです。
だから、イエスは

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

と言われたのです。
本来の絆で結ばれなさい、と。

では罪とは何でしょうか。
罪は絆を怖そうとします。
不信、不平、不満の種をまいていきます。
絆を壊すのは神のみこころに反することです。
どんな課題があっても、絆が強まるようにすることを、主は望んでおられます。
この世界には、絆を深める働きと、怖そうとする働きとのせめぎ合いがあります。
困難を通して、されに深い絆が結ばれるようにと、主は願っておられます。
そこに心を留めていく必要があります。

教会は、失われた絆を修復し、結びつけることで、神の愛が実現することを目指します。
その結果、神の栄光を褒め称えることになるのです。

バラバラだったものがひとつになる。
一方、世の弱りが迫ってくると、敵対が起こると聖書に書かれています。
その中で、私たちは、回復するプロセスを担っています。
そのために、御子は神のあり方を捨て、仕えるものの姿を取って下さったのですから。
私たちも仕えるものになる必要があります。
人生を通して、神の栄光が現されるように。
私を通して、絆が結ばれるように。

12月4日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章3~6節
「神の栄光をほめたたえるために(2)」

なぜ神を褒め称える必要があるのでしょうか。
日本人の99%は創造主を認めていません。
信心はあります。
古い樹木があると、「ご神木」としてあがめます。
清らかな湧き水を水神として祀ります。
人知を越えることや不思議な力を感じると、それを崇めて「神」のエネルギーをわけてもらおうとします。

「神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」1:6

「恵み」を理解できるときに、私たちは神をあがめ、褒め称える者になります。
それができないのは、「恵み」を知らずに生きているからです。
目に見えない、背後にある者に注意を払わなければ、恵みはわかりません。

「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」
ローマ 1:19~21

神は目に見えません。
だから、人間は目に見える形を作ろうとします。
たとえば、この空間には空気があります。
空気は目に見えませんが、そこにあることを確認することはできます。
みなさんも、理科の実験をしたことがあるでしょう。
神の目に見えない本性も、「明らか」だと書かれています。
どうすればわかるのでしょうか。
「被造物」を調べれば、だれの目にも明らかに分かるというのです。

人体・宇宙のすばらしさを考えてみましょう。
人の胸には、握りこぶし大の心臓があります。
一生、止まることなく動き続けます。
私たちは無意識に呼吸しています。
酸素を取り入れて、肺で二酸化炭素をヘモグロビンから切り離し、吐きだしています。
ヘモグロビンは酸素を送ります。
意識せずに、死ぬまでそれをしています。
体中、血管だらけです。
全ての血管をつなぐと、9万キロから10万キロになるといいます。
さらに血液の中には、自己と違うものを殺すキラーT細胞があります。
これが免疫システムです。
命はすばらしい叡智の固まりだと気付きます。

薪を並べて火を付けるとどのぐらい燃え続けるでしょうか?
太陽は、何年燃え続けているでしょうか?
何千年も、ずっと燃え続け、エネルギーを発し、光と熱を届けてくれています。
恵泉ファームでは地下水をくみ上げるためにポンプを使っています。
ずっと使っていたポンプが最近壊れてしまいました。
人間が作るものはそのようなものです。

命の仕組み、自然の成り立ちに目を留めれば、それは偶然の産物ではないと分かるはずだ、と聖書は言います。

「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」1:21

「創造主」を何となく感じていても、踏み込まない。
全てのよいものを頂いているにもかかわらず、神を神としてあがめないために、その無知な心は暗くなりました。
そして、被造物を祀って崇めるようになりました。
まさに日本人がしていることです。
神がどれほどの愛を与えて下さっているかがわからない。
分かっていないからこそ人生に行き詰まっていることに気付かないのです。

「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」1:25

神の恵みが分からないと、「どうすれば自分が楽しいか」という欲望に囚われるようになります。
度を超した欲が貪欲です。
いわゆる、食欲のような「欲」とは違います。
「おなかがすいた」と感じなければ、物を食べなくなり、体は栄養を失って健康を損ないます。
それは必要な「欲求」です。
それが度を超すと肥満になります。

神は祝福して下さいました。
大事なのは、私たちがそれを受け止めているかどうかです。
受け止める時に、人生は変わります。

小さな赤ん坊の頃の記憶がある人はほとんどいないでしょう。
それは神の恵みです。
もしもそんな記憶があったら、私たちは親に頭が上がりません。
乳児の親は、1日24時間一緒にいて、ほぼ100%子どもの為に生きています。
その労苦を記憶していたら、子どもは親に負い目を感じてしまいます。
親のありがたみは、自分が親になったときに気付くものです。

私が子どもの頃、乳歯が抜けないまま永久歯が生えてきてしまいました。
両親は心配して、歯列矯正を受けるように、医者に連れて行ってくれました。
その支払いの場で聞いた、「20万円」という言葉が今も耳を離れません。
当時、家計の状況を考えると、子どもの私でもそれがどれほどの金額かわかりました。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」1:3

クリスチャンの人生は、神の祝福を見つけていく人生です。

ある年、私は駅伝大会の選手に選ばれました。
それも第一走者です。
ところが、試合直前の練習中に靴が破れてしまいました。
私は、新しい靴を買って欲しいと言い出すことができませんでした。
あの、「20万円」の負い目があって、親に金銭的な負担をかけたくないという思いがあったからです。
その夜、私は破れた靴を縫い合わせて直しました。
いよいよ駅伝大会の本番。
走り始めてすぐに、縫い合わせた靴は口を開けてしまいました。
足を引きずりながら走る私は、すごくみじめな気持ちでした。
その後、私は、あれは両親の「愛」だったのだと気付いたときに、気持ちが解放されました。
そのまま受け取れば良かったのだと。

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」1:6

恵みの栄光がわかり、それを受け取り、感謝を捧げるとき、人生は喜びに満たされます。
神の愛が分かる時、愛の神を、神としてあがめるように変えられます。
神を神としてあがめることが、神を愛することです。
感謝をささげる心が大切です。

「いつも喜んでいなさい」と言われても無理ですという人は多いです。
「だって、感謝できないことがこんなにもあります」と。
私たちは不平を見つけ出す達人です。
祝福をみつける訓練に欠けています。
苦しみや悩みが全くない人はいません。
同時に、全て苦しみばかりの人もいません。
両方にちゃんと目配りできることが大切です。
喜びと感謝をみつける達人になる訓練が必要です。
8勝7敗の人生でいい。
人生の目的は、神をほめたたえて生きることなのです。

11月27日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 3~6節
「神の栄光をほめたたえるために」

神の救いのご計画について、クリスマスに向けて学んでいきたいと思います。
私たちの人生は何のためにあるのでしょうか。
何を目当てに生きているのでしょうか。
人生における三つの問い、
 ①人はどこから来たのか
 ②人はどこへ行くのか
 ③人は何のために生きているのか

これらに聖書はなんと答えているでしょうか。

聖書は、創造主がおられ、私たちは目的を持って神に造られたのだと語っています。
神の、私に対するご計画は何なのかが大切です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」イザヤ43:4

創造主は一人一人を愛しておられます。
つまり、私たちを大切な存在として意識して扱っておられます。
愛されている私たちは、その愛を受け止めて、その会いに応えて生きること。
愛が分かったときに褒め称える者になることができます。

どのようにしたら神を褒め称えられるのでしょうか?
神のご計画と、そのために神がして下さったことを知る必要があります。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」
ローマ1:17~21

聖書には、神の愛とともに、その一方で神の怒りが記されています。
これは「矛盾」しているのでしょうか。
日本には「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
神は、私たちから祝福を奪う「罪」に怒っておられます。
その罪から離れて、神の愛に生きることを望んでおられます。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」ヘブル12:7

子を愛しているからこそ、親は自分の子を叱ります。
それは愛から来る怒りです。
もし放置したら、祝福からこぼれ落ちてしまうので、神は悔い改めを望んでおられます。
悔い改めとは、これまでの生き方を改めることです。

光の前に立つと、光が見えます。
そして、私の後ろに影ができます。
神に向かうとき、罪は後ろになります。
光に背を向けると、目の前に暗やみが広がります。
罪と過ちを知って、神に向かって生きること、それが信仰です。
光の中を歩むことで、罪があがなわれていくのです。

神が怒られる理由は、「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく」沈み込んでいくからです。
神をあがめ、感謝していく生活がクリスチャンの生き方です。
礼拝し、讃美するのは、神のすばらしさを知っているからです。

人が幸せになるには、感謝の心を持つのが秘訣だといわれます。
そのためには、感謝がわかることが不可欠です。
多くの人は、不平不満の種を探しています。

幼い頃に父にもらった本「少女パレアナ」のなかで、こんな話がありました。
パレアナは骨折して、どうして自分ばかりこんな目に遭うのかと不満に思っていました。
そんなパレアナに、父親が「よかった探しをしよう!」と提案します。
よいことは、どうしても「当たり前」のことになってしまいがちです。
ところが悪いことはいつまでも心に残ります。
嫌なことばかりに目を留めると人生はすさみます。
人生の半分は悪いことがあるかも知れませんが、少なくとも半分くらいはいいことがあるはずです。
大事なのはどこに目を留めるか、です。
良いことは意識しないと見つけられません。
よくないことは意識しなくても目に入ってきます。
その本を読んでから、いやなことがあったら、よいことも探そうとするようになりました。
人を批判したくなるときには、その人のいい面も探そうと心がけています。
そうしないと、不満はどんどん大きくなります。

強調文n style="color:#0066FF">「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」1:3

愛すべき存在の中に、見過ごせない罪をどうしたらよいのか。
神は、そこから救うために御子を送ってくださいました。
神は罪を見過ごすことはできません。
罪を犯したら、そのむくいを受けなければなりません。
しかし、悔い改めたときに、神は赦して下さいます。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」1:4

人間が神を見失い、自分の満足のために生き、滅びに向かっているのを見て、主はもう一度ご自分の子にしようとして下さいました。

私たちはこの場所に新しい会堂を建てました。
2006年のことです。
田んぼを埋め立てた場所には何もありませんでした。
設計士が設計図を書いてくれました。
A案から始まって、確かP案ぐらいまでいったと記憶しています。
何度も設計図が書かれました。
設計図が完成した段階で、この教会は「建った」と言えます。
ゴールを知って、プランができたら、そのとおりになっていきます。
神は、壊された人生を立て直すプランを立てて下さったのです。

「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」1:5

建築中、週に一度、ミーティングをしました。
修正のためです。
設計図を作ったからといって、自動的に建物が建つわけではありません。
思いがけないことが起こって、工期が伸びたり、変更もあります。
でも、ゴールに向かって1歩ずつ進んでいきます。
それが「旧約」の過程です。

「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」1:6

自分の人生において、愛され、祝福されていることを知って、主をほめたたえる者となるのです。
「神が愛して下さった」だけでは中途半端です。
私たちも、神を愛する者となるとき、互いに愛し合い、交わりの中での喜びを知ることができます。
そうすることによって、神への感謝が増していきます。
それが成長です。
人生には様々な課題がありますが、そこに主の御手があり、感謝に満ちあふれることができるのです。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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