12月27日 早朝礼拝

詩篇 115篇 9~15節
「主を恐れる者」

2015年の最後の聖日。
一年の締めくくりです。

「イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。
主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、
主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。
主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。
あなたがたが主によって祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。」
115:9~15

12節のみことばに、キリストを与えられたクリスマスの意味を見ることができます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

主は、その愛の証としてイエスを送り、私たちをもう一度神の子として下さいました。
これこそが、

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」エペソ1:3

と書かれている「祝福」です。

主は、「私」にゆるぎない価値を見いだし、御子さえも惜しまずに与えるほどの価値があると思って下さいました。
人がどう見るか、ではなく、神の目による価値です。
私たちが決める「価値」は、カッコイイ、かっこわるい、というような相対的なもので、変化していく価値観に基づいています。
しかし、私たちに価値を認めて下さる主は天地を造られた方です。
その方から、「愛している」というメッセージを受け取ることが大切です。

主は、「イスラエルよ」「アロンの家よ」と呼びかけたのに続いて、「主を恐れる者たちよ」とよびかけ、祝福を約束してくださっています。
イスラエルやアロンの家は、神に選ばれた者たちです。
神は、そこに「主を恐れる者」として、あらゆる地域、人種の人を加えて下さいました。

しかし、全ての人が祝福を受けられるわけではありません。
様々な事情で教会を休んでいるかたに、教会からニュースを送るようにしています。
でも、時々返送されてくることがあります。
「あて所に尋ねあたりません」とスタンプが押されています。
送っても、受け取り手がいないと届きません。
神の祝福は、喜んで受け取りたいと思わなければ受け取れないのです。

先日、荷物が送られてきました。
受け取るにはサインが要ります。
サインは、「受け取ります」という意志表示です。
送られてきたものを拒否することもできます。

神に選ばれた者=主を怖れる者=主に信頼する者です。
これらは相反することでしょうか?
「主を怖れる」とは、「恐怖を感じる」ということではありません。
「その存在を、ゆるぎない、尊いものとして見る」ということです。
主は、祝福しようとしておられる、ということを信頼することです。

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」箴言1:7

「知恵と訓誡は欠かせない」ということを知っていることが「知恵」であり、「主を恐れること」です。
そのとき、主は助けとなり、盾となってくださいます。

日本人は、日本で、日本の文化を吸収することで「日本人」になります。
もし日本人から生まれても、アメリカで育つと、言葉も、考え方も、食べ物も、アメリカ人と同じになります。
かつて西教会に集っていた日系ブラジル人の方たちも、外見は日本人と同じでも、文化は全く違っていました。
毎日の生活で、何を見聞きし、吸収するかで、私たちは違ってきます。
神に祝福されるためには、神を恐れ、神の価値観を身につける必要があります。
それには、聖書を読み、聖書の価値観を身につけましょう。
そのとき、主は助けとなり、盾となってくださいます。
信頼し、神のことばを聞く者を、主は祝福して下さいます。
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12月20日 クリスマス礼拝

エペソ人への手紙 1章 13~14節
「聖霊なる神による救いの保証(今クリスマスを生きる)」

クリスマスの時期、私たちはお互いに「おめでとうございます」と言い合います。
では、神様には何と言うべきでしょうか?
「クリスマスありがとう」
でしょう。
御子というプレゼントを、感謝の心、素直な心で受け取ること。
クリスマスの中に、表された髪のメッセージがあります。

御子が人としてお生まれになったことにある、神のみこころは、「神は私たちと、あなたと、共にいて下さる」ということです。
神が私と共に、人生の中に、全ての経験の中に、共にいて、共に歩んで下さる、ということを受け取りましょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

というみことばのとおり、神は、愛の証として御子を遣わし、私たちをもう一度神の子にしようと考えられました。

ものの価値の基準は値段で計ることができます。
私たちは、物を、代価を払って手に入れます。
「欲しいな。」と思うと、私たちは値札を見ます。
値札を見て「お買い得」と思うこともあれば、「無理だ」と思うこともあります。
典型的なのはオークションです。
店では物の値段が売り手によって決められていますが、オークションでは買い手が値を付けます。
1円で始まっても、落札されるときには何万円もすることもあります。
もともとの定価よりも高値が付くこともあります。
そこに価値があると見いだした人は、他の人が「え!?」と思ってもその金額を支払います。
欲しい物を獲得したいから、払うのです。

主が、私たちをもう一度買い戻すために、どれほどの価値を見いだされたことでしょうか。
そのしるしとして、神は最も大切なひとり子の御子を代価として払われたのです。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
ピリピ2:6~8

人は、「神には私たちの苦しみや悩み、痛みは分からないだろう」と考えます。
だから、イエスは、私たちと同じように全てを経験して下さいました。
ここに神の愛が示されています。

「私なんかには価値がない」と思うのは、神を否定することです。
「ありがとう」という心を持って、受け取ることが大切です。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」ヘブル13:5

環境は変わります。
人は、一度は「欲しい」と思っても、「今は必要ない」と思うようになります。
大学時代にこんな話を聞きました。
「子どもが物に執着しているとき、それを無理矢理取り上げるよりも、もっと善い物を出した方がいい。そうすればそれを手放す。」と。
心は移り変わりやすいのです。
だから、「神は私を愛していたかも知れない。昔は私には○○もできたが、今は神の役に立てなくなった。だから愛される価値を失ったのではないか?」と思ってしまいます。
自分で自分の価値が見えなくなる時でも、主は「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われます。
先程のみことばは、

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」13:7

への流れの中で語られています。
人の評価、世の評価よりも、神のことばにより頼んで生きることが「クリスマスを生きる」ということです。

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
1:13,14

ここには「救いの約束」が書かれています。
福音を信じたときに、事実あなたの為に神は薬草を成就して下さいました。
その救いは2千年前に成就しています。
それを受け取ることが必要です。

今日は、礼拝後愛餐会と祝会が予定されています。
参加される皆さんは、もうすでにプレゼントを持ち寄っています。
では、そのプレゼントを、もう受け取っている人はいますか?
いませんね。
プレゼントはすでに用意されていますが、そのときが来て、そこに参加して、受け取ったときに、やっと自分のものになるのです。
同じように、救いはすでに完成していますが、「救いをプレゼントします」と言われても、そのときに受け取りに来なければもらうことはできません。
「ください」と、求める心を「信仰」と言うのです。
神が「与えたい」と言われる物を「ください」と求める思いが信仰です。
もらいにいくこと、「ください」と手を差し出すこと。
主は、「信じたこと」により、個別にプレゼントを与えてくださいます。

そして、保証として「聖霊の証印」を押して下さいました。
聖霊は、「御国を受け継ぐこと」の保証です。

よく「借金の連帯保証人になるな」と言われます。
借金をした人の事業がうまく行かなくなった時に、責任を捕らなければらないからです。
主は、私たちの全ての罪を赦し、永遠の命を与え、御国を受け継ぐ者としてくださいました。
それが、「神の子にされた」という意味です。
そして、私の人生の連帯保証人となって下さいました。
主は、ただそこにいて下さるだけではありません。
人生の責任を、共に負って下さいます。
私たちのことを、ご自身の問題として考えてくださるのです。

クリスチャンは、聖霊の導きを感じながら生きていくことが必要です。
それは、聖霊による知恵を求めることです。
「保証」は自動的に与えられるものではありません。
「言われなくてもやって欲しい」と求める人がいますが、その人のためによかれと思ってしたことには「余計なお世話だ」と言ってくることもあります。
人間は自己中心です。
自分の願っていることはやって欲しいけれど、願わないことはして欲しくないのです。
しかも望むことはコロコロ変わります。
私たちは、探し、求め、叩くことが大切です。
「助けて欲しい!」という言葉を、神は求めておられます。
神がそばにおられることを意識して、相談することを待っておられます。

「御国に入ることは保証されている」のならばもう大丈夫!と安心してはいけません。
私たちはそれにふさわしい者にならなければなりません。
神は、私たちが成長できるようにと、聖霊を遣わして下さったのです。
言ってみれば「アフターサービス」です。
神の子として、身につけるべき資質があります。


「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
ガラテヤ5:22~25

ここには「御霊の実」として9つの資質を述べています。
これらは、人と接する中で、対人関係の中で身につけるべき資質です。
それぞれに「の心」という言葉を付け加えてみてください。
それらの「心」を身につけると、人生は祝福されます。
みなさんは、どんな人に共にいて欲しいでしょうか?
主は、私たちを、そのような人に近づけるようにしてくださいます。
ひとつひとつ、身につけていきましょう。
私たちに、初めから身についているのではないのです。
主は、人生の経験を通して、身につけられるように、聖霊を通して共に歩んで下さいます。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」というみことばはその保証です。
神に信頼して人生を生きていくことこそが、「今クリスマスを生きる」ということなのです。

12月13日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章 7~12節
「御子なる神による救いの成就」

クリスマスは、神が人となられたことを覚える日です。
なぜ神が地上に来られなければならなかったのか。
主の救いのご計画について考えるときです。
御子によって完成した救いの御業を見ていきましょう。

① 私たちの救い

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」1:7

聖書の教えは、ヨーロッパ→アメリカ→日本とたどって届きました。
アメリカ経由の信仰理解には、「個人の救い」が色濃くなっています。
個人の救いは基本ですが、聖書は「私たち」という救いのありようを示しています。
私たちは個人的な事柄として、信仰を理解していますが、聖書は

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」使徒16:31

と、教えています。
個人的、と同時に、もっと広い視野でとらえる必要があります。

救いの恵みは、血による贖いです。
本来私たちが負うべき罪の代価を、御子が払ってくださいました。
救いを理解するには、あがないが必要だということを理解しなければなりません。
初めて教会に来た方は、「人はみな罪びとだ」と言われると、
「罪人?失礼な!私は何も犯罪を犯していない」
と思われるかもしれません。
「天地を作られた神の前に罪がある」という自覚が必要です。
どのように自覚したらよいのでしょうか。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」
ローマ1:20,21

「悪いことをした」ということが罪なのではなく、「本来認めるべきものを認めず、捧げるべきものを捧げない」的外れな生き方が罪なのです。
主は、私が生きていくのに必要な命の仕組み、環境をすべて整えてくださいました。
なのに、自分で生きているように思っていること。
「生かされている」という理解が欠けていることが罪なのです。

こんな話があります。
教会学校で食前の祈りを覚えた子どもがお祈りをしました。
すると、お父さんがこう言いました。
「このご飯のために、お父さんは働いているんだよ。お父さんに感謝すべきじゃないのかな?」
働いた人の収入によって、料理してくれた人のおかげで、食事は食卓に並びます。
それだけではありません。
スーパーに食材を並べた人、栽培して、加工した人、運搬した人がいます。
それを「あたりまえ」と思っていると、感謝の心がなくなってしまいます。
そして、もっとも大切なことを忘れています。
世界にあるすべてのものを造ってくださり、与えてくださった神への感謝です。

「罪」は、「私は自分のことは全部自分でできる」と考えることです。
生きていけるように準備してくださっている神の御手に目が留まらないことが、罪です。
神に感謝して生きられるように、主は贖いをしてくださいました。

② 罪の赦し

それは、私たちを「ご自分の子にするご計画」でした。
そのために、御子の地による贖いと罪の赦しを与えられました。

③ 御国を受け継ぐ者に

私たちはやがて「神の国に入る」と考えています。
聖書はここで「受け継ぐ」と書いています。
なぜこの言葉を使っているのでしょうか。

「子にする」とはどういうことでしょうか。
子は親のものを受け継ぎます。
名前、事業、財産、場合によってはお墓もそうかもしれません。
私たちは「神の持つもの」を受け継ぐ者になりました。

「救い」によって、私たちは、罪を赦されて天の国に入ることができます。
それは、「神の持ち物を私たちが受け継ぐ」ということだというのを忘れてはなりません。

私たちは「神の性質」を受け継ぎます。
親子は似ています。
外見はもちろん、食生活、言葉遣い、癖、しぐさが無意識に身についています。
一緒に生活する中で受け継いでいるのです。
良いものも、良くないものも。
神は、私たちを、御国を受け継ぐ者にして下さいました。
私たちが神に似ているところは何でしょうか?
それは「賜物」です。
賜物とは、能力や才能を意味しているのではありません。
人に応じて分け与えられた神のすばらしさです。
「私には賜物なんてない。」
と言ってはいけません。
各々が神のすばらしい特質の一部を受け継いでいます。
「どんなすばらしいものを受け継いでいるのだろうか?」
それがわかると、生涯主を褒め称えて生きることができます。
私を通して神の恵みを表すことができます。
「私は何を受け止めてるのか」
「受け取ったものを用いて、どのように神の栄光を表すか?」
大切なのは、無いものではなく、あるもので主の栄光を表すことです。

「 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」1:10

私たち=教会です。
ばらばらなものが一つに集められるイメージを持って下さい。
ジグソーパズルは、ピースが組み合わさってひとつの絵になります。
バラバラではどんな絵か知ることができません。
私たちはひとつになって、神のすばらしさの全体像を和します。
救われた人、ひとりでは神の栄光を表せません。
ピースの中には、「輝き」のないピースもあります。
地面とか、空とか、特徴のないピースです。
でも、そのピースも大切です。
全体を表すためには、欠けてはならないものだからです。
神と人との絆を失った、自己主張ばかりしているピースを、主はイエスを通して集め、個性を表しながら、神を表せるようにして下さいました。
教会にはいろんな人がいるからこそいいのです。
その姿を通して、世は主をしるようになるのです。
「私が救われる」と同時に「他の兄姉と交わり、次のピースを見つけ出すことが大切です。

ザアカイは、キリストと出会って変わりました。
イエスは、そのときに

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

と言われました。
本来の交わりを回復すると、新しい祝福の絵が広がります。
人々が加えられることによって、教会が、より幅広く神を証できるようになります。
救いの計画を実現するために、御子は来られました。
私が受け継いでいる賜物は何か?
考えていきましょう。

12月6日 早朝礼拝

エペソ人への手紙 1章 3~6節
「父成る神による救いのご計画」

今日は、三位一体の神がどのように救いを系毛串、実現し、与えて下さったのかを学びましょう。
賃値を造られた主を知るためには何が必要でしょうか?
私たちが探求する前に、神がご自身を明らかにして下さること=啓示が必要です。
啓示にはふたつの種類があります。

①一般啓示

世界を、自然を、命の仕組みを見るときに、その背後にそれらをお造りになり、維持しておられる「叡智ある存在」を想像することができます。
天体を観測すると、現代科学の知識を越えたものがあって、それが造られ、保たれていることがわかります。

②特別啓示

聖書を読むことによって、人間に分かる言葉を通して神を知ることができます。
聖書が証言するイエスの公生涯そのものから、神を知ることができます。

天地を造られた神がおられることは、天地を見れば分かります。
日本人も「自然に神が宿る」と考えています。
しかし、神と私たちの関係は一般啓示だけからはわかりません。
だから、聖書を丹念に調べることが大事なのです。
聖書は、救いのために、歴史の中で御業を示された記録だからです。

「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」
1:2,3

神は祝福を与えるお方です。
「天にある、全ての祝福をもって」すでに祝福して下さっています。
祝福されているのに見えない。
耳があっても聞こえない。
花があっても嗅いでいない。
慣れてしまって見えない。
・・・
大事なのは発見することです。

ノーベル物理学賞を梶田さんが受賞されましたが、それは「ニュートリノには質量がある」ということを証明したからです。
これは物理学の新しい発見でした。
「発見」というのは、ないものを見つけることではありません。
すでにあるけれど、気付いていなかったことを発見するのです。
発見できなかったのは、目に留めてこなかっただけです。
私たちが、「すべてを造り、維持しておられる方がいる」ということに気付くのは大発見です。
発見するものはすでにあるものです。
ないものは探せません。
あるけれども見えない、気付かないものを理解することです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1

神の祝福に、目が開かれる必要があります。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
1:4,5

主は計画を持っておられます。
祝福の計画があるのです。
神はビジョンを持っておられます。
祝福を与えるように。
それは一本道ではありません。
なぜでしょうか?
たとえ失敗してもおしまいにはならないようにするためです。
私たちは道を誤ることがあります。
神が定めておられるのはゴールです。
そこに至るプロセスは変更を余儀なくされることがあるのです。

神の子どもとして、もう一度御前に生きられるようにと、主は計画を立て、祝福して、方向を変えるために働いて下さいます。
神は、私たちと関わって下さるのです。

「教える」とはどういうことでしょうか。
正解を教えればできるようになるか、というとそうではありません。
情報を身につけるようにすることが大事です。
神の子として祝福された人生を送れるように、主は計画して下さっています。
「そうは思えない」という状況にも直面します。
そこにも意味があり、そのことを通して神の愛を知っていくことが大事です。
全ての経験には意味があります。
無益なものは一つもありません。
意味がないと決めつけると、学ぶべきことが分からなくなります。
苦しくても、主の復活を心に覚えていきましょう。

11月29日 40周年記念礼拝

ヨハネの福音書 21章 1~14節
「網は破れなかった」
      浜松福音自由教会 吉井寛昌師

久しぶりに西教会を訪れて、浦島太郎のような気分です。
懐かしい方もおられますが、全く知らない方も多くおられます。
教会が成長していることを感じます。
教派神のことばを伝えたいという思いで来ました。

こんな話があります。
住宅街の一角にある一見の様子がどうもおかしい。
煙があたりに漂って、焦げ臭いにおいがする。
隣の人が異変に気付いて消防署に通報します。
玄関をノックしても留守のようです。
すると、中から悲痛な声が聞こえてきます。
“Help, fire! Help, fire!”
という声です。
「人がいる!ぐずぐずしていられない!」
でもドアが開きません。
消防署員がこじ開けると、煙がもうもうと出てきました。
窓辺に鳥かごがありました。
鳥が’Help!’と叫んでいたのです。
もしもの時のために、飼い主が教えておいた「人間の言葉」を叫んで、救われました。

人の罪の裁きから救うのは神のことばです。
神のことば通りに生きるなら、救われます。
人の言葉は、人間を根本的に救うことはできません。
人を救うのは神のことばです。

ある歴史学者が、人類史上で最も大切な出来事を3つあげるなら、つぎの3つだと言いました。
①神が世に来られたこと=キリストの誕生
②神が死なれたこと=キリストの十字架
③死んだ神が生き返られたこと=キリストの復活

今日学ぶのは、この復活後の出来事です。

40日間、復活したキリストは地上を歩まれました。
すでに弟子に二度現れたキリストは、3度目にテベリヤ湖畔に現れました。

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:1,2

主に従うことに失敗した弟子たちでしたが、天使の言葉に従って湖に来ていました。

「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」ヨハネ16:7

しかし、本当に彼らは天使の言葉に従ったのだろうか?という気もします。
復活の主とお会いする準備をしていればよかったのですが、ペテロは「漁に行く。」と言い出しました。

「シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」21:3

他の弟子たちも一緒に漁に出て行きました。
彼らは昔の漁師の仕事に戻ってしまっています。
キリストに、「人間を捕る漁師に」と召されていったのに。
漁の結果は残念なものでした。

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」21:4

そこにイエスが現れました。
が、弟子たちには分かりませんでした。
主を見ても、分からなかったのです。
するとイエスの法から呼びかけて下さいました。

「イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ。食べる物がありませんね。』彼らは答えた。『はい。ありません。』
イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」
21:5、6

イエスはすべてお見通しです。
弟子たちは漁のプロなのに、「見知らぬ人」の意見に従っています。
主の言葉に従って行動するなら、責任は主が取ってくださいます。
だから、従うときには勇気を持って従いたいと思います。
そのとき、ヨハネが気付きました。

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。」
21:7,8

ペテロはヨハネの言葉を聞いて、湖に飛び込みました。
ペテロらしい姿です。
理性を失って慌てていたのでしょう。
普通ならば服を脱いで飛び込むはずなのに、服を着ています。
でもそれは、「裸では主の前に出られない!」というペテロの気持ちの表れです。
聖なる方の前に出る時のエチケットだと考えたのです。
さらに、ペテロは泳いで陸地に上がりました。
一刻も早く主にお会いしたかったからです。
それほど主を愛していたのです。

「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
イエスは彼らに言われた。『あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。』
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。」
21:9~11

陸地では、すでにイエスが魚を焼いていました。
パンもありました。
イエスが朝食を準備しておられたのです。
さらに、今取れたばかりの魚を持ってくるように言われました。
イエスの優しさがわかります。
主は、いつも必要を満たしてくださいます。
イエスは、霊的なことにしか関心がないのではありません。
肉体的な上にも応じてくださいました。
夜通し働いて疲れている弟子たちの健康もお見通しでした。
だから、私たちは自分のことを心配する必要はありません。
主がしてくださるから、安心して歩めばいいのです。

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
マタイ6:31~33

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」第3ヨハネ 2

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」第2コリント9:8

主は私たちにあふれるほどの恵みを与えていて下さいます。

弟子たちがここで学んだことは3つあります。

①愛


祈ることをせず、この世の仕事に戻っていた弟子たちを、主は叱られませんでした。
それどころか、食事を与えて下さいました。
愛知県で有名なモーニングサービスのようですね。
実は私は一度も食べたことがないのですが。

②信仰

「みことばに従い、網をおろしてよかった」
と、弟子たちは思いました。

③復活の体験

復活された主が、自分たちと共に食事をされている。
この経験は、弟子たちのこれからの人生に大きな影響を与えています。
彼らが捕った魚は153匹だと書かれていますが、この数字に特別な意味を読み取る進学者もいます。
ヒエロニムスは、当時知られていた魚の種類が153種であったことから、「全ての魚」すなわち、「全人類」を象徴しているといいます。
いずれにせよ、イエスは魚の居所を知っていて教えられた…のかもしれません。
いや、もしかすると、あらかじめ魚に命じて、そこに集めておられたのではないでしょうか?
主は私たちも助けて下さいます。
ペテロが初めてイエスに会ったときもそうでした。

神の祝福は人の考えを越えて起こります。
伝道も同じです。
結果を考えないで、宣教命令に従っていけばよいのです。
網は破れることがありません。
イエスからの無言の励ましがあります。
不完全でも、失敗しても、主はそこを見られませんでした。
よい所をしっかり見つめて、将来完成する姿を見つめて接しておられます。

ある小学校に女の子がいました。
教室の一番後ろの席で、クラスメートの背中を見て考えていました。
「あの子は優しい。
 あの子は足が速い。
 あの子はかわいい。
 あの子は頭がいい。
 …」
それぞれに良いところがありました。
ただ、自分にはよいところがないということに気付いてがっかりしました。
家に帰ってお母さんにそのことを話しました。
お母さんは、
「○○ちゃんは人のよいところを見つけるのが得意ね。
そういうところが大好きだよ。」
と言ってくれました。

主も、一人一人をごらんになって、成長した未来の姿を見ておられます。
神は、欠点を叱責するのではなく、良いところに注目して下さる方です。
私たちを愛の目で見ておられます。
イエスの目を持って、お互いを見ましょう。
そのときに愛の奇跡を見ることができるでしょう。
主イエスは十字架で愛を示して下さいました。
私たちも一歩前進しましょう。
「よくやった、忠実な僕だ」
と言われるように。
余生は「あまりの人生」ではありません。
「与えられた人生」与生です。
みなさんにも、最高な人生を歩んでいただきたいと思います。
プロフィール

ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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