12月28日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 39~45節
「みことばは必ず実現する」

イエスとマリヤ。
エリサベツ・ザカリヤとバプテスマのヨハネ。
両者にどんなつながりがあるか、見落としがちです。
しかし、そこには一貫性があり、かかわりがあります。
マリヤはみ使いガブリエルから「聖霊によって身ごもる」というメッセージを聞きました。
ザカリヤは香をたく特別な当番の時に同じガブリエルから、高齢の妻が身ごもるというメッセージを聞きました。
共通点は、
「どうしてそんなことが起こりえるのか?」
という問いです。
ザカリヤは、祈ってきましたが、あきらめていました。
信じがたいと思いました。
年を取っていたからです。
マリヤは「まだ男の人を知りませんのに」と答えました。
両極端の状況の中で、受け入れがたいみ言葉を聞いた二人の応答が対比されています。

ザカリヤは、長年神に仕える働きをしていましたが、しるしを求めました。
そのしるしは、「口がきけなくなる」というものでした。
耳も聞こえなかったのではないかとも言われています。
ザカリヤは幕屋から出てきたときに、身振り手振りで伝えました。
長年祈った結果が与えられたという喜びを、エリサベツと語り合うこともできない。
感謝の祈りも声に出せない。
友人とも分かち合えず、悶々とした時を過ごしました。

マリヤはガブリエルに「神にとって不可能なことは一つもありません。」と言われました。
そして、エリサベツの話も聞かされて、マリヤは信仰を持って受け止めました。

素直に信じられることもあるでしょうが、一年を振り返るとき、私たちも
「どうして?」「なぜこんなことが許されるのか?」
と、受け入れがたいと思う場面に直面したのではないでしょうか。
クリスチャンになれば、何の問題もなくなるわけではありません。
もしそう思っているとしたら、それは単なる思い込みです。
むしろ聖書は、

「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」テモテⅡ3:12

と言っています。
信仰を持つと、主がすべてを働かせて益として下さるのです。
生涯の途中で、苦しみや困難に遭遇します。
しかし、それで人生が終わってしまうわけではありません。

聖書の中に、イエスと親しくしていた兄弟姉妹のことが書かれています。
マリヤとマルタ、そしてラザロです。
ラザロは病に倒れました。
イエスを信じていたラザロのために、イエスを呼びに行きましたが、イエスは数日間、別の用事のため、すぐには駆けつけませんでした。
マリヤたちのもとについたときにはもうすでにラザロは葬られていました。
イエスのメッセージは、「人は死んで終わり、ではない」ということでした。
どんなに愛している人でも、健康な人でも、忠実な人でも、必ず人は詩を迎えます。
イエスは、「人は死んでもなお生きる」と言われました。
人生の道半ばで、病や事故で命をしなっても、永遠の命を持っている私たちは、その死を乗り越えて、永遠に神の見ての中で生きることができます。
「死」という悲しみを乗り越える希望を教えるために、イエスは人々の悲しみをみておられました。
もっと確かな希望を、このことを通して知るために。

ザカリヤやマリヤのように、信じがたい、受け入れがたい、祝福とは思えないことを、

主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」1:45

信じ切ることが大切です。
それは、「自分の願いどおりになることを神が実現して下さると信じる」ということとは違います。
「みことば」が必ず実現すると信じるのです。
マリヤは覚悟を決めます。
ガブリエルに示されたように、エリサベツのもとに行きました。
自分のために、先駆けとして選ばれたエリサベツと恵みを分かち合うために、そこに3か月とどまりました。

エリサベツはマリヤの道備えをしました。
マリヤよりもちょっと先に子育てをしました。
普通ならもう子育てを忘れているような年齢でも、初めての子育ての見本をマリヤに見せたのです。

「御使いは、入って来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。{あなたはどの女よりも祝福された方です。}』」1:28

「恵まれた方」と言われたのは、「救い主を宿したから」だけではありません。
ザカリヤでさえ、喜びのメッセージであったのに、受け入れがたかったのです。
マリヤにとって、この知らせは喜びではありませんでした。
混乱と戸惑いのメッセージを引き受けたマリヤ。
もっとも厳しい状況でも、信仰を持って信じたマリヤの信仰のゆえに、「祝福された方」と言ったのです。

最も幸いなこと、それは、神のみことばを信じて生きることです。
「神が語り、約束して下さったことには違いがない。」
「それを手掛かりに歩めば、み言葉通りの結果を手にすることができる」
と信じることです。
そのような人は、必ずその結果を見ることができます。
それが、信仰の出発点です。

世の中は移り変わり、価値観も移り変わります。
「私」への評価も、自分の立場も変わるでしょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」イザヤ43:4

という神の言葉は決して変わりません。
私たちには約束の聖霊の証印が押されていて、それを奪うものはこの世にはないということを、信じて歩みたいと思います。
この1年を振り返って、神の導きに感謝したいと思います。
新年に、神が用意してくださっている結果を見るために、求め、探し、叩き続けましょう。
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12月21日 クリスマス礼拝

ルカの福音書2章1~20節
「すばらしい喜びの知らせ—福音」

神はすべてを支配しておられます。
地中海一帯を、イスラエルも含めて治めていたのはローマでした。
ローマの皇帝アウグストが、支配を確固たるものにしました。
イスラエルもローマの支配下に置かれていました。
国の支配の根幹は何だと思いますか?
税です。
公共事業、インフラ整備に使うためです。
税がなければ財政は破綻します。
ローマが地中海一帯を掌握し、治めていました。
税をしっかり徴収するために、住民登録をせよという命令を出したのです。
登録のため、人々は本籍地に帰りました。
日本の場合、人は「国籍」と「住民票」を持っています。
私なら、本籍は茨城県日立市。
住民票はあま市七宝町にあります。

ダビデ王国は失われ、ローマの支配が不動のものとなったという時代背景があったということを、ルカは表そうとしています。
マリヤとヨセフも勅令により、ガリラヤの村ナザレから旅に出ました。
ガリラヤはイスラエルの北方にあたります。
イスラエルは、ちょうど七宝町に似ていて、南北に長い形をしています。
ナザレは、教会がある、この間曽のあたり。
シリヤが一光ハイツ。
ベツレヘムは南のはずれ、サバンさんの家のあたりだと考えるとわかりやすいでしょう。
二人は、国の北のはずれから、南のはずれまで、身重にもかかわらず旅をしなければなりませんでした。
その距離は125kmぐらい。
今のような移動手段はありません。
なぜ、よりによってこのタイミングなのでしょうか?

神がすべてを支配しておられるしるしとして、です。
救い主の誕生を知った東方の博士たちがヘロデ王を訪ねたとき、ユダヤ教の学者達は救い主が生まれる場所についての預言を調べました。

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」ミカ5:2

旧約聖書の預言が成就するために、主は、アウグストの計画の中で、神のご計画を実現しようとされたのです。
私たちは、「自分がした」「自分が選んだ」と思っていますが、すべてを、主は支配して、導いておられます。
これが、クリスマスの第一のメッセージです。
「主は、祝福しようとして、すべてを導いておられる」

第二のメッセージは
「主はすべての民に、私たちひとりひとりに、目をとめておられる」
です。

主は、羊飼いに語られました。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」2:10

だれか特定の人のため、ではありません。
「この民全体のため」です。
皇帝アウグストは、イスラエルもローマの支配下にあると考えていました。
しかし、神は「民全体のため」と言われました。
多くの者は皇帝の命により、故郷に帰りました。
しかし、その支配に漏れた人々がいました。
生まれ故郷を持たない人です。
羊飼いは定まった家を持たない人々です。
牧草を求めて旅をする遊牧民。
ローマの支配が届かない彼らに、主は「民全体のため」と言われたのです。
ここから、主が「すべての人に目を留めておられる」ということがわかります。
ローマの絶対的な支配でも支配しきれない人々にも、神は目を留められました。
神の福音のメッセージは、上からではなく、下から来たのです。
上からだと、漏れる人がでてしまいます。
下からだと、すべての人を網羅できます。

その「すべて」の中に「私」も含まれています。
イザヤは

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

と、神の言葉を伝えています。

御使いは羊飼いにメッセージを伝えました。
彼らは見聞きしたことを述べ伝えました。

第三のメッセージは
「神は私たちを待っておられる」
です。

御使いは「この民全体のメッセージ」を羊飼いに伝えました。
そして、一つのしるしとして、ヒントを与えました。

「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」2:12

これは「探しなさい!」ということです。
手がかりは、飼い葉桶に寝かされている赤ちゃんです。
羊飼い達は、御使いの知らせを聞いて、「よかったね」で終わり…にはしませんでした。
「その場所に行って見つけなさい!」と命じられているのです。

「求めなさい。探しなさい。叩きなさい。」と、イエスは言われました。
神が求める信仰は、
「メッセージを聞いたら、それは果たして本当かどうか、探し、求め、たたき、見いだすこと」
です。
彼らは待ちに言って探しました。
今のように所番地があるわけではありません。
1件1件さがしました。
門を叩いて。
「今夜生まれた赤ちゃんはいませんか?」と。
くまなく探し、そして、見つけました。

言われたとおりの状況にある、マリヤとヨセフと赤ちゃんを。
ただ単に「喜びのニュースを聞く」よりも「そのニュースに基づいて行動し、確かにそうだったと自らが発見し、確認し、自分のものにする」ことのほうが幸いです。

「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」
2:15、16

神が言われたことが本当かどうか、求め、探し、見つけ出していくこと。
神が羊飼いを選んだのは、救い主が生まれたのは「すべての民のため」であるというしるしです。
私の人生の中にも、実現するかどうかを生涯求め、必ず実現すると言うことを実感するのです。
神は、ご計画が実現するために、すべてを治めておられるということを見いだしていきたいと思います。

神であられた御子が、すべての人の為に、人としてお生まれ下さったクリスマス。
神が私たちと共におられます。
この世界を治める神が、共に歩んで下さいます。
神に祝福された人々の共通点は、「神が共におられた」ということです。
一人一人の人生に、主は共に進んで下さいます。
そうして、私たちを「幸いな者」に買えて下さいます。
そのために、イエスは地上に来られたのです。
それをしっかり受け取りましょう。

12月14日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 26~38節
「神のご計画と進行による応答」

「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。」1:26

御使いが処女マリヤのもとを訪れて受胎告知をしました。
そのできごとを、ルカは、ザカリヤ・エリサベツ夫妻に子が与えられるというできごとと結びつけて示しています。
マリヤも、伯母のエリサベツが子を望んでいたのに、歳を取って諦めかけていたところで身ごもったということを聞いていたはずです。
聞いたときには「これはどういうことだろうか?」という戸惑いも合ったはずです。
そこには、神のご計画としてのつながりがあります。
現代の私たちは、完成した形でこのストーリーを読むからそのつながりがわかるのであって、当時の人たちは全体像がわかりませんでした。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
伝道者の書3:1、11

人はそれを、始めから終わりまで見極めることはできません。
できごとの、前後の結びつきがわからないのです。
聖書は、その知恵を与えてくれます。
断片を結びつけることで、思いつきではなく、主が計画を持って事を進めておられることがわかります。
それを当たり前だと思ってはいけません。
当時は、旧約聖書はあっても、いつも手元に置いて読むことはできませんでした。
シナゴーグで律法学者の朗読を聞くことはできましたが、自分で読むことはできなかったのです。
今、私たちが聖書を手元に置いて読める恵みは感謝です。

母となるマリヤが、救い主を身ごもっているというメッセージを聞いて、応答します。
救いのご計画がマリヤに知らされ、信じがたいことを信じ、受け入れがたいことを受け入れ、なしがたい使命をなすことを、信仰を持って受け止めて、決断していくマリヤの様子がテーマです。

「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。」1:36

6ヶ月。
エリサベツは、いわゆる安定期に入った頃でした。
それまでは、高齢なこともあって、大事を取っていたに違いありません。
このタイミングで、ガブリエルはマリヤを訪ねたのです。

マリヤはどんな人物だったのでしょうか?
マリヤはナザレの町にいました。
ダビデの家系であるヨセフの許嫁でした。
処女でした。
そして、許嫁がいた。
近い将来結婚して、一つの過程を営むことが決められて、合意されていました。
しかし、マリヤは貞節を守っていました。
今で言う「婚約」とは少し違い、ユダヤでは「許嫁」は事実上「妻」とみなされましたが、指揮を挙げるまでは一線を守ることが期待されていました。
ここには、今日でも普遍的に伝えようとしてるメッセージがあります。

ヨセフはどうでしょうか。
ダビデの家系、すなわち、王家の家系です。
ダビデはイスラエルの第二代の王でした。
当時、イスラエルという国は侵略されても、王の末裔は生き延びていました。
しかし、立場は庶民と同じ。
ヨセフは大工をしていました。

御使いは
「おめでとう、恵まれた方!」
といました。
よく注意して聞くと、何がめでたいのか?何が恵みなのか?と思います。
聞いたマリヤはさっぱりわからずに戸惑いました。
「主があなたとともにおられます」
これが、めでたいことであり、恵みです。
どんなことが身に起こっても、守られ、祝福され、使命を全うできること。
「恵み」とは、「自分にとってよい状況になること」ではありません。
考えてみれば、マリヤにとっては災難でした。
怖れと恐怖を感じたことでしょう。
どうしていいか分からない。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:31~33

結婚は決まっていましたが、身ごもった…それは死を意味しました。
だから、ヨセフは内々にマリヤを逃がそうとしたのです。
ちっとも「めでたく」ありません。
夫に祝福してもらえることではありません。
それを、ガブリエルは「神の恵み」と言いました。

「神の恵み」とは何なのか?
私たちが思い描くものと、開きがあります。
マリヤにとっては、喜びよりも、戸惑いと不安の方がはるかに勝っていました。
それは想像できます。
カギになる言葉は
「名をイエスとつけなさい。」
です。
イエスとは、救い主という意味です。
「その子はすぐれた者となり」
とも言われています。
バプテスマのヨハネについても、御使いは
「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。」
と言いました。
この「すぐれた」という言葉は、「秀でる」ということではありません。
他人との比較ではないのです。
「神の御前で」すぐれている。
「いと高き方の子と呼ばれ」る。
「その父ダビデの王位をお与えにな」る。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
Ⅱサムエル 7:12,13

サムエルが預言したこのことは、ダビデとの契約の言葉です。
ここには二重の事柄が重なっています。
預言は、その時代の直近のできごとと、ずっと先に起こることを重ねているのです。
そのひとつは、ソロモン王によって成就されました。
ソロモンはダビデの遺志を引き継いで、神の為に神殿を造りました。
もう一つの意味は、キリストが、神の国の王国の王座に就く、という暗示です。

マリヤは先祖であるダビデの、失われた王国が再興されることを待望してはいましたが、今はもうイスラエルは風前の灯火でした。
そんなときに、自分から生まれる子が、それを成就するというメッセージを聞かされたのです。
個人的には受け入れがたいことです。
しかし、何が恵みなのでしょうか?
個人の思惑を越えた、民族の悲願なのです。
神の計画の大きな進展を、マリヤは誰よりも先に知らされました。
だから、「めでたい」のです。
神は、かよわい女性を用いられました。
それゆえに、「恵まれて」いるのです。

自分が良いものを得ること=恵み、なのではありません。
神の働きのために、私が用いて頂けることが、恵みなのです。
願わない状況に陥ることもあり得ます。
マリヤはあまりの出来事に、反論しました。
「起こりえない」「無理だ」ということを。
私たちも直面します。
「なぜ?」「信じられない!」ということに。
マリヤに、主は

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」1:35

と言いました。
そしてエリサベツのことを語ったのです。
にわかには信じがたいことに従う勇気が湧いてこないマリヤに、エリサベツを示したのです。
長年「子がない」という「恥」に耐えて、不可能と思える時に、子を与えられたエリサベツ。
彼女の悩みは、このときの為のものでした。
マリヤが「不可能」と思えることを、受け入れることができるように、道を整えるのがエリサベツの使命だったのです。

12月7日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章 5~25節
「老夫婦の祈りとその答え」

ルカの福音書は、ユダヤ人ではない異邦人に向けて書かれた福音書です。
マタイはユダヤ人に、イエスが旧約で預言されたメシアであることを示すために書かれました。
ルカは、旧約の背景がない人々に、イエスがすべての人の救い主であることを書いています。
すでに信仰の理解を持っている人が、それが正確な事実であるという信仰を強めるために書かれているのです。

主は、イエスの誕生に先だって、その道をまっすぐに整えるために、バプテスマのヨハネを先駆者として遣わされました。
このことは、他の3つの福音書には書かれていません。
そのいきさつ、両親の姿と信仰がここには記されています。

「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」1:5

モーセの兄アロンの子孫は、神殿に仕える祭司職に任じられました。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」出エジプト28:1

この家柄は今日まで続いています。
ザカリヤは、その中の「アビヤの組の者」でした。

「アロンの子らの組分け。アロンの子らは、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。
ダビデは、エルアザルの子孫のひとりツァドク、およびイタマルの子孫のひとりアヒメレクと協力して、彼らをそれぞれの奉仕に任命し、それぞれの組に分けた。

第七はコツに、第八はアビヤに、」
第1歴代誌24:1~3,10

アロンの4人の子のうち、3人の子の子孫が24の組に分けられて、モーセの時代から当番制で神殿の奉仕をしました。
ザカリヤは、その子孫でした。
エリサベツも、アロンの子孫であり、祭司の家系だと書かれています。

さて、「ザカリヤ」という名前です。
アメリカ人に
「あなたの名前にはどういう意味がありますか?」
と尋ねると、ポカーンとします。
名前に願いを込めるという習慣はないらしいのです。
ただ、音の響きとか、世の中でよく使われる名前をつけるそうです。
その点、イスラエル人と日本人には共通点があります。
みなさんの名前にも、ご両親の願いがこめられているはずです。
ユダヤ人の名前の付け方は、願いを込めることと、先祖の名前をもらうということがあります。
「ザカリヤ」には、「主は記憶しておられる」という意味があり、エリサベツには、「神は誓いである」という意味があります。

「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」1:6

このふたりは敬虔な信仰と生活を持っていました。
「それなら祝福を受けて、幸せに暮らしているはずだ」と思いませんか?
しかし、

「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」1:7

というのです。
ここに人生におけるギャップがあります。
「神を信頼せず、この世に心を奪われたから祝福を失った。」
と思う人も多いでしょう。
このようなとき、
「神を信頼する者は、最終的には祝福を受けるが、そこに至るまでには紆余曲折がある」
ということを心に留める必要があります。
イスラエルの人々にとって、「家」は大切なものでした。
養子をもらってでも家を継がせることもありました。
ザカリヤとエリサベツに子がいないということは、自分たちの職務が自分たちの代で終わってしまうことになります。

「その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。』」
1:24,25

長い間祈ってきたのに子が与えられなかったということは、エリサベツにとって「恥」でした。
諦めた頃に、ガブリエルが送られてきました。
それは、祭司のつとめの中でも、めったにない特別なつとめの時でした。

「祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」
1:9~13

諦めかけた時に、「願いは聞かれた」のです。
ここに、大切なメッセージがあります。
「祈ったけれど、神は答えてくれない」
というのは間違っているということです。
神は聞いて下さいます。
「諦めるしかない」と思っても、自分の考えに頼って諦めてはいけません。
自分で祈り、勝手に自分で諦めて、祈りを取り下げてしまっていませんか?
主は、一番良いときにかなえて下さいます。
祈り続けることです。
主は、聞いておられます。
失望せずに、忍耐強く祈り求めるべきことを教えられます。

「願いが聞かれない」というとき、期待したとおりのタイミングではないのかもしれません。
しかし、主は、恥を喜びに変えて下さいました。
そして、ガブリエルは、子どもの名を「ヨハネ」とつけるように言います。
そんな名前は先祖の中にはありませんでした。
「ヨハネ」とは、「神は誓いを記憶しておられた」という意味です。
エリサベツが味わった苦しみと悩みは、姪のマリヤを支えるという使命に生かされました。
ヨハネはイエスのための道ぞなえをしましたが、救い主誕生の道ぞなえをするようにと、マリヤのために、ザカリヤとエリサベツは召されたのです。

ヨハネはどのような人だったんでしょうか?

「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:14~16

彼は、酒を飲まず、聖霊に満たされている人、ナジル人でした。
神の為に特別に聖別された人々のことです。
今で言えば「直接献身者」でしょう。
すべてのクリスチャンは「献身者」ですが、その中でも、聖職者により近い存在です。
神の使命のために、この世の楽しみから離れて献身する人です。

そして、ヨハネはイスラエルの民を立ち返らせます。
すなわち、悔い改めであり、「自分の考えを頼りに生きる生き方」から「神がよいと言われることに心を向けていく生き方」に変わるということです。

ヨハネは、神の前にすぐれた者とも言われています。
多くの人は、この世で成功を望みます。
良い学校へ行き、良い会社に就職して、良い給料をもらう。
これはこの世の価値観です。
神の前での成功者は、富を天に蓄えます。
ヨハネを通して多くの人が罪を悔い改めて洗礼を受けました。
そうして、メシヤを待ち望む心を新たにしたのです。
世の中の考え方に染まってしまった人々がたくさんいる・・・それが目の前の状況でした。
その時代は「ヘロデの時」であり、非ユダヤ人が王になっていました。
背後にはローマ帝国の支配があり、ダビデの王座はどこにあるのか?という状況でした。
一般の人の中には現実を生きることで一杯一杯もいました。
彼らに、
「神を信じ、救いを待つように」
と、ヨハネは訴えました。

ヨハネは老夫婦の祈りの答えでした。
「神を信頼する者は、必ず祝福される」
それを見えなくするような出来事が起こります。
そのような出来事に巻き込まれて信仰が弱くなったり、諦めたりしないで、ザカリヤとエリサベツのように生きていきましょう。

11月30日 聖日礼拝

ルカの福音書 1章1~4節
「正確な事実に基づく教え」

旧約聖書は39巻からなっていますが、その全体を通して受け取るべきメッセージがあります。
人の罪をあがなうため、再び神の子とするために、希望としてメッセージを人々に与えられました。
そこに貫かれているメッセージは、
「救いのご計画は、人の思惑にかかわらず進展していく」
ということです。
世は移り変わります。
しかし、主を信じる民は、あらゆる場所と時代で信仰を守ってきました。
イエスの時代、ローマ帝国による支配の中で、多くの人は絶望し、諦めていました。
その中でも旧約の約束を信じてメシヤを待ち望んでいた人がいました。
圧倒的多数は、現実に合わせて暮らしていましたが・・・。

約束の成就による、イエスの誕生、十字架、そして復活。
今、ルカの福音書から使徒の働きへと続く、大きな流れを学ぶようにと導かれています。
福音書は4つあります。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。
「なぜ4つもあるのですか?」
と聞かれます。
2週間前にも、
「聖書を読んでみたけれど、同じようなことが繰り返し出てくるね?」
と言われました。
なぜ福音書が4つも書かれたのでしょうか?
全部まとめて、一番良いものをひとつ作ればいいのではないでしょうか?
しかし、神のご計画はそうではありませんでした。

もし「名古屋西福音自由教会の紹介文を書いてください」と頼んだらどうでしょう?
人によって書く内容は異なるでしょう。
何を軸にして書くか、が違うはずです。
「教会の出来事」を書く人、「今のメンバーを軸にして」、「教会が取り組んでいる活動」を書く人もいるでしょう。
同じものを見ても、書いて伝えようと思う時、書き手の興味関心や、聞き手の興味関心によってアプローチの仕方が違うからです。
また、私がひとりで書いたら、すべてを網羅して書くことはできません。

福音書は、「キリストの公生涯」という主軸を、いくつかの視点から書いています。
マタイとルカには共通点があります。
イエスの説教が詳しく書かれているのです。
それでもふたつには違いがあります。
マタイは、読み手としてユダヤ人を念頭に置いて、旧約とのつながりで書いています。
ルカは、異邦人、つまり旧約を知らない人のために書いています。
マルコは、イエスの説教はあまり書かれておらず、短くなっています。
主にイエスの行動を中心に、どこで何をされたかに着目しています。
この3つの福音書は共観福音書と呼ばれていますが、それでも書き方が違っています。
それに対してヨハネは、先の3つの福音書には記録されていないことが書かれています。
弟子達にとって印象深く、後代に残しておくように導かれたものを、ヨハネが晩年に記したと言われています。
その文体はとても印象的です。

さて、これからルカの福音書を学ぶに当たって、その特徴を見ていきましょう。
まず、この福音書には序文があります。
本論にいきなり入らないのです。

「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、
私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。」
1:1~3

まず、読み手を明確にしています。
「テオピロ」という名前がこの福音書の中に2度出てきますが、どのような人物かは明らかではありません。
おそらくローマ帝国の高官だったらしいと言われています。
福音が、「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てにまで」と広がる過程で、12使徒の後にパウロが選ばれました。
パウロは、小アジアからトルコ、イタリアまで述べ伝えるという志を持って異邦人宣教の第一人者として働きました。
その福音が、ローマ帝国に関わる人物にも、この時期、伝わり届いていたということを示しています。
福音を正しく伝えることで、やがてローマ帝国はキリスト教を国教と定めていきます。
また、この文書は、個人宛ではなく公文書として、誰が見ても理解できるように書かれています。

「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」1:4

テオピロは、この時点ですでに教えを受けていたということがわかります。
それが、正確な事実だとわかっていただきたい、と言っています。
「腑に落ちているか?」
ということです。
信仰がないのではなくて、信じて分かってはいるが、整理して心におさめていくことが大事です。
テオピロに、福音のアウトラインはすでにありました。
それが、事実だとわかり、腑に落ちるようにという目的で書かれているのです。
ここに、3つの段階が書かれています。

・口頭弁証(言葉で教える)

イエスは町々を巡って述べ伝えられました。
弟子は、イエスのメッセージを見聞きして受け止めていきました。
そしてそれが弟子たちの心に根付いていきます。
「初めからの目撃者」とは、12弟子のことです。
12弟子が福音を伝えたのです。
その内容は、
「キリストは私たちの罪のために十字架で死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そのあがないを信じることで、罪を赦されて救われること」
この最もシンプルなメッセージです。
「救われるためには何をしたらよいのか。
何が必要か。」
この問いの答えは、「よいわざ」ではなく、自分の罪を悔い改めて、イエスを信じる信仰です。
このメッセージは言葉として人々の間で語られていました。
そのようにして福音を広めていきました。

・書物

使徒たちも命には限りがあります。
生きている間は伝えることができますが、伝言ゲームは伝わる内に話に尾ひれがついて変質していきます。
それを避けるために、直接の目撃者が語ったことを正確に記録しようという試みが多くの人によってなされていた段階です。
ルカより前に、マルコの福音書がある程度形としてあったと言われています。
ルカの中心的動機は、
「すでに教えられたことが事実だとわかるように」
ということでした。
「順序立てて」、つまり、読み手によく分かるように「すべてのことを初めから」。
ルカは、イエスの誕生以前にまでさかのぼり、教会が形成され、イエスの教えがどのように全世界に広がったのかを含めて、福音全体を網羅しようとしています。
「ルカの福音書」と「使徒の働き」は同じ書物の上下巻です。
これらを学ぶことで、すでに私たちが信じていることが、正確な事実であることを確信していくような学びとしていきたいと思います。

「聖書」について、よくある疑問は「聖書は誰が書いたのか?」ということです。
私たちは「聖書は神の言葉である」と信じています。
「いや、でも人が書いたものなの?」という疑問。
私たちには、「素直に信じる信仰」と、人に伝えるときの「確固たる確信」が必要です。
復員し自由教会では、「12の箇条」で、信仰を告白しています。
その第1条は「聖書について」です。

1.旧新約聖書を原典において何ら誤りなき、霊感された神の言であり、人間の救いについて神のみこころを完全に啓示し、すべてのキリスト者の信仰と生活の神的、究極の権威であることを信じる。

聞いた言葉は、繰り返し聞かないと定着しません。
だから、書かれたものが必要になります。
弟子達は、イエスのメッセージを繰り返し聞いて、アウトラインを身につけました。
そこが弟子と群衆の違いです。
福音を人々に伝えるためには、語るべき福音のアウトラインをしっかり持って、相手に応じて語ることを学ぶ必要があります。

そして、主は、人を用いて聖書を書かせました。
霊感によって。
書き手の持っている興味関心を用いて、文章の特徴卯や個性を用いながら、神のみこころを余すことなく書き記すように導かれました。
新旧両聖書は、1,600年の期間にわたって、40人以上の人によって記されています。
このような書き方では、一貫性を保つのは難しいはずです。
しかし、そこには1本のゆるがない筋道があります。
それは、聖書を書かせた神の存在です。
時代が変わっても、人が変わっても、文化を越えて、主は私たちに福音を聖書という形で届けてくださいました。
すでに確信していることが、思いつきではなく、正確な事実に基づくことを知ることで、確信が深まるように。
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ステファニー

Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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