12月29日 年末感謝礼拝(早天礼拝)

ヘブル人への手紙 11章1〜6節
「」
1年を締めくくる礼拝の中で、土台となる生き方を考えたいと思います。
普段は意識しないけれども、私たちは何を大事にするか無意識に選んでいます。
心の中に価値の基準があって、選んでいるのです。
趣味もそうです。
鉄道、写真、旅行など、人生の中でその人が対せtにしたいものがあるはずです。
何が私の心の中心に近い部分にあるかを決めていく基準があるのです。
 
ヘブル人への手紙11章のテーマは「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」11:1です。
神に喜ばれ、用いられ、祝福される人々は、信仰によって事に臨んだ人々でした。
「信仰」という尺度によって、物事に取り組むということ。
「信仰によって○○をする」「○○を見る」物事に取り組むときのあり方、とらえ方です。
「クリスチャンになるとみんな同じになる」という考えは間違っています。
信仰によって、「仕事」をする。
信仰によって、「趣味」をする。
 
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」?コリント 10:31
 
と言われているように、信仰はゴールを、方向性を示してくれます。
取り組む姿勢は神の栄光を表すことを求め、神に喜ばれる取り組みをしようと望みます。
 
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」?
テサロニケ5:16〜18
 
という御言葉に、「できない!」「無理だ!」と感じますか?
いつも喜ぶことができるように取り組めばいいのです。
いつも祈れるように取り組むのです。
感謝ができるように取り組むのが、感謝できる人の特徴です。
はじめから違うのです。
受け身で考える人は、「よいこと」には感謝できます。
「反応型の感謝」です。
結果として感謝はしても、そんな状況ばかりにはなりません。
よくないこと、困難が起きると感謝できなくなります。
それに対して、あらゆる状況の中で「感謝できること」を見つけていこうとする生き方があります。
100%よいことなんてありません。
たとえ6割が辛いことだとしても、3,4割の、自分を支えてくれる人々に目を留めたら、感謝が生まれます。
それを見ない、感じ取れない人には感謝ができません。
いつも喜べる人には「マイナスがない」のではありません。
「マイナスでない」ものを自覚して見つめていることができるから、辛くても困難でも感謝できるのです。
これこそが信仰によって取り組むあり方です。
 
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」6:6
 
信仰があると、普段は見えないものが見え、感じ取れないものを感じ取れるようになります。
信仰は、意識しなければ見えないものを見せてくれます。
だから、喜び、祈り、感謝することができます。
どういう姿勢で取り組むかが大切です。
 
「神に近づく」とはつまり神と交わりを持つということです。
人にとって大切にすべきことは…
 
? 神がおられることを信じる
 
クリスチャンにとっては当然と思われますか?
イエスは「世の終わりまで共にいる」と言われました。
状況がよくても悪くても、神がそばにいて私を認め、受け止め、愛してくださっていることを信じる、ということです。
神が共にいてくださると、信じること。
どんな時でも共にいてくださるということを知っていることが第一のポイントです。
そのとき、「共にいる主は今のこの状況をどう見ておられるのか?」「どう受け止めるのを主はよしとしてくださるのか?」という発想ができるようになります。
 
ものごとがうまくいっているときには「神が共にいてくださる」と感じられるという人がいます。
そうでないときには「神に見捨てられているのではないか」と思ってしまうのです。
救い出してくださる神への信頼が力を与えてくれます。
そして、本当に神は共にいてくださるとわかります。
 
「いるのがあたりまえ」な、空気のような存在になると、感謝が生まれないこともあります。
当たり前の日常に、共にいてくれる存在は、喜びであり感謝であるはずです。
それは夫婦についても言えます。
 
? 神を求める者には報いてくださる方であると信じる
 
「神に」求める人ではないことに注意してください。
神に、あれが欲しいこれが欲しいと求めるのも悪いことではありません。
でもそれは「子ども」の祈りです。
「神を」求める人々に、主は報いてくださいます。
神は成長を願っておられます。
私たちが「神ご自身を求める」のは、神がすべてのよいものを与えてくださるからです。
助けや必要なものを、神の判断で与えてくださることを信じるのです。
「祈ったのにかなえられない」としたら、それは自分中心の願いをしているからです。
神ご自身を求めるとき、神はそれをくださいます。
自分の判断に頼るのではなく、共にいて欲しいと願うとき、その人は成長します。
そして、「神に近づく」ということは、「私も神と共にいる。」という信仰の現れなのです。



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12月22日 クリスマス礼拝

ルカの福音書 2章 8〜20節
「さあ、行って見てこよう」
 
ユダヤのベツレヘム。
そこに、アブラハムの子孫、ダビデ王家の継承者、とこしえの王国を築く王が生まれると予言されていました。
マタイの福音書2章で、ヘロデ王が旧約聖書を調べさせてわかったことです。
多くの人は、そのことを忘れていました。
あるいは、意識していませんでした。
当時はそんな状況ではなかったからです。
イスラエルはローマ帝国によって支配され、すでに独立国家とは言えませんでした。
ヨセフはダビデの家系でしたが、ナザレの地に住んでいました。
なぜでしょうか?
それは、命の危険を伴うからです。
ひっそりと、大工として、一庶民として生活していました。
ところが、ベツレヘムに行かなければならない事情ができました。
ローマ帝国による人口調査のためです。
ローマの世界にどれだけの人がいるか、税がどれぐらい取れるかを支配者たちが知るために。
日本でも数年おきに国勢調査を行います。
このような調査ができると言うこと自体が、ローマ帝国の安定の現れでした。
こうして、身重のマリアが旅をしなければならなくなったのです。
神がどのように計画を実行されるか、ここで見ることができます。
 
ヨセフはダビデ王の家系だったので、ナザレからベツレヘムへ行かなければなりませんでした。
身重の女性が旅をするのはリスクを伴います。
「なぜ今?」
彼らには理由はわかりませんでした。
私たちは、結果を見て知っていますが。
歴史の中の一つの出来事として私たちは行動していきますが、それが主に用いられたということが後でわかります。
私たちは結果を見たいと願います。
が、誰でもみな、出て行く先をしらないまま出かけていき、実行したのです。
私たちは、出かける前に、確信や証拠が欲しいと願います。
それは不信仰です。
神は、私たちを愛しておられ、すべてを導かれています。
そう信じるのが信仰であり信頼です。
神のご計画の実現のために、多くの人の信仰が用いられているのです。
 
羊飼いたちは、ローマの支配下にありましたが、住民登録の対象にはなっていませんでした。
主は、彼らを用いられ、第一報を託しました。
なぜ羊飼いたちが選ばれたのでしょうか。
 
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:11,12
 
羊飼いたちにはこの意味がわかりました。
「ダビデの町」という意味が。
多くの人は救いの計画を忘れていたのに。
この救い主は「あなたがたのために」と言われました。
み使いたちは、「会いに行きなさい」とは一言も言っていません。
ただ、救い主の誕生とそのしるしを知らせ、「見つけます」と言われただけです。
み使いたちは、彼らが会いに行くことを知っていました。
だから、手がかりを与えたのです。
手がかりの鍵は3つ。
・ベツレヘムで
・きょう生まれた
・飼い葉桶に布にくるまって寝かされている
これを見落としてはいけません。待っていてはいけません。
出かけていって、探して、確認しなければ。
主は、信仰の結果として行動が起こることを期待しておられます。
心を変え、行動し、神の元に行くことを願っておられます。
アブラハムも同じでした。
 
羊飼いたちは「御心にかなう人々」(2:14)でした。
彼らの中にあったのは、神のみ言葉を信じて待ち望み、
「行って見てこよう!」
と行動を起こす人々です。
「本当かどうかを確認しに行こう」
と、羊飼いたちは手分けして探しました。
「求め、探し、叩いた」のです。
そして、見つけました。
見つけ出す喜び、開かれる喜びを知っていますか?
「頭ではわかるけど、実感できない。」
という方は、自ら探し、求め、叩かなければなりません。
 
羊飼いたちは、マリヤとヨセフを励まし、支えるために遣わされました。
二人は、み言葉と現実とのギャップを感じていたに違いありません。
救い主、王が生まれたのは馬小屋。
「これですか?」
と試みられたことでしょう。
アブラハムと同じです。
数え切れないほどの子孫に恵まれるという約束をいただいたのは、子を持てないほど年をとったときでした。
 
羊飼いたちは知らせました。
彼らが探し出すためのしるしとして、御子は馬小屋にいなければいけなかったということを。
確かに神の計画は進んでいるとわかりました。
主が支えてくださったのです。
 
「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」
2:18,19
 
ザカリヤ、エリサベツ、バプテスマのヨセフ、羊飼いたち、東方の博士たち、アンナ、シメオン・・・。
多くの神から遣わされた人々がマリヤとヨセフを支えました。
これは、主が必ず、励まし助ける人を与えてくださる」というメッセージです。
主は「羊飼い」を遣わしてくださいました。
私たちも、だれかにとっての羊飼いになれるかもしれないのです。



12月15日 聖日礼拝

サムエル記第2 7章 12〜16節
「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」
 
主は、旧約の中で、「救い主を遣わす」という約束をされました。
私たちは、結果をすぐに期待する、性急な生き方をしています。
そして、自分の枠組み、自分のストーリーの中で神が動くべきだと考えています。
わたしたちの創り主であり、私たちを愛してくださる方が、どのような段取りでことを進めようとしておられるか、私たちは知りません。
それは、私たちが知ろうとしないからです。
主は最善をなさることを、私たちは知っているはずなのに。
嫌なことにも意味があります。
必ず主の栄光を表す結果になると信じることが信仰です。
アダムとエバの罪は、神の言葉を信頼しなかったことです。
神の言葉を信頼しないとしたら、私たちは何を信頼しているのでしょう?
 
? 自分の直感・自分の思い・願望を頼りにする



これを「主観主義」といいます。
今の風潮でもあります。
人は人。
私は私。
でも、自分の思い通りにやっている人が、必ずしも幸せになっているわけではありません。
 
? 信じられそうな人の言葉・価値観に土台を置く



しかし、このような価値観は時代とともに変わっていきます。
信頼できると思った人がそうでなかった、裏切られた、と思うことも枚挙にいと間がありません。
自分の直感も、人の言葉も、移り変わっていきます。
時代が変わっても変わらない確かのものを得たいと思いませんか。
 
アダムとエバの過ちは、最も信頼すべきものを捨て去ったため、自分の目に正しいと映るもので物事を判断するようになったことです。
自分の目に映る善悪は不確かなものです。
なぜそのような判断をするのか考えてみましょう。
自分に都合のいい人、自分に親切にしてくれる人が良いのでしょうか?
自分が中心だから、それは不確かなものです。
道を選ぶとき、楽な道を選ぶのが人です。
 
私が高校生の頃、母が言った言葉です。
「人生の分岐点でどちらを選ぶべきかを考えて、どうしてもどちらがいいかわからないときは、より不都合だと思う方を選びなさい。
そのほうが御心にかなっていることが多い。」
と。
明らかに判断できるときはいいのです。
迷う時は、「よい」と思える道はむしろよくない、と母は言いました。
種のご計画を知ろうとする姿勢が大切です。
 
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7:7
 
神の目にどう映り、神がどのような計画をもっておられるかを求める人は、それを見つけます。
しかし、
「私にはわたしの考えがある。
そうならないのは神が悪いからだ。」
と考えてしまうことがあります。
「○○して欲しい!」
と神に願います。
でも、それだけでは何かが欠けています。神が最善をしようとしておられることを忘れています。
 
「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」
ヤコブ1:19
 
神がどのように導こうとしておられるのか、「知りたい」と思う心をもって生きることが大切です。
そうするときに、見えなかったものが見えるようになります。
聞こえなかったものが聞こえるようになります。
閉まっていると思い込んでいた扉が、実は開いていたということに気づきます。
私たちは、見ているようで見ていないのです。
 
先日健康診断に行ってきました。
5年ぶりです。
その時に聴力検査もしました。
音が聞こえる方のボタンを押すようにと言われましたが、ちっとも聞こえません。
実はそこは密室ではなくて、病院の雑音があふれていたのです。
種の声が聞こえないのは、たくさんの雑音に囲まれているからです。
だから、静まって聞こうとする時間がなければ、聞こえません。
 
12月3日に親知らずを抜いてもらってきました。
なかなか麻酔がきかず、追加してもらったのですが、それでも抜くとき痛かったです。
医師は、普通1週間から10日で痛みはなくなると言いましたが、なかなか痛みは取れず、鎮痛剤が切れるととたんに痛む日々でした。
12日経って、やっときのうぐらいからやっと少しおさまってきました。
それまでずっと腫れていたので、お会いした方は気づかれたかもしれません。
ずっと毎日痛みが続くと、
「神さま、なぜですか?」
と思いました。
神様によりよく仕えられるように、意を決して治療に臨んだのに。
絶えず痛みがあると、気持ちもふさぎます。
今まで私は手術や痛みを経験したことがあまりありませんでした。
痛みに耐えながら横になっているとき、気づきました。
鈍痛が続くとどれほど気が塞ぐかということに。
人の痛みが実感してわかりました。
嫌な経験でしたが、「見えない痛み」を理解する心を持つようにと教えられるできごとでした。
 
求め、探し、叩くことが大切です。
それなしで祈っても、聖書を読んでもダメです。
神の声を聞く気がないなら、ダメなのです。
そうでないと、聖書の中から自分の気に入る言葉を探すだけに終わります。
 
聞いてもらうだけでなく、聞くことも大事です。
一方的に話すだけでは、人との交わりは成立しません。
自分の心の内を知っていただくと同時に、神の心を理解しようとしなければ、それはただ壁に向かって叫ぶようなものです。
自分が納得するものしか受けいらない態度は、自己中心というのです。
 
ダビデは失敗もしましたが、その祈りから、私たちは学ぶことができます。
 
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」詩篇 139:23
 
健康診断と同じです。
霊的な健康診断といってもいいでしょう。
自分が気づかないうちに、自分を蝕んでいるものを見つけるために、私たちは検査を受けます。
ダビデはなぜ神に用いられたのでしょうか?
彼は、イスラエルの2代目の王でした。
 
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
サムエル? 7:12、13
 
この御言葉は、ダビデの「死」を意識して語られています。
自分の後のことを、髪は語られました。
ここに書かれているひとつのメッセージの中に、実はふたつの事柄が重なっています。
そのひとつは、
「ダビデの子、ソロモンが、主の神殿を立てる。」
ということですが、もう一つは、イエスを暗示しています。
ダビデの王国は、やがてバビロンにほろばされていなくなってしまいます。
「とこしえまでも」立てられる王国とは、「イエスが新しい神の王国を作る」という意味で成就しているのです。
キリストの誕生は、あらかじめ予告されていて、アブラハムからダビデへ、そしてイエスへと続いています。
 
それは、マタイの福音書冒頭に書かれている系図を見ればわかります。
アブラハムとダビデへの約束には、神のご計画がありました。
私たちは、自分のことだけを考えてはいけません。
私たちは、自分の子孫への祝福の鍵を持っています。
その土台となれるのだという自覚を持つことが必要です。
 
ルカの福音書1:67〜には、バプテスマのヨハネの父、ザカリヤによる予言があります。
 
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。」
 
「――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、・・・」
ローマ1:2、3
 
なぜイエスの誕生は喜びなのでしょうか?
予言の成就だからです。
それは神の約束なのか?それともじ分の勝手な思い込みなのか?
 
これも大事なことです。
救いのご計画が実現するのに、なぜこんなに時間がかかったのでしょう?
私はそのことを考えさせられませした。
旧約の歴史を読むとわかります。
人間が、神のご計画を壊してしまっているということが。
神への不信仰によって、ご計画が妨げられているのです。
もし素直に髪の恋角を悟り、向かっていくなら、もっと早く救いは実現したかもしれません。 
もし、自分の目にどう映るか自分は何をしたいのか、を優先して、神の言葉を拒んで知るからです。
 
神は力づくでことを進めることはしません。
祝福の鍵は、髪の御心を知りたいと思う心です。
髪がぶつけてこようとしておられる思いを、受け止めなければ、約束は実現していきません。
クリスチャンが、カビを握っています。
私たちは祝福するものを祝福し、呪うものを呪う、と主は言っています。
ダビデのように、「私の思いを調べてください」と祈りましょう。



12月8日 聖日礼拝

ルカの福音書 8章 22〜26節
「この人は誰」
           小岩井健牧師(安曇野ファミリーチャペル)
 
金曜日、上田市まで出かけました。
安曇野から車で1時間半ほどの場所です。
家族5人でドライブしていったのですが、途中でスリップ事故を起こしてしまいました。
そのため2時間遅れて上田市に到着し、離任礼拝に参加してきました。
ちょっとした旅にもいろいろなアクシデントがあります。
 
「そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです』と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。
イエスは彼らに、『あなたがたの信仰はどこにあるのです』と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』
こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。」

 
今日の箇所で、弟子たちはイエスから
「向こう岸へ渡ろう」というチャレンジを受けます。
イエスは、ガリラヤ出身の弟子たちが、めったにいかない場所へ「行こう」と誘われました。
人は、今いるところに留まっていたいと考えがちです。
変化を嫌います。
とどまる方が楽だからです。
それなのに、イエスは、知らない場所へ行こうと言われます。
 
私たちは経験を通して学びます。
聞いて覚えただけでは3日で7割忘れると言われています。
ところが、実際に体験すると長く記憶にとどまります。
イエスは、弟子たちと苦楽を共にしながら様々なことを教えられました。
 
弟子たちは船を出しました。
「ところが」と書かれています。
船を出したのはいいのですが、問題が起こりました。
ガリラヤ湖は標高−215m。
大きさはおよそ15km×13kmの湖です。
この地形のため、しばしば突風が起きます。
弟子たちのうち4人は漁師でした。
しかも、ガリラヤ子で漁をしていました。
だれだかわかりますか?
ペテロとアンデレ、ヤコブ、ヨハネです。
船は大きくはありませんでしたが、13人が乗れるものでした。
プロの漁師なのですから、彼らは対処できたはずです。
そんな弟子たちですら危険を感じるほどの嵐だったということです。
 
私は結婚する前にはよく船釣りに行きました。
台風の前にも行ったことがありますが、私は船酔いします。
酔い止めを飲んでもダメです。
驚くことに、船頭さんは酔わないんですね。
ハマチ釣りに出かけたとき、撒き餌をするのですが、船に寄ってくる魚は果たして撒き餌に寄ってきたのか、それとも・・・・。
というほど、私は酔うんです。
そのとき、弟子たちの気持ちが分かりました。
 
エンジンもついていない弟子たちの船。
「そこで」弟子たちはイエスに近寄ります。
イエスは眠っていました。
助けを求めて、弟子たちはイエスを起こしました。
「先生。私たちはおぼれて死にそうです。」
と、非難めいた口調で。
ここまでの時点で、弟子たちは自分たちでなんとかしようとしたに違いありません。
でもイエスの助けがないとなんともならないということが分かりました。
時々私たちも、人生の船に誰が乗ってくださっているか忘れるのではないでしょうか。
イエスは、起きて、風と波とを叱られました。
 
イエスが語ると、何かが起こります。
行動を起こしてくださいます。
「すると」風も波もおさまりました。
聞くところによると、風はすぐに止むことがあっても、波は残るのが普通だそうです。
ところがイエスは、風も、波も、鎮められました。
イエスの言葉は権威があります。
創造主が、人となって来られた方だからです。
 
弟子たちは驚きました。
「この人は誰か?」
と。
今までも彼らは奇跡を体験していました。
それでも、イエスがすべてをおさめることができるという信頼は、まだまだもてていませんでした。
「あなたがたの信仰はどこにあるのです?」
とイエスは問われました。
 
自分の経験や知恵ではどうにもできないことにぶち当たる。
そんな時でも、権威あるイエスが離れずにいてくださいます。
プロでも、どうしようもなかったことでさえイエスにはできます。
もし渡ろうとしなければ、嵐には遭わなかったでしょうが、嵐を鎮めるという体験もできなかったことでしょう。
決断して従ったから、嵐も、イエスの力も見ることができたのです。
 
5章では弟子たちはイエスを「先生」と読んでいます。
9章では、悪霊たちはイエスを知っていました。
弟子たちも、それをつかみつつはありますが、完全にはわかっていませんでした。
旅をしながら、何が起きてもそこでイエスがどのように働かれるかを知り、成長できたのです。
自ら嵐に、事故や病気や困難に飛び込んでいく人はいないでしょう。
私だって好きでスリップ事故を起こしたのではありません。
留まっていたら、安全で快適かもしれません。
でも、何かが起きたとしても、イエスが共にいてくださいます。
 
誰が人生を共に歩んでくださっているのか?
嵐の解決を、誰が持っているのか?
イエスはどのような御方なのか?
弟子たちから見れば、イエスは、奇跡を行いはするけれど、ガリラヤ方言で話す普通の人間だったでしょう。
 
でも、この方がおられるから、次の一歩が踏み出せます。
安全だと思い込んでいた場所にとどまり続けるのはもったいないです。
嵐の中でイエスを体験する方が素晴らしいのではないでしょうか。
イエスが共におられるから、向こう岸に行けます。
イエスも、仲間もいます。
私にとって、この西教会にとって、次の向こう岸はどこでしょうか?
その積み重ねが人生です。
イエスの招きに従って、次の一歩へと踏み出しましょう。
エキサイティングな体験が待っています。
この方を、我が主、我が救い主を知る体験が。



12月1日 聖日礼拝

創世記 21章 1〜4節
「神の救いのご計画?」
 
石巻では土台の建築が始まりました。
アメリカからの建材の輸入が遅れそうとのことです。
お祈りください。
ソリート師が1週間のフィリピン滞在を終えて帰国されました。
ニュースレターの写真を見ると、駆け回って報告してくださっていることがわかります。
話を聞いて、これからの支援について話し合う予定です。
 
私たちが自分のことを考えるのは当然のことです。
聖書は
 
「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
ピリピ2:4
 
と教えています。
自分のことだけを主張する人は、聞いてもらえません。
人の話を聞き、何か人の役にたてないかと考える人は、人からも大事にされます。
待降節に入りました。
主がどれほど私たちを愛しておられるか、意外と分かっていないのではないでしょうか。
それが分かった人は、「律法を守れ」とか「神を愛せ」と言われなくてもそうしたいと願います。
外側から人を変えようとするのが私たちですが、主は、内側から変えてくださいます。
 
「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」
コロサイ 1:6
 
神が何をしてくださったかを受け止めるなら、必ず実を結んでいきます。
困難に遭うときは、そんな中でも主からの愛を信じることができるかどうかを試されています。
誘惑によって、神の愛を疑ってしまったアダムとエバ。
エデンを与え、そこを管理させてくださった神を、エバは疑いました。
神の圧倒的な愛を疑い、信頼しないこと。
それが「的外れ」であり、罪です。
自分を点検してみましょう。
 
「自分の内には価値がある」と、「主に用いていただける」と、「自分は祝福の基だ」ということをしっかり受け止めていますか?
神は私を通して、より多くの人を祝福したいと願っておられます。
私たちには課題がありますが、それでも、御子をお与えになるほどに私たちを愛してくださいます。
「そんな価値はない」というのは不信仰の現れです。
神の言われたことを信じないのは不信仰です。
「私なんか」というのは不信仰です。
しゅが「あなたは役に立つ」と言ってくださっているのに。
それを受け入れないから、祝福を受け取れないのです。
神は用いようとしてくださっています。
私たちの戦いは、信仰の戦いです。
神の言葉を信じきれるか、信じきれないか、の戦いです。
 
主はアダムとエバをエデンから追放され、人は死ぬべき存在となりました。
が、主はそれを放置せず、もう一度取り戻そうと、救いのご計画を立てられました。
それは、
創世記12章のアブラハムの選びから、それはもう始まっていました。
神の救いは、ひとりの人から始まります。
一人の救いから、全世界に広がって行くのです。
神がお選びになった「アブラハム」そして「私」。
私を通して、救いを完成させようとしておられます。
「選び」は、「私が特別素晴らしいから」なされたのではありません。
主の働きを進めるために、愛されているのです。
それは、より多くの人が救われるためです。
 
私は牧師の息子として生まれましたが、それが素晴らしいことだとわかったのは中学の時でした、
日本人でありながら、私は「日本人」ではありません。
なぜなら、日本人なら普通に持っている文化的背景が全くないからです。
私の生活には、仏壇も法事も初詣もなく、あるのは聖書と教会と賛美でした。
そんな人は珍しいでしょう。
生まれる前から礼拝に集い、賛美とメッセージを聞いて育ちました。
それは、ある意味で「選び」です。
私が優れているからそうなったのではありません。
私には使命があるから「選ばれ」たのです。
与えられたのは、分かち合うためだということが私はわかりました。
今までの経験は意味あることだと知りました。
ある人は、痛みと癒しの経験を通して、人々を愛することができるでしょう。
 
私は、今まで自分自身のことで深く悩んだことはありません。
その代わり、教会の人々の悩みが私の悩みになります。
各々が、神に選ばれて召し出されています。
選ばれたからには、使命があります。
その自覚が大切です。
 
アブラハムは、「主が示す地へ」向かいました。
「それは、どこですか?」と聞きたくなるのではないでしょうか?
アブラハムは、行き先を知らないで出て行きました。
これこそが神に従うということです。
なぜアブラハムは行くことができたのでしょうか。
行き先を、主は知っていました。
ただ、アブラハムに知らせなかっただけです。
アブラハムはまず出かけました。
すると、次の場所が示されました。
一つのドアを開けると、次のドアが見えてくるのです。
多くの人はゴールを知りたがります。
それは、「そのとき」に主が示してくださいます。
まずは、「そこから出る」ことです。
第一歩を踏み出さなければ次の道は見えてきません。
 
かつて
「服部は石橋を叩いても渡らない男だ。」
と言われました。
今は少し変わりました。
一歩踏み出さなければ、行動を起こさなければ何も始まらないからです。
一歩踏み出すところから、物語は始まります。
信じて行動を起こすことで、主は祝福しようとしておられます。
まだ信仰を持っておられない方に、よく
「だまされたと思って、やってみませんか?」
とお誘いします。
それを受け止めて、チャレンジして、人は変わっていきます。
アクションを起こさない人は変わりません。
「道が見えたら従います」
という人には、道は見えません。
扉を開けるのが「信仰」です。
 
ある場所に
「一歩前へ」
という張り紙がしてありました。
自動ドアの所だったのですが、センサーがうまく働かないらしく、ドアのすぐ前まで近づかないと開かったのです。
遠くに立っていたら、いつまでたってもそのドアは開かないでしょう。
 
一歩前へ。
それが信仰の表れでうs。
主は行き先を示さずにアブラハムは旅に出ました。
創世記の21章を読むと、アブラハムがいろんな経験をしてことがわかります。
失敗、争い、決別・・・父の家では決して知ることができなかった経験をしました。
祝福も、困難もです。
主がそれらを通してアブラハムを導きたかった場所は、モリヤの山でした。
 
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります』と答えた。
神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」
22:1、2
 
「これらのこと」とは、アブラハムが経験したことです。
その経験の後に、試練が与えられました。
祝福ではなく。
アブラハムは、主に呼びかけられたとき、
「はい。ここにおります。」
と答えました。
どんな時ににも、主の呼びかけに答えられるように訓練されたのです。
我が子を捧げるようにと命じられた、その無理難題にも、主を信じて実行しようとしました。
 
かつて12章で、祝福の予告がなされていました。
「命じられた地に行くなら、そのようになる」
という予告です。
一歩踏み出したから、アブラハムは祝福の基となりました。
用意された道で、「最善を尽くす」ことによって、神への信頼が養われることが大切です。
み声を聞いて従うこと。
そうすれば、祝福されます。
逆もまた真です。



課題を通して信仰が養われます。
アブラハムは、ひとり子イサクを捧げるという困難にも従いました。
それに対して、アダムとエバは、すべてを与えられていたのに主に聞き従いませんでした。
 
神は愛しておられます。
どんな状況でも。
 
「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」ガラテヤ3:29 
 
私の経験すべてが祝福につながったという理解をしましょう。
病であろうと、事故であろうと、出会いであろうと。
「こんな経験をしなければよかったのに。」
と思うこともあります。
しかし、その経験をしなければ、決してわからなかったことがあるはずです。
失って初めて気づくこともあります。
「何かがうまくいくこと」「健康」「長生き」が祝福なわけではありません。
「非の打ち所のないクリスチャン」に見える人が、よい証人というわけではありません。
キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫になるのです。
苦しみの経験は、同じ苦しみを持つ人を支える大きな力になります。
一人の人は、すべての経験を味わうことはできません。
私にも弱点があります。
だから、兄弟姉妹の交わりが必要なのです。
「自分だけがなぜ?」
と思ってはいけません。
「この痛みは祝福のもとになるものだ」という理解をしたいものです。



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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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