12月30日 年末感謝礼拝

ヨシュア記 24章14〜18節
「私と私の家は主に仕える」



 
2012年最後の礼拝となりました。
1年を振り返りながら新しい年に思いを巡らす時です。
今年は大きな転機のあった年でした。
 
結婚式が行われました。
国際結婚です。
日本とブラジルの架け橋が、もう一つできた喜びの年でした。
また、ふたりの赤ちゃんの献児式がありました。
ちょうどその日に、もう一人新しい赤ちゃんも教会に集うようになり、3人の同世代の赤ちゃんが加わったことになります。
今年は教会の取り組みとして、アワナクラブを本格的に始めました。
教会の草創期にクリスチャンになった方たちが40代、50代になり、その子どもたちが教会の働きを担うようになっています。
さらに、その次の世代が教会の中で育っています。
 
2005年にこの会堂の献堂式が行われました。
その翌年、大治GCが西教会とひとつになって、再スタートを切りました。
そして、今年、大治GCの新しい会堂を建てることができました。
主はそのように私たちを祝福してくださいました。
 
一方でUさんという重要なメンバーを外に送りださなければなりませんでした。
仕事の関係上、いずれそのような時が来ると覚悟をしていましたが、最初は千葉。
それから茨城、そして、気仙沼へと今遣わされています。
教会に突堤は損失かもしれませんが、それは主からのチャレンジでもあります。
つまり、被災地に大切案人材が加えられたことになるからです。
広い視野で物事を見ることを教えられます。
最近、3人の方から「推薦状を書いてほしい」と依頼されました。
TCU(東京基督教大学)を受験するためです。
先日TCUから電話があり、ぜひご挨拶に行きたいと言われました。
面接官でもあった中沢先生とおっしゃる方ですが、ちょうど郷里に帰る途中とのことでした。
「3人も送って下さりありがとうございます!」
と言われました。
3人も・・・確かに、元気な世代の若者3人が教会からいなくなるのはさみしいです。
が、広い世界で、たくさんのものを吸収してもどってきてくれるようにと願っています。
 
さて、今日の聖書のみことばで、ヨシュアは民に大きな決断を迫っています。
モーセが奴隷状態のイスラエルの民を、主からの使命を受けて脱出させました。
彼らはヨルダン川を越えて約束の地へ入るはずでした。
それなのに、ことは思ったようには進みませんでした。
シナイ山のふもとで足止めされたからです。
それは、主が、新しい国の骨格となるべく十戒を与えようとされたからです。
シナイ山に上って行ったモーセは、民が思っていたよりも長くかかりました。
すると民は
「エジプトへもどろう。」
「エジプトの神々を拝もう。」
と思い始めました。
 
これは私たちへの警告です。
信じて従い、祝福を見ているのに、想定外の困難があると、クリスチャンになったことを「損」だと思う心が起こるのです。
「エジプトには肉があった。」
と、二心が生じます。
 
その結果、出エジプトの時点で2歳を超えていた者は、約束の地に入ることができませんでした。
いよいよカナンの地に入ろうというときに、偵察に行った12人のうち、10人は消極的でした。
ヨシュアと彼部の二人だけが、たしかにそこが「乳と蜜が流れる地」だと証言したのです。
その後40年間、荒野をさまようことになりました。
若い世代とともに約束の地に入ろうとする全身のさ中、ヨシュアは民にチャレンジして言います。
 
「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」
24:14,15
 
今の私たちにも、主は問われます。
「誠実と真実とをもって主に仕えなさい。」
と。
先祖たちが川の向こうで、エジプトで、仕えた神々を除き去り、主につかえるように。
 
なぜヨシュアはこんなことを言ったのでしょうか?
それは、民がエジプトの神々の一部をもってきていたからです。
彼らの生活習慣の中にエジプトでの経験がありました。
モーセを待つ間に作った金の講師は、自分たちの装飾品を集めて作りました。
エジプトで見て、拝んでいたから、記憶の中にあったから、再現できました。
出エジプト後も、親が古い異教の神に仕えていた習慣の影響が残っていたのです。
それを「除き去り、主にのみ仕える」という決断を迫ったヨシュア。
 
今年は年始に郷里にもどる計画をしています。
夏に家内の実家に寄った時、
「最近帰省していないですね。」
というと、
「3年帰ってないわよ。」
と言われてしまいました。
家内の両親には先祖代々の仏壇もお墓もあります。
が、娘である家内が牧師に嫁ぎ、それを受け継げないこともわかっています。
「私たちの代で何とかすることは難しい。
でも、あなたがたの代になったら自由にしなさい。」
と言われています。
クリスチャンホーム2代目、3代目の方たちは、今日の言葉を覚えておかなくてはいけません。
「主に仕えるのを妨げるものを取り除く」
という心構えが必要だということを。
決して先祖を軽んじるということではありません。
が、自分の代で決着をつける覚悟、長期的な計画が必要なのです。
「自由にしなさい。」
という時が来た時に、一族がみなそうなれるように変えていけます。
その時に決断が要ります。
喧嘩するのではなく、
「私と私の家は主に仕える。」と言えるように若い時から基礎を作っていくことが大事です。

ヨシュアは
「今日選びなさい。」
と決断を迫りました。
これは、今、皆さんに言われていると考えてはいけません。
明確に決断を問われる時がくるということです。
右か、左か。
選ぶ時が来ることを覚えておかなくてはなりません。
ヨシュアは、
「私と私の家は主に仕える。」
と言いました。
それに対して、民はどう答えたか、注意して見てください。
 
「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」24:16
 
これはあいまいな言葉です。
「ほかの神々を捨てて、主に仕える。」
とは違う言い方です。
クリスチャンの中にもこのような思いが残ってしまうことがあります。
また、選べる立場にない人は選べません。
「私は」とは言えても、「私の家は」とまでは言えない立場の人もいます。
 
その理由は
「私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行ない、私たちの行くすべての道で、私たちの通ったすべての民の中で、私たちを守られた方だからです。」24:17
 
ここには落とし穴があります。
「守ってくれたから」神を捨てることはないという民。
では、困難が起こったら?
心が主から離れる可能性があります。
しるしや奇跡を求めるあやうさはそういうことです。
 
ダニエルと3人の友人は、王から金の像を拝むようにと命じられます。
従わないと、燃える炉に投げ込まれると。
それに対して彼らはどう答えたでしょうか?
 
「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
ダニエル3:17,18
 
「もし、そうでなくても」
これが、主に仕えるということです。
自分にとってうれしくないこと、困難があると
「神は私を見捨てた」
と思いがちですが、それは違います。
それさえ用いて大きな祝福を下さる方だと信じるのが信仰です。
 
ヨシュアは、民の答えを聞いた後、
 
「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。
もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
24:20
 
と言いました。
民に信仰がないわけではありません。
しるしも見てきました。
それでも、揺さぶられるのです。
人生には祝福も、痛みも、悩みもあります。
それはさらに大きな祝福への準備です。
よく、私たちは「ご利益信仰ではない」と言います。
今は苦しみの意味が分からないかもしれません。
わからないままこの世を去ったとしても、それは子、孫に受け継がれるものだと思います。
 
祖父加藤ヨシオ、シズエが初めてクリスチャンになって、今、ここに私がいます。
忘れられない思い出があります。
私が神学校に進もうとするときだったと思います。
祖父を訪ねると、祖父は涙を流しながら祈りました。
20歳の時に人生に悩んだとき、プレゼントされた聖書を読み、創造主を知ったこと。
それが今では孫が主に仕えるために神学校に行こうとしていると。
正直言ってその時の私は少しさめた目で見ていました。
でも今はわかります。
長い年月を経て、主はこういう祝福を与えてくださるということが。
 
誠実に主に仕えること。
主がすべてを意味のあるものとしてくださると信じること。
 
今、多くの教会は閉塞感を感じています。
消極的になり、後継者がいないことを嘆いています。
そんな時代に主を畏れ、主に仕え続けること。
私たちが頑張ったからではありません。
主に仕えるのがどれほど素晴らしく、主がどれほど祝福してくださるかを証できるのは幸いです。
 
2013年には南教会に牧師が招聘され、支援が一区切り付きます。
そこで、尾張旭教会とのパートナーシップを進めようとしています。
押しつけにならないように。
ともに考え、労苦していくことによって、多くのことを学ぶことができます。
生活の中に影を落とすこの世の価値観、この世の圧力、発想は大きな影響を持っています。
クリスチャンは、常識人でなくてはならないですが、常識に縛られることなく、あらゆることを受け止めて前進していきたいと思います。
 



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12月23日 クリスマス礼拝

ルカの福音書 2章8〜20節
「救い主の誕生」
 
イエスキリストの誕生を考えるとき、「一人子をお与えくださった」という事実はひとつですが、どの視点から捉えるかで異なる見方ができます。
イエスの誕生をどのような立場で祝い、かかわるか。
父母として。
その周辺で分ちあう人。
直接関わらないけれど遠くから見守る人。
などなど。
今日は、馬小屋の飼葉桶のところに導かれた羊飼いたちに焦点を合わせて見ていきましょう。
 
この頃、イスラエルの全ての人が、本籍地に戻って人口登録をするために故郷に向かいました。
ちょうど日本のお正月のように民族の大移動が起こりました。
その中で、羊飼いたちは四番をしながら羊を見守っていました。
彼らは世の中の変化にかかわらず、普段と同じ生活をしていました。
 
「想定外」という言葉が流行りましたが、この羊飼いたちは、政府にとって人口登録の「想定外」でした。
彼らは故郷を持たない遊牧民だからです。
羊飼いたちはちょうどその場にいあわせた人々でした。
人生は想定外のことが起こります。
それはクリスマスのメッセージの大事なこことです。
イエスの誕生に携わった人々に、想定外なことが起こりました。
やがて思いめぐらした時に
「この時のためだったのだ!」
とわかるようになるのです。
それを受け止めていくことが大事です。
 
たとえば、マリヤはヨセフと結婚の約束をしていました。
ところが一緒になる前に身重になりました。
想定外です。
平和な生活に大きな嵐が襲いました。
ヨセフは正しい人だったのでマリヤを去らせようとしました。
ところが、主は、ザカリヤとエリサベツを用いて、髪のとって不可能はないと教えられました。
ザカリヤたち夫婦に長いあいだ子が与えられなかったのは、姪のマリヤのためだったのだと、その時気づくのです。
今はわからないことがあったとしてもいいのです。
人生には意味があります。
全ての経験には意味があります。
このことを知っておくことが大事です。
 
マリヤはおじ、おば、夫に支えられて臨月を迎えました。
ところがその頃に旅立たなくてはならなくなります。
なぜこんなことになったのでしょうか?
 
「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」ミカ書 5:2
 
この予言が成就するためでした。
ユダの地ベツレヘムはダビデの町でした。
ダビデの王家はすでに滅亡しています。
ヨセフはダビデの子孫でしたが、大工でした。
系図によって本人も、ダビデの家系であることは知っています。
だからベツレヘムへ帰っていったのです。
しかし、宿屋がみつからないままに陣痛がきます。
そして馬小屋で出産することになりました。
これも想定外です。
 
御使いはマリヤに、宿った子は「神に与えられた子。救い主になる」と言ったのに、この現実との開きはどうでしょうか。
王が、馬小屋の飼い葉桶に寝ているというこの現実。
マリヤとヨセフは不安だったことでしょう。
「なぜ?」という思いがぬぐい去れなかったと思います。
 
では、なぜでしょうか?
それは「しるし」のためでした。
 

「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
2:12
 
羊飼いたちが救い主を見つけ出すための印のために。
帰省している人々でごったがえす町。
そこを探し回る羊飼いたち。
彼らに与えられたヒントは
「今日」
「飼葉桶」
「布にくるまって」
でした。
番地がわかっているわけではありません。
町中探したことでしょう。
想像してみましょう。
 
「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」2:16
 
彼らは探し当てました。
ではなぜ彼らは来たのでしょうか?
マリヤとヨセフは突然羊飼いたちがやってきて、驚いたことでしょう。
 
「それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。」2:17
 
突然の訪問の意味を聞いたマリヤたち。
神を信じていても、不安だったマリヤとヨセフに、羊飼いを通して主はご計画を知らせました。
「飼葉桶」にも神のご計画があったのです。
 
救い主を育てるちょいう大きな使命を担うために、主は、ヨセフを、ザカリヤとエリサベツを、羊飼いを、マリヤのもとに遣わしてくださいました。
神の計画を知らせるために。
 
「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」
2:18,19
 
人々は驚き、マリヤは思いを巡らしました。
不安に襲われ、とまどいの中で、神が導き、支え、成就させてくださっていることを。
 
マリヤの視点で学んでみましょう。
私たちにも使命があります。
それなのに障害があります。
それでも、そこに神の美心があります。
劇的な状況の変化ではなく、兄弟姉妹によって支えられます。
 
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ 8:28
 
これが御子の誕生を通して示されたメッセージです。
マリヤはひとつひとつ経験して、心に納めながら、世にキリストを送り出していきました。
今与えられている人生の営みの中にも一抹の不安があるかもしれません。
どん底や暗闇の中のように感じている人もいます。
そんな時にも、主は導かれます。
今のことが、どのように祝福につながっていくのかを考えながら取り組んでいきましょう。
 



12月16日 聖日礼拝

ピリピ人への手紙 2章1〜11節
「神のあり方を捨てて」
 
大治GCのオープンチャーチが昨日今日と行われています。
地域に5,000枚のチラシを入れました。
 
11月末の協議会役員会では、渡波に教会を建てようということで意見が一致しました。
今まで被災地を支援してきた団体は、12月でほとんどが撤退していくそうです。
生活は安定してきましたが、まだ問題がある被災地で、支援の拠点として用いられるように。
渡波の中心地に120ツボの土地が売りに出ています。
万石浦(まんごくうら)は津波で浸からなかった地域です。
海に近いのですが、高い場所にあるからです。
2013年夏前に教会を作りたいと願っています。
?いま福音自由教会には「国内宣教委員会」がありません。
そのため、年に1回の総会を経なければ物事をすすめることができません。
ひとつのプロジェクトのために全協会が集まらなければならないのでは、なかなか小回りがききません。
そこで、「ミニストリー制」を取り入れました。
少なくとも3つの教会が集まって「ミニストリー」が作られたら、それを福音自由の働きとして認めようというものです。
そこから各教会へアピールをしていくのです。
今回のミニストリーは仙台・古川・名古屋西が働きを進めます。
被災地域の中に入っていき、息長く働きを進めたいと思っています。
 
さて、キリストの誕生に込められた愛のメッセージを学びましょう。
イエスを授かったことは、マリヤとヨセフにとって嬉しいことでしたが、まさに産みの苦しみをしました。
人生設計が大きく揺さぶられました。
が、彼らは信仰を持って受け止めていきました。
それは、アブラハムにまでさかのぼります。
アブラハムはただひとりの子、イサクをいけにえとして捧げる決断をしました。
自分の眼には「なぜ」かがわからないままに、彼は従いました。
納得して、理解できたら受け止められますが、納得できないと従いたくないのが私たちです。
 
しかし、私たちのような小さな器が、神を完全に理解することなんてできません。
例えば、親の支店は子の狭い見方とは違いますね。
神ははるかにすぐれ、洞察力を持って計画を立てておられます。
なぜ、神に従うのか?
それは、信頼しているからです。
この信頼こそが信仰です。
うまく現状を理解できない、納得できない。
それでも、「主がそう言われるなら」従うという姿勢です。
イサクを捧げたアブラハムについては、へブル人への手紙のなかで解説されています。
アブラハムは、主はもう一度回復することができる方だと信じていたのです。
 
経験を積み上げていくことは大事ですが、自分の枠の中でしか物事を見ないとしたら、信仰の意味はどこにあるのでしょうか?
不可能だと思う私たちに、「神には不可能はない」とおっしゃいます。
不可能を可能にできる方。
一人子の御子を送ってくださった方。
みこにより、私たちはすべての罪が赦され、神の子、神の民とされました。
天に国籍を持つ神の民と。
 
中高生の頃、スタッフが
「○○くん、いま死んでも、すぐに天国に行けると思う?」
と質問しました。
「わからない」
と答える人が案外多くいました。
十分に教わっていないと、うまく答えられないのでしょう。
 
神の子は神の民です。
私たちのほとんどが日本人ですが、なぜ、何をもって「日本人」と言えるのでしょうか?
一般的には「日本人の両親から生まれた」「日本という国に出生届を提出した」ということでしょう。
登録しなければ「国民」にはなりません。
時々、届けを出さなかったために「無国籍」の人がいます。
 
イエスを救い主として信じるときに、神によって新しくされます。
神によって生まれたものが神の民です。
神の民となった証が告白とバプテスマによって公にされます。
私たちが神の民であるという事実を奪う物は何もありません。
その人の背景、出来不出来に関係なく、神の国に入ることができます。
私たちは、神の民として、
「福音にふさわしく生活しなさい」
と命じられています。
 
罪が私たちの本来のすばらしさを台無しにしてしまいました。
御国の民にふさわしく生活しようとすると、地上では軋轢を生じます。
反対に合います。
行く手を阻まれます。
 
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
2:2〜3
 
一致を保ち、愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにする。
このことを勧めているということは、逆に言えば現状としてそれらが足りていなかったということです。
放っておけば自然に「愛」「一致」「志」がひとつになると思い込んではいけません。
これらは、はじめからあるものではなく、作り上げていくものなのです。
教会の中も、外と同じです。
世で起きていることは教会の中でも起こります。
ただ、私たちには、神の民として目指す共通のヴィジョンがあります。
そこで一致を「保って」いく必要があります。
愛の心はあっても、興味の持ち方は違います。
例えば、礼拝後食事を共にしていますが、そのことによって負担を感じる人もいて、食事はしないほうがいいと考える人もいます。
同じ間の子おkろを持って、どうやってバランスを取るのか?
心を合わせるということは、「ピントを合わせる」ということです。
バラバラに見るのではなく、「ここに向かっていこう」という焦点を共有することです。
 
震災直後は自治体も教会に対して好意的で、支援をしながら公民館などでも福音を語ることができました。
が、今は「賛美歌は歌わないでほしい」と言われます。
冷たい扱いでしょうか?
私は当然のことだと思っています。
様々な宗教団体が支援をしている中で、キリスト教会だけ許すことはできません。
いかがわしい宗教にノーと言えなくなるからです。
公私をわけているのです。
実際、営利目的で入り込もうとする人々もいます。
それだからこそ、自由に福音を語れる拠点が必要なのです。
 
今まで西教会は、村井伝道師とともに、南教会を応援してきました。
南教会に牧師が招聘されることになり、同じように尾張旭の協力をしていこうと考えています。
いま、大治と尾張旭は同じぐらいの人数ですが、大治は西教会とともに大きな交わりの中で守られているため、安定しています。
心を合わせていくことが大事です。
教会として「ここに向かっていこう」とい、志をひとつにすることです。
私たちの教会の志は
「自分にできることで主にお仕えしていこう」
です。
それを絶えず自覚していないと崩れていきます。
 
「自己中心や虚栄からすることなく」
と書かれています。
一生懸命やること自体はすばらしいことです。
しかし、それが自己中心や虚栄からのものであれば、神から報いを受けられません。
神様に褒められる行き方をしましょう。
「見られたくてする」ことを超えていきましょう。
見られなくても大切な働きだからするのです。
見えない働きが大切です。
御子を通して「自分のあり方を捨てられない」とは考えず、仕えることが大切だと教えています。
多くの人々は認められたい、大事にして欲しい、報われたい、と心の中で思っています。
動機がそれだとしたら、それは「ただの人」ではないでしょうか?
神に「よくやった忠実なしもべだ」と言われるようにしたいと思います。
 
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、」2:6,7
 
ここに私たちへのメッセージがあります。
自分のところに集める生き方ではなく、人のために捧げる生き方です。
 
 
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45
 
これはキリストの誕生にかかわることです。
御子は仕えるために、神のあり方を捨てられました。
主は、「偉くなりたいものは仕えなさい」と、主は言われます。
本気で世の中を変えたいと思うなら、しもべになる必要があります。
だれでも自分の課題はわかっています。
問題は、分かっていても、泥をかぶり、汗をかく人がいないということです。
 
主はアブラハムを選び、ダビデを立て、御子さえもお与えになりました。
それは罪の解決のためでした。
「イエスは救い主である」ということを伝えるのが、もうひとつの告白です。
 
「すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
2:11
仕えることを通して、イエスが私の主であり、模範であることを告白することが大事です。
これは、クリスチャンになったkら、即できる・・・というわけではありませんが、志を持っていれば、「伝える」生き方を身につけることができるようになります。
キリストは自分んお人生の主だあと告白し、その模範にならって、人に仕える者となれば、祝福をいただくことができます。
救いを分かち合い、賜物を用いて仕え合いましょう。



12月9日 聖日礼拝

マタイの福音書 1章18〜25節
「主の使いに命じられたとおり」
 
毎年クリスマスを迎え、特別なこととして考えるとき、「当たり前」のことを思い出すことが大切だと思います。
クリスマスはイエスさまの誕生の記念日です。
「誕生」の日は特別な日とも言えますが、今の私たちの現状はその記念日に大きく変わりました。
「当たり前」になると、不平が多くなって感謝しなくなります。
人生は「良いこと」「そうでないこと」のどちらか一方だけではありません。
大事なのは、どちらに心を留めるかということです。
「良くないこと」を無視すればいい、ということではありませんが、「良いこと」に目を留めると感謝の心が広がっていきます。
意識して普段の生活の中で目を止めていくことができるのは幸いなことです。
 
日本でもクリスマスは市民権を得ています。
お寺でもクリスマスを祝うと聞きました!
それはどうかと思いますが、確かにクリスマスの意味合いが変わってしまいました。
なぜクリスマスにお店でバーゲンセールなのでしょう?
地域の方へ、一年間の感謝としてプレゼント・・・というならまだ意味があるかもしれませんが。
 
今日はイエスキリストの誕生に込められたメッセージに心を留めたいと思います。
 
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
1:20〜23
 
御使いによって、その意味が告げられました。
これから生まれる子に「イエス」とあらかじめ命名されました。
先日私たちの教会で献児式が行われました。
子どもが生まれて親がまずすることは、
「名前をどうしようか?」
と考えることです。
子の存在を意識し、なんと呼びかけるか、考えます。
まさか「赤ちゃん」と呼び続ける人はいないでしょう。
法律では2週間以内に出生届を出すことになっています。
名付けはしなければいけません。
そこには親の期待、願いが込められています。
そして、救い主誕生の時、名前を決めたのは、ヨセフとマリヤではなく、一人子を遣わした神ご自身でした。
そのメッセージは「インマヌエル」でした。
存在そのものが「インマヌエル」であると。
これはへブル語で「神は私たちとともにおられる」という意味です。
神は遠い存在ではないと。
 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4
 
神はこの愛の証として御子を遣わされました。
神が共に人生を歩んでくださるというメッセージです。
 
私は20代、研修生だった頃に腹話術を学びました。
春風みよさんが教会に来られたとき、私に
「やった方がいいですよ!
先生には才能がある!」
と言われたのです。
理由を尋ねると
「なんとなくそう思った」
というのですが、やや出っ歯気味なのがいいらしいです。(笑)
すると、教会のご婦人が
「ぜひやったらいいですよ!」
と勧めてくれました。
倉庫に人形が眠っているというのです。
安藤先生の遺品ということでした。
こうして、師匠に紹介されて、初めて腹話術を教えてもらったとき覚えたフレーズを今でも覚えています。
それは、
「クリスマスはおめでとうじゃなくて、ありがとうだよ!」
というセリフでした。
台本をもらってなるほどと思いました。
 
クリスマスに対する人々の捉え方が間違っています。
「誕生」を祝うのは周りの人です。
子どもが生まれたとき、親となった夫婦に
「おめでとう!」
と言います。
言われた夫婦は
「ありがとう」
と言うでしょう。
「この子を与えてくださって、神さまありがとう!」
と言うはずです。
 
クリスマスの意味を受け取ってない人は「おめでとう」と言います。
受け取った私たちは「ありがとう」と言います。
これがクリスマスにとってカギとなる言葉です。
 
クリスマスの度に思うことは、その使命を負ったマリヤの気持ち、イエスの幼少期を支えたヨセフの気持ちです。
彼らへの感謝と敬意を抱きます。
「子が与えられた」と最初に気づくのは女性です。
いつそのことを夫に伝えようか?と考えます。
父親はある日突然知らされます。
その時、嬉しさと戸惑いを感じるでしょう。
 
ヨセフは戸惑いました。
若い夫婦が信仰をもって受け入れたということを忘れてはいけません。
悩みながら選び取った信仰です。
この夫婦の応答がなければ、救いは実現しなかったのです。
主は私たちを用いられます。
 
産みの苦しみをするのは女性です。
男性である私は、心は痛めますが、体は痛くありません。
ヨセフは心の苦しみを感じていました。
 
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
1:18〜19
 
ヨセフはこのように決めた直後に夢の中でメッセージを聞きました。
 
決めても迷いがあるのが人間です。
100%の決断はできません。
右か、左か、前進するか、やめようか。
様々な状況を思い浮かべると葛藤が生じます。
ふたつの思いの中で一つを選び取るのが決断です。
でも、決断したとたんにもう一方が思い浮かびます。
これが私たちです。
決める前も、決めたあとも、悩むのです。
決めたら決めたで
「それが最善だろうか?」
と悩みます。
が、私たちはそれが最善だと信じていいのです!
「主の御心は何か?」を考えて選んだのなら、それをよしとするのが信仰です。
振り返ってはいけません。
御使いは、ヨセフが目を留めていない神の現実を示されました。
 
それは「ダビデの子、ヨセフ」という呼びかけで始まっています。
救い主は、アブラハムの子、ダビデの子孫から生まれるという伝承がありました。
ヨセフもそれを知っていました。
が、まさか自分がそれだとは思いませんでした。
神が特別に用意した救い主だから、受け止めるようにと御使いは語りました。
 
「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
1:24,25
 
ヨセフの人生に私たちの生活を重ね合わせましょう。
「幼子」はヨセフの人生に暗い影を落としました。
が、それを喜びの出来事として受け止めなおすことができたのです。
妻を去らせようと思ったヨセフが、命じられたとおり妻として迎え入れました。
こうして使命を共有したのです。
大きな変化は主の使いに命じられたことを信仰を持って受け止めて、決断したことです。
もっとも大切なのは、神の言葉によって物事を選択して決断することです。
 
私たちは、この1年、様々な決断をして来ました。
その時、主の使いの命じる言葉を聞いてきたでしょうか?
聖書の言葉が思い浮かんだでしょうか?
主はどう願っているか、聞いたでしょうか?
ヨセフのように決断する必要があります。
御言葉と励ましによって決断するなら誤りはありません。
主は用いてくださいます。
これがクリスマスに込められたメッセージです。
 
悩みはあります。
失敗もします。
それがない人生はありません。
どんな状況でも主が導いてくださると信じていくのです。
 
カーナビは素晴らしいと思います。
行ったこともない場所にもカーナビは導いてくれます。
交差点では曲がるタイミングを教えてくれます。
でも、うっかり手前の信号で曲がってしまうことがあります。
すると、すごいことに、カーナビはしばらく迷ったあと、新しい道を示してくれるんですね!
 
同じように、神のご計画の道は1本ではないことを思います。
間違って選択しても、そこからもう一度立て直してくだるからです。
神が共におられることを知らないことが問題です。
神はすべてを働かせて自生を再構築してくださいます。
信じて一歩踏み出すことが大事です。
それがヨセフの決断でした。
そして、ヨセフの決断が「救いの道」を開き、それが私たちにまで届きました。
思いがけないことに直面したとき、その中から立ち上がれる祝福を主がくださることを、しっかり心に握って感謝したいと思います。



12月2日 聖日礼拝

創世記 22章15〜19節
「あなたの子孫によって祝福を受ける」
 
待降節に入りました。
私たちは救い主の誕生を受け止め、イエスが成人してから3年の宣教の後十字架にかかり、救いが完成したということを知っています。
ですから、「待降節」ということばは現在ふさわしくないかもしれません。
が、かつて救い主を行く世代も待ち望んだ思いを共有することはできます。
私たちが主の再臨を待ち望む進行の姿勢を重ね合わせて味わいたいと思います。
 
再臨は救いの完成の時です。
私たちはその時にふさわしく成長するように導かれています。
 
「それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、
仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。」
22:15〜19
 
ここはアブラハムの生涯のクライマックスと言えるでしょう。
神のご計画は壮大です。
現代は、便利で早くすることがよいとされる時代です。
忍耐強く待つことが難しい時代です。
「待つこと」に大事なメッセージがあります。
主は、アブラハムを選び、救い主につながる人物として訓練し、「信仰の父」となるべく導かれました。
 
「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」
12:1〜3




これは、何も始まっていない時に、アブラハムに語られた言葉です。
もし従うならこうなる、と言われたのです。
12章から22章の間、アブラハムは実際に何処へ行くかわからないまま踏み出しました。
祝福と試み、戦いがありました。
それらは祝福の基となる訓練でした。
そして、一人子のイサクを捧げるようにというチャレンジを受けたのです。
 
私たちも神の子とされる祝福を受け継ぐものとなりました。
そして、その後の生涯で、いろんな経験を重ねていきます。
信仰をもったら、すべての問題が解決すると考えておられるでしょうか?
クリスチャンといてども、少なくとも、苦しみや悩みに直面することはあるし、病気にだってなります。
すべての営みの中に主がおられることを実感するとき、信仰が成長します。
 
アブラハムは、踏み出すところから信仰が始まり、いろいろなところで種が働かれることを実感しました。
だからこそ、モリヤの山で従うことができたのです。
主が示す地とは、「モリヤの山」だったのではないでしょうか。
祝福の基とするために。
 
聖書の祝福は、どんな状況でも主がおられるから乗り越えられます。
前に一歩踏み出せます。
 
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28
 
これは、ご利益を求める信仰とは違います。
必ず祝福してくださるという全き信仰です。
自分のもっとも大切な遺作を捧げる信仰へと、主は導かれました。
そして、主も
「私も同じようにしよう」
と言われたのです。
 
アブラハムが素晴らしい人だったから・・・というわけではありません。
主がアブラハムを導かれたように、私たちも導いてくださいます。
アブラハムがいただいた祝福は、イエスを通して私たちに与えられる祝福です。
今日の私たちにも受け継がれています。
 
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
ガラテヤ3:26〜29
 
信仰によって救われ、永遠の命を持っています。
そして、アブラハムの子孫になっています。
同様に、私たちを通して祝福をもたらしてくださいます。
主が共におられる経験をすることによって、悩みや苦しみの中でも前に進んでいけるのです。



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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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