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12月25日 クリスマス礼拝

ヨハネの手紙第一 4章 7〜16節
「私たちに対する神の愛」



 
 
先週は、私を含めて9名が石巻に行き、石巻クリスチャンセンターの準備をしてきました。
内容は、保管されていた物資を、必要な物と不要な物に仕分けし、箱詰めして移動するという作業でした。
今日はクリスマス。
華やかに祝う教会もあれば、お年寄り数名で教会を守っているところもあります。
恵みを頂いている私たちは、愛を世の人々に与えていく使命が与えられています。
イエス様は神のあり方を捨てることができないとは考えないで、この世に来て下さいました。
今回、私もある意味でそのイエス様に習おうと決断しました。
この教会の牧師である私が、燭火礼拝をパスして、石巻でゴミの片付けをしていたのですから。
それは、牧師が不在でも集会ができ、新しい方を迎える力があるからです。
そして、誘われて石巻の教会の燭火礼拝に参加してきました。
私たちが参加することで、10名を越える礼拝になり、教会の方々を励ますことができました。




 
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
4:9




 
神は世界を愛しておられます。
このことを、本当の意味で自分のこととして受け止めていく必要があります。




 
私は中3の時に個人的に主と出会うという体験をしまいた。
クリスチャンホームで育った私にとって、神が世界を愛しているということは自明のことでした。
しかし、だれでもない「私」を個人的に愛を持って受け入れて下さっている、主の愛の豊かさ、深さを忘れていました。
ふたつのできごとを通して、私は罪を示されました。
 
その一つは「自分の願望をなしとげたい」という思いでした。
部活動の大会が日曜日に行なわれると、私は出場できませんでした。
そういう大会で、自分より実力のない人が賞を取ったときのジェラシー。
「もし自分が出ていたら・・・」という思いに、私は気づきました。
 
もうひとつはクラスの中でのいじめでした。
いじめにあっていたMさんをかばったことで、
「おまえ、Mさんが好きなんだな?」
と言われ、かばいきれなくなりました。
自分は正しいことをしているのに巻き添えを食うのはいやだ、という思いが起きてきました。
まさに、
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」
ローマ7:18,19
というパウロの言葉は自分のことだと気づかされたのです。
そして、この私のために、イエスが十字架にかかって下さったことを信じました。




 
私たちは、聖書の言葉を他人事のように客観的に聞き過ぎます。
創造主が、あなたを、わたしを、愛してるということを本気で受け止めていますか?
まっすぐな気持ちで受け止めたいと思います。
 
人生には痛みや苦しみがあります。
日常的に悲劇は起きています。
遠くの被災地だけでなく、身近な兄弟姉妹にも苦しみはあります。
私たちは、ひとりひとりに神の愛を伝える責任があります。




 
いのち、とはすなわち交わりです。
イエスは交わりを回復させてくださいました。
目に見えない神をどう愛すればいいのでしょうか?
神は御子を遣わし、私たちと同じ「人」として生涯を歩むことで、言葉と人格によるみ業を通してご自身を現して下さいました。
では、御子のいない現代、どうやって目に見えない神を知るのでしょうか?
御子はクリスチャンをこの世に使わして下さっています。
私たちの言葉と証と人格と、愛の業を通して、ご自身を現そうとしておられるのです。



 
 
被災地で耳にしたできごとです。
多くの人の心と目が、今すでに被災地から離れていっています。
石巻の中心地のスーパーには物が豊かにあります。
ところが、そこから数キロ離れたところでは、津波で家を流された地域があります。
石巻には3つの地域があるといいます。
全てを失った地域。
物はなくしたが、2階は残った地域。
油化し上浸水したので、家財は失ったが、生活はできる地域。
沿岸部には、食べ物にも事欠く人々もいます。
そういったかたたちに物資を届けると、受け取る人は
「あなたはクリスチャンですか?」
と聞くのです。
言い換えれば、その値を訪れる人は、今ではもうクリスチャンしかいないという意味です。
私たちは一時的な感情や熱意で行なうのではなく、神の愛によって、その地に教会が建てられて、支援を継続していけるように続けていきたいと思います。



 
 
いのちとは交わりです。
神が私を愛していることを、御子を通して信じた私。
私も神を愛する者になる・・・これが交わりです。
「同じように人を愛しなさい」と主は言われます。
具体的に愛を示すなら、目に見えない神が見えるようになります。
これが愛の宣教です。



 
 
「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」
4:14,15



 
 
いのちを与えられた私たちが、その愛を伝える者になるのです。



 
 
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」第1ペテロ4:8
 
とも言われています。
主は私たちを用いようとしておられます。
過ちを指摘するだけでなく、光と希望を与えるために。
物を配るだけでなく、復興するために。
罪は私たちの心を冷やします。
圧倒的な困難に「もうダメだ」と思います。
愛は温もりと力と勇気を与えます。



 
 
「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」マルコ16:15
 
この「全世界」の中心はどこでしょうか?
まず、私たちが神の愛に満たされて愛に生きるときに、「世界の中心」が変ったことになります。
家族のために祈り、語り、愛を示すことによって、それが広がっていきます。
人によって力はまちまちです。
大事なのは世界の中心は「私の内側にある」ということです。
 
身近な課題の解決のため、共に生き、祈る仲間を作りましょう。
神の愛が満ちるように祈りたいと思います。
「教会」を越えて、あちこちの課題のためにも。
また、地域で助けを必要としている教会に協力して、「出て行く教会」「遣わされる教会」になりたいと思います。



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12月18日 聖日礼拝

エペソ人への手紙 1章1〜6節
「神による救いのご計画2」



 
 
この時期、イエスの誕生を通して神がどれほどの愛を示してくださっているかを知りましょう。
クリスチャンであることがどれほど光栄で幸せなことかを知っている人は幸せです。
それを知らない人は世の人と同じように歩んでいることになります。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3




 
とあるように、救いの恵みを知ることが大切です。
永遠の命とは、神と御子キリストを知ることだからです。
命とは双方向の交わりです。
恵みを受けたことへの応答として、私たちは献身するのです。




 
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」1:3




 
「神は全ての霊的祝福を使い尽くしてしまったので、天は今空っぽだ」
と言う先生がいました。
それほどまでに大きな祝福を見ようともせずに、小さな祝福やご褒美を追い求めているのが私たちではないでしょうか。




 
最近見たテレビで増税について論議していました。
各世代毎に不満があるようです。
高齢者は年金の問題。
中年世代は子育てや教育費のこと。
若者は、働いても暮らしていけないワーキングプアの問題。
どこにも感謝の声はありません。
求めたいことはたくさんあります。
各々の主張は間違っていません。
でも、主張だけしていたらどこに解決があるのでしょう。




 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
イザヤ43:4




 
と言われる方が、ご自分の御子イエスを、救いの実現のために世に与えてくださいました。
天の全てを用いて、歴史の中でみ業をなしてこられたのです。
私たちは「持って」います。
何のためにそれを用いているでしょうか?
神は惜しみなく用いて祝福してくださいました。
この理解を取り戻したいのです。
 
主は私を大事に思っておられる。
だから自分を大事にしましょう。
「自分なんてどうでもいい」
というのは、神の恵みを無駄にすることです。
健全な誇りを持ちたいと思います。
主が目を留めていてくださいます。
そこに人生の価値を見いだしたいのです。




 
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
1:4,5




 
ここに祝福のポイントがあります。
4節と5節は同じ事の言い換えです。
1つの視点では十分に描けないから、福音書が4つあるように、違う側面から言い換えているのです。
2つの文を並べることで、より深い理解を伝えようとしています。




 
放蕩息子の話はご存じでしょう。
次男は父の元を離れて、与えられた物を使い果たしてしまいました。
そのとき、「父のもとに帰ろう。使用人の一人にでもしてもらおう。」と決心します。
息子の帰りを待ちわびていた父は、彼を迎えて大宴会を催しました。
これは「もう一度子にしよう。」という父なる神の心を表しています。
自分で「価値がない」と思うほどに汚れていても、主はご自分の子にしようと定めておられたというのです。
「子にふさわしくなったら」という条件はありません。
「ふさわしくない者がふさわしい者にされた」ということが大切です。




 
ある統計によるとクリスチャンの「平均寿命」は3年だと言われています。
救いにあずかった者が、去らずに教会生活を続けている平均年数は3年だと。
一時的な困難で教会に来れない人はいますが、幸い私たちの教会にはあてはまりませんが。
主は、「救う」だけではありません。
 
バプテスマを受けたら安心する・・・という現象があります。
多くのクリスチャンの親は、「自分の子が洗礼さえ受ければ」と思っています。
神の焦点は違います。
十字架と復活を信じる時、すでにその人は「神の子」という立場にいます。
 
もし今、イエスが私たちを迎えに来られたとしたら、「ふさわしい者」と言えるでしょうか?
そうは言えないとしても、そうなろうとしているかどうかが大切です。
洗礼は、たとえて言えば「入学」のようなものです。
1週間前まで小学生だった子でも、入学した時から「中学生」と言われます。
まだ何も学んでいなくてもです。
やがてその子は中学生として身につけるべき物を修得して、課程を終了していきます。
同じように、私たちは神のこの立場を得たら、それにふさわしい者に成長することが期待されています。
やがて神の国に招かれるとき、主の前で「○○を学びました。」と言えるようになりたいと思います。




 
私には「恩師」と呼べる先生が何人かいます。
そのような先生を自分の教会にお呼びすることはなかなかできません。
薫陶をうけてきたのに、「まだこんなことをやっているのか。」と言われたくないと思うからです。
よく見せたいという意味ではなく、与えられた物に対する感謝の表れとして、良い実を結びたいと願うのです。




 
私は神の前で清く傷のない者になっているだろうか?




 
少なくともそうなりたいという思いがあるだろうか?




 
そうなりたいと思う人は、そうなっていきます。




 
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」第2歴代誌16:9




 
主の心と全く一つになっている人に、主は力を表してくださいます。
あらかじめ定められ選ばれているのは、実を結ぶため、神の子にふさわしくなるためです。
今現在どうであるかが問題ではありません。
私たちには成長の機会が与えられています。
弱さ、痛み、苦しみで意気消沈することなく、大胆に主に仕えていきましょう。
神が求めておられるのは、父がほめたたえられることであるということを覚えつつ。



12月11日 聖日礼拝

マタイの福音書 6章 1〜4節
「あわれみ深い人は幸いです」
 
                 村井義信神学生

教会に向かうために玄関を出た時、携帯が鳴りました。
かつての同僚からの電話でした。
13年前に一緒に働いていた人です。
「合格した!」
という連絡でした。
税理士を目指して、1年に1科目ずつ、13年かかってやっと合格したという喜びの電話でした。
今日の説教を前に緊張していた私は、それを聞いて雄輝を頂きました。
 
そして教会に着くと、玄関を入った時に電話が鳴りました。
「礼拝は何時にやっていますか?
誰でも行ってもいいのですか?」
という問い合わせでした。
世の中ではまだ教会は信者のためのものだと思われているようです。
なかなか入りにくいのかもしれません。
でも教会は全ての人のものです。
「ぜひおいでください。」
とお返事しましたが、今日ここにおられるでしょうか。
 
3月11日の震災以来、教会から何度もボランティアを送ってきました。
8月に訪れた時は旅館で1日に1,000枚の食器を洗ってきました。
その旅館のおかみさんが信仰を持たれたという話を風の便りに聞きました。
おなかを下しながらお皿を洗う・・・これは小さな「施し」ですが、その話が本当だとすれば、本当に行ってよかったと思います。
一人の人が信仰を持つ時、天では大きな喜びが起こっているのです。
 
さて、今日は山上の説教から学びます。
ここでイエス様は神の民の生き方、考え方を教えておられます。
弟子、パリサイ人、その他大勢の人々にです。
これは信仰の実践編です。
5章では「神の国とはどういうものか」ということを語られましたが、6章では「日常生活ではどうしたらいいか?」を教えています。
 
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」6:1
 
「善行をする」とはどういうことでしょう?
ユダヤ人にとって、「善行」は3つの行為を指していました。
?施し
?祈り
?断食

この3つを行うように教えられていたのです。
パリサイ人は厳格にこれらを守り、人にも守らせようとしました。
イエスはこれに沿って「本当の善行とは何か」を人々に教えられました。
 
施しとは、お金を貧しい人にあげること。
貧しい人のために何かをしてあげること。
つまり優しさや親切を具体的に表すことです。
震災の直後よく聞いたことばに
「思いは見えないけど、思いやりは見える」
という言葉がありました。
まさにそれが施しです。
それはお金だけではありません。
 
イエスはある種の「施し」は偽善であると断じています。
その理由はふたつあります。
 
?人に見せるためにしている。
?人にほめられたくてしている。

 
どんな施しでも悪いことではありません。
必要な人の役には立ちます。
しかし神はそれを評価しないと言っているのです。
では、神の国にふさわしい施しとはどういうものでしょう?
 
「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」
6:2〜3
 
私たちは良いことをした時、「ありがとう」と言われるのを待っているところがあります。
無視されると「コノヤロウ!」と思います。
でも、種は相手にさえも知られないような施しを求められています。
 
中日新聞の「くらしの作文」というコラムに、教師をしている20歳の女性が妊娠中に経験したできごとを書いていました。
通勤電車で立っていると、そばの座席に座っていた男性が合図をして、ここに座るようにと身振りをしながら立ち上がり、電車を降りて行きました。
その日から毎日、同じ男性が同じように席を譲っては次の駅で降りていきます。
ところがある時ふと隣りの車両を見たら、なんとその男性が乗っていました!
そういえば、いつも駅に降りると大急ぎで駆けていた・・・と女性は思いました。
目があった瞬間、男性は「しまった!」というような顔をしましたが、それからも毎日席を譲ってくれました。
とうとう明日から産休に入る、という日に、女性は
「ありがとうございました。明日から産休です。」
と伝えたそうです。
 
たまたまこの男性は見つかってしまいましたが、カッコイイではありませんか。
なかなかできないことです。
 
私は26歳の時にクリスチャンになりました。
ある男性の集まる会で、
「あなたはどのようなクリスチャンになりたいですか?」
と牧師が尋ねました。
私は
「ギンギラギンにさりげなく」
と答えて笑われました。
今、笑った方は同じ世代ですね?
心の中は熱いけれど、さりげなく出来る人になりたいと思います。
小さな善意。
私たちにできることを。
 
先ほどの男性はなぜあのような事をしたのでしょうか?
毎日席を譲ると、女性も気を遣うでしょう。
ひょっとしたら、男性の奥さんも同じような経験をしたのかもしれません。
それで、わざわざ次の駅で降りるふりをしていたのでしょう。
 
見返りを期待する時、
「こんなにしてあげているのに、何の評価もされない。」
と思います。
イエスの言われた施しは、人から買うされている施しです。
隠れたところで見ておられる父鳴神が報いてくださいます。
人からほめられると、そこでもう報いを受けていることになります。
人にほめられない行いは、神が報いてくださいます。
聖書は戒めと共に必ず報いを約束しています。
人から報いを受けていない善行は必ず神の評価を受けられます。
心はどこを向いているでしょうか?
人の評価でしょうか?
功績?
神の方を向いていますか?
動機はどこにあるますか?
 
なぜ3大善行に「施し」が含まれているのでしょうか。
施しは、旧約時代から習慣として、律法として重いものでした。
ルツ記の中にも書かれ、絵画にも描かれている「落ち穂拾い」。
私は農家で育ったので、子どもの頃稲刈りの時にはよく手伝いをしました。
大人たちが稲を刈っていくと、後ろからついて行き、落ち穂を拾うのが私の役目でした。
お米を一粒でも無駄にしないようにするためです。
しかし、ユダヤでは、それを拾ってはならなかったのです。
落ち穂は貧しい人々のために、残しておくという律法があったからです。
ルツ記ではボアズがルツのために、わざとたくさん落ち穂を落とすように僕に命じています。
 
ヘブル語の「施し」という語には「正義」という意味があるそうです。
施しは、神が貧しい人のために定めた権利であり、正義です。
あたりまえのことであって、貧しい人々はそれに対してお礼を言わなくてもよいのです。
そして金持ちにとっては義務でした。
 
イエスは私たちに代わって十字架にかかり、命を与えてくださいました。
神はそのひとり子を私たちに「施し」てくださったのです。
それがクリスマスです。
神は私たちにとてつもない施しをしてくださいました。
イエスはご自身の命をささげ、
「父よ彼らをおゆるしください。」
と、父に謝ってくださいました。
私たちはものすごい施しを受けています。
それに比べれば、私たちが行う施しは微々たるものです。
いえ、私たちは大きな施しを受けているから、本当の施しができるのです。
 
クリスマスは優しさを求める時期です。
この殺伐とした世の中で、せめて教会は優しさのある場であってほしいと思います。
 
「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」マタイ5:7
 
この「あわれみ深い者」はギリシア語で「施しを与える者」という意味です。
哀れみを受けたから、それを他の人に与えることが出来る人、それがクリスチャンです。
人からの評価を意識する余地はありません。
 
クリスチャンであればすぐにイエスのようにできるか、と言えば、そうはいきません。
弟子たちは3年半イエスと共にいて教えられていたのに、なかなか成長しませんでした。
「信仰の薄い人たち」
と言われ、その後には
「まだ分からないのか」
最後には
「いつまで我慢しなければならないのか」
と変化していく弟子たちへのイエスの発言には苛立ちが表れています。
十字架の時には逃げ隠れした弟子たち。
残ったのは女性たちだけでした。
そんな弟子たちが変えられました。
復活のイエスに出会ってから、聖霊を受けて代わりました。
最終的に全ての弟子たちが殉教の死を遂げたと言われています。
 
しかし、これは弟子たちの努力によるものではありません。
主が変えてくださったのです。
日々の生活で神を大切にしている時、徐々に変えられていきます。
神と人を愛せよという戒めを、いつも心に留めているかどうかです。
小さな決断ですが、神にとっては最も大切な決断です。
 
「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」マタイ5:7
 
これは、全てのクリスチャンにとっての約束です。
人々の命を救うことが教会の使命です。
命に関わる働きであるということを意識して生活していきましょう。



12月4日 聖日礼拝

創世記 22章 1〜2、9〜19節
「神による救いのご計画」
 
今朝、高橋先生とお抹茶を2杯いただきました。
茶碗を手に取ったとき、何かが違うという印象を持ちました。
なんと、その茶碗は、4,500年前のベエルシェバで出土した土器だと教えられました。
ちょうど今日学ぶアブラハムの時代のものです。
高橋先生はその土器をある方から譲りうけ、人間国宝の漆職人に塗ってもらったそうです。
アブラハムの信仰が今も生きていることを象徴するものでした。
イスラエルの信仰を日本人の文化の中で受け入れて、生活に根差していけることのひな型として、私は受けとめました。
ちょうどこの日に、ベエルシェバの土器と出会えたのも主の不思議な導きだと感じます。
 
アブラハムは「信仰の父」と言われますが、それは彼が人格者だったからでしょうか?
 
「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」ルカの福音書 3:8
 
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起すことができる、と言われています。
 
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」申命記7:7
 
とも書かれています。
神の選びは、「自分が頑張ったから」なされるのではありません。
今日の私たちはどうでしょう?
「私たちが頑張ったから」と思いやすいのではないでしょうか。
私たちは「土の器」にすぎません。
こう言ってはなんですが、百均でもイスラエルの器でも、茶碗は茶碗です。
問題は、それを使う人がどこに価値を見出すか、です。
また、見た目だけでは、器の価値は区別できないのです。
 
イエスの誕生は、アブラハムの子孫として救いのみわざをなさるためでした。
神の計画が明らかに示されるスタート地点が、「アドナイイルエ」です。
そこはアブラハムの生涯の転換点でした。
 
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。」22:1
これらのこと、とは、これまでのアブラハムの生涯全てを指しています。
故郷を捨てて出ていくようにという召しを受け、神を信頼して一歩踏み出したアブラハム。
以前学んだ通り、彼は様々な経験をしました。
全ては「信仰に立つ」ための備えでした。
「なぜ今この考えを持ち、この判断をするのか?」
それは私たちの生い立ち、今までの経験の結果です。
 
今回高橋先生とお話しする中で、こんな質問をされました。
「先生は牧会された牧者だと思う。
今まで先生を導いてきた牧者はだれですか?」
と。
私は今までいろいろな先生方の影響を受けてきました。
あの先生、この先生・・・とたどっていくうちに、高橋先生は、
「ああ、先生のお母さんだったのですね。」
と言われたのです。
私のベースは母にある、ということが分かったのです。
私が何かを選び、発想する理由は、私の生い立ちにあります。
よい経験だけでなく、痛み・苦しみの経験もです。
全ては益に変えられていきます。
 
アブラハムの経験もそれでした。
祝福の約束→試みと恐れの経験→助けられ、救い出される経験。
これを積み重ねてきたのです。
そして今、「イサクを捧げる」という試みを受けています。
これはまったき研心、神への信頼がなければ応じられません。
試練や試みは、さらに大きな祝福の基になるためにあります。
期待に応答できるように、信頼が増していくように、導かれたのです。
 
「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」
へブル11:17〜19
 
アブラハムは、復活の信仰を学んだのです。
もしイサクを捧げたとしても、神の約束が実現するのなら神はイサクをよみがえらせてくださるはずだと信じたのです。
これは神の救いの御計画のひな型です。
神がその信仰を導きました。
私たちのための慰め、喜び、励ましです。
私たちにも、アブラハムの信仰にならう転換点があります。
形としてのクリスチャンではなく、まったき信仰へ。
主は、もっと大きなみわざを起していくために、私たちを用いたいと願っておられます。
そのためには、握っているものを手放す必要があります。
 
様々な経験の中には「なぜ?」と思うようなこともあります。
様々な出会いが合って、主に教えられます。
アブラハムの信仰の姿勢は「立派に生きるなら祝福される」ではありません。
クリスチャン生活のスタートからいろいろな経験を通して、悩みや苦しみを経験して、モリヤの山の経験も訪れるでしょう。
 
クリスチャン生活にはふたつの転換点があります。
?信じる
?まったき信頼をもって自らを捧げる

このふたつです。
 
「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」
創世記12:1〜3
 
アブラハムはこの約束の成就を信じました。
人生のすべての営みの中に、主の守りがあることを知るとき、目の前のあのことこのことに目を奪われなくなります。
全てのできごとは無意味ではありません。
主を信頼することで、主は今も生きて働かれることを知ることができるのです。



11月27日 聖日礼拝

ヨハネの福音書 20章 24〜29節
「信じる者になりなさい」
 
ヨハネの福音書は「信仰」「信じる」がテーマです。
 
「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」20:31
 
とあるとおりです。
 
聖書が描かれた目的は「いのちを得ること」です。
それは単なる「生命」ではなく、充実した命。
生きていると言う実感と感謝にあふれた命です。
 
ではどうやってそれを得るのでしょうか。
ひとり子の御子、イエスを信じることを通してです。
「信じる」とは「信頼する」と言い換えてもいいでしょう。
目には見えませんが、命をかけて愛してくださる主を信頼するということです。
 
今日の箇所はトマスの話です。
トマスへの最初の言葉が「平安があるように」であったということに目をとめましょう。
まず第一に、私自身が平安と命をもっていなければ人にそれを渡すことはできません。
だからイエスは、隠れていた弟子たちに恐れないように土台を作られました。
平安という土台の上に、宣教を託すためです。
弟子たちが罪の許しのメッセージを伝え、それを受け入れた人々は「罪が許された」と宣言する・・・それが弟子たちの務めです。
弟子たちが罪を赦すわけではありまん。
この、罪の許しを伝える使命を託された中心メンバーが12弟子でした。
 
イスカリオテのユダが抜けた11人の中で、トマスがいないときにイエスは来られました。
マリヤの話だけでは復活の事実を受け止められない弟子たちのために、イエスは表れました。
しかも、全員がそろっている時に来てくれればいいのに、たまたま自分がいないときに来られた・・・。
みなさんがトマスだったらどう思うでしょうか?
イエスは意地悪だったのでしょうか?
イエスは、私たちのために、あえてトマスがいない時を見計らってこられたのです。
トマスは生きた見本です。
 
英語には”doubting Thomas"という表現があるそうです。
疑り深い人として後々まで語り継がれることになったトマス。
彼は他の弟子よりも信仰が薄かったのおように思われています。
このエピソードは4福音書の中でヨハネだけが残しています。
これはヨハネの福音書の成立した年代が他の3つよりも遅かったからだと言われています。
トマスが生きている間は公の書にしるされなかったのだと考えられています。
この記事は、私たちのために書かれました。
 
もし私たちが13番目の弟子だったとして、自分がいないときにイエスが現れたとしたら、信じられるでしょうか。
「知らなかった。」
「聞いてない。」
「なぜ私がいないときに?」
と思うでしょう。
トマスは「自分で確認しなければ信じない。」と言いました。
トマスが不信仰だったからでしょうか?
私たちの心の中にも同じ思いはあるでしょう。
イエスはトマスを裁きませんでした。
トマスに
「平安があるように」と言われました。
平安をもって生きること・・・トマスが求めるものをイエスは与えました。
「信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
この言葉をどう聞きますか?
責めているように聞こえるでしょうか。
そうだとしたら、その人はいつも神から責められているという感覚のある人です。
イエスは「平安があるように」と言われます。
1週間の間納得できないまま過ごしていたトマスのために再びイエスは来られたのです。
「平安があるように」
と、裁くのではなく、諭しているのです。
これは励ましの言葉です。
 
信仰はあっても、困難にあって苦しむ私たちに、主は責めないで「信じる者になるように」と言われます。
見ずに信じるようにと。
トマスは、イエスを直接見たり触れたりすることができない後世の人々の代表です。
イエスが天に戻られた後の人々は、イエスから聞き、イエスと交わることなく、弟子たちの言葉と業を通してイエスを信じるようになります。
 
「納得できる証拠がなければ信じない。」
目に見えない、触れられないイエスを伝えることの大切さを、弟子たちは知りました。
しかし、何の手がかりもないわけではありません。
目に見えない紙、触れられないイエスをなぜ信じられるのでしょうか。
弟子を通して、時代と地域を超えてなされた言葉と証のわざによって、遣わした方を信じるのです。
語る人の人格と生活を通して、そこに神がいることを知る手掛かりを得るのです。
100%の証拠はありません。
信頼して踏み出す時、ますます信仰が増すのです。
 
信仰は成長します。
からし種ほどの信仰でも、「有」と「無」では全く違います。
信仰の種は成長します。
種を5年も捲かずに放っておくと芽を出さなくなります。
少しでも種があれば、それを手がかりに歩めばわかっていきます。
そして揺るがない信仰へと成長していきます。
トマスでさえすぐには信じられませんでした。
なぜトマスだったのでしょう?
「トマスなら大丈夫」と、思われていたのでしょう。
トマスの信仰が弱かったのではありません。
むしろ、そこから学べる人だから選ばれたのではないでしょうか。
信仰が働かない分野でも信じる者になるように。
見えないものが見えるように。



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Author:ステファニー
プロテスタントのクリスチャンです。
佐藤たけるさんおたくです。

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